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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2018年05月30日 10時30分04秒

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    だから私は如来を信ずる

    こんな奇跡があったという話。
    日曜日に私は豊栄から車で帰宅途中だった。
    ちょうど小嶋屋の近くの信号の手前だったかな。
    私と同じフリードで、同じえんじ色の車が走っていた。
    同じだなぁと、何気なくそのナンバープレートを見た。
    「10-・・」
    私は、その瞬間、驚いてハンドルを握ったまま、飛びあがりそうだった。
    「同じ・・・だな」だった。

    何とその車のナンバーは、
    その四傑が全く同じナンバーだった。
    この私の車のナンバーは、次男の誕生日だ。
    それと、まったく同じナンバーを陸運局は発行したのか・・・。
    まさか、まさか。
    私は、その車が赤信号で徐行したので、
    隣の車線からゆっくりと近づいて確認した。

    すると、向こうのナンバーには「ほ」の文字。
    私のナンバーは、確か「て」のはず。
    つまり、この平仮名だけが違っていたのだ。

    全く同じ車に、平仮名だけが違う同じ数字のナンバーだった。
    こんなこともあるんだなぁと、
    とにかく、私は、生きていれば何でもありだと、改めて感じた。
    そして、暫くして、はっと気付いた。
    同じ車に同じナンバーは、あるかも知れない。
    でも、その2台がこうして出会う確率は・・・・。
    何とも気の遠くなるような話だった。

    「もう駄目だ」はないなぁと、ふと感じた。
    「こんなことが現実に起きる」のだから。
    現実は、人の予想や想像力を遙かに超えて存在している。
    こんな不思議な軌跡を目の当たりにしたら、
    「奇跡はある」と、確信できる。
    「全てのことは、必然なんだ」も、はっきりと言える。
    実は、長く生きていると、こうした必然的な奇跡との出会いが多くなった。

    本当にそうだ。
    「何でこんなことが起きるのだ」は、その出くわした瞬間に感ずること。
    しかし、暫くして、幾つかの出来事や体験を重ねるうちに、
    「ああ、あれは、こういう意味があったのか」と、気付くことも多い。
    罪を犯し、どん底に堕ちたとしても、
    そこに到るための意味が在り、絶対に必然は存在する。
    「どうして私だけがこんな目に会うのか」と嘆くことも多かった。
    しかし、今は、そのことがあったから、
    こうして、今、ここで、生きていられる。

    私が教会に帰り、再び信仰を生活の中心とできたのもそうだった。
    まさに放蕩息子の私は、二十数年間、教会を離れ、信仰を失った。
    しかし、ここには書かないが、この5年間、私は本当に試練の連続だった。
    「これでもか。これでもか」だった。
    「まだですか。神様、まだあるのですか」だ。
    私は、どんどん痛みと苦しみと絶望の中に追いやられた。
    そこは、全くの闇夜の孤独だった。
    「ああ、人とは、独りなんだな」と、どん底の孤独も味わった。
    「もう駄目だ」その時、やっとこの言葉を心から発することができた。

    「助けてください」だった。

    溺れなければ、助けは必要なかった。
    自分ができる、自分がやったも、助けの必要は感じられない。
    傍から見たらどうであろうとも、
    本人は自信満々、自分の意のままに、生きることができると思い込んでいるからだ。
    その時なんだ。
    人が、「まさか」の出来事で、突然どん底の闇に突き落とされるのは。
    私が、そうだったから、そのことは、言える。

    しかし、その私のひとをずっとずっと見つめている眼差しを知らなかった。
    私の弱さと愚かさとを憐み、気遣っていてくれる人が居ることを知らなかった。
    でも、その憐れみと気遣いに気付くためには、
    やっぱりいったん、「まさか」のどん底に人は堕ちなければ、覚らないのだ。
    だから、私にはあれだけの試練が在った。
    そして、今でも、こうしていてもその試練は続いている。

    しかし、今は、安心している。
    例え、どんなことがあろうとも、そのことは私にとって意味のあることだから。
    そう確信できるようになれたことが、
    何よりもの私自身の救いであり、信仰であると思う。

    Tさんのお寺の玄関にある色紙の言葉だ。
    「如来に信じられ 如来に見つめられ 如来に尊っとばれ」
    だから、「私は、如来を信ずる」と。
    本当にそうだなぁと、今は、この言葉を信じられる。

    Tさんと、何と昨日のお昼に本町市場で出会った。
    まさか、ここで、Tさんに出会うとは・・・・。
    数カ月前には、駅前のコンビニで出会った。
    その時も、まさかここで出会うとは・・・だった。

    奇跡に充ちている。
    いや、奇跡だらけなんだな。

    同じ車種・同じ色・同じナンバーの車同士がある瞬間出会う。
    これでもか、これでもかの試練に出会う。
    しかし、全てはあざなえる縄の如く、一つ一つにみんな意味が在った。
    会いたいなぁと想っていると、不意にTさんとひょんな場所で出会ったこと二回。

    つまり、人のことは、その人を超えたところで動いているし、決まってもいる。
    だから、じたばたしない。右往左往しない。おろおろしない。
    威張らない。俺が、俺がとは言わない。人の話に素直に従う。誠実に生きる。
    泰然自若。何とかなる。大丈夫。

    たった一台の車との出会いから、
    これだけのことを教えてもらえた。
    感謝。感謝。必然に感謝。人生の意味に感謝。感謝。

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  • from: クマドンさん

    2018年05月29日 10時51分23秒

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    本物の大人がいなくなったなぁ

    よきリーダーたれ、だな。
    連日ワイドショーの話題になっている問題だ。
    何でこんなことになっているのか。
    それは、「私がやりました。ごめんなさい」と、
    当事者が言わないからだ。
    言い逃れ、白を切る、嘘をつく、人のせいにする。
    こんなに幼稚な人間が、人の上に立つリーダーとなっているからだ。
    人格と品性の劣った者を、人の上に立たせてはいけない。

    そんなことをすれば、部下の士気が下がり、組織の秩序が乱れ、
    組織が組織として合理的に機能しなくなってしまう。
    何故なら、そのパワハラと人事権が恐ろしいために、
    部下たちは、その人のことばかりおどおどと気にして、
    その人のご機嫌をとり、その人に何か言う人がいなくなるからだ。

    みんな自分が可愛いから、黙っている。見て見ぬふりをする。
    その内に、その権力が巨大になり、モンスター化する。
    誰も進言することはできず、気にいられている取り巻きだけが、
    よいしょして、可愛がられる。
    部下たちは、いつもいつもびくびくして、
    小さな失敗や、過ちを報告することを躊躇する。
    怒鳴られる。馬鹿にされる。徹底的に否定される。
    だから、隠す。言わない。もみ消してしまう。

    そのうちに、事が大きくなってしまってから、
    組織そのものの信用に傷つける始末となってしまう。
    本当は、そうなってしまったのは、
    小さな火の内に、消すことができなかったからだ。
    小さな火の内に、リーダーが気付き、自分の責任で修正していたら、
    こんなにも大きな火災にはならなかったはず。
    しかし、そんなリーダーは、大火事になっても、その責任は部下に取らせる。
    「あいつが、悪い」「あいつは、首だ」と。

    だから、そんな見せしめを見せられているから、
    他の部下たちは怖れをなして、なおさら貝のように黙ってしまう。
    ご機嫌取りだけが、そのうちにあからさまに優遇される。
    そうしない真っ直ぐな人は、直ぐに降格・左遷の対象となる。
    しかし、このリーダーも、この取り巻き連中も知らないのだ、
    長く続く独裁政治はどこにも存在しないと、歴史が証明していることを。
    そして、独裁が崩れた後の顛末も、
    やはり、歴史が幾つも実例を挙げているようになっていく。

    さてさて、これから、その証明が始まるようだ。
    まず、あのパワハラのリーダーは、病院に隠れたらしい。
    その取り巻きである部下たちは、解任や資格抹消となるらしい。
    告訴をされているから、いずれ刑事責任を問われるだろう。
    また、まだまだ俺はやれるとナンバー2の座から降りていないが、
    その結果会社のブランドも信用も失墜してしまった。

    それでも、ナンバー2の御威光はまだあるらしく、
    公然と彼のことを批判し、彼の地位をはく奪し、真実を明らかにできない。
    ここに、日本の何と言うかぺこぺこ組織の弱点があるようだ。
    もし、彼がまたここに戻ってきたらどうなるか。
    「誰だ。俺のことを売ったのは」となるだろう。
    これって、江戸時代の小さな藩の話ではない。
    日本の最高学府の大学での話だ。

    もう一ついつもいつも感ずることは、
    組織自体に自浄作用がないということだ。
    世間の常識は、組織の非常識。
    この小さな箱の中にぎゅうぎゅうに押し込まれて生きている人たちには、
    組織だけに通用する価値観や、ものの考え方に自縛される。
    そうしてしまったのは、このパワハラ男なんだけど、
    人間としてどうにもならない男であっても、
    自分のポジション・給料・来年度の会社での役割・居場所が、
    何と、そのパワハラ男の一言で決まってしまうのだ。
    何とも理不尽で、ご無体な話だが、
    それは、会社とか学校とかの組織にはいつもいつも在る話だ。

    できるなら、善きリーダーの下で働きたい。
    私は、いつもいつもそう願って仕事に励んだ。転勤もした。
    本当は、会社そのものが、善きリーダーとなるべき人を、
    リーダーとして選出して、役割と職責とを与えればいい。
    そんな簡単なことは誰でも分かっているのに、
    実は、それができないのは、
    今、頂点に昇っているパワハラ男に可愛がられた人でしか、
    リーダーと言う立場と役割に立てないと言う法則があるからだ。

    つまり、人事とは、「人ごと」だ。
    その愚かで、我儘で、自己中なトップが、よしと認める部下とは、
    どんな部下であるか、想像できる。
    そして、実際は、その想像通りの人事が行われることが多いようだ。

    この問題には、日本の会社や学校組織に根付く深い深い「問い」が在る。
    ある意味では、日本の組織体質に置ける普遍的な課題がここにある。
    「俺の言うことを聞け」
    「俺のやることに文句あるのか」
    「お前のような無能な人間は明日から顔を出さないでいい」
    そんなパワハラにどれだけ部下がはらはらとし、恐れ、慄き、心を病んだことか。

    実は、私もそんな苦い経験をもっている。

    さてさて、何故、ワイドショーがこの問題を報道し続けるか。
    それは、この会社自体の弱腰と隠ぺい体質がどうにもならないと感じられるから、
    これだけ執拗に話題とされているのだと、私は感じている。
    簡単なんだ。
    事実を明らかにする。
    世間を騒がせ、多大な迷惑をかけたことを謝罪する。
    当事者であるパワハラ男を厳重に処罰する。
    二度と会社には戻れないようにする。
    会社そのものの民主化を進めることを約束する。等々。

    しかし、その英断をできるリーダーが、この会社には誰も居ない。
    まだまだ、この男の影に恐れ慄き怯えている人たちばかりなり。
    この問題は、今、日本の会社や学校組織が抱えている課題を、
    明確にしてくれたのだと私は想う。
    守るべきは、学生の彼と彼だ。
    そのために、大人は、誠実に、正直に、堂々と敏速に対応すべきだ。

    本当に、大人がいなくなったな。
    そのことが、とてもとても残念だなぁ。

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  • from: クマドンさん

    2018年05月28日 06時47分20秒

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    大義名分なんだなぁ。

    さてさて、大義名分なんだな。
    何故、彼等が罪の意識を感じないか。
    平気で公然と嘘・偽りを言い続けられるか。
    どんなことを言われても、
    はっきりとした証拠を示されても、
    しらを切り続けられるのか。
    それは、自分が何も悪いことをしたと想っていないからだ。

    大義のためにやったこと。
    国民の教育をよくするために。
    道徳的な国民を育てるために。
    有意な国家的な教育を子どもたちに与えるために。
    教育勅語を復活させるために。
    その理想と理念とを掲げた学校を創設することは、
    これからの国のためなんだ。
    だろうなぁ。

    だから、彼は、ぶれない。
    私がやったことは、決して間違っていないと信じているからだ。
    分からないのは、自分のことを責め、非難する相手の方だ。
    私の本意を理解せず、ただ、闇雲に攻撃をしてくる不逞な輩。
    だろうなぁ。

    それから、上司を庇って右往左往している役人の人たち。
    この人たちにも、やっぱり大義がある。
    まず、上司を守るということは、国を守るということ。
    上司の指示・命令を絶対として、
    それに逆らうということは、彼の生き方には入り込まない。
    「はい」「やります」「できます」「やらしてください」だな。
    だから、上司に対する内部からの告発は不可能だ。

    損をしたくない。
    目の前で不正が行われていても、
    どこかの都銀がやったように不正融資はどんどん膨らむ。
    でも、上司からの命令には逆らえない。
    そして、もし、告発をしたら、
    自分の明日がいったいどうなるか分からない。
    その不正に自分自身も手を貸しながら、黙ってそれを見ないことにする。
    隠ぺいする。
    ここにも、銀行に多額の債務を負わせたくない。
    この負債を少しでも取り戻したいの大義名分だ。

    日本一をずっと撮れなかった大学のチームが在った。
    監督は、その大学のナンバー2だった。
    絶大なる権力を持ち、自分の一言で全て決まることも知っている。
    イエスマンに囲まれ、その王座に座り、独り悦に入っている。
    さてさて、「潰してこい」と、その王様が言う。
    それは、日本一を再び採るための大事な布石だ。
    相手のエースを潰す。
    そのダメージがいかに大きいかを、彼は知っている。
    彼のこの命令は、大学の名誉を守るための大義名分。

    他の監督たちもやっていることだ。
    こんなこと当たり前だろ。
    あいつは、よくやった。
    俺の責任。俺の責任。
    非公式では、ちゃんと本音を吐露しているのに、
    公式の場では、言葉を濁し、独りの学生に全ての責任をおっかぶせる。
    チームを守るためには致し方ないこと。
    大義名分だな。

    隣の直属の部下の哀れなこと、哀れなこと。
    口裏合わせをした言葉だけ、ただ言わされている。
    身体が震える。言葉が出ない。涙が溢れる。悔しさと哀しさと怒りに満たされる。
    でも、何も「正直」には語れない。
    それは、言ってしまった大義を守るため。
    つまり、本当のことを話せば、その前に言ったことが嘘になるから、
    嘘をまたまた重ねなければならない。
    何をこの人は、守っているのか。

    大義ではない。
    本当は、信念で語る。
    そのことが、立派なリーダーたちができなくなってしまった。
    それまで、ずっとずっとそうやって押し通して来たことが、
    何でここになって問題のなるのか、
    自分は国の為、大学の為に一生懸命やっているのに、
    何で俺のことをみんなは認めないのか。許さないのか。罪に問うのか。

    「分からない」だな。

    こんな大人が国や最高学府である大学のトップリーダーなんだ。
    それが、この国の現状なのだとは信じたくはないが・・・・。

    大人がいなくなった。
    侍がいなくなった。

    組織から消えてしまったのは、
    大人である真のリーダーと、
    武士(もののふ)である侍だ。

    大義名分は、壁に囲まれた小さな小さな世界の大義名分なんだと、
    この愚かな人たちは、いつまでも理解できずに、終わるんだろうなぁ。
    それも、哀れなことだなぁ。

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  • from: クマドンさん

    2018年05月27日 10時15分37秒

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    消える

    さてさて、昨日、ここに書いた傑作が、
    最終処理を間違って、あっと言う間に消し飛んだ。
    「消えた・・・」だった。

    それは、Sさんとの話がきっかけだった。
    人は、壁の中で生きている。
    壁の中の世界だけが自分の世界だと勘違いしている。
    その壁に囲まれた小さな空間には、そこだけの価値観が存在する。
    みんなそこにしか生きていないから、
    その価値観だけが守るべき正義となる。

    そこには、権力へのヒエラルキーも存在する。
    その階層を昇りつめ、トップに立つことがそこに生きる意味でもあった。
    だから、上司の言う言葉は絶対の価値となる。
    上司が自分のことをどう判断するかで、
    自分の座る椅子が変わり、
    自分の来年度からの仕事が決まる。

    だから、その壁に囲まれた狭い狭い空間は、
    ある種の絶大な権力を持った人によって支配される、
    小さなちいさな王国となってしまう。
    その王国には、自由なんぞ存在しない。
    リーダーのご機嫌を損ねる発言はご法度だった。
    リーダーについて行く。リーダーに可愛がられる。
    そうすることだけが、自分自身の生活を守る唯一の手段。

    もし、リーダーが誤った決断をしても、
    そのことを止めさせなければ大変なことになると想っても、
    部下である人たちは、きっと見て見ぬふりをして黙っているだろう。
    「そんなことを言ったら、自分が損になる」からだ。
    彼は、国民のことなんぞどうでもよかった。
    彼は、責任を独り取らされている学生のこともどうでもよかった。
    ただ、この飼い主であるリーダーに嫌われて、
    追い出され、居場所がなくなることだけを恐れている。

    つまり、自己保身そのものの人となり下がる。
    でも、彼には一つ納得できる事実があった。
    それは、同じようにその不正を知っている同僚が、
    同じようにして見て見ぬふりをしているかすらだった。
    「あいつも、言わない」「こいつも、黙っている」
    「じゃぁ、俺だけが告発して、損を見ることはないではないか」だ。
    自己保身者は、傍観者に成り下がる。
    その仕事の理念や本質、目指すべき対象はだれなのか分からなくなってしまう。

    Aという王様。
    Uという王様。
    言っていることと、やっていることは全く同じだった。
    「そんなことを言っていません」
    「そんな指示を出したことはありません」
    「そんな人と会ったことはありません」
    「そんな文書は見たこともありません」
    「私が言った意味は、そういう意味ではありません」

    しかし、そう言われ、そう指示され、そう行動したその本人が、
    ちゃんと正直に証言んしても、
    自分がそう言った言葉を、彼が「そう言われました」と発言しても。
    「そんなことを言ったことはありません」だった。

    もっと凄いのは、突然、都合の悪い情報が消えてしまうことだった。
    まず、ご本人の記憶から消える。
    「やっていません」ではなく、「覚えていません」になる。
    次に、証拠である文書が、突然、消える。
    「そんな文書はありません」
    「その文書については、破棄いたしました」だな。
    その発言を、事実を知っている部下たちも聴いている。
    驚きだ。そして、恐れる。
    もし、公にリーダーが発言したことが嘘であることがばれてしまったら、
    誰がその責任を取らされるのか・・・・。

    そして、最悪は、尻尾切りだ。
    「それは、彼が自分の判断で勝手に行ったことです」
    「私は、何も指示、命令を出していません」
    その言葉を、そう言われて素直に行ったその部下本人は、
    どのような気持ちで聴くことか。
    そして、その部下の同僚たちはどんな気持ちで居ることか。
    情けないくらい、このリーダーからは、
    その部下に対するすまないという気持ちも、
    部下が自分のことをとう考えるかと言う想像力も、
    やっぱり、消えてしまっているのだった。

    いや、そんなみのは最初から存在しないから、
    そんな専制君主のような愚かで、
    どうにもならないリーダーになってしまったのだと私は想う。

    時間になった。
    この続きは、また、書くことにする。

    消えてしまう。
    それが、不思議たが、今、話題のリーダーたちのキーワードだ。
    本当は、消えて欲しいのは、その人なんだけど、
    そのことが、どうしても分からない人たちなんだな。

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  • from: クマドンさん

    2018年05月25日 08時59分02秒

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    「地獄の黙示録」を観た

    「地獄の黙示録」を観てきた。
    コッポラの紛れもない傑作だった。
    これほどまでに自分の想いをドラマにして、
    息をつかせぬ迫力と真実に、
    観る者の魂を鷲掴みして離さない映画は、
    そうあるものではないなと、とにかく感嘆した。

    映画が映画として面白くなるための要素が、
    ここには全て詰められていた。
    一つ一つのシークエンスが、本当に巧みに計算され、
    効果的に緊張感を高めるための伏線が貼られてあった。
    そう追い込まれて行くから、
    私も主人公と同じように同事体験をするのだった。

    一つの場面は、起承転結があり、
    終わりに向かって突き進み、
    時には、最後は救いようのない悲劇となってしまう。

    私は、ベトナム戦争の真っただ中だった。
    ロバート・デュバルのヘリコプター部隊の隊長は、
    サーフィンをしたいために、あるベトコンの拠点の村を攻撃する。
    ワルキューレが鳴り、圧倒的な戦力で、一気にその村を壊滅させる。
    機銃を打ち続け、ロケット弾を発射して、
    走って逃げるベトナムの人たちを次々と殺戮して行く。

    彼には、戦争に勝たねばならないという信念が在り、
    この戦争を早く終わらせたいと言う願いが在り。
    部下を独りでも死なせたくないと言う想いも在る。
    戦場においては、全く信頼のおける、逞しい、頼もしいリーダーだった。
    だから、迷わない。
    この殺戮は、彼にとっては正義であるかもしれない。
    だから、殺し続けられる。
    女・子ども。爺さん、婆さん、赤ん坊。
    何でもいい。とにかく、皆殺しだった。

    つまり、大義名分が在れば、戦争における人殺しは、人殺しにはならない。
    多くの戦場で闘い、たくさんの人たちを殺したリーダーには、
    ちゃんと勲章と昇進というご褒美まである。
    そこに入り込んでしまった軍人は、
    その価値観が全てであり、
    そんな狂気である自分自身を俯瞰的にとらえることは、
    とうていできなくなってしまうのが、戦場と言う場所のようだ。

    そこに居るのは、自分の敵である。
    その敵を殺さなければ、自分と仲間とが殺されてしまう。
    ベトナムを共産軍から解放させる。
    自由で新しい国を建国する。
    だから、その新しい国づくりを阻止する勢力は、
    賊軍として、成敗する。
    自分たちは、その為にこの国で闘い、多くの仲間たちが犠牲となった。

    敵に対する憎しみは増幅され、
    殺戮を繰り返すことには、無神経・無頓着となっていく。
    狂気であることを狂気であると感じられたら、
    その人は、狂気の人ではきっとないだろう。
    もう一人の自分が、客観的に自分のことを見つめているからだ。

    しかし、戦いに命令によって向かわせられ、
    余りにも危険な状況である戦場に取り残された兵士たちは、
    やっぱり精神状態が尋常ではなくなってしまうのだった。
    「恐怖」だ。
    「地獄」の中に生かされていることへの「恐怖」だった。

    その「恐怖」には、大義はない。
    そのことを、みんな兵士たちは知っている。
    しかし、戦うことは、命令なんだ。
    上層部のサイン一つで、カンボジアの奥地まで生かされる。
    カーツという元グリンベレーの優秀な軍人を殺すためだけに。

    さてさて、長州と薩摩だなぁと、私は、想った。
    こんな視点で、この映画を観たことは初めてだった。
    人は、生きてみないと分からないものだ。
    高田藩も、長岡藩も、村上藩もだ。

    アメリカ軍は、ヘリコプターで、ロケット弾で、機関銃で、一掃する。
    邪魔な敵たちを全滅させるために、ナパームを落とす。
    ヤシの林は一瞬にして猛火に包まれる。
    「ガソリンの匂い」だ。

    これと同じことが、実は、慶応5年にこの越後で起こってんだ。
    突然、官軍が攻めて来た。
    そして、立ち向かう武士たちを殺し、町を焼き、町人たちの命と財産を奪った。
    ベトナムは、この新潟だった。

    私は、猛烈なスピードでヘリに追われ、機銃によって撃ち殺されて行く村人が、
    何だか、あの当時の高田や、長岡や、村上の人たちのように感じた。
    怒りが、悲しみが、憤怒が、やるかたなく溢れて、
    力いっぱい握った手が、がたがたと震えた。

    人が、正義と言う名の下で、勝手に地獄を作るのだ。
    大義がある人殺しは、名誉であって、人殺しには絶対に問われない。
    ここには、罪は存在しない。
    不思議だが、それが戦争と言う地獄なのだ。

    西郷隆盛は、松浜で、そのことに気付いたのではないだろうか。

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  • from: クマドンさん

    2018年05月23日 07時20分25秒

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    村上藩 鳥居三十郎

    幕末の村上藩の家老、鳥居三十郎について学んだ。
    官軍に責められ、恭順か逆賊として戦うか、
    そのどちらしか道は残されていない。
    長岡藩の河井継之助もそうだった。
    有無を言わせぬ。徹底的に攻め滅ぼす。城と街とを焼き払う。
    それが長州藩を主導とする官軍の戦術だった。

    見せしめの意味もあり、長州藩が幕府によって被った度重なる非道に対する、
    遺恨であり、怒りでもあった。
    だから、奥羽列藩は、ことごとく果敢で激しい攻撃に晒され、
    大勢の有意な命を藩のために失った。

    村上藩は、徳川家康からの縁が在り、三河以来の家来であるとの自負があった。
    しかし、時の藩主は、勤王の思想をもつ人であったが、
    折り悪く、藩主は江戸の藩邸だった。
    つまり、この村上藩の運命を、
    ここに遺された家臣たちで決定しなければならなかった。

    そこで、鳥居は軍議を開いた。
    驚いたことに、藩の意見は真っ二つに分かれていた。
    もはやこれまでと、恭順に腹を決める者。
    いやいや最後の1人までも戦うのだとの徹底抗戦を主張する者。
    これでは、同志討ちになってしまう危険もあった。
    大局から考えたら、まず、この城を守り、町民を守り、村上の町を守る。
    このまま戦になれば、官軍は容赦なく攻め滅ぼすはず。

    そこで、鳥居は大決断をする。
    それぞれが、それぞれで、思いを決する方向に進むということだった。
    恭順派は城に残り、官軍との和平の道をつける。
    交戦派は城から出て、庄内藩と合流して、外で徹底的に官軍と戦う。
    「己の志のままにしようぞ」だった。
    そして、鳥居は170~80名を連れて、庄内藩の陣屋に向かった。
    さてさて、それからの鳥居三十郎の運命は、
    まさに講談のような物語だった。

    私は、講師のお話しを聴きながら、涙が出そうだった。
    三十郎の心情を想うと、深く深く感ずるものばかりだったからだ。
    彼は、最後まで武士としての使命を全うする。
    そして、藩と民と町を守ることを第一とした。
    今、あの村上の500軒町屋が在り、
    おしゃぎりが各町内の遺されているのは、
    こうした真摯に生き、死んだ村上藩の武士たちのおかげだった。

    実は、松浜の西郷さんについてKさんの資料を読んでいる内に、
    私は、日本史をどうも官軍の立場からしか理解していなかったことに気が付いた。
    戦は、いつも西からやって来る。
    そうなんだな。
    そして、昨日「心の時代」の録画を観た。
    カンボジアの内戦で荒れ果てたアンコールワット。
    その復元に尽くした西澤さんの物語だった。

    クメール王朝の後、内戦が起こり、ポルポト派の虐殺が始まった。
    都市や町から人が消え、文化人は皆、殺戮された。
    「キーリング・フィールド」という映画に、克明に記されている。
    実は、それと同じことが、
    幕末の日本で起きていたのではないだろうか。
    北陸戊辰戦争については、
    官軍側からの視点で歴史を見るのではなく、
    攻撃され、支配され、殺戮と略奪をされ、田畑を荒らされ、難民とさせられた、
    私たち、北越の人たちの側から、
    この戊辰150年の今年、検証する必要があるのではないだろうか。

    果たして、官軍は、正義だったのか。
    錦の御旗をかざして一気に北へ攻め上って来た官軍を、
    私たちの先祖の人たちは、どのように見ていたのだろうか。
    太夫浜に上陸した官軍は、沼垂を通り、関屋で米沢藩や庄内藩の武士と戦した。
    あの新潟高校の前の公園が、まさに切り合いの戦場だった。
    鉄砲と大砲の音が鳴りやまず、戦の声があちらこちらで響き渡る。
    新潟の町人たちは、生きた心地すらしなかったはず。

    官軍とは、いったい何だったのか。
    突然、船に乗って現われ、上陸するや否や刀を抜き、鉄砲を打って街中を走る。
    暴徒とは、いったいどちらのことなのだろう。

    私は、そうだったなぁと、やっと60歳になってそのことに気付いた。
    教科書の歴史は、明治政府の造り出した歴史なんだ。
    その歴史をそのまま鵜呑みにして、
    そうやって維新が行われ、新政府が設立されたということを、
    私は、子どもたちにも教えた。
    しかし、視点を変えたらどうだろうか。

    小千谷談判の河井継之助。
    村上藩の鳥居三十郎。
    彼等は、そして、村上と長岡の人たちは、この官軍をどう見ていただろう。
    ある意味、ここがカンボジアであり。
    ここが、キーリング・フィールドになったのではないだろうか。

    私たち北越の人たちは、そんな視点を持って、
    この幕末の日本の動きを再び問い直さなければならないのだと、私は想う。

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  • from: クマドンさん

    2018年05月22日 06時53分17秒

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    ああ失敗。またまた失敗。

    さてさて、心が少しずつ騒がしくなった。
    立て続けに失敗やら、忘れたり、失くしたりしている。
    こう次々だと、自分でもやっぱり不安になってしまう。

    どうしてこうなんだろうと、落ち込んでしまう。
    こんなことが本当に私には多いからだ。
    その時、ちゃんと意識して、よく考えて、注意すればいいのに。
    そのことを無意識に行ってしまい、
    後で、気付くと、もう手遅れだったりしている。

    忘れないために、全てのスケジュールは手帳に書いておく。
    しかし、書いてあっても、気付かない。
    何とも自分自身でも呆れてしまう。

    意識的に生活する。
    例えば人との約束。
    出なければいけない会議・集会等。
    そのことを忘れずにちゃんと、やる。
    そのことが出来ないことが何回もある。
    その度に、信頼は失われる。
    そうだよなぁと想いながら、また、やってしまう。

    どうしたらいいのかと、考える。考える。

    部屋のカレンダーに以前は、太字で書いていた。
    しかし、引退してから、そんなに大したことはないと、
    その習慣をやめていた。
    まず、カレンダーに記載することだ。
    それも、大事なことは、赤字で記録。
    毎日、それを見て、今日の予定を確認・チェックだ。

    次に、送られて来た封書は、意識的にすぐに冷蔵庫の脇に磁石で止める。
    私は、無意識に持ち歩き、ひょいとどこかに置いてしまうと、
    そのまま忘れてしまう癖がある。
    いつの間にか、他の紙類の中に紛れ込み、
    そのまま、その存在すら忘れてしまう。
    「後で処理しよう」と、想うことが落とし穴だ。
    「今でしょう」と、即、その時に処理をする。
    「後回しにしないこと」だ。

    それから、付箋に書くことだ。
    現役の時は、机の片隅にいつも何枚かの付箋があった。
    そこには、締め切りの期日を書き、
    その内容についても具体的に書いておいた。
    そして、毎朝、机に座ったら、その付箋をチェックする。
    そして、重要度の高い順に時間を見つけて処理をした。
    提出書類は、いつも締め切り一週間前には提出を完了していた。
    だから、忘れることなく、一つ一つ処理できた。

    なのに、ああー、日ごろのこの生活に、
    そうした忘れない努力をしなくなったために、
    いろいろと迷惑をかけ、
    またまた、皆さんに呆れられることとなった。

    しかし、ここでくよくよと落ち込んでばかりいられない。
    ああ、生きるとは、失敗の連続である。と、感じても、
    今日を、明日を、これからを、
    やっぱり生きて行かねばならないんだな。

    例え、呆れられ、馬鹿にされ、どうにもならないと想われながらも、
    やっぱりそんなことでへこたれては、
    なかなか人は生きてはいけないものだと、
    こうして失敗を積み重ねながら、私は感じた。

    私だけではない。
    そう言って、慰めてみよう。
    次に気をつければいいよ。
    そう言って、自分だけは自分を許そう。
    今度からは、失敗しないためのアイテム・手立てを実行しよう。
    そう言って、何とか落ち込むことから立ち直そう。

    何だろうね。
    引退しても、失敗だらけ。
    それでも、そんな愚かな自分をも受け入れて、生きて行く訓練が、
    今は、必要なような気がしている。

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  • from: クマドンさん

    2018年05月21日 21時11分17秒

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    師匠たち。

    さてさて、身体だなぁと、やっぱり想った。
    Jさんは、本当に何年振りの登場だった。
    私がどん底の時に、親身になって助けてくれたのはJさんだった。
    彼は、禅の人だ。
    だから、いつもいつもぶれずに肚を据えてそこに居た。
    ぶれていたのは私の方だった。
    勝手なことを言い、我儘を言い、そして、離れた。
    そんなことは、たとえ親友だとしても、あることだと、そう想った。

    そんな離れ方をしたので、何とも気づまりでもあった。
    だから、連絡はしなかった。
    でも、私は、定年退職をした。
    彼は、もう1年間現役で仕事する。
    その激務の中の真っ最中の男だった。

    彼にスイムを習う。
    わざわざ秋葉区の新津から、やって来てくれる。
    月曜日に開いているプールは、鳥屋野潟だけだった。
    彼が迎えに来てくれて、私たちはそのプールに向かった。
    到着は11時だったが・・・・、平日は12時が開館の時刻だと言う。
    1時間あった。
    それで、二人で話した。
    師匠とは、何かについてだった。

    私は、教えられる身となって、習うとは何かということについて考えた。
    今、私が出会っている師匠たちは、
    本当に素敵に、素晴らしく、尊敬できる人たちばかりだった。
    そこで、習うとは何か。本物の師匠とは何かを二人で語り合った。

    スイムのS先生の言葉一つ一つが眼から鱗だった。
    私の泳ぎを観て、一つだけ、「こうやってみて」それだけだった。
    それは、私のクロールの問いとなる。
    私は、そのポイントだけを意識して、泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ。
    上手くいかない。分からない。そのようにできない私。
    それでも、彼女の問いとは、私の練習の課題そのものだった。
    彼女の言葉が、私の気付きそのものとなった。

    ヨガの先生は、その先生の姿、在り方そのものが先生だった。
    ああなりたいと、想ってその真似をする私は、
    やっぱり、出来ないし、やれないし、とうていまだまだ。
    でも、その私がたどり着きたいイメージ、姿は、
    彼女が感じさせてくれているものだった。
    そうだよね。
    大事なことは、その姿を弟子たちに感じさせることだよな。

    もう一人のヨガの若い先生Mさんを、
    私は、大好きなんだな。
    この人に月曜日に会える。だから、1週間を生きているかな。
    彼女の在り方、語り方、教え方、ちょっとした仕草や笑顔。
    うーーん。いい。ただ、それだけ。
    実は、60歳のお年寄りには超ハードな内容だった。
    それでも、こうしてやって行けるのは、
    きっと彼女のことが大好きだからだと私は想う。
    ただし、誤解をしてもらいたくはない。
    あの小学生が、担任の先生を大好きなようにして、
    大好きなんだな。
    好きでなければ、その人の教えを素直には受け入れられないはず。

    書道の師匠は、本物だった。
    私は、彼女の筆遣い、息遣い、力の入れ方、抜き方を、
    目の当たりにすることで、身体にそれを入れようとしている。
    と言うか、その筆の動きそのものになりたいと願っている。
    彼女は、私が書いている時、黙って、じっと、見つめてくれる。
    「クマさん、書いたものをもって来てください」
    そこから、彼女の深い深い教えだった。

    「ここは、いいわね」
    「この線、よく書けています」
    でも、何だな。
    いくつか〇を下さった後に、「ここは、こうですね」と、
    実際に私の書いた線の横に、本物の線を書いてくれる。
    それが、何よりもの勉強だった。
    そこに書かれた線や、はらいや、はねが、私への次なる課題であり、問いだった。

    だから、自宅で稽古する時は、
    その朱で直された線を見つめる。
    そう書くためにどうしたらよいのか、それを工夫する。
    それが、この書の師匠だった。

    合唱の師匠のKさんは、とても優しい。
    とにく私の声の響きを褒めてくれる。
    合唱とは、バランスでもある。
    時に、突出してしまう私の声に手綱をかけて、制御する。
    今は、私の声の出番をその場その場で作って下さり、合図をくれる。
    私のバリトンは尊重され、大事にされる。
    ただし、その声は全体の声の響きのベースとしての役割としてだった。
    その兼ね合いを、彼女は、本当によくよくつけてくれた。

    私を、活かすだな。

    私には、4人の女性の師匠がいてくれる。
    そして、スイムでは、Jさんがまた私の師匠となってくれた。
    習うことは、嬉しいことだ。

    これからも、ただ、素直に、言われたままに真似をする。
    その人にはとうていなれないが、
    その人の姿、形を本気になって真似したい。
    学ぶとは、やっばり、真似ぶなんだと、改めて実感している。

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  • from: クマドンさん

    2018年05月21日 09時58分36秒

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    ハードワークの連続だよ。

    毎日、寝坊の朝だった。
    目覚ましが鳴る音には気づいているが、
    起きる気力と体力が無くなっている。
    もう少し眠ろう。もう少し休みにしよう。
    そう想って7時近くになってしまう。

    元気だった時は、4時前に目が覚めた。
    それから、ストレッチとヨガをして身体と心とを目覚めさせた。
    そして、6時前にはこの「親父たちよ」を書いていた。
    それから、ゴミ捨てをして、朝風呂に入って、朝の支度をしゃきっと仕上げる。
    朝食は、出勤する次男と一緒だった。
    しかし、ここ一週間、そのルーテーンがおかしくなった。

    日頃の生活にも、さまざまな不調をきたしている。
    先週の金曜日に民生委員の会議があった。
    私は、ちゃんと手帳にメモをしてえいたのに、
    すっかり忘れていたことに、今朝、気付いた。

    その夜、私の愛する佐渡裕さんのコンサートでりゅとぴあだったのに、
    私は、その音が、音楽が、何と心に響かず、感じられなかった。
    それは、生ビールと牛丼のためばかりではない。
    体調が不良なように、何だか心の疲れが、感性すら鈍らせてしまっているようなんだ。
    まさかのことだった。
    感動していない私。涙を流さない私。
    アンコールでは、みんな立ち上がっての拍手だったが、
    私には何だか夢か遠い世界の出来事のように感じた。
    あの愛する佐渡裕さんなのに・・・・。

    その帰り、とぼとぼと歩いて、鳥の歌で呑んだ。
    松浜の西郷隆盛の話と、昔のフォークソングで盛り上がった。
    そしたら、帰りのバスが無くなっていた。
    さてさて、鳥の歌はいつもの安さだったが、
    久しぶりにタクシーなるものに乗ったな。

    そう言えば、木曜日の夜も、呑んでいた。
    CさんとHさんと三人で、新たにできた福祉施設でだった。
    つまみは、隣の「横浜軒」からの出前だった。
    その美味い麻婆豆腐と、揚げ焼きそばとあんかけを食べ、
    やっぱり語りながらガンガン呑んでいたな。
    熱い想いをもったメンバーと呑むと、
    やっぱり酒は美味くなり、進むものだった。

    そしたら、土曜日は、妹とその旦那とで、駅前だった。
    いろいろとお互いに悩みがあった。
    それは、家族のことである。
    だから、家では呑めない、語れない。
    場所を変え、三人だけになり、思う存分語り合う。
    その時、本音と建て前があったら、話は何も深まらず、本質を見失う。
    とにかく、愚直なくらい馬鹿に、まっすぐ語るだけだ。

    そうか、そうだったのかと、
    改めてこの身体と心の不調の原因に気付くことができた。
    今週もまた、連日のように呑み会を私が設定していたのだった。
    呑んだ次の日が、よくなかった。
    これで、もし、仕事だったら、本当に辛い一日だったと想う。
    そう考えると、何だか、60歳の現実を改めて感じた。

    弱くなっている。
    もう、無理はできない。
    なのに、スケジュールを入れ込み、がんがんとやってしまう。

    昨日は、自転車で20キロだった。
    それから、松浜で「賢治の会」だった。
    帰って来たらアルビの録画を観て、ビールを呑んだ。
    菊水を呑んだ。ビールを呑んだ。
    「西郷どん」を観ながら大泣きして、菊水を呑んだ。
    そして、Eテレで「コンテンポラリーダンス」を12時まで観ていた。

    実は、こうして書きながらも、半分「死に体」だった。
    何もいたくないし、何もしようとは想わない。
    身体からのサインは、ただ「休め」だった。
    腰が痛く、立ち上がる時、真っ直ぐに伸ばせない。

    さてさて、今日は、民生委員の会議について、謝りに行かねばならない。
    爽やかな晴天なので、庭の樹木の剪定をしなければならない。
    午後から、ヨガのレッスンだ。

    しかし、そんな不調で不具合がある私を、
    何だかどうしてよいのか分からないので、
    ここにつらつらと駄文をただ、書き続けている私だった。
    こうして書いている内に、友だちから電話があった。
    これから、スイミングをやって来る。
    身体だなぁ。

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  • from: クマドンさん

    2018年05月18日 10時27分20秒

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    こんな時間を

    今朝も、何もしていない。
    それでいいという時間の流れ。
    あれをやろう。これをやろうとはあえて思わない。
    向こうからこれをやってと呼ばれたことだけを素直にやっている。

    今朝の暑さと湿気だった。
    夏がもうすぐそこまで来ている感じがする。
    朝、昨日のCさんたちの酒と12時過ぎに執心だったおかげで、
    何だかだるくて、疲労感が残っている。
    だから、ゆっくりとアイドリングしてから、動き出す。
    「焦らない」「無理をしない」「何もしなくてもいい」と、
    そんな日には自分自身に言っている。

    冷たい風呂だった。
    追い炊きで温まる間、その冷たさの中でじっとしている。
    すると、窓から見える樹木が旺盛に伸びていることを感じた。
    また、鋏をいれないとだった。
    それは、その茂った葉っぱと、密になった枝が教える。

    朝食の後、キッチンの床の水拭きだった。
    歩くとスリッパがペタペタと音がする。
    しばらく拭き掃除をしていなかったので、
    油と汚れとがくっついているらしい。
    その音に促されて、ランニング姿でせっせと床を拭いた。
    晴れて乾燥した日には、ワックスをかけなければと、
    ペタペタと言う音が、私に次の仕事を教えてくれた。

    庭の花たちに挨拶だった。
    すると、ここ数日の風の強さで、
    玄関の片隅にに落ち葉やら砂やら何やらが溜まっていた。
    すぐに箒とちり取りを持って、玄関をはいた。
    そして、門までのアプローチの石畳も掃き清めた。
    すっきりとした。
    これは、落ち葉が教えてくれた仕事だった。

    雨と暑さのせいかナデシコが元気が無かった。
    少々弱って萎れた花たちもあったので、
    それを鋏で一つ一つパチンパチンと切って袋に入れた。
    次の花芽に期待して、「元気になれよ」と呼びかけた。
    これもまた、萎れた花たちが促した仕事だった。

    柑橘系の葉っぱに、今週の初めころ、アゲハチョウが舞って来た。
    よくぞ、この猫の額の小さな庭の、この葉っぱを観つけたものだと、
    その本能には驚いている。
    彼女は、葉っぱに止まり、お尻を巻き込み、葉の裏に卵を産む。
    一枚に一つの卵。
    ここに生きて行くための知恵があった。

    その卵を探してみたら、驚いた。
    既に小さな小さな幼虫になっていた。
    ぼりぼりと小さな口で堅い葉っぱの端から食べていた。
    この幼虫、本当に見る見るうちに大きくなっていくのだった。
    そして、この鉢植えのスダチは、また坊主の枝ばかりのスダチと成り果てる。
    何とかしなくては、それが私に与えられた新たなミッションだ。

    FMでリュウトが流れていた。
    心穏やかな音色だった。
    私は座って、黙って、花たちを眺めていた。
    そのままでじっとそこに佇んでいることが気持ちよかった。

    何もしていない。
    今は、こうして親父たちよを書いている。
    そんな生活だった。
    無色人となってから、早くも一カ月半になった。
    無収入。だから、飲みに行くこともめっくりと減らした。
    こうして独りで生活していると、
    ふと、「今が、林住期。修業の時だなぁ」と、ふと、想う。

    独りで佇んでいられることの修業かな。
    何もしていなくても、それでいいんだと想える修業かな。
    時間の流れに身を任せる。身を委ねる。
    向こうから来たものだけを感じ、受け入れ、それに感応する。

    こんな時間はなかったなぁと、
    ふと、想いながら今朝はここに居る。

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