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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2020年07月29日 06時58分50秒

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    私を置いといて、わたしで生きる

    何だかね。
    もう一つの目だった。
    自分を見ている、もう一つの目。
    その目になって自分の後ろ姿を見ていたら、
    もっと楽に生きられるような感じがしている。

    昨日、こんなことがあった。
    Aさんは、ことごとくやってはいけないということを続けた。
    玄関に入るなりに、それを始める。
    ある意味、それは彼のルーテーンだった。
    学校でやはりイライラすることがあるのだろう。
    そのイライラをどうしようもなく、抱えたままここに来るのだろう。

    すると、そのイライラを止めようも無く、爆発させる。
    傘を振り回す。
    突っ走って来る。
    小さなロッカーの上に上がる。
    長机をジャンプする。
    本を投げつける。
    1年生にちょっかいを出し、パンチする真似をする。

    その行動の全てを指導の先生が注意する。
    だんだん感情が激して、彼女も本気で怒りだす。
    彼は、ずっと彼女の様子を見つめている。
    その目がどこかで覚めている。
    そして、憎しみのような感情が浮かぶ。
    この悪循環をどこかで止めなければならない。

    でも、私は、そのもう一つの目で見ている。
    ここにいない人のようにして、彼の行動を熟視している。
    そこには、余計な感情は入れない。
    「そうなんだ。感情を入れなければ、あるがままを観れるのだ」
    その気付きは、私にとってはとてもとても大きなことだった。

    私は、彼の感情が落ち着いてから、彼の傍に座る。
    彼は、まだ高ぶる感情の波の中だった。
    こうなったのは、彼だけのせいではないことはよく分かる。
    お互いに刺激し合った結果が、これだ。
    私は、彼が心穏やかに落ち着くまで、じっと待っていた。
    その時、このもう一つの目で彼を見ていた。

    彼とのかかわりの中で、
    そこに居ることの私としての役割の中で、
    そのことを考えたとしたら、
    やはり私は何かを言うべきだったであろう。
    しかし、その場では、私は言わなかった。
    ただ、彼の目線が穏やかになった時、
    少しだけ彼には、話した。
    それだけだった。

    当事者にはならない。
    遠く離れた所から見守る、見つめる。
    この静寂の中でのもう一つの目からの観察。
    これは、何だか面白いと、私は感じていた。

    自分が自分で在る時に、その自分に巻き込まれる自分がいる。
    妻の発言に腹を立て、強く言い返した時、それを感ずる。
    「ああ、また、やってしまった」
    「どうして、ああ言われると、直ぐに感情を激してしまうのか」
    「もっと、穏やかに、言葉を受け止めることはできないのか」
    その後、自室に帰って心を落ち着けて振り返ると、
    そんな後悔の苦さばかりだ。

    冷静になると、改めて、その言葉の本質を理解できる。
    「本当は、そんなつもりで言ったのではなったのでは・・・。」
    「そのことを、私が本気で悪かったと思っていないから・・・・。」
    「そのことに彼女がこだわるのは、仕方ないことなんだ・・・。」
    どこかで、落ち着いて振り返ると、
    その瞬間に、あんな言葉を投げつけることはなかったと、心が痛む。
    この時、私は、私自身に巻き込まれ、翻弄されている。
    「吾を忘れる。」
    その後は、苦いものだ。

    それは、指導者の彼女と子どもである彼との関係のようなものだ。
    感情的であることも時には必要であろう。
    ただし、今、ここでは、
    感情を入れないことの方が、楽であり、その場に見合った行動ができる。
    私は、たくさんの苦い経験の中から、そんなことを学んだ。

    今は、私は、補助員と言うお仕事だ。
    指導する責任というよりか、
    子どもたちが安全・安心な生活ができることを見守るお仕事である。
    そこで、ふと、楽な気持ちで子どもたちを見つめられているようだ。
    それは、何だかデーブに子どもたちにかかわっていた教師の頃とは違っていた。
    何が違うかと言われても、なかなか説明はできないが、
    「教える」というところから、
    「育てる」「見守る」に変わったからだとは気付いている。

    それが、子どもと私との心の距離感となり、
    お互いの関係の中での「ゆとり」となっているような気がしている。
    私がなんとかする、ではきっとないんだなぁ。
    子どもが自分から何とかしたいと、思い、決意し、行動することなんだ。
    つまり、行動主体は、子どもである。
    私は、その傍に生きている大人の1人に過ぎないのだという自覚だった。
    保父さんをして、気付いたこの「距離感」の自覚は、
    自分にとっても、私のかかわってい子どもにとってもよいものだと思っている。

    だから、甘えて来る。
    何でも、言って来る。
    私の言うことをきかないで、ふらふらしていることもある。
    確かに、私は、言葉での影響力は、傍からは見えないかも知れない。
    しかし、私が、私として、そこに居ることは、
    何らかの空気感としての、環境としての影響はあると考えている。

    つまり、教えなくても、言わなくても、叱らなくても、
    子どもというものは、いつか、必ず、気付くと言うことだ。
    そして、気付いた子どもは、その行動を変容させる。
    本当に、「あれっ」と驚く時がある。
    昨日もそうだった。
    あれだけ言われていたことが、何も言われなくても「できている」のだ。

    多動だったBさんが、ポケモンの写し絵に夢中だった。
    初めはたどたどしかったその線が、ピシッと決まって来た。
    本物そっくりに描けることの喜びと興奮だった。
    だから、1時間集中して、黙って描き続けている。
    「じっとしていなさい」「騒がない」「落ち着きなさい」と言われ続けた。
    しかし、気付いたら、彼は、それを1時間やれる子になっている。
    これは、彼にとっては革命的な「成長」だ。

    それは、言われたかできるようになったのではなかった。
    ある日、やってみたら、面白くなったから、できたのだ。
    私は、「今日は、無理だなぁ」と思った時は、
    彼とは距離を置いた位置にいた。
    遠くから彼の様子をずっとずっと観察を続けた。
    その内に、彼がポケモンの写し絵を始めた。
    あの彼が、夢中になって、その写し絵に集中し始めた。
    そのことも、私は、観ている。

    次の日、彼の傍に座った。
    「すごいなぁ。Bさん、うまいなぁ。本物みたいだね。」
    彼のその絵は、確かに腕前を上げたことを物語る絵だった。
    べた褒めに褒めた。褒めた。彼の横を通る度に、褒めた。褒めた。
    すると、彼は自由な時間になると、
    「先生、ポケモンの絵を下さい」と、言いに来るようになった。
    彼は、ぽっと実を付けた。

    私は、彼に対するように、私と離れたところで付き合いたいと願っている。
    私は、私なのだが、私でないままに、私を見ていたい。
    それが、もう一つの目のことだった。
    当事者ではない。
    例えば、妻との会話の時も、その目でいたい。
    「今、彼女の気持ちは、きっとこんな気持ちなのだろう」
    「今、彼女の言いたいことは、こういうことなんだ」
    「今、私は、少し腹を立てている。それを収めるのには、どうしたらよいのか」
    そこには、私ではなく、何と言うか、私でない私。
    それは、やはり私を私たちを後ろから見下ろすもう一つの目。
    その目で、生活していると言うことだ。

    今、私は、こんな気持ちになっている。
    今、私は、こんなことで感情を乱そうとしている。
    今、私は、寂しさと孤独とを感じている。
    今、私は、怒りを感じている。

    そんな私のことを、もう一人の目から見つめて、言語化する。
    これは、私との分離・分裂とは全く違うものだ。
    逆に、大いなるわたしで私が見守られ、包まれることである。

    私は、私であるが。わたしを生きる、私となる。
    わたしとの御同行とでも言えるのだろうか。
    その生き方が、この道場における日々の私の課題となっている。
    どこかに私を置いといて、わたしで生きること。

    すると、わたしとかかわる人や子どもは、気持ちよく生きられるようなのだ。

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  • from: クマドンさん

    2020年07月28日 07時34分16秒

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    音なんだな

    激しい雨だった。
    久しぶりに雨を見ていた。
    その音を聴いていた。
    遠くで雷の音と共に、雀たちの声も聴こえた。
    「チュン、チュン」と、今もさえずり、語りかける。
    雨もそうだった。
    何だかその音から、渓流の音が想像された。
    この音を、縄文の人たちも聴いていたはず。
    風景は変わったとしても、この雨の音と雀の声は、そのままだ。
    私は、「音なんだなぁ」と、ふと気付いた。

    意味という漢字を書いてみた。
    すると、その漢字の中に「音」があった。
    「そうか、やっぱり、音なんだ」の驚きだった。
    「音」は、あるがままで、太古から何も変わらずにここにある。
    その「音」を聴けるかどうかなのではないだろうか。

    その「音」はどこにあるのか。
    それは、私の「心」だった。
    音と心を合わせると、「意」となる。
    つまり、私は私の意味を、心の音として聴けばいいんだ。

    音は、音のままに存在する。
    まさに自然のあるがままだ。
    石牟礼道子さんが、「なみだふるはな」の中でこんな話をしていた。

    彼女がパーキンソン病でふらふらとなって転んだ時のことだ。
    大腿骨と腰椎を損傷し、何と二カ月半も記憶を失ったという。
    その時、彼女の意識の中で、不思議なことが起こったそうだ。

    「そして、次に意識したのは、思い出すのは、細胞というか、
     遺伝子の元祖たちがいる森に行ったんですよ。そのフワフワが、
     だんだん蝶のようなものになっているという意識が出て来て、
     それが水俣のある漁村に似ているんですけど、森があって、
     それも太古の森ですけど、右側は海で、海風が吹いてくると、
     森の梢、木々や草たちが演奏されるんですよ、海風に。
     何ともいえない音の世界が・・・・・五線譜にはとらえられないような。」

    「草の祖という言葉が出てきました。草の祖。祖先。
     そのようにいったほうがいい。木の梢がいっせいに震えると、
     何ともいえないいい音楽が。「幻楽始終奏」というふうに
     名付けていましたけれども。草が何ともいえずなよやかな音になって
     動くんですよね。花はまだなかった。草の祖。
     それは私の親たちという気持ちでしたね。その音楽が。
     それが眠りに入るときも、目がさめるときも、何か思いついて
     夢想が始まるようなときには必ず、鳴るんです。演奏される。
     海風がふうっと吹いてきて。やわらかく吹くときも、強く吹くときもありますが、
     必ず原初の生命の森が・・・・・・。」

    「それで、魂の秘境に行っているような、この世の成り立ちをずっと見ているような、
     そんな音楽が聞こえて。二カ月半ぐらいつづいていましたね。」

    「長かった。大変幸せでした。痛みなんか全然感じない。いまごろ痛みが出て
     きているんですけれどもね。その音楽は消えちゃった。あの音楽よかったなと
     思って。」

    「ある日ふと気がついたら、音楽が聞こえない。「あら」と思って。
     それから日常のことが記憶されはじめて。あれを楽譜にはてせきないですよ。
     ピアノも単音でしか弾けませんから。」

    「一昨年です。それからぼつぼつ憶えていますね。何か大事なものを預けて
     きたような気がします。ご褒美のような。怪我をした変わりに、
     長いこと生きてきてご苦労さまでした、という意味かなと思って。
     元祖細胞のところへ連れていかれて、それがまあ、美しい音色でしたね。
     その音楽を再現できない。」

    「大自然が奏でる、音楽の最初の始まりみたいな。そのような日常の中で
     生きていたんですよね、私たちは。意識せず。」

    「通奏低音というか、生き物たちが呼吸をしている音とか、海風が鳴るとか、
     巻貝たちが人の足音に驚いてミシミシミシミシと音を立てて転がり落ちる音とか、
     ナマコやウミウシが砂地の上で呼吸しているとか。」

    「いまでも朝早くスズメたちが、スズメだけではありませんけれども、鳥たちが
     まず目をさまして、朝、鳴き交わしていますけども、それを見ていると、
     スズメとスズメが何かしはりに小首を傾げあって、語り合っているんですよね。
     それを見ると大変かわいい。私も入りたくなって、仲間に(笑)。」

    対談した藤原氏の語り掛け。
    「その森から戻ってきて、音楽が消えて、また世の中が否応でも目に
     入っているでしょう。どうですか。」

    「味気ないです。幸福だったなあと思います。あの音楽に包まれていたときは。
     
    「ハハハ、帰ってこなくてよかったのにと思ったりして。何か意味があると思ったら、
     ドシンときた。」

    さてさて、ゴミ捨てに行かねばならない時刻となった。
    まだまだ雨は、縄文の音で鳴っている。
    スズメたちもこの雨の中で、チュンチュンと語り続けている。

    今朝のラジオでの一言だった。
    「命という漢字は、人が、一度、叩かれると書きますよね」だった。
    どんと胸を叩かれる。そんな衝撃を感ずる。
    そしたら、きっと眠っていた命は目覚めるのだと思った。

    しかし、それは人には、何度もある。
    私がそうだった。
    何度この胸をドンと叩かれたことか。
    その度に、はっとした。そして、我に還った。

    太古の音を聴いて生きたい。
    その音を味わって生きたい。
    そして、あることに気付いた。
    「味」という漢字は、口と未だだ。
    これって、歌を歌うということではないのかとの気付きだった。
    未だ誰も聴いたことの無いこの太古の音楽を、唄にして歌うことだ。

    音ではないか。
    その音の奏でる音楽ではないか。
    そんなことを今朝、この豪雨の音とスズメの声を聴きながら考えた。

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  • from: クマドンさん

    2020年07月27日 06時41分28秒

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    人生とは、時間なんだ。

    昨日の突然の豪雨はすさまじかった。
    ああ、雷か。
    雨が降り始めたな。
    あれっ、何だか激しさを増して来たぞ。
    そう思ってベランダの物干しから外を見て驚いた。
    滝の中にいるようだった。
    その内に、物干しのサッシのひさしの部分から水が漏れだし、
    まさに洪水のような状態だった。
    「突然の変化」「自然の猛威」「集中豪雨」
    それに対しては、全く為す術の無い私たちだ。

    小千谷のSさんと電話した。
    「今、クマさんは、何に取り組もうとしていますか?」と訊かれた。
    「そうですねぇ・・・」と、答えることをしばしためらった。
    今、ここで、何もしなければ、楽になる・・・・。
    そんな気持ちもあるからだ。
    しかし、本当にそれでいいのか。
    私にも何かやめるべきことは、あるのではないのか。

    それは、良寛さんが、保父さんの祖であると気付いたその日からの、
    わたしからの私への「問い」でもあった。
    今、ここで、私が了解したことを私の中だけに留めるのではなく、
    誰かに伝え、誰かの役に立つこともできるのではないのか、
    そんな気持ちも、私の中にまだあるからだった。

    横浜の「信愛塾」のことを、ラジオで知った。
    竹川真理子さんの40年間の歩みでもあった。
    彼女はクリスチャンだ。
    研究職で多忙を極めている時、
    外国籍の子どもたちの勉強の手伝いをして欲しいと頼まれた。
    23歳?だった。
    夜の空いている時間なら大丈夫と、そのボランティアを受け入れた。

    その時、知っているフィリピンから働きに来た女性と知り合った。
    その彼女の子どもに区役所から就学通知が届かなかったというこだった。
    そして、調べてみたら、外国籍やオーバーステイの子どもには、
    日本の学校で就学する権利すら与えられていないことを知った。
    そこで、この子どもたちにも学校へ行ける権利を与える運動が、
    その1人のフィリピンから来たお母さんから始められた。
    それが、今から40年前の日本の社会だった。

    彼女は、そうした子どもたちと生活に困っている親たちのために、
    NPOとなり、この「信愛塾」の主任となり、
    その運営と経営とを続けて来た人だった。
    「見捨てて置けない」「見過ごしにできない」
    今は、横浜に仕事を求めて来た外国籍の人たちの生活の援助をしたり、
    子どもたちの日本語での学習の救けをしたりしている。
    しかし、一番彼女が心掛けていることは、
    この子どもたちの心の傷や痛み、孤独、哀しみに対するケアであった。

    まさに、彼女は、その子どもたちにとっては母親のような存在である。
    台湾から幼い時にやって来たAさんは、そうとうやんちゃで暴れた男性だった。
    万引き、非行、暴力、そして、警察。
    とにかく彼の兄弟たちは、その地域では有名な不良たちだ。
    そこまで、その子たちの心が荒れるには、わけがあった。
    しかし、その子どもたちの孤独や哀しみに手を差し伸べる人はいなかった。

    いつしか、彼等は、この塾に遊びに来るようになった。
    「勉強しなさい」「勉強しなけりゃ、生きていけないよ」と、
    日本語で学校の教科書を学んだ。
    彼は、今、24歳。水道工事技師となり、兄貴分として頼れる存在だ。
    彼は、竹川さんに心からのリスペクトと感謝だった。
    彼女は、今、困った状況になると、彼を頼り、援けてもらうと言って笑った。

    「居場所なんです」と、彼女が語る。
    「何よりも大切なことは、子どもたちの心の居場所なんです」

    彼女は、強制送還されたフィリピンの子どもたちも、
    その国を訪れて、見守る活動を続けている。
    それは、彼女にとっては、生きているそのものの実感だった。
    その子のためでもあるが、
    自分自身の人生のためであると彼女は考えて、行動している。
    40年間だ。
    彼女は、ちょうど私と同じ年代である。

    彼女は、その40年間、地域社会が忘れ、見えなかった子どもたちのために、
    その人生の時間を使った。
    人生とは、時間なのかも知れない。
    その与えられた時間は、確かに人それぞれである。
    そして、人生とは、その時間を誰のために、何のために使ったかで、
    決まるものだと、Sさんの電話の言葉で改めて感じさせられた。

    今朝、3時50分に目覚めた。
    今朝の夢を私は、本当に鮮明に覚えていた。
    不思議なことだった。シュールなんだな。
    その瞬間、「私も、死ぬんだなあ」と、ふと心に浮かんだ。
    人は、死ぬんだ。
    私は、でも、今日は、ここで生かされているんだ。
    では、いつまで私は、こうして生かされているのか。
    それは、神だけが、知ることだった。

    竹川さんの40年間を想った。
    そして、ドラマ「仁」の医師を想った。
    同じなのではないのかの「問い」だった。

    人生とは、限られた時間のことだ。
    「人生を短くしたのは、その人なんだ」と、セネカは言っている。
    その時間を、自分だけために、欲望のために、名誉や権力や金のために、
    費やしてしまうことも人生の生き方だった。
    しかし、この時間を私に与えた主は、
    私がその時間を何のために、どのように使い切るかをご覧になっている。
    その主からの眼差しが、
    この二人には共通しているような気がする。

    そして、その眼差しが、私の奥深くからの「問い」となる。
    その「問い」は、こんなちっぽけな私に、「いかに生きるか」を問うてくる。
    「それで、いいのか」と、語りかけてくる。
    「見過ごしにするのか」「見て見ぬふりをするのか」と、言う。

    竹川さんは、40年間「信愛塾」を続けた。今も、これからも、そうだ。
    「仁」の医師は、突き進めとの啓示を受け、それを信じて患者を救った。
    良寛さんも同じなんだ。
    きっと、「慈悲」の想いで、五合庵に棲み、子どもたち遊んだ。

    そこには、自分自身は居なくても、自分のことは捨てられていても、
    何だかとてもとても大いなるものが存在し、
    その人を内から動かしているような気がする。
    それを、ミッション(使命)と、人は呼ぶ。

    人生と言う与えられた貴重な時間を、人は何に使うか。
    浪費し、無駄に費やし、死んでしまっては、
    何だか生きている「意味」も感ぜられず、
    哀しさと虚しさと孤独の中で、この世との別れとなるのではないだろうか。

    「捨てろ」と呼び掛けられる。
    捨ててこそ、初めて受ける信がある。
    やはり、この信(まこと)を、信ずることなんだな。
    言葉によって生きる時、人は「信ずる」人となる。
    信というこの漢字の意味を、私が悟ることなんだな。

    「初めに言葉があった。言葉は、神と共にあった。言葉は、神である」 ヨハネ

    あの突然の豪雨のように、突然私に死が訪れたとしたら、
    ある日、突然、死の宣告を受けたとしたら、
    私は、「分かりました」と、そのことを受け入れられる生き方をしているか。
    この「問い」は、私が死ぬまでの日々の「問い」として肝に銘ずる。

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  • from: クマドンさん

    2020年07月26日 17時16分24秒

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    やっぱり良寛さんが、師であった。

    さてさて、四日間の休日も最後の日だなぁ。
    まだ夕方だ。
    さっきまで「仁」を観て、「ガイロク」を観ていた。
    何だかとても涙もろくなっている。
    いつも涙が出て仕方ない。
    昨夜は、「とんび」を観た。
    息子たちは、私の宝物だ。
    キョンキョン最高だったな。
    想いだけが遺るな。
    歳をとってそのことが、よくよく感ずる。

    本当に想いと言うものは、目には見えないものだ。
    でも、今は、その想いで生きている。
    その想いに正直に生きようとしている。
    その想いのまま、生きればいいと、それだけだ。

    金曜日に床屋に行った。
    もう20年以上のお付き合いだ。
    「坊主にしてください」と言って椅子に座った。
    女将さんは、笑顔でその言葉を受けてから、
    「クマさん、上の方は寝るようにするね」と、言って電動バリカンだった。
    「いいよ。すぱっとやってくれ」と、言ったが、
    脇はごまめに刈ったけれど、
    てっぺんにはそれなりに毛を遺してくれた。
    それは、それでよかったと思い、「ありがとう」だった。

    私は、木曜日の日にあることに気付いたのだ。
    「良寛さんだ」と。
    今、私は、保父さんをやっている。
    何も教えない。いや、ただ傍にいるだけだ。
    叱ることも、怒ることもしない。
    ただ、1,2年生の子どもたちを笑顔で見守るばかりだった。

    1年生の男子、Aさんは、ここに来ると私にしがみついて来る。
    「どうしたAさん、学校でまた先生に叱られたな」
    「うん、話を聴いて・・・」
    「おうおう、分かったすけ、まず手を洗って、座って待ってれ」
    「早く来てよ。お願いします・・・。」
    「みんなのことが先らてば。それが終わったら話聴くれ」

    彼は、学校の先生にはよく注意され、叱られることも多いようだ。
    「騒いでいる」「席につかない」「しゃべっている」「追っかけっこをする」
    その度に、先生から名前を呼ばれてみんなの前で叱られる。
    「それゃ、大変だなぁ・・・」と、私はいつも同情だった。
    「Aさんよ、先生から叱られると、いゃな気持ちになるよなぁ」
    「うん・・・。」
    「じゃぁさ、叱られないようにすれば、いいねっか」
    「・・・・。」
    「走らない。騒がない。喋らない。ちょっかいを出さない。ふざけない。」
    「・・・・。」
    「それをさ、一度やってみて、どっちが気持ちいいか、試してみるんさ。」

    ある日のことだ。
    「今日、何回、先生から叱られた?」
    「10回・・・・。」
    「へぇ、12回じゃねかったんだ。いかったな、10回で」
    ある日のことだ。
    「今日、何回、先生に叱られた?」
    Aさんは、首を小さく振った。
    「えっ、1回もしかられなかったんか?」
    「うん。」
    「いかったなぁ。それは、いかった。いかった。」と彼をぎゅっと抱きしめた。
    濃厚接触だから、今はこのスキンシップが禁止されている。
    その日だけは、特別。特別。

    何だかね。
    「クマ先生、来て」と、言われて「はい」と従う。
    「折り紙をとってください。」
    「どれですか?」
    「〇〇〇グリーンをください」
    その意味が分からない。
    「これですか。これですか」
    「それじゃなくて、その下の色」
    「これかぁ」と、一枚とって渡す。

    何だかねぇ。そうした新しい日常の中で、子どもたちと生活していると、
    ふと、「何も言えない」「かわいいなぁ」と、ただそれだけだった。
    そして、気付いた。
    「ああ、良寛さんは、こんな気持ちで子どもたちと遊んでいたのか・・・」だった。
    あの貧しい分水の農村で、子どもたちは飢えと子守と、遊びだった。
    寺子屋にも行けず、田んぼや畑の仕事を手伝わされ、水汲みや草取りだった。
    姉ちゃんは小さな妹を背中にしょって子守だった。

    飢饉や天災の時は、飢えだった。
    女の子を身売りする親もいる。その子を買いに来る女衒もいる。
    時には、疫病で尊い命が何人も失われる。
    「どこそこのだれだれはどうしている?」と、良寛さんが訊くと、
    「熱を出して死んだよ」「どこかに売られて行ったよ」「もういないよ」
    そんな哀しさは、きっと日常のこと。

    無常迅速、生きて行くことが誰でもやっとの世の中だ。
    托鉢で生きている良寛さんは、
    その生きることの苦しみ、辛さを、よくよく知っている。
    だから、子どもたちが哀れでならない。
    この子どもたちの厳しい定めを、いかんともしてやることはできない。
    親の無い子もいただろう。何日も何も口にしていない子もいただろう。
    病気になっても、そのままほったらかされている子もだだろう。
    良寛さんは、托鉢で村々を回るから、よく分かる。

    可哀想だ。何とかできないか。いや、わしには何んの力もありはしない。
    ただ、この子たちが、今日だけでも幸せであってほしい。
    笑顔であってほしい。
    ああ、楽しかったと、言ってほしい。
    また、あそぼと、笑顔で家に帰ってほしい。

    寺や神社の境内で、子どもたちは良寛さんを待っていた。
    良寛さんは、鞠つきの名人だった。
    懐には、子どもたちと遊ぶためにいつも鞠を入れている。
    「良寛さん、遊ぼう、遊ぼう」と、子どもたちは追いかける。
    それを見ている良寛さんは、まだ57~8歳だった。
    実は、五合庵の良寛さんは、壮年の年頃だった。

    私は、ふっと、良寛さんのことを想い出した。
    私は、良寛さんが大好きだ。
    若い頃から、良寛さんに関する本を読んで来た。
    そして、知れば知るほど、良寛さんが好きになった。
    良寛さんと、話したくなった。

    そして、63歳に8月になろうとしている、この今、ここの私。
    「あれっ、良寛さんってこんな気持ちだったのか」との驚きだ。
    私は、学童保育の保父さんをやって、
    やっと良寛さんの子どもたちを見る眼差しを感ずることができたようだ。
    「慈悲」なんだな。
    本当、「かわいくて、かわいくて」だな。
    そして、どれだけその子どもたちの辛さや哀しさに涙を流したことだろう。

    学童保育の祖は、良寛さまなんだ。
    その気付きと発見が、とてもとても嬉しかった。
    私は、ここで保父さんをしながら、
    良寛さんの生き方と子どもたちに対する心とを学ばせてもらっている。
    それが、私のここでの修業だっのだ。
    その気付きと発見は、とてもとても私にとっては大きなことだった。

    それでは、神はいったい私に何を求めているのかの「問い」だった。
    まさに、そこに導かれた私だった。
    そして、そこで私は、良寛さんを感じた。
    「ああ、これだったのか」と、そこに神による意志を感じた。
    「それでは、これから何を、私は、求められているのか・・・」
    その「問い」に対する答えも、分かっている気もする。
    しかし、まだまだと思う。
    やれるかどうか、そのことは神に委ねたことだ。

    しかし、私は、きっとその道なんだとも、感じている。
    そのための保父さんの道だった。
    この道は、私が歩いたからできた道ではない。
    私が、何かに導かれ、歩いたからできた道だった。
    そして、ここから先には、「道」はない。
    さてさて、どうするかの神からの「問い」だった。

    小千谷のSさんからの電話は、
    その「問い」についての話だった。
    「私たちが、ここで、できることとは何ですかね?」と訊かれた。
    私は、言葉を濁した。
    そのことを知っているのかもしらない。
    ただ、今は、そのことを決めかねている。
    「これから、はじめる、のですか・・・・」と、自信はなかった。

    でも、指し示された道には、歩きださねばならないと考えている。
    「ぼくの後に、道はできる」からだ。

    まず、私は、形から入ることにした。
    坊主に似た髪になった。
    さっぱりとした。
    そして、「これからなんだ」と心を新たに思っていた。
    「何をすべきなのか」は、「仁」の先生の生きた方だな。

    まぁ、とにかく良寛さんを師として、生きてみよう。

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  • from: クマドンさん

    2020年07月25日 07時54分18秒

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    その人は、私なんだ

    最近、いろいろな人から相談を受けることがある。
    それもその内容については、いろいろなことだった。
    しかし、そのどれも、私が経験したり、通過したことでもあったし、
    これから私が歩く道でもあった。
    みんな同じなんだなぁと、いつも思う。

    老いの悩みだ。
    86歳の叔母さんだった。
    彼女の長男は東京で、次女は上越だった。
    独り暮らしでこれまで何とか生きて来れたが、
    このウイルスによって生活が一変させられた。

    趣味の仲間が多い闊達な人だった。
    いつも笑顔で「がんばろうよ」が口癖だ。
    そのレクダンスや書道の会とは、疎遠となった。
    なかなか公民館まで歩いて行くのも難儀だからだ。
    何人かいた親友も、すでに他界している。
    または、施設で介護を受けている。

    独りで何とか自分のことを始末して来た。
    本当によく頑張っているなあと、
    私は尊敬の眼差しだった。
    しかし、その叔母が本当に急に、急に弱気になった。
    老いることの孤独だった。
    そのことは、いずれ私が行く道だった。

    子どもたちが遠方に住んでいて、
    仕事や家庭をもち、頻繁にお世話に来ることができない。
    それもよくある話だ。
    今は、同居している家族は少ないのだから、
    これもみんな同じ問題である。
    私もいつか、その課題と向き合う日が来るだろう。

    だから、自分が棲んでいる地域社会での支援が求められる。
    それが包括支援センターの役割だった。
    そのことを知らない人も多すぎる。
    特に、独り暮らしのお年寄りは、元気な内からここと繋がっておくとよい。
    ここには担当のケア・マネージャーが勤務している。
    そうした困りごとは、何でも相談を受けてくれる。
    家族のこと、病気のこと、心のこと、経済的なこと等、
    「こんなことは・・・」などと勝手に想わないことだ。
    何か困ったことがあったら、声に出す。

    でも、叔母も言った。
    「クマさん、迷惑をかけたくないんだ・・・」と。
    だから、自分の子どもたちにも「寂しい」「辛い」と弱音を吐かない。
    心配させたくないからだ。
    余計な迷惑、重荷になりたくないからだ。
    だから、独りで耐える。孤独に耐える。老いの寂しさに耐える。
    しかし、その内に身体は確実に衰える。
    病があったならもっと大変だ。医者にかかることもままならない。
    認知症が徐々に進んでも、家族がいないので発見は遅れる。
    手遅れになってしまい、孤独死の事例も多くある。

    これは、「自分だけ」の問題ではない。
    人は、生命体としてこの世に生かされている芦のような存在だ。
    命は、盛りを過ぎると衰える。弱る。か細くなる。
    自分の身体が思うようでなくなると、
    何だか日々の家事もおっくうになる。やる気を失う。
    その内に自分の生活のまたじがならず、
    ゴミ部屋と化する場合もあると言う。

    つまり、これもいずれの「私」そのものだ。
    私は、そうやって生きて、亡くなって逝った家族と親戚の人たちを経験した。
    本当に父も母もそうだったし、二人の90歳の叔母たちもそうだった。
    亡くなった身寄りのない叔母に付いては、喪主まで私がやることになった。
    これも、いつか私が行く場所だった。

    叔母は言う。「私だけなんだて・・・」と。
    しかし、ここを通らない人間は、独りも居ない。
    みんな老いることで、身体の自由がきかなくなり、
    自分が思う様に自分の身体を動かせなくなる。
    意欲が薄れ、気力がなくなる。
    その内に、どんと孤独感と死への恐怖感が覆いかぶさる。
    それも、みんなが通る道だ。

    私は、いつか自分も身体が不自由になる日が来ると思っている。
    また、大病か癌に侵されて、余命の宣告を受ける日が来ると思っている。
    そして、叔母たちのように死と向き合い、孤独に耐える日々が来ると思っている。
    そして、いつか最期の時は必ず来ると思っている。
    それは、みんなが通った道であり、
    みんなが必ず通る道である。

    だから、準備が必要なんだ。
    その時、じたばたするのではなく、
    その時、「どうして、私だけが・・・」と恨むのでも、悔やむのでもなく、
    「ああ、来たな」「さて、今、ここを、どう生きようか」と、考える。
    「死を迎える人を救えるのは医療ではない。それは「言葉」である」池田晶子

    だから、今は、どうなるのかは、言えないが、
    その時を迎えたら、「来たな」という「覚悟」を、
    やっぱり今のうちに具えて置くことだと、私は思って、これを書いている。
    叔母の孤独と心と身体の痛みは、私のそれである。
    今は、叔母がそれを経験している。
    「自分は大丈夫。がんばろう」と生きて来た叔母に、
    どんと突然そのことがやって来た。
    人はみんな、おろおろとする。じたばたとする。それでいい。

    私は、父と母、叔母たちを見送って、いつもそのことを教えられた。
    「クマさんも、いつかだよ・・・」と。

    「メメント・モリ」とは、そういうことなんだ。
    独り暮らし叔母には、地域包括センターと繋がってもらうことにした。
    土日が休業日なので、メールだけは昨日の夜に送っておいた。
    これからの手続きは、まずケァ・マネージャーの人叔母との面談だ。
    家族も同席して、そのことを話し合えれば一番良い。
    とにかく、善は急げだ。
    月曜日、先方からの連絡を待つだけだ。

    不安に感じている今、「大丈夫だよ」との対処が求められる。
    緊急を要する事態にはまだ至っていないことが幸いだ。
    家族での介護は難しい。
    これが私の経験から学んだ答えだ。
    お互いがお互いで「優しさ」と「思いやり」を持ちながら支援するためには、
    やはり、公的な機関の支援が必要なんだ。

    そのことを今回も繋げることができたら、
    叔母たちのことと、初任者研修で学んだことは生かされる。

    私は、相談を受ける度に感ずることは、
    「私も、そうだ」
    「みんな同じ悩みを持っている」
    「その人は、私なんだ」と想うことだった。

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  • from: クマドンさん

    2020年07月24日 14時10分44秒

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    「柔らかい石」のまま死にたいなぁ

    今日がどうして「スポーツの日」なのか、
    私は何も分からずに休日にしていた。
    さっき、池江選手がテレビに出ていた。
    来年の今日、オリンピックの開会式ができることを祈っていた。
    「そうだったのか」
    「今日は、2020年東京オリンピックの開会式の日だったのか」
    と、驚いて話したら、本当に「どうなってんの」と妻に呆れられた。

    「そんなことも、知らなかったんだ」だった。
    しかし、彼女もそのことを知らず、
    職場のみんなに呆れられたとのことだ。
    ならばそんな顔をしないで、もっと優しく教えてくれよ、だよなぁ。

    この日が、世界中でオリンピックの開会式を見つめ、感動する日だった。
    何だか嘘のような本当の話だった。
    あの開会式の式典が、行われるはずの国立競技場には人はいない。
    それどころか、外国からの観光客は皆無の状況だ。
    GO TOで日本中では、観光客が移動している。
    どうして、こんな時期に旅行しなければならないのか・・・。
    これで感染が拡大しないことを祈っている。

    このオリンピックの計画をして、何年も前から準備をしていたことが、
    全て、このウイルスによって、消えてしまった。
    オリンピックが、ウイルスで開催できないこの事態を、
    昨年、誰が想像していただろうか。

    明日のことは、誰にも分からない。
    それが、真実だと私は思う。
    私のこともそうである。
    私が明日も生きていられるという保証は、誰にでもできないこと。
    そうした無常迅速の中で生かされている命に過ぎないこの私。
    その自覚が、日々を生きるのに、とてもとても大切な自覚だった。

    「いつか人は、必ず死ぬ」
    「メメント・モリ」とイタリアの教会に掲げられた時、
    ヨーロッパは、ペストに侵され、次々と人が死に、
    埋葬することが追い付かず、死者はそこらに山積みされた。

    人は、必ず死ぬ。
    ならば、今、ここを、どのようにして生きたらよいのか。
    「より善く生きる」とは、どのような生き方のことを言うのか。
    または、そう信じているように、私は生きているのか、
    その「問い」を「問い」続けることが大切なことだと、私は考える。

    そのためには、何かから離れることだった。
    自分を縛り付け、決めつける何かからの自由だった。
    「そうしなければならない」「そうすることが正しいのだ」
    そうした既存の、既成の考え方に縛られず、
    自由に生きる。
    その方が、ずっとずっと楽な生き方ではないだろうか。

    Sさんと、さっき電話で話した。
    私は、昨夜、久しぶりの3人での飲み放題だった。
    そこで、私は、またまた「固い石」にぶち当たり、
    無駄とは知っていながらも、熱く熱く闘いを挑んでしまった。
    「これは、こうなんだ」「それは、仕方ないんだ」「それが世の中だ」
    そうした「固い石」の考え方に対して、
    私は、酔っぱらうと平常心でいられなくなってしまう。

    63年間、きっとその人はそうやって生きて来た。
    だから、ぶれずに「固い石」のままだ。
    私は、この人生においてどれだけ潰され、痛めつけられ、批判された。
    だも、私は、私も「固い石」にはなりたくはなかった。
    自分が「固い石」にならねばならないそんな立場には立たないことにした。
    今は、そうした人たちとは距離を置いた位置で生きている。
    この場所は、とてもとても「気持ちのいい」場所だった。

    ところが、せっかくの飲み会に、「固い石」の話が出る。
    もう一人の友は、私が「柔らかな石」を学んだ友だった。
    彼は、禅の道場に30年以上毎年長期の休みには通って、修業している男だ。
    彼と私とは、30年以上のこれまた腐れ縁である。
    だから、「あ」「うん」で、すぐに心が通じる。
    語る前に、「そうだよなぁ」と言うと、「うん、そうだ」と応える。
    だから、説明はいらない。
    二人はどういうわけか一つであり、その一つを守り続けて今があるからだ。

    しかし、偉い人の道を退職まであるき続けた人は、違う。
    その組織を生き延び、その上に上に登りつめるためには、
    私たちが捨てて来たものを、後生大事に守って来た人だった。
    つまり、組織の中でトップになる人は、私たちとは違う人だということだ。

    そんなことは、分かってはいる。
    しかし、その「固い石」とは、飲んで、語り合いたくはない。
    それだけのことだ。
    私は、随分とわがままな男になっている。
    逆に、このことに対しては頑固で、固い石になっているのかも知れない。
    私は、「固い石」と居ると、その石と話をすると、気持ちよくなれないんだな。
    時には、イライラとして、腹を立てて、語気が強く、議論する。
    そんなはずではなかったと思っていたのに、
    やっぱりまだまだな男なんだ。

    組織のトップに立ったなら、その時こそ、その組織を改革できる時だ。
    しかし、みんなはそうは思わない。
    せっかくどれだけの苦労とどれだけの人たちを蹴落として、
    この椅子に座ることができたのに、
    自分の責任を問われるような改革なんぞ、次の誰かがやってくれ。
    このトップにいる数年だけは、
    何もしないで、そのまんま、安楽に勤めさせてくれだな。

    世の中が変わらず、よくはならないのは、
    その組織のトップが、自分の身を捨てて、改革に着手しようとしないからだ。
    しかし、その人たちは、一番この組織では改革は無理なことを分かってい人たちだ。
    だから、「固い石」のまま、ここまで来れた。
    それは、上から言われたことだけを忠実に「はい」と言って守った人だからだ。
    その人だけは、そのポストに就ける。
    その人が、まさか改革を目指すわけはないという話。
    結局、「固い石」は「固い石」のまま死んでいく。
    それだけの話だ。

    しかし、Sさんも、もう一人Jさんも、私も、その道から離脱した。
    そして、「身体に気持ちよいこと」だけをするようにした。
    すると、その道には、嘘は無く、正直に、気持ちよく生きられることが分かった。
    その生き方は、「柔らかな石」になる生き方だった。
    だから、「固い石」の人とは、出会う機会を作らないことにした。
    「何かをする」「何かのために努力する」ではなくて、
    もっと自由に気持ちよく生きる道があるのだと、思って生きられるようになった。

    そしたら、よりピュアになれた。
    その分、より傷つきやすく、この世の中で生き難くもなった。
    それでも、「それが、いい」と思って、今、私は生きている。
    「目に見えないものは、真実なんだ」と、今日、Sさんに語った。
    「目に見えるものは、消えるものだ」とも語った。
    それは、「Aだ」「Bだ」「Cだ」と決めつけ、限定することで、
    それは、目に見えるAにはなるが、
    それを言い切った時に、Bも、Cも、Dも、否定されることになるからだった。
    「世の中こうだ」「世間はこうだ」「みんなはこうだ」「こうするのが当たり前だ」
    と、「Aだけが正しんだ」と主張して、譲らない。他の考えを聴き入れない。

    それが、「固い石」の人の正体だ。
    私は、「AもBもCもDも、あっていい。」
    「それってみんな等しく、並列だ」と思っている。
    ただ、その時、その時で、身体が気持ちよく感ずることを選択すればいい。
    何も初めから「こうであらねばならない」ということは「ない」と思っている。
    だから、よく見る。敏感に感ずる。深く考える。
    そして、その時の身体が一番気持ちよく感ずることを選択し、決定する。
    その選択と決定の中には、余計な異物は入らない。
    それだけだ。

    そうやって生きている私のことを、妻はきっと「いい加減」だと思っている。
    「当てにならない」と思っている。
    「言うことが、いつもころころと変わる人だ」と思っている。
    自分は、その全く反対の生き方をしている人と、自分自身を思っているからだ。
    つまり、彼女もまた「固い石」だった。
    そして、私の周りには、実は、「固い石」ばかりごろごろと転がっている。
    そんな状況の中でも、「柔らかな石」でありつづけるためには、
    どうしたらよいのかかが、今の私たちの「問い」でもあった。

    「石ではなくて、水になれたら、もっともっと楽に生きられるな」
    無色透明のあの渓谷を流れる水になる。
    そうすれば、どんなに「固い石」の集まりであろうとも、
    すいすいとその隙間を塗って、自由に流れ過ぎることができるはずだ。
    そんな自由が、私は欲しいと願っている。

    今日、開催されるはずだった2020年東京オリンピックだ。
    今、国立競技場には観客が居ない。静かな風の音が聴こえているはずだ。
    これは、世界中の誰もが予想もしていない出来事だ。
    まさに、「メメント・モリ」の世の中なんだな。
    だから、「固い石」たちが信じていることは、
    この無常な世の中では、信ずるに値しない虚仮であるかも知れないことだ。

    来年の今日、世界中から選手・スタッフ・観光客が集まって、
    この競技場が大歓声につつまれることを祈っている。
    しかし、そうなれるという確信は、本当は誰も持っていないのではないだうか。
    「固い石」が「正しい」「絶対だ」「できる」と信じていることは、
    本当はとてもとても不確かで、流動的で、消えてしまうものでもあるとは、
    言えないだろうか。

    だから、それなのに、「正しい」とか「絶対」だとか「できる」とかは、
    私たちは言えないのではないのではないかと私は考えている。

    何を言いたかったのか、自分でも分からなくなったが、
    とにかく、私は、「柔らかな石」のままで死にたいなあという、
    ただそれだけのこと。

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  • from: クマドンさん

    2020年07月23日 06時47分09秒

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    彼女のDNAとは。私のDNAとは。あなたのDNAとは。

    朝、篠原ともえさんの話だった。
    そういえば、なかなかユニークな女のことがいたなぁー。
    そういうば「シノラー」と呼ばれている女の子たちがいたなぁー。
    16歳でデビューして、25周年だそうだ。
    この子の話を聴いていて、「本当にいい子なんだなぁ」と、つくづく感じた。

    彼女はデザイナーでもある。歌って、踊れるアーチストだった。
    今は、洋服のデザインだけでなく、絵を描いて個展を開いているそうだ。

    その彼女の原点が、寿司屋を夫婦でやっている母親だった。
    結婚する前は洋裁をやっていたその母親が、なかなかいいのだ。
    小学生の頃、洋服ってどうやってできているのか知りたくて、
    自分の着ている服を、パーツごとにバラバラしたそうだ。
    しかし、母親は、それを叱るどころか、
    そうやって洋服のことを研究する娘を認めてくれたそうだった。

    それから、母親が大事にしていたジーンズを裁断し、
    その布を使ってポーチを作って、母親にプレゼントしたそうだ。
    その布が、自分の大事にしていたジーンズだと知っても、
    「ありがとう。とてもかわいいね」と、感謝されたそうだ。

    彼女は、「とても寛大な母でした」と、笑っていた。
    「寛大」そうなんだ。
    今、大人たちや親たちが忘れてしまった大事な心の一つに、
    この「寛大」は入っていると、私は気付いた。

    彼女は、創ることに夢中になっていた。
    デビューして歌手としての活動で忙殺される中でも、
    高校のデザイン科の課題である絵を、
    せっせと隙間の時間で描いていたそうだ。
    「私って、人に喜んでもらえると、嬉しいんですよね」
    「人を喜こばす」そのことが、彼女の作品造りの原点だった。
    「自分」のことよりね、「人」の喜びを優先する。
    そんな生き方も、今の大人たちから失われた生き方なのかもしれないと気付いた。

    彼女は、いつもいつも超明るいキャラが売り物の人だった。
    だから、いつもはちゃめちゃにとんで、
    みんな周りの人たちを笑わせ、楽しませてきた。
    しかし、心がどんどん辛くなり、泣きたい気持ちにもなっていた。
    心のバランスをそんな状況でとることは十代の人にはとてもとても難しい。
    しかし、実家に帰り、母親の前でも、笑顔で頑張れる子どもでいたかった。
    でも、そんな彼女の気持ちを母親は察してくれた。
    その優しさに、彼女は母親の前で大泣きした。大泣きできた。
    それでほっとした。そして、また、大笑いの笑顔になった。
    「大丈夫。大丈夫。大丈夫」だな。

    彼女の創作に対する意欲の原点は、お婆ちゃんからのDNAだと、
    このインタビューの途中で、はっと気付く瞬間だった。
    「実は、人口200人位の小さな島である青之島にお婆ちゃんは住んでいました」
    「お婆ちゃんは、お針子さんをずっとしていて、自分の着物はみんな手作りでした」
    「そして、出来上がった着物を知っている人に贈ることも多かったです」
    「ある時、私はお婆ちゃんの着物の造り方を習いたくて、着物をほどきました」
    「とにかくひと針ひと針がとても丁寧で、美しいんですね」
    「襟の所に三枚重ねた布をつけるんです」
    「その襟の裏地の布を見て驚きました。裏地なのにとてもとても素敵な布なのです」
    「この布のことは、お婆ちゃんと、その着物をほどいた私しか知りません」
    「孫の代まで遺せるものを造る」
    「遺していけるものを造る。それを生活の中で成し遂げる」
    「それは、私に物を大事にする心和を伝えてくれました」

    私は、この裏地の布の話を、一生忘れまいと思った。
    孫の代まで遺したい。
    その孫に伝えたいその想いは、
    目には見えない、誰にも分からない、その裏地に遺されていた。
    いつか、誰かが、この着物をほどいたら、
    その時、「はっ」と気付けるその日の為に、
    お婆ちゃんは、心を込めて、その布を選び、丁寧に丁寧に縫い上げた。

    それをお婆ちゃんが亡くなった後で、
    彼女が見つけた。
    お婆ちゃんが、私の中で生きていてくれたんだの驚きと感動だ。
    私は、子どもに何を遺せるのか・・・。

    生き方しかないなぁ・・・と、よく思うようになった。
    私が、死んだ後に、ほんとうに、ある瞬間だけなのかもしれないが、
    「ああ、父さんが、あんなことしていたなあ・・・」
    「そういえば、父さん、歌うことが大好きだったなぁ・・・」
    その時の、長男と次男が思い出す私が、
    きっと私が二人に遺してやれる私なんだろうなぁとは、今は思っている。

    「父さんは、63歳で保父さんしていたなぁ」と。

    何かを心に遺す生き方を、大人である私はしていけば、いいんだ。
    しかし、このことが、なかなか難しいことでもあったな。
    私は、多くの間違いと失敗をしてきた。
    そんな姿も、二人の息子は見ていた。
    それは、もう、変わらないことでもあった。

    それでも、残されたこの私の人生の時間の中での私の生き方の何かが、
    彼等の心の片隅に遺り、
    ほんの僅かでも、ほんのささやかでいい、「尊敬」してくれたら、
    それでけで、私は生きて来た甲斐があると信じて、死ねる。

    彼女は、「高校時代星が大好きで、天文部で星を観察していた」と話していた。
    「星って素敵ですよね。あれってみんな色が違っていて、
     みんな名前があるんですよ」
    「私は、星の美しさに、いつも心が救われました」
    「みんなの傍には、星がいます」
    「そうした星の美しさを見ていると、心の旅をしているような気になりました」

    私は、そうした自然の美しさに感動して、
    空想の心の旅ができる彼女のことが、とてもとても好きになった。
    会って、話ができたら、どんなにか嬉しいことだろうか・・・。

    彼女のような人が、母親であったとしたら、
    どんな子どもが育つだろうか・・・・。
    きっと彼女のお婆ちゃんのDNAを受け継いだ素敵な人に育つのだろうと、
    私は、その子にも会いたい気持ちだ。

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  • from: クマドンさん

    2020年07月22日 07時45分48秒

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    大丈夫。大丈夫。大丈夫。

    さてさて、後一日だな。
    とにかく休日が待ち遠しい身体となっている。
    疲れたーーーと言うよりか、飲み過ぎだーーーーだな。
    適量でさっと切り上げということで、二日酔いには全くならない。
    なのに、朝、どんよりと疲れているのは、
    やっぱりとこかで、酒の生ではないかと、私は思う。

    最近、よく話す言葉がある。
    「生きてみないと、分からないよ」
    「せめて、62歳までは、生きてみよう」だった。
    私の人生、どん底も大波も大震災も経験した。
    「ガイロク」というNHKの番組がある。
    この番組をでの普通の人たちのインタビューを見ると、
    やっぱり人間誰でも波乱万丈だと改めて感ずる。

    その「人生のピンチ」を笑顔で語る人たちの言葉が、
    実に実に心に沁みて、重いんだな。
    そして、分かることは、この人たちはそのことと向き合って来たと言うこと。
    未だにそれを乗り越えたかどうかは分からなくても、
    その「ピンチ」「試練」から逃げず、逃避せずに、
    まず、それと向かい合い、絶望しながら、涙を流しながらも、
    「何とかしよう」「何とかなるさ」と、考え続けて来たこと。
    そのことが、登場する皆さんから感じられた。

    「問い」続けるかな。
    このピンチや試練から逃げた人には、この言葉は語れなかった。
    この笑顔は、そんな悲惨な哀しさ・痛さ・苦悩の後に生まれたのか。
    苦しんでいるのは、私だけでない。
    誰にも人には言わないドラマがあるものだ。
    つまり、人は、そういう意味では「独り」ではない。
    その「弱さ」「哀しさ」「痛さ」「辛さ」「寂しさ」で繋がっている。
    その気付きが、そうした最中にある人たちの心を少し軽く変えてくれるものだ。

    昨日、ある人からの相談を受けた。
    まさに「鬱」になる寸前の人だった。
    先月、その相談を受けた時、このことを話した。
    「みんなそうなんだよ」
    「私もそうだったよと。
    先月会った時は、笑顔どころか、憔悴して、表情が全く暗かった。
    私は、話を聴きながら、どう話したらよいのか、考えながら話した。

    まず、人は、変わらないということだった。
    今、その人の職場で、バッシングを受けている。
    ある意味、仲間はずしのいじめが起きている。
    そのことに対しての悩みが、日々大きくなり、その人を悩まし続けた。
    いつも、いつも、そのことを考えると、頭が痛くなった。
    夜は眠れず、眠れても、夜中に何度も起きてしまう。
    早朝目覚めると、ぐっと辛さが増してくる。
    出勤の時刻が近づくと、焦る、どきどきする、油汗が出る。

    そんな状況が一カ月も続いていた。
    でも、その人がどんなに悩もうとも、苦しもうとも、
    その状況は変わらないものだ。
    その環境や人間関係は、その職場でずっと続いた独特のものだからだ。
    他の人たちは、そこで生きるためには、そうしながら生きている。
    右にならえだ。おかしいとは思いつつも、それを続ける。
    そうしていたら、その場所で良い評価を受けられる。
    そして、その仲間の一員として認められる。

    ところが、新参者のその人は、その職場の空気には全く馴染めない。
    「どうしてこんなことが平気で行われるのか」と、驚きであり、怒りでもあった。
    ピュアなその人は、そこで深く深く傷つき、孤独を感じた。
    それは、そうだろう。
    しかし、それは、仕方のないことだ。
    つまり、大切なことは、
    「自分でコントロールできないことは、諦める」という生き方だ。

    コントロールできないものを、コントロールしようとするから苦しむのだ。
    そんなもの、どうでもいいことと、離れる。手放す。ほっておく。
    そして、その場に自分がいても、
    そのことで、自分の感情をぶらさない、腹を立てない、イラつかないということだ。
    つまり、どうでもいいことに対して、どうして感情を動かして、動揺するのか、
    その愚かさに気付けばそれで随分救われるということだ。

    人は、みんな違う。
    でも、その違いを認めず、「こう考えろ」「こうしなさい」と言う独善の人はいる。
    それは、仕方ないことだ。
    その人は、何十年もそうやって生きた人。
    その人は、そういう性格を培って来た人。
    時には、その人も自分自身のことをコントロールできずに困っている人でもあった。
    だから、そこでは全て「無関係」の中での出来事と思うことだ。

    「独り」を生きる。
    人には頼らない。
    人の評価を期待しない。
    駄目でいい。
    できない人でいてもいい。
    まあ、とにかくその愚かな人たちの影響下から逃避する。
    身体はそこに置かねばならないが、意識は遠くどこかへ行っている。
    仕事は淡々とこなす。余計なことはしない。言われたら「はい」とやる。
    そこに、感情は入れない。その修業だと思い、そこをそのための道場にする。

    次に、「セルフ・アゥエーネス」だ。
    それは、自分自身の感情の気付きだそうだ。
    これは、メンタルトレーニングの「感情のコントロール」での大事な態度だった。
    感情には、負の感情。つまり、ネガティブな感情も存在している。
    「弱い」「怖い」「哀しい」「辛い」「寂しい」「孤独だ」「落ち込む」「死にたい」
    人は、こうした感情を自分が持って、
    支配されていることを恥ずかしいと想うこともある。
    そうした感情の中から抜け出せない自分のことを認めたくないと思う。
    こんなはずではない。私は、こんな人間ではないと、否定したりする。

    つまり、ネガティブな感情に蓋をする。
    それがぁっても、無いものと嘘をつく。
    その感情を自分の意識の奥底に隠そうとする。そして、繕う。
    さてさて、その後、その人の心はどのような変化をとげるか、
    それは想像できると思う。
    嘘の自分。嘘の人生。
    つまり、本当にあるこの感情に蓋をしてしまった人は、
    本当に顕れようとするポジティブな感情に対しても、前向きになれないのだった。

    自分を信じられないからだ。
    どんなにはしゃいで、元気なふりをしても、それは嘘だと分かるからだ。
    つまり、どこから「やり直したら」いいのかと言えば。
    泣くときは、泣く。
    落ち込むときは、落ち込む。
    どうにもならないときは、どうにもならないと言う。
    ばかやろうとと叫びたい時は、大声でばかやろうと独り叫ぶ。
    これを感情の言語化、見える化というが、
    それを、やることだ。

    そして、「私だけじゃない」と気付くこと。
    また、「わたしよりもっともっと辛く、哀しい人はいるんだ」と気付くこと。
    まず、その悲嘆があったら、その悲嘆を自分に許すこと。
    「弱くても、いいよ」「泣きたければ、泣けばいいよ」
    「独りぼっちの自分のことを、そのまま愛せるの自分だよ」と、
    そのネガティブな状況を負とか、恥ずかしいとか考えないで、
    「みんなが通る道なんだ」と、想うことが大事だと教えられた。

    その話を、その人には先月した。
    すると、昨日のその人の表情がすっかりと柔らかく変わっていることに気付いた。
    「クマさんが、言ったくれたようにしてきました」
    「まだまだ、辛いことが多いけど、リポビタン飲んで、乗り切っています」
    「少しずつ楽になりました」
    これが、認知行動療法だった。

    しかし、わたしが鬱のどん底にいたときは、なかなかこれが出来なかった。
    本当に「死にたい」「楽になりたい」との隣り合わせ、すれすれで生きていた。
    でも、妻の「休んでいいよ」との言葉が、命を救った。
    子どもたちもどれだけ心配していたと思う。
    しかし、何も言わずに、そっと私をそのまま布団の中で寝かせてくれた。
    私は、ずっと日中は独りで天井を見つめて暮らした。
    時間が過ぎることが、こんなにも遅いのかの驚きだった。
    でも、私は、生還した。蘇生した。
    今、このクマさんを見て、過去に鬱だった人だとは誰も思わないだろう。

    だから、その人ももちろん大丈夫だと確信している。
    本を三冊渡した。
    かって私が心が軽くなった本だった。
    今、ここで私が書いたことが、そこには書いてあった。
    「今、いろいろな本を読んで勉強しています」とその人が言った。
    その人は、このピンチと試練から、新たな自分に生まれ変わろうとしていた。
    しかし、もし、これがなかったら、
    その人には、生まれ変わり、本当の自分自身に戻れるチャンスは、
    きっと、今、ここでは、来なかったと思った。

    「よかったよ。こうして話ができたんだもの」と、私はそれが本心だった。
    その人の本来の自分自身への回帰と再会に、
    私は立ち会っているような喜びも感じた。
    「大丈夫。大丈夫。大丈夫」だな。

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  • from: クマドンさん

    2020年07月21日 09時18分40秒

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    身体が気持ちよく生きるとは

    小千谷のSさんと、今の電話での話題は、森についてだった。
    20年前に植えた樹々たちが、今では本当に大きな樹木になって育っている。
    その姿は圧倒される迫力だった。
    その森で、子どもたちや生徒たちが遊ぶ森になってもらいたい。
    地域のお年寄りたちが茶飲み話できる森になってもらいたい。
    これからまた20年、30年とかかわった人たちを見守ってくれる森になってもらいたい。
    そして、その樹齢40年、50年の大木たちから人が何かを学べる森になってもらいたい。

    83歳のSさんの夢は、20年後、30年後に続いている夢だった。
    私は、そうした長いスパンの夢を描ける、Sさんのことが羨ましく感じている。
    Sさんには、その夢を描き、実現できるフィールドがあるからだ。
    その20年間育った森があることで、
    これからどんなに多様な可能性があることかと考えると、
    私でもわくわくとしてしまう。

    彼が、この森と共に再生できたのは、
    彼をこれまで縛っていた既成概念から自由になったおかげでもあった。
    「こうしなければならない」「目的はこうだ」と、決められた概念があり、
    その概念から抜け出せない自分がいたからだ。
    しかし、毎朝の夜中からの信濃川辺りの四足歩行の行脚で、
    彼の感性は、目覚め、洗われ、新たにされた。
    「何だ、こんなに美しく、豊かな自然のど真ん中で、私は暮らしていたのか」
    そんな驚きと、喜びと、感動だった。

    その時、「気持ちいい」を身体で感じた。
    実は、この身体の気持ちよさが、大切な生きるための感覚でもあるのだった。
    私も、身体が気持ちよく生きようとしている。
    彼も、身体の気持ちよさを喜びをもって感じて生きている。
    つまり、新潟市と小千谷市とで離れて暮らす私たちは、
    同じ身体の気持ちよさを、大事大事にして生きているということだった。

    この身体の気持ちよさの前には、概念は存在しない。
    ただ、目の前の自然や風景に感ずるままだ。
    水の音を聴き、鳥の声を聴く。
    風の音を聴き、その身体を全身で感ずる。
    その時、身体の中で蘇るものがある。
    それは、自分自身がずっと忘れていた、何かだ。
    それを感ずる。それと出会う。
    それは、ずっとずっと私の身体にあったものだ。
    しかし、それに私は、気付かないで生きて来た。
    「何だ、ここにあったではないか」の驚きと、感動だな。

    越路町の彼女は、ずっとずっとその嫁ぎ先の自然の中で生きていた。
    しかし、田んぼと畑と小さな丘とに囲まれたその場所を、
    「田舎」だと感じていたらしい。
    「何も、ない」と、思っていたらしい。
    ところが、一途に続けて来た仕事を退職した。
    彼女は、そうやってゆっくりと休むことや、自分である時間を、
    これまで、持ったことが無いほど、仕事にも家事にも子育てにも、
    忙しすぎる日々であった。

    私の同級生だ。
    私が、花や野菜を育てていることを知っていた。
    そして、周りを見たら、姑さんたちが野菜を育てていた畑があった。
    しかし、しばらく耕されていなかった畑はの土は固く、滋味のない土となっていた。
    そこで、彼女が、奮起した。
    「よっしゃ、野菜をつくるぞ。農家の姉様になってやるぞ」と。
    そして、プランタでキュウリやナスやミニトマトを育て始めた。

    すると、景色が変わった。
    何と素敵な土地で、私は生きて来たことかの驚きと、感動だった。
    それは、Sさんと同じだと、私はいつも感じていた。
    それは、自然の命と出会うことで、
    自分も生かされていることと、
    自分のその命の1つなんだと気付いたからだと私は、思う。

    また、難しいことを言っていると、彼女には笑われそうだが、
    私にとって、Sさんの驚きと感動と、彼女の驚きと感動とは、
    同じようなものではないのかと、いうことだった。
    御二人からは、またまた勝手なことを言っていると叱られるかもしれないが、
    この気付きは、本当の自分自身と出会った喜びであり、感動ではないだろうか。

    「何だ、ここにあったのか」という、何か騙されていたような感じと、発見。
    Sさんにとっては、あの大河信濃川の流れであり、大曲の崖でもあった。
    彼女にとっては、その畑で在あり、そこに育てている野菜たちだった。
    そしたら、素敵な便りも彼女からメールで届いた。

    「ホタルがとてもきれいですよ」
    そうなんだ、越路町の朝日酒造はホタルの生息する田んぼの米で酒を造っている。
    その幼虫を育てて放流したり、
    周りの自然環境を保全する運動に取り組んでいる会社だ。
    「丘から見える日本海の夕日がとてもとてもきれいです」
    ずっとずっとその土地に暮らしていながら、その夕日の美しさに初めて出会えたその感動。

    そして、その感動を味わっているのは、
    きっと、その身体全身ではないだろうか。

    生きている命。
    育つ命の力強さ。
    自然がもつ多様な色と風合い。
    そして、黄昏。命の終わり。
    そんな自然のあるがままに人が触れることで、
    頭で考えていた概念が、いつの間にか消え、
    感じたままに、気持ちよく一日を生きたくなっていく。

    私は、小千谷の自然と、越路町の自然とに囲まれて生活している、
    二人のことを、いつもいつも羨ましく感じている。
    私は、街中の住宅地と工場地での生活だ。
    森も無い。畑も田んぼも、ホタルもいない。
    ただ、小さな庭があるだけだ。
    しかし、今、午前中は、縁側からその庭を眺め、
    時間を作っては、花や野菜の世話をして、樹木の剪定に没頭している。
    その時、二人のことをよく思う。

    だから、自然と触れ合う体験は、とてもとても大事なことなんだという話だ。

    東京の桧原村で林業のベンチャー企業をしている青年の話だった。
    サラリーマンから、自然の中での生活に憧れて林業に転職した。
    しかし、日当月給のこの仕事では、長く生活できないと感じた。
    そこで、仲間4人で、小さな会社を設立して、元受・月給制の会社にした。
    しかし、林業は衰退している仕事であるから、新たなチャレンジが必要だ。
    そこで、まず「明るい森」にするためにいろいろな手立てを考えた。
    子どもたちに森に親しんでもらうように「ツリークライミング」をした。
    すると、動物や鳥たちの目線で森の自然を体験できる。

    森には、家づくりに使われる用材の他、使われない部分や枝は山に捨てられる。
    それは一つ一つを見るととても個性的で、魅力的な存在だった。
    そこで、それをイベントで活用した。
    薄く平らな丸太を並べておくだけで、子どもたちは喜んで遊んだ。
    樹の皮は捨てずに、加工して、焚火の焚き付けにして薪と共に販売した。

    それから、木で造るおもちゃを開発した。
    その構想は、桧原村をドイツのザィフィン村のようにトイ・ビレッジにすることだった。
    「木育」という考え方がある。
    それは、日本には後40年経つと、戦後植えられた森が樹齢100年の森なる。
    つまり、その100年の森に入り、大人も子どもも、そこで木を使って遊ぶ。
    そして、森で遊ぶ楽しさを味わい、木を使って遊ぶ遊びを発見し、工夫する。

    それから、6歳になったら、机を造ろうプロジェクトがある。
    杉等の間伐材で机のキットを用意してある。
    子どもたちが小学校に入学する時には、
    一生使える机を親子で作成するというプロジェクトだ。
    お父さんと一緒に造った机で勉強する。
    その机は、お父さんが亡くなった後でも、きっとそこには遺る机だ。

    森林のオーナー制度もやっていた。
    30年間かけて一緒に木を育てようという目的だった。
    入会金5万円・,年間千円の会費で、30年間。合計8万円のプロジェクトだ。
    まず、3本の苗木を植える。
    7年間は、毎年1回、下草を刈ってもらう。
    その後4年間は、枝打ちに来てもらう。
    その後、25年までは会社でお世話をする。
    25年目に、一本。30年目に、一本切る。
    その間伐材を記念に、好きな物に加工する。
    そして、遺った一本を100年かけて育てて行く。
    もし、私が、この木のオーナーになったら、
    25年目は、私は87歳になっている。
    その25年間をその木と共に生きる。その木に励まされながら。慰められながら。
    30年後には私は92歳になっている。
    私は、まだこの世に生きているのだろうか・・・・。
    どんな老人となっているか。
    そして、私がこの世を去った後も、100年後もその木は生きる。生き続ける。
    そのお世話を、この会社が責任をもってしてくれる。

    そして、その森は、美しい森林として育ち続ける。
    森を相手にすると言うことは、
    こうして長い長い自然の命のスパンでかかわるということだ。
    そして、いつか自分は死んでいくのだと、想うことだ。
    そして、私が死んでも、この木はずっと生き続けてくれるということだ。

    きっと次の世代が、この森を受け継いでくれるはすだ。
    そのために、今、ここに、この木を植える。

    それが、森とかかわり、森と共に生きる生き方、死に方だった。

    しかし、この気付きと感動とは、
    森とかかわっ人にしか分からないことだった。
    そのことを、子どもたちが学んだらどうだろうか。
    きっと森と共に生きられる、森から何かを学んで生きる大人となると思っている。

    小千谷のSさんは、今朝も大河の音を聴いているだろう。
    越路町の彼女は、今朝も畑に立って、水やりをしているだろう。
    自然と向き合うと言うことは、自分の身体と向き合うことだ。
    この身体は、自然そのものであるからだ。

    だから、身体は気付いているんだ。
    気持ちよく生きるためには、どうすればよいかを。
    その声を聴き、その声に聴き従って生きることが、
    「気持ちよく生きる」ための生き方ではないかの「問い」だった。

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  • from: クマドンさん

    2020年07月20日 07時03分43秒

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    人生は、あなたのことを待っているよ

    毎朝3時50分には起きている。
    それは、ラジオで「明日への言葉」を聴くためだった。
    その人が、どうして今その人になっているのか。
    そこには、何かとてつもない試練や宿命や定めがあった。
    その話を本人の声で聴くことで、何だか毎朝、考えさせられる。
    「人生って何」
    「人はなんのために生かされているのか」と。

    そこには、今も途上で「問い」続けている深い深い人たちばかりだった。

    先日、料理研究家の小林まさるさんのお話だった。
    87歳になった彼が、料理研究家と呼ばれるようになったのが、
    長男の嫁のまさみさんが、突然「料理研究家」になりますと、
    料理の先生になったことがきっかけだったそうだ。
    彼が70歳の時、嫁の手伝いで料理の下ごしらえが始まった。

    彼は、樺太で育った人だった。
    13歳で終戦を迎えた。
    しかし、彼の父は炭鉱で使う機会の優秀な修理工のため、
    ロシアの捕虜となり、それから2年間樺太の炭鉱で働かされた。
    その間に、まさるさんは、川で魚を採り、それょナイフを使って調理した。

    それから、美幌の炭鉱へ、
    その炭鉱が閉山となると、三井の芦別炭鉱へ行って働いた。
    本当に食べるもののない飢えた時代だった。
    だから、あるものを工夫して食べていた。
    それも、自分でさっさと料理を造った。

    彼は優秀な技術者だったので、ドイツへ3年間の研修だった。
    当時は1ドル360円の時代だ。
    日本がまだまだ貧しく、その日その日をやっと暮らしていた時代に、
    彼はドイツに渡り、そこの文化に触れ、料理を味わった。

    そして、帰国したら、東京に移住し、大手の鉄鋼会社に勤務した。
    その間のことだ。
    彼の妻は病弱で、入退院を繰り返していた。
    だから、子育ても、家事一斉は彼の仕事だった。
    三人の子どもたちの食事から弁当造りまで彼の仕事だった。
    彼は、そのことが苦にもならず、
    さっさと冷蔵庫の在り物の食材で調理した。

    そして、60歳での定年を無事に迎えた。
    定年を待たずに愛する妻は病で他界していた。
    悠々自適の老後の独り暮らしだった。
    彼は、家事や料理を楽しんでいたので、
    老いての独り暮らしは、これも苦にはならなかった。

    その内に、長男と結婚した嫁のまさみさんが、
    彼が独り暮らしなことを心配して、同居を希望した。
    独り暮らしは、自分の夢であったので初めは断ったが、
    歳をとってもしものことがあってからでは、迷惑をかけると思い、
    今の内ならと、同居を承諾した。

    そしたら、嫁が突然、料理研究家になった。
    それも、自分で学校に通って、料理の勉強を40代で始めたのだ。
    その内に、「漬物」の料理本が大ヒットした。
    彼女は売れっ子の料理人になり、
    雑誌やテレビの取材。レシピ本の出版と全く多忙な日々となった。
    そこで、彼にアシスタントの声がかかった。

    70歳だ。
    ここまでの彼の人生を振り返ってみると、
    実は、彼は、料理人のアシスタントの声がかかっても、
    その日から、その仕事ができる、
    そうした人生の生き方をしてきているのだった。

    これがどこにでも転がっている男子厨房に入らずの頑固な定年親父だったり、
    家事や料理等、一切家のことを自分でして来なかった使い物にならない男だったり、
    そんな仕事は面倒なことだと、何かと言い訳をして逃げ回っている男であったら、
    この話が来ても、やっぱり使い物にはならず、
    せっかくの機会をみすみす逃すこととなったと、私は思う。

    私は、今、朝食と昼食を自分で調理して、食べている。
    妻は、早く出勤するからだった。
    だから、自分のことは、自分でやることは、何の苦にもならない。
    かえって、冷蔵庫の中を見て、何を造ろうかと思案することを楽しんでいる。
    掃除も整理整頓も大好きな仕事だ。
    庭や塀の向こうの雑草取りは、私の使命と考えている。

    彼は、今、クラウドファンデングで資金を集め、
    簡単にできる酒のおつまみの料理本を出版した。
    そして、今は、停年退職した男性を集めて、
    簡単にできるおつまみの造り方を伝授する料理教室を開く夢に向かって、
    着々と準備しているということだった。

    「料理は、難しく考えるから失敗する」
    「レシピ本を買ってその通りに造ろうとするから面倒になる」
    「冷蔵庫にある素材を使ってひと工夫する」
    「それが料理を続ける秘訣なんだ」
    「そうやって考える楽しさが料理にはある」
    「そして、自分の健康のためにも料理することを私は勧めているよ」
    だった。

    87歳の今、彼の「簡単おつまみ」のレシピ本は増刷・増刷だそうである。
    彼は、まさか自分が70歳から料理人になるための修業に入ろうとは、
    きっと全く考えなかったと思う。
    定年退職後は、好きな趣味に没頭し、楽しくのんびりと暮らすはずだった。
    ところが、突然料理人となった嫁のアシスタントだ。
    それから、自らの料理本がヒットして、
    とうとう一流の料理人となってしまった。

    だから、人生は、分からない。
    私は、この分からないことを、信じたい。
    その人には、きっとその人がこの世で為す仕事が与えられていると思う。
    しかし、その本人は、全くそのことに気付いていないことが多い。
    しかし、多くの試練を経て、死ぬ生きるを乗り越えて、
    何だか自分を捨てて、独りになったり、死にたくなったりを経験して、
    その後、何だかこの人は・・・という人と出会い。
    自分が想像すらしていなかった人生の転機を迎え、
    その道を信じて、進んで行くと、
    「へぇ、こうなったんだ・・・」との驚きだ。

    料理人となる人は、料理人となった人だ。
    踊る人となる人は、踊る人となった人だ。
    教師となる人は、教師となった人だ。
    保父さんとなる人は、保父さんとなった人だ。
    何だか、私は、このことを信じられる人となった。

    だから、これから私のこの残された人生の時間で、
    私にとってのどんな出会いがあり、
    どんな転機があり、
    どんな当たらな道が準備されているのかを、
    今も62歳11カ月で期待している。

    人生って、そういうものではないだろうか。
    自分で決めない。
    きっとこの先は、自分では想像もしていなかった、
    予想外の展開があるはずだ。

    それから、彼がそうであるように、
    人は70年、80年生きてみないと、
    本当の自分の人生の「意味」が分からないのではないかの「問い」だった。
    私は、この歳になって、
    人生を振り返ってみたら、あのことも、このことも、
    今、ここで、私が生きるためには、必要な試練であり、定だったと理解した。

    人生に、「意味」のないものは、一つもなかった。
    どんなことでも、今、ここ、こうして生かされている私のためのものだった。
    そのことを信じて、「うん、そうだ」と、肯定できる日が必ずやって来る。
    だから、その日が来る前に、死んではいけない。

    その先に、自分では想像もしていなかった大いなる夢と出会うかもしれない。
    苦しんでいるその自分の心を救ってくれる人生の師と出会うかもしれない。
    そして、まさかこの私が・・・と思う道へと導かれて行くかもしれない。
    だから、今を、生きる。凌いで生きる。何とか生きる。今日一日だけを。

    まさるさんは、そのことを改めて私に教えてくれた。
    「おい、クマさん、人生これからだよ」
    「あんたのことを、きっと待っている何かがあるよ」
    「期待しなさい。大丈夫。人生って生きてみないと分からないね」
    そんなことを私は、彼から教わった気がする。

    そして、若い人たちには、そのことを私も教えて行きたい。
    「おいおい、諦めるな。辛かったら休め、休め」
    「とにかく息をしていろ。うずくまっても生きていろ」
    「自分の人生を信じてみるさ。とにかく、それだけだ」
    「悩むな。問い続けようよ。考え続けようよ」
    「その先のことは、誰も分からないのだからね」

    今、どんな大人が求められているのだろうか。
    私は、そうした大人になれるのだろうか。
    それは、私自身への私の人生からの「問い」である。

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