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親父たちよ

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  • from: クマさんさん

    2011年09月28日 05時13分07秒

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    募る山の仲間を

    山に登らなくなった。
    それは、一緒に登る仲間が少なくなったことが原因の一つだ。
    村上市にも、旧豊栄市にも、私は社会人のハイキングクラブを作って活動した。
    「保内山賊会」は21年目に入り、
    「太田ハイキングクラブ」は、15年くらいたっている。
    それぞれが事務局をもち、中心になって活動する人がいるので持続している。

    山ノ下でもそんな山の仲間を募ってクラブを作りたいと想っている。
    なかなか先に進まないのが現状だ。
    私がどこかの山のクラブに所属した方が早いのかもしれない。
    しかし、この山ノ下中心に地域の人たちと一緒に山のクラブができたら楽しいだろうと想っている。

    実は、久しぶりに弥彦山に登った。
    山登りの楽しみには、低山も高山もなかった。
    重い荷を背負い、ただひたすら頂上を目指して一歩一歩登るだけ。
    苦しくなり、途中で止めたくなっても、そんな自分を励まして登る。
    日陰に入り涼しい風を感じると、気分が一新され、また登る意欲が湧いて来る。
    途中眼下に広がる越後平野の美しさに息をのみ、励まされる。
    何気ない山の景色に、心が癒される。
    自然の中で遊ぶことで、忘れていた自分をどこかで取り戻していたりする。

    難儀時は、助け合いがごくごく自然に生まれる。
    歩くペースは、一番遅い人に合わせる。
    全員の体調や意欲を感じて、休む時と場所とを決める。
    歩いている時、人はいろいろなことを考えている。
    時には山に来たことすら後悔していることもある。
    体調不良で、とにかく難儀だけの山もある。
    そんな時は、やっぱり山の仲間は優しいものだ。
    体調を気遣い、声をかけ、荷物までももってもらうことがある。

    山頂直下。胸突き八兆の急登。苦しいのはみんな同じだ。
    だから、みんなは余計なことを言わずに黙って登る。
    チームは、見えないザイルで固く繋がっている。
    その安心感と信頼感とで、次の一歩が出せるものだ。
    「もう駄目だ」と、何度想ったことだろう。
    それでも、岩にしがみつき、岩を踏んで、山頂を目指した。
    後ろには、私の背中を見つめている仲間たちが居る。
    それが何よりも有り難いのだ。

    そして、登頂だ。
    「ここより他に高き所なし。」
    たった半日のチャレンジであっても、
    私たちの感ずる達成感と喜びとは大きなものだった。
    感動が、じーんと胸の中で湧きおこって来る。
    疲労困憊。そして、握手。
    それから場所を決めて仲間たちとで宴会を始める。
    登った山の数だけ、私には宴会の記憶があり、
    缶ビールと菊水一番搾りの空き缶がある。

    そして、時刻になると「山に心を残して」山頂を後にする。
    下山での事故や怪我が多いので、
    登山口に到着する最後の一歩まで気を抜かずに慎重に山を下る。
    そして、言葉も出ないほど疲労しながらも、
    登山口に到着した時のあの安堵感とこみ上げる喜び。
    「やったっ」と、思わず手が挙がる。

    弥彦山を登りながら、「山は人生だなぁ」と、つくづく感じた。
    人生には、確かにここだと言う山頂はないかも知れない。
    ただ訳も分からず毎日を黙々と重い荷を担いで歩いているだけかもしれない。
    疲れて、本当に休みたいと想うことはたびたびである。
    この重い荷を投げだして、帰ることができたらどんなに楽であろうかと思うこともある。
    でも、やっぱり次の目的地を目指して歩き始めるのだ。
    自分に言い聞かせ、時には自分を慰め、自分を騙して、歩き続ける。

    山の仲間はいいものだ。
    同じように、私の人生には御同行の仲間がいてくれる。
    そして、生きるための原点とエナジーは、
    森であったり、湧水であったり、風であったり、雲であったりする。
    やっぱり山はいいものだ。
    その原点にもう一度帰りたいと願っている。

    そのために、山の仲間を募りたい。
    「なじらね山の会」こんな名前の山の会を作りたい。
    誰か一緒に登ってくれる人いないだろうか。

    追伸:昨日二本抜歯した。ノンアルコールビールを二本飲んだ。二個目の鎮痛剤をこれから飲むことにする。

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  • from: クマさんさん

    2011年09月27日 05時50分48秒

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    日々弱る

    先日、マイクロレコーダーとビデオカメラを購入した。
    今更のような気もするが、
    この日々のことを記録に残すためだ。

    朝、母が起きて来て台所に立っている。
    実は、昨年の今頃、母は胃癌の手術を受けた。
    その手術の結果次第では、
    余命を宣告されると不安な気持ちで家族控室で待っていた。
    父と叔母たちと一緒にその時を待っていることの何と長い時間だったろうか。
    手術は成功し、私は切り取られた胃と共に、
    リンパ節に出来た大きな癌の塊を見せられた。

    それから一年たった。
    体重は半分近くまで落ちてしまい。
    すっかりと痩せている母である。
    「今、こうして生きていることは奇跡なのだ」と、母も信じていた。
    父は、先週の台風の中ひげを剃りに床屋へ行く途中、
    何と強風にあおられ、道路で前のめりに転び、大けがだった。
    手は傷だけらで、左目の横を切り、目の周りにはクマができている。
    ちょうどディーサービスの車が通りかかり、
    親切にも父を家まで連れて来てくれたのだ。
    「助けてもらわなかったら、どうなるか分からなかった。」

    こうして一日が始まる。
    母は、台所に立ち、父はもそもそと起きて来る。
    職場に家から電話があると、何だかとても不安になってしまう。
    今日一日、どうなるかは誰も分からないということだ。
    人は、本当は分からないことだらけなのである。
    心臓の弱い母。脳梗塞5回の父。
    私だって昨日はとにかく疲労が抜けず、体がだるくて仕方ない一日だった。

    今日一日は、生きられる。
    私は、台所のテーブルにマイクロレコーダーを置き、スイッチを入れる。
    ビデオはリビングに置き、毎日数分だけ録画している。
    父は、黙ったまま座り、ただ俯いて一日を過ごす。
    体力が落ちた母は、座敷で寝ることが多くなった。
    「お父ちゃんを、置いて行けない。」それが母の口癖だ。

    私はこの年になり、弱り始めている自分を感ずる。
    無理のきかない体に確かになっていた。
    しかし、父と母とは、やはり「死」を感じて生きているはずである。
    どうその最期と向き合い、何を対話し、どんな答えを出しているのか。
    このささやかな家族の記録は、続けようと想っている。

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  • from: クマさんさん

    2011年09月26日 05時44分47秒

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    ままならぬ

    休日になると体重が増える。
    下降したグラフがまた上昇する。
    分かってはいるが、やめられない。
    そんなものかもしれないなぁ。

    脚本の大きな修正を余儀なくされた。
    それぞれの場面をつないで全体を観たら、
    何と何と超大作になっていた。
    全体から15分間のカットである。
    大筋を外さずに、凝縮した濃い作品にする。
    やっぱりまだまだ私の手を離れていなかった。

    後、二週間である。
    その間に、私も大きな仕事を一つこなさねばならない。
    ところが、これがこれで大きな心の重荷だった。
    仕事は早目に進める男であったが、
    今回だけは、気が重い。
    またいろいろと嫌なことを言われ、
    嫌な気持ちにさせられることが予想されるからだ。
    出来たら避けて通りたいが、そうは行かぬのが運命だ。
    考えると辛くなる。

    自分の思い通りに行かないことばかりだ。
    それは当たり前のことなのだ。
    その思い通りに行かない状況の中で、
    人は、その現実を受け入れて生きて行かねばならない。
    せっかく生きるのだから、楽しく生きたいが、
    ままならぬのがこの世の生き方である。

    だから、逃げずに向かうだけなのだ。

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  • from: クマさんさん

    2011年09月25日 12時10分12秒

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    無常慟哭

    無常慟哭。そんな言葉を映画を観ながら思い出した。
    「無常素描」を観た。淡々と悲惨な光景がずっとずっと続いていた。
    その瓦礫の山には、何もない更地には、廃墟となったビルたちには、
    津波が襲うほんの数秒前まで、人々の営みがあり、日々の生活が確かにあった。
    一瞬にして全てを飲みこみ、全てを持ち去ってしまった津波の脅威。
    今はまだそのままであり、人々の心もまだ復興には程遠い状況なのかもしれない。

    「クマさん、突然すとんと切られることほど恐ろしいことはないよ」と教えられた。
    心の準備も無く、お別れの予感も無く、ある日、ある瞬間から家族がこの世から消えてしまう。
    その時、この世に残された人たちの後悔と自責の念とは、はかりしれない奈落の闇なのかもしれない。
    「あの時、こうしてあげていたら」「私が代わってあげられたら」と、
    妻や子や、親しき友を失った人たちにとっては、
    その悲しみは一生消えることのない悲しみであると想う。

    残された人たちは、文字通り全てを失って茫然自失にそこで生きていた。
    しかし、日々刻々と生きて行くことをしなければならない人たちだ。
    人が生き抜くということは、死ぬことより苛酷で苦悩に満ちたものなのかもしれない。
    まず失意と悲しみの中から立ち上がり、
    目の前の悲惨な現状のどこからか手をつけて行かねばならないからだ。
    その力がその人たちには残されているのだろうか。

    農機具を失い、漁業のための船を失い、養殖のための施設を失った。
    その壮大な無を前にして、年寄りたちは廃業を決意した。
    これまでに何十年と苦労して積み重ねて来たものが、
    全て消えてしまった。その喪失感は、私には想像することすらできないものだ。
    家族が居ない。住む家が無い。財産もない。仕事もない。明日からの生きる当てがどこにもない。
    一人のお爺さんが瓦礫の片付けの途中で腰を降ろして慟哭した。
    まさにその泣く姿は無常慟哭だと想った。

    「死んだ人たちは、どこへ行ってしまったんだろうか」
    「死んだ人たちは、生きている人たちのことを今も見守り、励ましているのではないだろうか」
    「私たち生きている人たちは、死んだ人たちとのつながりを忘れてはならないのではないか」
    「死ぬとは、死なない人に変わることではないだろうか」
    「その子は、絶対に今も残されたお母さんのことを心配しているはずだ」
    「死んだら、またきっと会えるんだね」
    「死んだら終わりではなく、死んでから始まるものがあるんだよ」

    昨日、青空に眩しく輝く大きな雲を見ていた。
    すると雲は風により刻々と姿を変え、生まれては消えていた。
    それではそこに雲は無くなってしまったのかというとそうではないはずだ。
    雲を雲にしている因縁があったから、水蒸気が白く輝き、
    その因縁がなくなったから、ただ姿を変えただけだった。
    それは在るものであり、ある瞬間姿を現すものであり、
    因縁が消えて目に見えなくなっても在り続けるものなのだ。

    人は、この世には雲のように姿を現した人なのだ。
    その因縁は、まさに無常で非情でさえある。
    その因縁が消えた時、人は人としての生涯を終える。
    では、存在しなくなったのであろうか。それは、否だと私は想う。
    生まれていないものが、死ぬはずはないのであるる
    「不生不滅」

    さて、被災された人たちにどんな癒しと慰めとができるのだろうか。
    私はそこで一つの劇の脚本を書いた。
    私たちが渾身の力で嘆き、悲しみ、怒り、慄き、気づき、立ち上がることが、
    ちょっとだけでも何かの役に立つのではないかと想ったからである。
    「祈り」
    役者さん一人一人にその役は、「祈り」をもって演じてもらいたい。
    例え、無常慟哭であろうとも、
    死んだ人たちがきっときっと私たちの背中を支えてくれていることを信じて、
    この劇を演じ切ってもらいたいと祈っている。

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  • from: クマさんさん

    2011年09月24日 09時08分30秒

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    歌と出会い、人と出会う

    Yuccaさんが古町で歌った。
    そして、ファンクラブ限定のコンサートがマキであった。
    私は、劇団の改修工事途中のスタジオで、大道具を作っていた。
    今度の劇に使う大きなパネルだった。
    汗をかいたまま、バスに乗って古町に向かった。

    彼女の歌声を聴けるというだけで、こんなにも心ときめくものなのだ。
    本町で降りて、コンビニで菊水一番搾りとハイボールの缶を買った。
    彼女のコンサートでは、ストリート・ドランカーが定番となっている。
    中央高校のダンス部の素晴らしいダンスに、超満員の盛況だった。
    相方のHさんが居ることは分かるが、どこにいるのか定かではなかった。
    ふと見ると私の横で盛大に拍手しているM女史がいた。
    後で、彼女は同じダンス部の大先輩であることを知る。

    人混みの中でYuccaさんの登場を待っていたら、既にそこに居るではないか。
    百円ショップの前。人知れず出番を待つ彼女が、私に手を振ってくれた。
    嬉しかったなぁ。我が永遠のディーバである。
    彼女の歌を聴いた後、二人で椅子に座って飲み始めた。
    するとファンクラブの人から声を何度もかけられた。
    「いつの間にか彼女の大ファンになっていた」と、
    私たちの横に座ったAさんが話してくれた。

    花束王子のデビュー当時の話も聴いた。
    最初は小さな花束だったらしい。
    歌はもちろん凄い人だが、みんな彼女のピュアな人柄に惚れていた。
    私の85歳の母や叔母たちにも本当に心のこもった言葉をかけてくれる。
    スターなのにそんなにも庶民的な、時には天然?な感覚を忘れずにもっている。
    彼女にはチャンスが必要であり、
    そのチャンスに恵まれれば、きっと大ブレーク間違いなしと肯いた。
    そこへ女性二人が加わった。
    王子は花束を取りに「さくら小町」まで行っているらしい。

    こうして私たちが出会えたことは、Yuccaさんのおかげだった。
    私は、それを奇跡だと感じている。
    Aさんは、農機具を販売している人だった。
    そして、何と合唱部に所属していた経歴の持ち主だった。
    さっそくバスが欠乏している「てかがみ」に誘った。

    マキのコンサートでは、やはり泣けた。
    すぐ目の前にディーバが居て、歌っていた。
    「ブラボー」のスタンディングオベーション。
    この宇宙の中で、Yuccaさんと出会え、「ブラボー・ブラザーズ」となり、
    いろいろな人生の先輩たちとお知り合いになることができた。
    人生は、出会いが面白くしてくれる。
    そして、出会いこそ、生きる力と励ましなのだと、いつも想う。

    もちろん定番の反省会は、三人で行った。
    語ることは、やっぱり人生のことだった。
    何気兼ねなく、ピュアに、お互いの本音を語り合う。
    あーーっここにYuccaさんがいてくれたらなぁと想うが、
    それは夢なのだと諦めている。

    本日午後2時と4時とに古町6番町でコンサートがある。
    ブラザーズと花束王子は出動する。

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  • from: クマさんさん

    2011年09月23日 06時07分50秒

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    事件はアパートで起こる

    人は、どこで事件に巻き込まれるか分からない。
    事件は、向こうからドアをノックしてやって来る。

    昨日、突然長男が帰って来た。
    そして、渡されたのが29000円の領収書だった。
    話を聴いて驚いた。
    こんなえげつないことをやって商売している輩がおるのか。

    作業服姿の若い男がアパートを訪れた。
    「レンジの上の換気扇のフィルターのご案内と説明をさせてください」とのこと。
    長男は不動産屋関連の業者と思い、部屋に入れると換気扇を見て、
    「汚れていますね。このままだと換気扇が汚れて、後で請求されますよ」と言った。
    「このフィルターと交換すれば、換気扇汚れませんよ」とのこと。
    業者は500円のフィルターを4年分で長男と契約をした。
    合計31800円だそうだ。そこでサービスの値引きが4390円だった。
    長男は、何のことか分からない内に話がどんどん進んだそうだ。

    そこにはちょうど友達が居て、これから二人で出かけるところだった。
    そこが甘いのだが、長男は断る言葉を持っていないのだった。
    それから、この業者が居座り、なかなか帰らなかったと言っていた。
    彼は納得できないまま、薄っぺらな紙きれのフィルター4年分の契約を交わされてしまった。

    「お金がないんですけれど」と言うと、
    「後で現金で支払われる人もいますが、ATMで降ろす人もいますよ」と言葉巧みだ。
    「自転車でコンビニまで行くと時間がかかるんですが」と長男。
    「私が自動車で送ってあげますよ」と業者。
    長男は何だか騙されているように感じながらも、
    話の進展上、業者つきそいのままATMで29000円を降ろしてしまった。
    そのお金を業者に渡して、契約は成立したわけである。

    実は、この換気扇のフィルターは、妻が先日貼り替えたばかりなのである。
    それも、スーパーで3枚入って500円もしないしろものである。
    長男は、借主であって、この建物を所有している不動産屋ではないのだ。
    それも、彼は学生で、食費すら削っている脛かじりの身分である。

    私は怒り心頭に発し、業者に抗議の電話をした。
    「馬鹿野郎。何をやっているんだ。警察に訴えるぞ」と。
    まさに振り込み詐欺のフィルター版ではないか。
    そしたら、すぐに返金すると自宅までやって来た。
    黙っているお客はそのままで、抗議したお客に対してはこのように敏速に対応するマニュアルなのだろう。
    領収書の裏面びっしりに、クーリング・オフのお知らせが書かれてある。
    これが強者にとっては、水戸黄門の印ろうとなる。
    県外から来た学生にとっては、8日間はあっという間だ。
    私のように親が知らぬ間に契約し、そのままの場合が多いのだと思う。

    私の前に緊張し、正座した彼は、さっそく29000円を返金してくれた。
    それから、いろいろと事の次第を説明してもらった。
    電話の剣幕が凄かったので、殴られることを覚悟して来ましたとのこと。
    プライベートのことがあるのでこれ以上はここには書かない。

    これは事件ではない。確かに商取引での契約である。
    クーリング・オフも明記されている。
    だから、説明を聞いた上で、契約をした長男に責任がある。
    逆に迷惑をかけてしまったのは、長男の方なのだ。
    そのことについては、私は業者の若者に謝った。

    ただし、ただしである。
    レンジ換気扇フィルター4年分、
    工事費込みで31800円というお仕事はいかがなものなのだろうか。
    「あなたなら、この商品を購入しますか」
    「お客様の為になる仕事ですか」
    「商品に絶対の自信をもち、お客様に喜んでもらえる契約ですか」
    酔っ払い親父が、いつの間にか若者に語っていた。

    話の進展上、最後は彼を車まで見送り、
    「頑張れよ」と声をかけ、握手している酔っ払い親父でもあった。
    人が生きて行くには、なかなか厳しいご時世のようである。

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  • from: クマさんさん

    2011年09月22日 06時03分17秒

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    いよいよ舞台稽古に

    東区のホールで舞台稽古があった。
    私にとっては、久しぶりの舞台の稽古だった。
    初めてこの舞台を使えるということなので、
    劇団員のみんなは張り切って参加していた。
    脚本はただの空想の中の物語である。
    そこに息が吹き込まれ、魂を入れられて、
    現実に動き出すこの瞬間に、私はいつもいつも興奮と感動とを感じてしまう。

    うーんこうなるのか。
    これは予想以上な迫力のある展開だなぁと、ただ感じる。
    夏の稽古の回数が少なく、仕上がりについて危惧をしていたが、
    それは杞憂に終わったようだ。
    一人一人が自覚して自主的に稽古を行い、
    場面場面の受け答えがだんだんできつつあった。

    何よりもあの発足当時の劇団の稽古と比べて、
    役者さんとしての力量が高まり、
    出て来るだけで場の空気を変える人となっていた。
    物語の台詞の中にもあるが、「稽古には勝てない」ものである。
    実際の舞台をこんなに早く踏むことができた役者さんたちは、
    きっと緊張と不安とを感じながらも、
    いっそうのやる気を感じたことだと想う。

    杮落としということは、この舞台の歴史に残る劇団となるのだ。
    オープニングと言うことは、お客様も期待してこの劇を観に来るはずだ。
    つまり、要求されているスペクトにまでこの舞台の質を上げねばならない。
    また、私たちの劇団もモットーは、お客様を感動させる人情芝居である。
    この物語に入りこみながら、共に泣き、共に笑い、共に怒り、
    最後には明日への希望と勇気とを感じてこの劇場を後にしてほしい。
    それが、劇団員とスタッフ全員の心からの願いである。

    そのためには、やはり台詞や動きにに込められた意味とペーソスとを自分のものにし、
    懸命なる表現を通してお客様の心にずしんと響くようなものに練りあげて欲しいと想う。
    その人物のをどう解釈し、どう伝えるか。
    そこに役者としての面白さと醍醐味があるように感ずる。

    Hさんと稽古を観ながら話していた。
    舞台で展開される稽古における本格的な芝居ぶりに、
    Hさんは、目を丸くして驚き、感動していた。
    私も、この人たちならどんな役でもこなせるはずだと、
    頼もしさと期待感で心がわくわくしながら舞台を観ていた。

    舞台は、総合芸術である。
    素晴らしい二対の地蔵は、今回の美術のKさんの作品だ。
    照明は、一流の明かりの演出者Iさんだ。
    大道具はや衣装係は、劇団員が率先して担当し、動いている。
    ポスター、チラシ、チケットと、これまた制作による立派な出来に驚きである。
    動き出している。そして、創りだしている。
    それは、プロセスであるが、頂上に向けた着実な一歩一歩だった。
    その創造の過程が目の前で展開されているから、
    この稽古が心わくわくと面白いのだ。

    24日には「無常素描」の映画を観て、飲み放題の「総決起集会」がある。
    しかし、寂しいのは、私は脚本家としては、その輪の外にいるようなのだ。
    一所懸命という言葉がある。
    一所に命を賭ける。
    そんな芝居になることを心から願っている。
    「いい芝居になる」そんな予感を、昨夜の稽古から感じた。

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  • from: クマさんさん

    2011年09月21日 05時58分31秒

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    警鐘

    また台風による災害のニュースだ。
    とにかく今年の日本は災害や震災の年である。
    大自然の猛威と言う。
    この雨の降り方は、各地で観測史上を記録する豪雨となっている。
    雨の降り方自体が尋常ではなくなっている。
    500㎜1000㎜等、ここは熱帯雨林の島なのだろうか。

    海水温の上昇が影響していると解説者が語っていた。
    日本近海の海水の温度が毎年上昇している。
    そのために大量の水蒸気を含んだ大気がこの豪雨を生んでいる。
    原発からは高温の水が大量に海に垂れ流されていることはよく知られたことだ。
    海水温の上昇により生態系も変わり、
    近海で採れる魚の種類も変わって来たそうだ。

    また、和歌山の土砂崩れによる土砂ダムの映像を見ると、
    そこに散らばっている樹木が杉であることも確認できる。
    広葉樹林を伐採して、戦後金になる杉を日本中の山に植林した時期がある。
    その杉は保水能力も乏しく、土をしっかりと保つための力を持たない木であるために、
    土砂災害には弱いとされて来た樹木である。

    自然に負荷を与え、変化させて来たのは人間だ。
    この自然は、人間がいなければあるサイクルでずっとつながりながら生きて来たと思う。
    一つの歯車がおかしくなることで、全てのものへと影響して行く。
    実は、全てのものはつながっていて、全てのものは元々一つなのだ。

    自然においては、余計なことをせずに、そのままにしておいてもらったほうが嬉しいのだ。
    自然の流れは確かに変遷をする。
    嵐もあり、洪水もあり、台風もあり、地震もある。
    太古の昔から人は、そんな自然の脅威を怖れ、
    その自然に対して神を見て、祈って来た。
    それが自然に対する畏敬の念だった。

    人間が一番ではない。
    その畏敬があるから、人は自然と共に生き、謙虚に自然から学んで生きて来た。
    しかし、科学と経済優先の世の中になり、
    私たちは自然に負荷をかけて、ゆがめることが当たり前になってしまった。
    そんな驕りの中で、私たちは何か間違った方向に集団で突っ走って来たのではないだろうか。
    競争社会・結果主義・無縁社会・弱者差別等、
    人の世の中も、どうもその結果、生きずらい世の中となってしまったようである。

    警告ということばがある。
    被災された人たちの悲しみとご苦労とを想いながらも、
    時代は人間を大切にして、自然と共に生きられる時代へと、
    そろそろリセットする時が来たのではないかと想っている。
    競争の中で人を追い込み、成果主義から弱者を切り捨てる無情な時代や、
    経済のためならば、なりふり構わず自然に負荷を与え、激変させる無常な時代から、
    まわれ右と方向転換する時が来たのではないだろうか。

    無常迅速。
    大いなる自然からの警鐘に私には聴こえる。

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    さけ

  • from: クマさんさん

    2011年09月20日 06時18分44秒

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    ちょっとは何かの足しになる

    三日間飲み続ける。
    この生活から脱出しようと試みるが、やっぱり駄目だった。
    祭りの後は寂しいものだ。
    何だかゆうつな朝を迎えている。

    母は、すっかりと痩せてしまった。
    まさに別人のような面影だ。
    従兄弟が子どもを連れて毎年祭りに参加する。
    そのために東京と上越市からやって来る。
    母は、そのために大歓待する。
    前日に大きな鉢一つ紅色の赤飯が出来ていた。
    茶碗蒸も母の得意な料理の一つだ。

    人のために奮起する。
    とにかくこういう時には、全力を挙げての母だった。
    その赤飯が紅色が強く、少々固めに仕上がってしまった。
    茶碗蒸は、蒸す時間を間違え、これも覚めると固くなっていた。
    母は、そんな料理の結果を見て、自分でも情けなく想ったようだ。
    私は、今年もこうして赤飯と茶碗蒸を食べられただけで満足だった。
    この年になると、来年のことは言えないのだ。

    人は、年を取る。
    それを何とも止めてやれないのが、残念なことである。
    一番太鼓と神輿が、町内を巡る。
    すると、各家の前に立って神輿を迎える人たちも、
    毎年毎年、年を取っていることがよく分かった。
    あるおじいちゃんは椅子に座り、神輿を迎えた。
    その中には、亡くなってしまった人もいるはずだ。

    大山台の特別老人ホームにも太鼓と神輿を上げる。
    みんな車椅子や、ベッドの中から、私たちの神輿を拝んでいる。
    枯れ果てる手前の人たちである。
    よくぞその年まで生きて来た尊い人たちだ。
    私たちを拝みながら涙を流していた。
    私もここに来ると必ず涙が流れた。
    人が生きるとは、いったいどんなことなのだろう。

    母にも、私にも最期は来る。
    それがいつなのか。それがどんななのかは誰にも分からない。
    今日はとりあえずは生きている。
    心の底から会いたくない人がいる。それも宿業なのであろう。
    ただし、「今日一日だけは生きてみよう」と少しは想う。
    誰かの、何かの足しには少しはなっているかもしれないからだ。
    生きるとは、その程度のことでいいのではないだろうか。

    昨夜、北区のミュージカルの脚本家からメールが届いた。
    小潟を自費干拓した伊藤幸一郎さんの業績も物語に入れたいとのことだった。
    この偉業は、歴史の中に埋もれさせてはならないものだった。
    私は、「拓魂」のための資料を探し、何と自分が16年前に作っていた資料を発見した。
    それをパソコンで打ち直し、彼女に送った。
    私のような男でも、ちょっとは何かの足しになっているのだ。

    来年の6月には北区のミュージカルのオーディションがあるはすだ。
    私は、それを受けようと思っている。
    そのためのオペラであり、そのための減量でもあった。
    そして、来年の春祭りにも、また母の赤飯と茶碗蒸が食べてみたいものである。
    人は生きていれば、ちょっとは何かの足しになるものだ。

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    さけ 秋桜

  • from: クマさんさん

    2011年09月19日 09時11分18秒

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    一番太鼓

    祭りが終わった。
    ダイハードな二日間だった。
    さすがに昨日は疲れ切ってしまい、なおらいにも参加できなかった。
    法被を脱いで横になったら、そのまま眠ってしまったらしい。
    この祭りに参加してから、14年くらいになるだろうか。
    大学1年生の長男が、まだまだ可愛かった小1の頃からだ。
    その当時は私も40歳と若かったものだ。

    土曜日の末広の町内巡りに、その長男が来てくれた。
    当時の友人たちがこの祭りに参加している。
    太鼓が好きで好きでたまらなかった彼である。
    反抗期はまったく祭りには寄りつかなかったので、
    小6以来の太鼓である。
    法被を急遽Sさんからお借りした。
    一番太鼓を私は押しながら、彼の太鼓を叩く姿を間近に見た。
    大きくなったものだと感じた。
    そして、その太鼓の音色は当時そのままだった。

    彼は、小学生で一人だけ一番太鼓に抜擢されていた。
    彼が叩くと、「うまいねぇ」と言って、お年寄りの酔っ払いが来ることもあった。
    太鼓が大好きで、太鼓の音を聴くとじっとしていられなかった。
    ある太鼓集団にも所属して、りゅうとぴあでも披露した。
    その太鼓との出会いが、彼の人生を豊かにしてくれた。

    私は、最初は彼の付き添いとして太鼓の横を歩くだけの父親だった。
    その内に顔見知りの親父さんに、「太鼓を押せて」と、一番太鼓を任された。
    秋祭りでは太鼓の練習の期間がある。
    夜なので練習場まで私は長男と小さな次男を連れて行くことにした。
    その内に「太鼓教えてくんねかね」と、子どもたちの練習の手ほどきをすることになった。
    私は、太鼓は叩けない。
    でも、歴代の名手の音を聴いているので、その良しあしはよく分かる。
    文字通り、手取り足取りで一人一人を教えて来た。
    どれだけの子どもたちに太鼓を教えたことだろう。
    その子たちが、既に就職したり、学生になったりしている。

    こうして祭りで再会すると懐かしい。
    私にとっては小学生の頃のやんちゃで可愛い面影が思い出されるが、
    彼らからすると、「クマさん、年取ったね」と感ずるのだろうなぁと思う。
    一番太鼓が、ずしりと重く感じられた。
    台車の中にスピーカーとアンプが入っているために、
    とにかく重い太鼓なのだ。
    それを前屈みに踏ん張って5〜6キロは押して行く。
    途中、叩き手が少ない時には、私も太鼓を叩く。
    酒に酔い、人に酔い、祭りに酔っていながらの太鼓の音は最高なのだ。

    酔っ払いのテンションが上がり、ふと我に帰ったらぐったりと疲れていた。
    市場で総踊りを見ながら休んでいると、
    つくづく年を感じてしまった。
    「俺、これで帰らしてもらうわ」と言うと、「駄目駄目」と笑われた。
    気が付いたら、いつの間にか一番太鼓が動いていた。
    長男が私の代わりに太鼓を押していた。
    そして、長男の仲間たちが交代で太鼓を叩いて盛り上げていた。
    「そうか。俺が居なくても太鼓は動くなぁ。」

    宮昇りの後、帰り道では4番太鼓の1年生の所に行った。
    なかなか筋がいい男の子で、将来の太鼓の担い手になるだろう子である。
    懸命に覚えようと、両手で撥を挙げて叩いている姿に、
    あの頃の長男の様子がだぶって見えた。
    「ここから始まったんだなあ」と、私は彼に太鼓を教えながら彼と一緒に歩いていた。
    「上手くなったなあ。」「右手をもう少し強くしよう。」
    時には、酔っ払いが彼に代わって太鼓を叩く。
    ふと前を見ると、一番太鼓を押す長男の後姿が遠くに見えた。
    一番太鼓は、やっぱり私が居なくても動いているのだ。

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    さけ

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