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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2021年04月29日 08時04分25秒

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    どうなってしまったのか、不思議で仕方ない

    どうして大事な決断を先送りにするのだろうか。
    みんながもう絶対に無理だと分かっていることでも、
    その会議の中では、大物たちがやると決めているので、
    それに対して、異を唱えられない。
    つまり、「それは、無理だ」と言い出せない空気感がある。
    そのために、誰も決断を促さない。
    ある意味、こんな世界的なイベントが、成り行きに任せられている。
    巨額な損失は、全て税金である。
    それも、莫大なる借金を毎日毎日増やし続けている。
    その結果、何が起るのか。
    分かっていても、そのことを自分は言い出さない。
    その責任をとりたくはないからだ。

    理念に立ち返る。そもそも何のためのイベントなのか考える。
    いつも本当は、根本的に問い直すことが大切だ。
    この世界的なスポーツの祭典の目的は何か。
    国家や政治や思想・信教を離れて、スポーツで世界中の人たちが融和すること。
    みんな同じスタジアムや会場に集い、他国の選手を応援すること。
    そして、競技に参加した世界中の選手たちが、互いに讃えあうこと。
    その人と人との繋がりから、政治や思想・信教を超えた、平和が生まれる。
    それが、この祭典の理念だ。

    そのことを果たすことが不可能であり、外国から選手が訪れず、
    世界中の人をオミットしておきながら、無観客で行う。
    もし、人数制限をしたとしても、どうやって入場できる観客を選ぶのか。
    もうすでに、数年前に全てのチケットは完売しているはず。
    その払い戻しすらままならない状況なのに、どうするつもりなのか。

    飲食店での酒類の販売を禁止している。
    街灯で呑んでいる人たちを取り締まるために、職員が見回りをしている。
    コロナ禍である。自粛すべきだ。感染対策だ。医療機関の危機的な状況だ。
    それなのに、このイベントを強い力で推進しようとする人たちがいる。
    私には、不思議なことだ。
    国民は、そんな事は、考えていない。
    とにかく、このコロナ禍の中で、一日でも早く平常な生活に戻って欲しい。

    イスラエルや、フランスの人たちが、マスクを外して、街を歩き、買い物をしている。
    レストランやデパートも当たり前に営業だ。
    それは、そうするための政府に寄る見通しを持ち、計画的に努力してきた結果だ。
    未だに、ワクチンが届かず、9月になってやっと国民全員のワクチンが届くと言う。
    しかし、その発表は、これも成り行きに任せられる。
    後手後手なんだな。遅きに過ぎる何だな。決定を遅らせるのだなぁ。
    本当に緊急事態に対して何一つ対応できないくらい、この国は劣化している。

    つまり、この事態を起こしたのは、政治なんだと言う事だ。
    世界中で同じパンデミックを経験している。
    しかし、そこから救済され、平常に戻りつつある国が在り、
    この国のように未だに収束の目途どころか、緊急事態宣言を出している国もある。
    ワクチンの接種率は、OECD加盟国では、最下位の位置にいる。
    他の国が出来る事が、この国では出来ないのはどうしてなのか。

    ある意味。脳梗塞が起きているからだ。
    血流が止まっている。その梗塞を起こしている者は、誰だかも明らかになった。
    政治の主権は、我々国民なんだ。
    そして、国民の生命と財産を守ることが政治の目標だと、私は思う。
    決断できない。実行できない。こんな後進国に陥ったこの現状の責任は、
    いったい誰がとるというのだろうか。
    独りの愚かな人間が、夢想したことだけが、独り歩きする。
    「私が、言った」そのことが、成るのではない。
    まだ、そんな簡単な事が分からないようである。

    想像力の問題なんだな。
    「私が、やりたい」の問題ではない。
    もし、何万人と外国からやって来て、選手たちの共同生活の中でクラスターが起きたら、
    次のパンデミックの発生の原因国は、この国になる。
    まだ、国民がワクチンすら打っていない国である。
    5月になるのに、緊急事態宣言で、他県への移動すら自粛されている現実だ。
    それで、これをやります。とは、どうして言えるのか、それが不思議だ。

    原発も同じだ。
    40年経過した原発は廃炉にする約束は、どうなってしまったのか。
    美浜・高浜原発の再稼働を県知事が独断で決定した。
    地球の環境の問題を、個人が決めていいのだろうか。
    何だか、こんなニュースばかり、この国では報道される。

    「賢者」は、居ない。
    とにかく、今がよければ、それでいい。
    「個人の自由権を制限しよう」等と恐ろしいことを言い出す知事もいる。
    権力を持った人は、もっと謙虚に、国民優先に考えてもらいたい。
    「やるなぁ」「この人は、尊敬できる人だなぁ」「立派な人だ」
    そんな感想を私は言ってみたいと願っている。

    「出でよ。賢者」

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  • from: クマドンさん

    2021年04月27日 09時16分31秒

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    歴史は、未来だ

    朝、これを書く時間が無くなった。
    ここまでがっと続けられたルーティ―だったが、不定期の投稿となっている。
    それも致し方なく感じている。

    今朝は、人生に起こる事は、全て過去にも起っている事だという話だ。
    今朝、左足の親指が麻痺したような感覚だった。
    どうも血流がよくないらしい。
    さてさて、とうとう来たのか・・・の諦めでもある。
    こうして左足の親指が麻痺する感覚は、きっと過去にも今も誰かがもっている感覚だ。

    過去を学ぶと、自分が分かる。
    演劇や文学を学ぶと、そこにはこれからの私の生き方が存在している。
    それは、別々の出来事のようであっても、別々ではないからだ。
    あの映画の主人公の生き方は、それは私のそうした生き方と被るところがあるものだ。
    だから、本を読む。映画を観る。舞台を鑑賞する。
    すると、私の中でどこかで何かが目覚めるものだ。
    その言葉を、私は、忘れまいとする。
    その人の生き方を真似ようとする。
    そうやって、人は、自分を過去の人にしながら、前に進む。
    「変わる」ことが、「成長」することだ。

    だから、頑固に変わろうとしない人は、成長しない人だ。
    それは、自然や人から、学ぼうとしない人だからだ。
    学ぶは、真似るである。
    そのモデルの人の様に生きたいと願うなら、
    きっと今の自分の生き方や考え方、態度を変えるものだと思う。
    しかし、頑固で融通の利かない固い人には、それは無理な事だった。
    だから、「変わる」私のような人間を許されないと感じるようだ。

    最近、権力を求め。相手に対して攻撃的になる人と出会うことが度々あった。
    どうしてこの人たちは、人を攻撃して、潰しにかかるのか。
    どうしてその場での権力・権威をそんなに攻撃してまで欲するのか。
    私には絶対に分からない気持ちだが、その人たちにはそれこそが生きる目標だ。

    誹謗中傷する人が居る。でも、自分自身はどうなのか。
    そんなにその人を悪く言っているが、私にとってあんたの方が酷い人だと感じられる。
    己を知らない。傲慢に生きる。
    だから、自分を中心に置かず、忖度しない人を攻撃し始める。
    どうして、こんなに卑劣なことが行われるのか。
    しかし、その人にとって、その言動は、正義そのもの。間違いは無い。
    いつも悪いのは、相手だけ。
    そこには擦れ合わせも、妥協の余地も無い。
    怖ろしい人だなぁと、私は、その人たちを見て思う。
    しかし、私は知りたい。この人を攻撃し・誹謗中傷するその人の心の内を。

    和をもって尊しとなす。

    和が大事なんだが、この権力者には、和は邪魔で面倒なものである。
    自分を譲る。自分を後にする。それは、この人の辞書には無い事だ。
    とにかく、「私を見なさい」「私の言う事を聴きなさい」だけ。
    人の話を聴いているような顔をしながら、何も聴いていない。
    いつも聴きながら、反論と言い訳を考えている。
    相手の話が終わった途端に、全く脈絡のない反論と言い訳だ。
    呆れて、開いた口がふさがらない。

    ところが、この私も、妻と長男にとっては、その人が私だった。
    「この人は、人の話を聴かない」
    「頑固でどうしょうもない人だ」
    そう決められ、認識されていたとしたら、その認識も変わらない一つだ。
    攻撃的な人は、相手の話を聴かないものだからだ。
    聴いてしまったら、自分自身を変えねばならない。
    そんな相手の話で自分を変える事なぞしたくはない。
    絶対に嫌だ。
    だから、相手に言われ、説得される前に、攻撃をする。激しく抗う。

    実は、攻撃的な人や、権力・権威を求める人は、
    自分自身に自信を持てない人ではないだろうか。
    そして、自分はこうするという、確たる考え方を持てない人のような気がする。
    弱い犬はよく吠えると言う。
    それは、襲われる脅威を感じ、それを回避するための防衛行動だ。
    つまり、この人たちは、この犬と同じだった。
    確かに、本当に強く、大人で、落ち着いた人は、怒鳴らないものだ。
    どうしても、強い口調になる人は、やっつけられたくないからだ。
    弱いから、強く見せる。相手を事前に叩く。端向かわせないために。
    最近の二人の総理大臣が、これだったな。
    「脅し」「恫喝」「人事権」「殺生与奪の権威」これで、黙らせた。

    さてさて、そんな人間は歴史の中でごまんと生きていた。
    そして、その権力者たちの末路もちゃんと歴史が証明している。
    その歴史の通りに、今も、未来も成るように成る。
    だから、愚かにクーデターを起こして権力を手に入れ、
    多くの国民を殺傷している将軍たちの末路も歴史がちゃんと証明している。

    だから、過去に学べなんだ。
    どうして愚かな自分を信じて、蛮行を行うのだろうか。
    自分だけ特別に許されると思っているのか。
    あの将軍は、いずれ銃殺刑か国外逃亡だ。
    今、国民に銃を撃ち、殺している軍隊の兵隊たちも処刑されること必須だ。
    何故、そうした歴史の真実に気がつかないのか。
    権力闘争を繰り返す、この国の政治家たちも同じ末路だ。

    歴史は、確かに、正す力・うねりを持っている。
    ただ、そのためには、気が熟すまでの時間がかかるだけなんだ。
    過去には、私の未来がある。
    だから、過去に、歴史に学ぶ。
    文学に、映画に、演劇に学ぶ。
    なんのために?
    それは、幸せにこま人生を全うするためだ。

    人を攻撃し、誹謗中傷する人。
    権力闘争に明け暮れ、人から恨みをかって生きている人。
    暴力で権力を手にして、国民を殺している人。
    その先には何が在るのか。
    もっとしっかりと目を開けて学べばそこに答えがあるはずだ。
    「自分だけは違う」事は絶対にないな。

    歴史で行われたことは、これからも行われることなんだ。

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  • from: クマドンさん

    2021年04月25日 07時08分45秒

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    自粛せよ

    呑んべえ受難の時代が来たようだ。
    「酒類を一切禁止する」
    「営業停止を命令する」
    「8時以降酒の販売を御法度にする」
    これは、2年前のこの国だったら、
    この話は、一体どこの後進国の話なのだと思ったことだろう。

    2年前のこの国で、まさかと思っていたことが、
    全く想定していなかったことが、今、ここで、怒っている。
    だから、私たちは、不思議を生きている。明日をも知らない人生なんだ。
    それなのに、「分かった」ようなことは、誰も言わない方がいい。
    ワクチンすら自国で開発できず、世界中で一番供給が遅れた国になっている。
    もはやこの国は、その程度まで劣化していたのだ。

    さてさて、だから威張ってはいけない。
    まず、現状を見つめよう。
    まさにこれは、戦時下この国ではないだろうか。
    「歌舞謡曲は一切禁止する」
    「百貨店も休業を命ずる」
    「イベントは一切無観客で行う」
    「遊園地・公園は閉鎖する」
    これってある意味、戒厳令ではないだろうか。

    こんな時代になるとは、誰も予想が出来なかった。
    あの昨年の1月「ダイヤモンド・プリンス」が横浜港?に着岸した。
    「おいおい、あの大型客船の客たちがコロナに罹ったんだって」と、
    それはまさに他人事で、対岸の火事だった。
    「あそこに乗っていた乗客が、この区に住んでいるらしいよ」との情報。
    ところが、ある人たちに感染が確認されて、
    その脅威は、身近なものに変わった。
    他人事だったことが、我が事と変化した。

    突然の2月の学校の休校だった。
    この暴挙がたった独りの男の決定で行われた。
    これって、恐怖の沙汰ではないだろうか。
    こんな重大・重要な事が、愚かな人独りの決断で行われた。
    この人は、それまでの不祥事の責任をとらす、隠ぺいして、逃げた人だ。
    その人のために、学校教育を受けられない多くの児童・生徒・学生だ。
    エビデンスをもって暴挙に望んでもらいたい。

    右往左往しているのは、政府と言う人たちだ。
    何の見通しも無く、行き当たりばったり、その場しのぎの政策ばかりだ。
    使いもしないマスクをばらまくより、ワクチン・感染対策にお金をかける。
    一年後のこの国の人たちの生活を守り、経済を立て直すための長期的な展望をもつ。
    検証しながら、前に進む。駄目だったら、もう一度新たな手を打ち直す。
    そうした的確な結果を出すための政策が行われず、
    いつもいつも後手後手で、そのしりぬぐいを飲食業者に押し付ける。
    まさに、自分たちの失策だ。
    どうして弱い立場の者へ、原因を押し付け、責任を転嫁するのか。

    しかし、ここに書かれてある事は、歴史で幾度も書かれてある事でもあるんだな。
    コロナは、確かに歴史では初めての登場である。
    しかし、そのことに影響され、混乱され、今、この国が行っている現状は、
    歴史を振り返れば、数多ある。
    その歴史の中に未来に向けた解決のヒントがあるのに、
    その事には学ばず、現状の感染者の数字の推移だけに目が向けられている。

    しかし、本当に怖いのは、その水面下なんだ。
    ここで兆と言う桁の税金が使われている。
    しかし、使途不明金・闇の中に消えるお金も、こんな時は莫大なんだな。
    あの東日本大震災がそうだった。復興資金が闇業者の膨大な利益にもなった。
    そこをしっかりと監視する目が、今は、無いのではないかと思う。

    とにかく、今は、自粛だ。忍耐だ。我慢の時だ。
    しかし、これはいつまで続くのだろうか。
    期限の無い我慢には、限界は必ずあるものだ。
    まず、この緊急事態宣言中のこの国の動向に注目したい。
    まるで「戦時下」だと、私は、感じている。

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  • from: クマドンさん

    2021年04月16日 08時02分14秒

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    そんな事もあるんだなぁ

    もし、相手の気持ちを感じられない人がいたらどうだろう。
    「こうしたら相手は、こう思うだろう」
    「こんなことをしたら、相手は嫌な気持ちになるだろう」
    人間関係の基本は、相手の気持ちをいかに尊重し、感じられるかではないだろうか。

    しかし、ある人たちには、そのことがとても難しいことになる。
    相手の気持ちを想像できない。だから、理解することは出来ない。
    出来るのは、自分の気持ちや感情だ。
    つまり、創造するためには、多様な違いを認めなければならない。
    しかし、自分だけがこの世界に生きている。
    そんな気持ちや感情の存在すら、創造したことが無い。
    だから、相手に何か言われても、「おかしい人」だと相手を感ずる。
    「これは、こうなんだから、どうして分からないのか」と、相手を責める。
    それは、自分だけを優先に考える結果、こうした事が起こって来る。

    スープを造った。
    何か造っておいてと言われたから、スープを造ったとする。
    すると、そのスープに全く手を付けていない。
    キュウリが入っていたから。ラー油の色が見えたから。
    食感もこの人には特殊なものがある。
    味についてもそうだった。
    だから、見た目で駄目なものは、絶対に手を付けない。
    しかし、市販された料理や、レストランの味は受け入れられる。
    それは、「みんなの味」「普通の味」「当たり前の味」だからだ。
    しかし、見た目が特殊で、味わったことの無い味は、拒否反応を起こす。

    その人がそのスープを造った人の気持ちを想像する。
    「駄目だった」「今度はちゃんと造ろう」「普通の味にしよう」と、
    造った人が思うと、想像する。それって、自分中心。自分目線。
    自分ならそうすると「思った」から、そう思った。
    しかし、造った人は、哀しい人なんだ。
    せっかく造ったのに食べてもらえなかったその人は、哀しく、腹も立てる。
    しかし、この人には、そうした感情が理解できない。
    「どうして、そう考えるんだ」と問うとも
    「私だったら、そう思う」と、いつも「私だったら」「当たり前でしょ」で、
    その先には行かない。

    その人には、このスープを造った人は、存在していない。
    存在して欲しいのは、当たり前の普通の味を造る人なんだな。
    しかし、この反応は、スープを造った人には、予想済みだった。
    「そうなるだろう」は、分かっていた。
    それが、「やっぱりその通り」になったから、ある意味の確認が出来た。

    自分から離れられない。
    自分ではない人の気持ちや感情を想像できない。
    いつも、自分なら。これが普通だ。みんながそうしている。
    そのちっぽけながちがちの範囲から離れられない。
    だから、「ごめんなさい」は絶対に出来ない。
    そうして腹を立てている相手が、悪くて、おかしい人だからだ。
    「どうして、私の気持ちを分かってくれないの」
    「本当に傲慢で、横暴な人だ」
    腹を立てた人が、怒りだすと、怒っているその事だけが頭に残る。
    そんなにその人を怒らせたのは、自分の言動であるのに、
    その原因は自分にあるのに、怒られた。怒鳴られた。それだけが、残る。

    そして、言う。
    「だって、あなだたって、そうじゃない」と。
    しかし、それは「いつ」「どこで」「どんな」ことだったかは、言えない事だ。
    何年前か、数回そんなことがあった事を、「いつも」と刷り込まれてしまう。
    すると、「いつも」が定着して、「そうだ」になってしまう。
    刻まれた記憶は、この人には消すことが不可能だった。
    さてさて、人間関係に困るのは、この人ではない。
    この人は、自分は正しく、相手に非があると思っているからだ。
    「ごめんなさい」という言葉は、この人には存在しない。
    謝ったら、負けを認めることだからだ。

    しかし、この人の性格は、変わらない。不可塑性だ。不変だ。
    その人は、その人を生きることを宿命としている。
    困っているのは、周りの人かも知れない。

    そんな話を友から聴いた。
    「そんなことが、あるんだなぁ」と、不思議に感じた。

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  • from: クマドンさん

    2021年04月15日 07時02分46秒

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    63歳。歳をとることは、いいことだ。

    歳をとることは、いい事だ。
    そう思って生きられるようになった。
    それは、何があっても、それに似た事を過去に経験しているからだ。
    そして、今、ここに、こうしていると言う事は、
    その問題をそれなりに、克服し、解決し、または忘れて、今に至っている。
    その事実が、大きいと言う事だった。

    人に起こった事は、全て、きっと私にも起る。
    まず、前提は、この事だった。
    そうしたら、どのように対処するか。
    それは、過去の私自身の体験・経験から学んだ知恵がある。
    そんな時は、不安感に押しつぶされる前に、
    とにかく具体的に行動することである。
    じっと座ったまま、横に成ったまま、ぐずぐずと悩まない。

    「今、何をしたらよいのか」
    その具体的な行動の優先順位を考え、決定し、実行する。
    そのことを、後回しにはしない。思ったら、すぐにやる。
    その躊躇する時間すら、もったいなく、無駄な事だ。
    だから、まず、扉を叩く。求めて行く。訪ねて行く。
    そうすると、全く自分が想像していたものとは違う局面と出会うことが多い。
    私の予想。想像を、現実は遙かに超えたところに存在していた。

    その事も、経験から理解しているつもりだ。
    しかし、猪突猛進ではない。
    慎重に、目には見えない深い真意も見極める。
    言葉や態度の奥の奥。その本人すら分からない真実を、まず捉える。考える。
    または、自分の考えだけでなく、アドバイスをもらう。相談する。
    その事に対しても、躊躇が無くなった。

    本当に思った通りにはならないが、何とかなるものだった。
    その事を信じられるか、どうかだった。
    歳をとると、どこかで深く深くの諦念だった。
    それは、諦めであり、明らめである。
    「分かる」んだな。先が見えるんだな。見通しが立つんだな。
    「きっと、こうなる」自分が思った通りでは無くても、その近くに至る。
    そうした経験が、歳をとった人には、ゆとりとして与えられる。

    確かに、そうではない、我執のまま、子どものままに、歳だけをとったひとも多い。
    しかし、ちゃんと自分自身と向き合い、「生きる」の問いを持ち続けて生きて来た、
    その人には、若い人たちには無い、経験と知恵が豊かに培われているはずだ。
    自分の言葉を持たないシニアは、どう生きて来たのか、何を学んで来たのかと、
    逆に私は問いたいと思う。
    70歳になったら、自分なりの人生観を語れる人になりたいものだ。
    だから、63歳の今、ここ、自分で生きている。

    生きるとは、自分の言葉を持てるようになることだ。
    しかし、未だに「みんな」「世の中」「社会」では、情けない事だ。
    生きるとは、何か。その哲学を学びつつ、日々を生きる。
    その事の大事さも、歳をとって分かったことだ。

    確かに、生命体としての体は衰え、老いるものだ。病の兆しも数多あり。
    しかし、豊かに充実して幸せに、歳をとることは、誰でも出来る。
    そうなろうとして、そう生きている人たちは、きっとその幸せを手に入れられる。
    さてさて、どんな60代を日々過ごしているか。
    その集大成・結果が、70代のその人の人生なんだな。

    そう思い。これから、どんな良いことがこの身に起きるか、期待して、
    日々を満足して生きて行こうと、思っている。

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  • from: クマドンさん

    2021年04月13日 08時59分17秒

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    仕事の課題は

    仕事は、週に3日か4日。
    一カ月80時間以内の労働時間。
    社会保険には加入せず、それでも社員としての待遇をしてもらえる。
    そんなボランティア的なお仕事に、今、私は就いている。
    研修の二日間を含めても、12日はお仕事をした。
    午後からのお客様のお世話、話相手、介助が主な私の仕事だ。

    やっとお客様の顔と名前とが、八割くらい一致した。
    全く携わったことの無い仕事だが、それなりに柔軟に対応している。
    やっぱり、軟らかい事は、いいと何だな。
    同僚は20代30代の若い職員だ。
    この歳の差は、ざっと40歳である。孫と言われても違和感の無い世代だ。
    とにかく、私に仕事を教えてくれるのは、この人たちだ。
    だから、私は、何でも「はい、喜んで」と、学ぶ。行動する。すぐにやる。

    年齢がずっと下の人たちの指示に素直に従えないのではないのか。
    それが雇用者の心配するところだ。
    特に、小学校の先生をしていた人なら、尚更扱いにくく感ずるだろう。
    そう想われたから、8社から不採用の通知をもらい。
    10社位は、何の反応も無くそのままやり過ごされてしまった。
    しかし、私は、結構、素直に何でも出来る人である。
    それは、自分を一番後にして、相手のことを先に出来るからだった。
    そのことは、子どもたちから学んだことだった。
    まず、相手が先なんだ。私は、一番後でいい。「先生は、一番最後」
    これは、尊敬する江川先生の教室に掲示された学級目標だった。
    子どもたちの気持ちを大切にする。
    子どもたちの事をリスペクトする。
    その心は、子どもたちに伝わり、明るく、やる気に満ちた子どもたちにした。

    次に、私には好奇心がある。
    だから、初めての事は苦に成るよりも、その事を覚える歓びを感ずる。
    人の事が好きだから、相手の人への興味関心も持っている。
    自分からかかわろうと思うので、笑顔で声をかけられる。
    いつからこんな人になったのか分からないが、今は、そうだ。
    だから、直ぐにお客様と話が出来る。これは、在り難い性格だ。

    また、今朝も、妻とは意見の違いで言い合いになったが、
    仕方がない事だと諦めている。
    人は、変わらない。
    それは、本当のことだ。よっぽどのことがあっても、人は変わらない。
    そのことを分かっていたら、喧嘩も打ち方止めが途中で出来る。
    「どうして、こうなんだ」ではなく、「どうしても、こうなんだ」である。
    彼女はそうやって56年間生きて来た。
    今更、変われるわけは無い。
    そう思って諦める。違いを違いと認め、それを理解する。
    だから、一時は腹を立てても、直ぐに元に戻る。忘れることだ。
    そんな気持ちで、人には対応できるようになった。

    特に、歳をとった人たちは、そうだった。
    固くなっている人に、軟らかくなることは求めても無駄だ。
    だから、その人を、まずあるがままに理解する。
    その人の「特性」とでも言うのだろうか、まず、それを見極める。
    後は、お付き合いは簡単だ。
    その人が好きな事や気持ちいい事をする。言葉をかける。してもらう。
    反対に、その人が嫌な事やしてほしくないことはしない。そっとしておく。
    この距離感が、人間関係には大切だと言う事だ。
    それが分からないと、「自分の考え」や「自分の正しさ」を相手に押し付ける。
    そして、それをやらないと妻のように怒り出す。
    どうしても、自分と違う考え方ややり方を認めたがらない。
    それだから、こうして毎日のように言い合いとなる。

    しかし、ここに書いた私のコミュニケーションスキルは、
    数多の痛い失敗から学んだものだ。
    そして、そのことを教えてくれる妻や子どもたちは、私にとっての先生だった。
    そうした葛藤の中で、私は、こうした生き方を見に付けた。
    それは、お互いの関係を良好にするための大事な手立てだからだった。

    まず、これをやる。
    そして、お客様も同僚職員も私も気持ちよく仕事できる。
    その修業が、この仕事の日の私の課題だった。

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  • from: クマドンさん

    2021年04月10日 09時39分16秒

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    今年やりたいことは何か

    いよいよ新年度が始まった。
    今は、ディサービスでの介護職の仕事が始まった。
    まだまだ体が健康で、動く内は働こうと思っている。
    だから、まずこの仕事のターゲットは、来年の8月。私が65歳になるまでだ。
    主任からは、この仕事に定年退職はありませんと言われている。
    今は、お客様の名前を覚える事を仕事の目標にしている。
    みんな大人で、優しく、いい人ばかりだ。
    だから、私のようなシルバーでも、ちゃんとしっかりと相手をしてくれる。
    午後からの仕事だ。
    一日、誰とも話さないこともある私。
    また、あんまり暇ばかりでは、昼間っから酒を呑んでしまうかの私。
    そんな私には、程よい仕事だと思っている。

    次に、最近は腹の出方が気になっている。
    体重が80キロから減ろうとはしない。
    血糖値の数値が昨年の秋から良くないことも分かっている。
    薬は少し強いものに替えられた。
    つまり、減量しないと、このままの健康を維持できないということだった。
    さてさて、毎日6000歩から9000歩歩く努力はしている。
    しかし、体重は現状維持だ。
    やっぱり、食事なんだと改めて思う。
    さて、この体重を5キロ夏までには減らすことを目標にした。

    それから、また山に戻ろうかなぁとも思っている。
    しかし、土曜日に仕事が入り。日曜日は教会の礼拝だ。
    つまり、平日に山に登れるお仲間が居てくれたらの事でもあった。
    山の仲間のKさんとは、退職してから二人で日本全国山三昧の予定だった。
    しかし、彼が60歳後半からある難病となり、今は自宅での療養生活だ。
    単独での山行は、事故を考えると躊躇させられる。
    ここで事故にあって体を不自由にしても、何の意味もないからだ。
    だから、いつかその日が来ても大丈夫なように、
    またかっての山に向けたトレーニングを再開することにした。
    ジョグとジムでのトレーニング。プールでのスイムだ。
    この運動を、また日常のルーティンの中に入れる。

    それから、何か習い事を再開しようと思っている。
    今、月曜日のヨガ4回と、木曜日の太極拳2回は、続けている。
    合唱団の練習は、6月からで。リーデングのWSは、まだ未定だ。
    そこで、今やりたいことは、書道に、ピアノに、ジャスボーカルだった。
    これもまた、再開したい。そして、師匠について習いたい。
    ここからが本格的な道の始まりだ。
    それまでは、独学で、独自で、その道を歩いて来た。
    しかし、それを自分の体で身に着けるためには、やはり師が必要なんだな。
    ここから先に進むためには、やはり習うことが大事な事だ。
    そのために、教室に入ることにしたい。

    一日を気持ちよく生活することが、毎日の目的になっている。
    だから、気を乱さない。腹を立てない。イライラしない。
    そのために、妻とはソーシャルデスタンスをとって行く。
    お互いに干渉し合わない。自由を尊重し合う。
    考え方や行動の仕方、価値観の違いを認め、理解する。
    ただし、気持ちよく生活するために、言うべきことはきちんと言う。
    自分の想いや感じたことは、ちゃんと言葉や文で伝える。
    挨拶・感謝・尊重を忘れない。
    まあ、そうやってほどほどに生きる。

    本当に大それた計画は、何も無い。
    大きな買い物、海外旅行、家のリホームも何も無い。
    そうした平常な平穏無事な生活そのものが、
    幸せなんだと、歳をとるごとに想えるようになった。
    だから、ここに挙げた、ささやかな願いが叶うこれからの1年間にしたいものだ。

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  • from: クマドンさん

    2021年04月09日 07時56分09秒

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    平気で生きよう。

    平気で生きる。
    気を乱さず、気持ちよく生きる。
    一日だけ、ゆっくりとのんびりと、素直な気持ちで生きていく。
    それが、今の私の日々の生活。
    だから、気を乱すものからは、遠ざかる。
    吾関せず、固い石とは離れて暮らす。

    どうせ固い石は、固い石の反応しか出来ないのだから、
    そんな事は予想が出来ることなんだから、
    期待しない。当てにしない。だから、その事で私が乱れない。
    そうすれば、平気で居られる。
    平気だと、何だか当たり前の日常に気付きと発見が生まれる。
    63歳となって、初めて「へぇ、そうだっんだ」との驚きばかりだ。
    柔らかい人であるとは、そういうことの積み重ね。

    気は、大地から生まれる。
    この空間は天気に充ちている。
    全て生かされているものは、気の働きによって生かされているものだ。
    その気を自分自身に感ずることが出来たら、万物同胞となる。
    みんなこの気で、生かされて生きている存在・仲間であるからだ。
    そのことを感じながら、生活をする。
    すると、明日のことは、明日考えればいいと思われる。
    今、ここ、自分が、ただ気持ちよく生きられる。
    それで、人は本来十分に幸せなんだ。

    固い石は、あれやこれやと考える。
    どうしたらいいかと悩む、苦しむ。
    あれが欲しい。こうであってもらいたい。あの人のようになりたい。
    いつも自分の事を見ていない。自分自身を味わっていない。
    ここにはない、どこか別の所にあるものに。
    ここではなく、もっとこうなって欲しいことに。
    自分が勝手に考え、想像し、妄想した、実態の無い影に、
    何だかその気を乱され、痛み、苦しむ。

    そんなことは、どうでもいい事。
    そんなことは、どうにかなる事。
    ちっぽけな自分の頭で決めない、判断しない、決断しない。
    とにかく、「病気」なのは、その「気」なんだ。気の病。
    人は、まずこのことで心と精神を蝕んで行く。
    しかし、「何とかなる」「大丈夫」「余計なことは考えるな」だな。

    花たちを見つめる。
    お日様を全身で浴びて、気持ちよく笑顔で咲いている。
    それだけで、いい。
    雀たちは、枝にとまり、塀の上にとまり、餌を私がやるのを待っている。
    それでいい。私が消えると、みんなで群がる。
    あっという間に、餌は消えて無くなる。
    それだけで、いい。
    あと、何がいるというのだろうか。

    きっと私は、そういうあるがままの生き方に気付くために、
    ここまでの山あり谷在り嵐ありの人生を生かされて来たのだと、思っている。
    だから、「言葉者」は、ここに書かねばならないんだな。
    それは、きっと誰かのための「ガイドブック」となるからだ。
    作家の小川糸さんの言葉。
    「私の物語は、実用書になってくれたら幸せだ」と。
    いいなぁと、感じた。
    まず、この道をとぼとぼと独り歩いて、見つけた事のある人は、
    共に歩いたり、後ろを歩いたりしている人たちに、
    何か道標、現在地点。目的地までの道筋が分かる地図のような言葉を、
    遺して、伝えられたら、それはそれで本望ではないのかだった。

    私は、私と言う人の失敗と痛みと挫折と哀しみとから、
    何か分かったことを、分かったままに、ここに記したいと思っている。
    体験が先。感じるが先。そこで考える。そうすると、その意味が分かる。
    歳をとると言う事は、その意味が分かると言う事。
    その既に知っていたと思っていた事の意味をさらに深めることなんだな。
    だから、気付いたことは、言葉に直す。
    それが、人間の出来る最善な道ではないかな。
    後続の人が迷ったら、役に立つ地図を描く。
    それが、「実用書」としての言葉者の役割、使命だと、改めて思っている。

    だから、固い石と出会ったからと言って、弱ってはいられない。
    傷ついたり、ぼろぼろになったり、落ち込んでいたりするには、
    この限られた人生の時間は、もったいないからだ。
    せっかく、お日様の光が差して来た。
    そしたら、日向ぼっこで、この暖かさを体感すればいい。
    何で、ぐずぐずと、くよくよと、うつうつと、引き籠る必要があるのか。

    さてさて、今日と明日は、仕事なんだ。
    まぁ、お互いに気持ちよく、楽しい時間を過ごせるように、励むだけだ。
    帰りには、「大吉」によることにする。

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  • from: クマドンさん

    2021年04月07日 08時31分22秒

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    今日はこれだけ。ここでやめる。

    今日は、朝から、元気が出ない。
    ああ、こんな時は、巣ごもりに限ると、FBを書く事を止めた。
    9月から、初めてのことだった。
    書きたいことが浮かばない。
    そんな事は在り得なかったのに、書き始めても進まない。
    まさに、思考停止。考え、やめだったな。

    原因はいろいろとある。
    まず、きっと呑み過ぎだと思う。
    リモートをしながら、10時半までちびりちびりとワインを呑んだ。

    それから、妻と長男の事だろう。
    「ああ、やっぱりそうなんだ」「変わらないよなぁ」だったな。
    向こうも同じことを私に感じて、思っている。
    私は、二人には相当頑固で分からず屋の親父となっている。
    そのイメージが限定され、固定された。
    これは、一生変わらないという、諦めだった。

    違うことを認めない。
    相手が自分と同じように想わないと面白くない、攻撃的になる。
    それは、弱い自分への自己防衛でもある。
    こうして相手の話をシャットアウトして、絶対に受け入れない態度の裏には、
    自分がここに居ないことの不安感が隠されていることが多い。
    だから、「みんな」に従う。
    みんなとは異質で、全く別個の私は、信ずるに値しない人間として認識される。
    その認識は、一度脳に刻み込まれたら、変わらない認識だった。
    だから、私が話しをすると、耳を閉ざす。
    分かり合うことは、無いのだと言う、無力感だ。

    それと、本当に体の疲労が溜まっているのかも知れない。
    昨日から、右目の視力が落ちたのか、見え方が違っている。
    近くの細かい文字が霞んで、ぼやけて、読めなくなっている。
    その不調が、気持ちの不調となっている。
    やはり、体のどこかが思わしくないと、気分は優れないものだ。

    今、こうして書きながら、やっと意識のあちらこちらのパルスが繋がった。
    4時に起きてから、今、8時22分まで、意識と思考とは眠ったままだった。
    本当に驚いた。スマホに向かっても書きたいことが出て来ないのだ。
    自分の事でありながら、「へぇ、どうしたんだ」の驚きだった。
    書けない自分が、ここに居る。
    そしたら、いつもいつもあれだけ長文を書いていた私の事が、
    逆に不思議になって来た。
    私は、どうしてこれも書いているのか、の問いだった。

    生きる事は、「いかに生きるか」を問い続けることだと思って生きている。
    この「問い」によって、私は生かされるのかもしれなかった。
    問いがあるから、答えを求める。答えを探す。
    だから、いつも新たに、生きる場所を求めて生きて来た。
    しかし、本当は、「これで、いい」のではないだろうか。
    つまり、求めず、探さず、ただ、ここにあるがままで、そのままで。
    今日は、不思議に「もう、いいかなぁ」とも思われた。

    しかし、これもやっぱり。不調である体調の為すがままなんだな。
    昨日は、少し眠るのが遅くなり、寝不足であるようだ。
    体は正直なもの。
    だから、思考回路が全く機能せず、気付きや発見が何も出来ない。

    今日は、これだけ。ここでやめる。

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  • from: クマドンさん

    2021年04月05日 16時17分59秒

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    万事塞翁が馬なんだな。

    本日は、お仕事のお休みの日だ。
    よくよく考えたら、いい仕事に就けたことを幸せに思う。

    50代の頃、退職後の生活は、ただ漠然と考えていた。
    山とスキーでやって来たので、好きなだけ山に登れると思っていた。
    ところが、2回の開腹手術によって激しい運動が止められたために、
    数年間登山は御法度だった。
    まさか、こうなるとは、全く予想はしていなかった。

    合唱は続けている。東区ボーイズと言う、シルバー男性合唱団に所属している。
    東京交響楽団の合唱団員にも幸運にも成ることが出来た。
    しかし、演劇は、足を洗った。
    劇造りへの魅力と希望はまだまだあるが、今は、かかわれないと自粛したいる。

    再任用はしない。
    その代わり、自由な時間を使って、今までやりたかったことをやることにした。
    ヨガのスタジオに通い、3年目となっている。
    本当に自分の人生は、思っていた通りにはなっていない。
    しかし、反対に考えたら、この予想外の展開に、私は、多くの体験をし、
    未知なる事にも挑戦できた。
    本当に何だか流されるまま、風の吹くまま、万事が塞翁が馬だった。

    そして、分かったことは、これからもきっとそう成って行くと言う事。
    だから、あまりあれがしたい、これがしたいとは、考えていない。
    ある意味行き当たりばったりの方が、予想外の展開で面白いと分かった。
    今、ここに、こうして居られるのは、やはり神様の思し召しさのものなんだな。

    もし、大河の流れの中に飛び込んで、浮いていたとしたら、どうするか。
    向こう岸に渡ろうと、決して私は泳がないと思う。
    沈んでは死んでしまうから、川の上にはぷかぷかと浮かんでいると思う。
    仰向けに浮かんで、足元に流れゆく空と雲を見ているかも知れない。
    流れには逆らわず、その自然の力のままに、全てを委ねる。
    無理に対岸に泳ぎ着こうと泳ぎ始めても、疲れ果てるばかりである。
    だから、ここからは、何が向こうからやって来るのかを楽しみにして、
    「そう、来るか」と、来た運命の出会いを、楽しむことにしている。

    つまり、無理に山に登ろうとはしていない。
    今シーズンも一回もスキーには行っていない。
    退職したら、山とスキー三昧を楽しみにしていたが、
    大きく方向転換されている。しかし、それで、いいと思っている。

    介護職に就くために、4年前、現役最後の年に資格を取得した。
    しかし、その後、小学校特別支援学級の講師を経て、各同保育の保父さんをやった。
    これは、私の想定には無い事だった。
    私は、もう二度とあの現場には戻らないつもりだった。
    しかし、元同僚のおかげで、私は6名の卒業生を担任で来た。
    これは、私の人生にとっては最良の日々でもあった。
    退職してから、また特別支援学級の教師を全う出来たことは、ただただ感謝だった。

    そして、その間に、多くの子どもたちとの出会いがあった。
    カンポスと言う、かけかえのない喫茶店とお付き合いが始まった。
    これは、私にとっての人生の宝に他ならない。
    こうなるとは、50代で、どうして予想がつくことが出来ようか。
    つまり、私の人生で起った事は、全て想定外の出来事だと言う事だ。

    ならば、悩むだけ、考えるだけ、想定するだけ、求めるだけ、無駄な事だ。
    それは、63年間の人生で実証された。
    今、ここ、自分を、私は、絶対に想像は出来なかった。
    そして、全ての事は、私の思い通りではなく、想定外の出来事だった。
    しかし、それは、今の私にとっては、善き事である。
    それはいろいろとあったが、それはそれで善かったと、今は、思っている。

    人は、分からないから、生きていける。
    そして、その人が想像する以上に、人生は豊かで楽しさに充ちている。
    しかし、それは私が、流れるままに、流されて生きているからだ。
    これが、「俺が、俺が」では、全く駄目なんだな。
    「もっと、もっと」も、どうにもらない。「まだ、まだ」も迷いの中だな。
    「これで、いい」「これが、いい」
    そう言い切れた時、幸せを感じられる時なんだ。
    その事が、歳をとってよく分かった。
    だから、じたばたしない。気を乱さない。静かに、流されるままに生きる。

    そしたら、この介護の仕事が向こうからやって来た。
    そして、想定外の事でもあるが、こんなに良い職場に採用された。
    万事が塞翁が馬。
    やっぱり人生は、これだ。これだ。

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