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親父たちよ

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  • from: クマさんさん

    2013年11月30日 18時19分40秒

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    人は人、自分は自分、仕方ない。

    「教師自身が気づくこととは、教師自身が学ぶことでもあります。
     ここでいう学ぶとは、経験を積み重ねると同義語です。」

    学ぶとは、変わることである。林 竹二
    変わらない学びは、やっぱり学びとは言えないのだと、
    この言葉に出会った大学時代から、大切にしてきた生き方だった。
    目の前にいる子供達こそが、先生なのだ。
    ああしてみたり、こうしてみたり、ああ言ってみたり、こう言ってみたり、
    確かに教育とは試行錯誤の連続である。
    しかし、その子供から学ばなければ、その子供への的確な支援はできないのだ。
    どう、その子供の心や魂に降りていけるか。
    つまり、どう学ぶことによって自分自身を変えられる教師となるか、
    本当は、そのことが問われているのだと私は思う。
    経験をすることで予想外な気づきに出会うことがある。
    生き方とは、その気づきと視点とをどうよりよい方向へ変えられるかだとも思っている。
    結局、子供たちから問われているのは、人としての教師自身の生き方そのものなのだ。

    「不争」の哲学

    森のことについて、いつも考えるようになってしまった。
    これも師匠の大きな影響なのだが、とにかく森なのだ。
    それでは、その森を構成しているメンバーのどれが一番偉くて、
    どれが一番劣っているのだろうか。
    さて、鳥、花、草木、ケモノに虫と、多種多彩なメンバーがここに揃っている。
    そんなメンバーに対してどうして優劣がつけられるだろうか。
    全てのものは繋がり、助け合い、補い合い、支えあって生きているのだ。
    背が高いから、葉っぱがでかいから、大きな声で鳴けるから、一番足が速いから、
    そんなものどうでもいいことだった。
    そこに生まれ、そこに生きる。ただそれだけだ。
    しかし、確かに食べたり食べられたりする関係は存在する。
    しかし、最期は全て土に帰り、水に流れる。
    いのちは、その変化と流れの中で姿かたちを変えながら、不変に生き続けているのだ。
    「不争」という老子の生き方を、短気で喧嘩早い私は自戒として命じている。
    愚かな者だけが、争うものだ。
    人は、人。自分は、自分。違っていて当たり前。何と言われようとも、私は私なのだ。
    自戒、自戒、自戒・・・・・。

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  • from: クマさんさん

    2013年11月30日 17時30分19秒

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    故郷を知る人になると、故郷に還れる人になる

    「発見とはかくも面白くも、痛くも、哀しいものである。破壊的創造と覚悟である」

    故郷を知っている人は、故郷を知る人なのだ。
    その故郷から我々は、生まれ、
    その故郷に我々は還っていく。
    その故郷を見るためには、人には心の「窓」が必要だった。
    その窓さえあれば、人はいつだってその故郷に還ることができる。
    その故郷は、安らぎの場であり、豊かなる自然の空間でもあった。
    この生涯とは、その故郷からこの世に生まれ、
    その故郷に還るまでの、ほんのまたたきの瞬間に過ぎないのだ。
    生者と共に死者が「協同」してその間は生きてくれる。
    死者の使命とは、生者を守り、育むことにあるからだ。
    そして、魂としての存在である自分を知ってしまったら、
    もう後戻りはできないのである。
    魂は、ある生き方を指し示す。人は、その道を歩かねばならないからだ。
    さて、このコトバが発見の説明になっているかどうかは、
    各自で考えてもらいたい。
    とにかく、この道を歩きぬくということは、破壊的創造と覚悟が必要なのだ。

    「ホリステックとは、その人の存在。あるがまま。あるいは総体という意味です」
    「まるごと・存在のすべて」

    ここでまた突然ホリステックに戻ることをお許しいだだきたい。
    しかし、何もこの飛躍に違和感を感じないのは、
    仏教もホリスティクも魂のことを話しているからかもしれないと私は思うようになった。
    言葉が先行してその実態がわからぬうちに、何かが進むこともある。
    師匠から「ホリスティックはおもっしぇてば」と言われても、
    なんのことやらさっぱりと分からなかった私は、本を読んだ。
    そしたら、みんなそれぞれの立場や境遇や考え方や生き方で、
    それぞれが深く深く体験を掘り下げて、自分自身を語っていた。
    そして、深く深く行くことによって、個別な体験であったはずなのに、
    それはいつの間にか普遍的なものとなって行った。
    「イデア」なのかも知れない。
    「魂」の故郷なのかも知れない。
    とにかく、ホリスティックでないものは存在していないことに気づいたのだ。
    ホリスティックというコトバの意味を未だに知らない。
    でも、「まるこど・あるがまま」には大賛成なのだ。
    その「まるこど・あるがまま」でいいと言える、故郷からのメッセージだからだ。

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  • from: クマさんさん

    2013年11月30日 17時01分54秒

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    念仏をする。念仏になる。

    「臨終を待つことなしに救われる」

    実は、救いから最も遠いところをとぼとぼと独り歩いているのが、私だ。
    こんなにいい加減で、臆病で、無力なる人も居ないのだと思っている。
    だから、自分では生きられないから、人に頼り、お地蔵様に頼っている。
    ああ、独りで歩けないのだ。情けないけど、それが本当の私だ。
    しかし、そんな愚かな自分を知っているからこそ、
    「南無阿弥陀仏」と祈る私になれたのかもしれないと思っている。
    試練ぱかり向こうからやって来ることがある。
    どうして私ばかりと、愚痴の百も言いたくなるが、
    「それがこの世だと」仏様はおっしゃっている。
    「だから、わしがここに居る」と、お地蔵様がおっしゃってくれる。
    「ありがとうございます」と、ただ合掌して、頭を垂れる。
    祈ると、救われる。
    臨終を待つことなく、私はどれだけ救われて、慰められたか分からない。
    祈ることなのだ。ただ、祈ることなのだ。

    「念仏を得た時に、人間は新しい人間として誕生しなおす」

    念仏は、向こうからやってくるものだと教えられたことがある。
    それは、念仏をしようとして念仏をするのではないということだ。
    例えば、嵐に飲まれ難破した船から海に投げ出された時、
    荒波の中で人は、必死になって助けを求めるはずである。
    その時、「南無阿弥陀仏」の念仏は叫ばれ、魂の奥底から呼びかけられる。
    「助けてください。」「死にそうです。」「どうか力をお与えください。」
    その生死のギリギリの一大事で、私は神仏にすがるのだと思っている。
    その時の「南無阿弥陀仏」が私を変える。
    私は、私がとてもか弱く小さなものに感じられる。
    仏様がいなければ、とうてい生きてはいけないものと感じている。
    だから、お願いしますとそんな私を委ねられる魂と出会う。
    今は、どこのお地蔵様にも、「南無阿弥陀仏」と言ってお参りができる人になった。

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  • from: クマさんさん

    2013年11月30日 16時43分00秒

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    これからどう生きたらよいのか、考えて歩く、歩く。

    「デスカバー(発見する)」
    「仏教は仏になることと見つけたり」

    せっかく書いたものが、突然消えてしまった。
    それでもやっぱり「まぁいいか」とやり直すところが、私の変わったところかもしれない。
    カバーをはずすことで、本物が見えてくる。
    常識や世間体や、そういうものだとかそんなのは見たことがないとかで、
    私たちは時々、その本物を見ないようにしている気がする。
    それは、楽な道だからだ。みんなと同じならば、誰も文句は言わないだろう。
    本音や本心は、カバーされて、自分自身にも隠されている。
    その覆いを取り去ることが、怖いのだ。
    発見とは、そこに答えがすでに存在していることである。
    すでにここにはいなさってくれているのである。
    それでは、勇気を持ってそのカバーを取り去った時、
    見えるのは「主人公」であり、「真面目」であり、「サムシンググレート」なのである。
    「悟り」という漢字は、こう私たちに教えてくれる。
    「吾の心」それを分かりなさいと。
    その私をデスカバーした人が、仏になるのだ。

    「人間と文明の限界に直面した。つまり、根源的な悪と罪の自覚に達した思想と
     感性なしには、次なる時代はないと確信している」

    これから先は、何処へ行くのだろうか。
    それは誰にも分からないのだ。
    今、ここは分かる。
    しかし、これから5年後、10年後の世の中はどうなっているのか、
    分からないまま、全く見通しや予測が立たないまま、時代はどんどん突き進んでいるのだ。
    変化することは、まさに自然であり、無情であることも了解済みだ。
    ただし、ここで立ち止まって考えてみることも大事ではないかということなのだ。
    「できるから、あえてやらない」
    そうした考え方もあってもいいと思うと私は思う。
    原罪を問うているのではない。
    どう生きていくかの一人ひとりの生き方の哲学が問われているのだ。
    「大事なことは、理論ではなく、感性ではないだろうか」
    このままでいいのかと不安を感じたならば、
    感性を信じて、信ずるだけの道を地道に進むしかないのかもしれない。
    「答えはない。ただ、歩きながら考えるだけ」なのだ。

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  • from: クマさんさん

    2013年11月29日 23時20分24秒

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    大いなるものは存在し続けるのだ

    「中世の人は、風の音に命があり、若葉の息吹を感じる」

    人は、自然からさまざまな感情を学んだと言う人がいた。
    そうだなぁと、私も思う。
    太古の昔、自然の真っ只中で生活していた人々が居た。
    恐れ、怒り、悲しみ、平安、慈しみ、優しさ、さして、美しさ。
    そんな感動が、自然の姿から感じられ、己のものとされたと言うのだ。
    今、冬の嵐が吹き荒れている。冷たい風が音を立てて飛び去っていく。
    そんな季節の大きな変わり目なのに、私は部屋の中でストーブで暖まっている。
    その自然の冬の寒さや恐ろしさを感じないまま、ここで文章を書いている。
    中世の人たちは、自然の真っ只中で、自然の移ろいと共に生活した人たちだ。
    だから、風の音や若葉の歓びの声を聴きとるだけの感性があったのだ。
    しかし、現代の私たちの生活は、自然とは文明によって遮断された生活を送っている。
    風の音や、若葉の歓びの声を聴く感性なんぞは、けっして育たない環境なのだ。
    原発なんぞを創れる怪物とは、そういう環境で育ったものなのだ。
    かく言う私も、その一人なのかもしれない。
    その反省と自戒とを込めて、この言葉の意味を味わいたいと思っている。

    「サムシンググレート」

    そうだなぁと、私も思う。
    やっぱり、この「サムシンググレート」が存在するから、私が居るのだ。
    国土・衆生 いのちあるすべてがここに存在できるのは、
    やっぱりこの大いなる故郷が存在するからだと感じている。
    みんなここから産まれてきたのだ。
    みんなここが故郷なのだ。
    ここが故郷でないものは一つもないのだ。
    だから、みんなは故郷を同じくする兄弟であり、姉妹なのだ。
    私は、その一部である。
    そして、どういうわけか、この時代にクマさんとしての人生を与えられた。
    その人生は、生涯と言うように、始めがあり終わりがあるが、
    実は、この世だけを見るとそうとしか言えないのだけれど、
    この無常なる身体としての私はそうでしかないが、
    魂としての私は、やっぱりこの故郷から産まれ、故郷に還るのであるから、
    生まれもしないし、死にもしないのだ。
    不生不滅が、やっと私にも分かって来たようだ。
    みんなは、忘れているのだ。
    自分という存在は、サムシンググレートとしての自分としての存在でも在りうることを。
    このサムシンググレートは、ここに生きている。
    そして、それは混沌から生まれ、今を生き、永遠に存在続けるサムシングでもあるのだ。
    だから、サムシンググレートの存在を信じよう。それしか言えない。

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  • from: クマさんさん

    2013年11月29日 21時26分56秒

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    さてさて、自然のままとは難しいものだ

    「人生の悲哀に直面したときに、哲学が始まる」

    すごいなぁ。その通りだなぁと、この言葉を書き留めて思ったよ。
    きっとこの人も、その人生の悲哀に直面して、立ち往生してしまったのだろうね。
    実は、人生とは、無情なもので、苦であり、悲哀に満ちたものなんだな。
    だから、釈迦は愛する妻と子供とを捨てて、修行の旅に出たんだよね。
    苦こそ、人生なんだな。
    その苦をどう解決するかが、釈迦の苦行の目的でした。
    私の悲哀は、昨年六月の母の死かな。
    もっともっとここまで生きるまでには悲哀の連続だったけれど、
    その度にどう生きたらいいのかを、考えて来たけれど、
    やっぱり最も愛する人との別れほど、悲哀はないと想いました。
    でも、母の臨終に立会い、母が危篤となり、だんだんと血圧が下がり、
    あっと言う間に呼吸が途絶えた時に、私は、母はこの身体にはいないことを確信したよ。
    医師が「ご臨終です」と言ったとき、私は母に向かって拍手をした。
    ここまで家族のために全てを投げ出し、尽くし、いのちを削った生き方には、
    ただただ敬意と賞賛しかなかったからだ。
    生きるとは、いかに死ぬかということだったらしい。
    母が居なくなってしまった抜け殻の身体と一緒に、バンに乗った。
    母の亡骸はここにあるけれど、母の魂は、私の傍に居てくれる。
    魂と出会うことから、実は、哲学が始まるのではないだろうか。
    母は、今でも生きているのだ。

    「わがはからいにあらず。自然法爾」

    ここで突然親鸞の話になるところが、やっぱり私だね。
    これは、五木寛之と梅原猛の「仏の発見」をここから突然に読み出したからなんだ。
    私は、実は縄文が21世紀の世界を救うと信じている人である。
    日本人のもっていた、太古からの信仰の中に、現代の課題を解決するヒントは隠されている。
    そう信じている一人なのだ。
    さて、親鸞の思想の難しいことは、私は知らない。
    ただ、親鸞は私は大好きな人である。
    自分の人としての煩悩を認め、その煩悩をもつ人でありながら、
    救われる道を魂が血みどろになりながら求めつ続けた人だからだ。
    「悪人正機」という考えがある。
    後に、この思想は本願ぼこりとして間違って伝えられ、親鸞の苦悩となったことは、
    現在新潟日報に連載されている「親鸞」に書かれている。
    ただ、ここで言いたいことは、あるべきように生きることが人の生きる道であり、
    それは、私が決めることではなく、仏が既に決めていることであるということだった。
    「無為自然」と老子が語った。
    この「法爾」とは、そのままに、お任せいたします、という心が現れた言葉なのだ。
    人が、自然界の一部であるなら、この無情であり、変化するそのままの自然に、
    全てを委ねて生きることこそ、仏が願う道なのだと言うことだった。
    本当は、この生き方こそ、楽で、自由な生き方なのだが、なかなかどうして、難儀なのだ。

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  • from: クマさんさん

    2013年11月29日 19時04分39秒

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    ああ、自分の人生は自分で行きたいものだなぁ

    「どの苦しみも、みな自分のために与えられたものであり、
     その中にこそ、自分の学ぶべき課題が与えられているのだ」

    56歳でどん底を経験している。しかし、どん底はまだまだだ。
    底はもっともっと深いようだ。でも、ここまで生かされてきた。そこに配慮を感じている。
    苦しみを認める。苦しみを受け入れる。苦しみの中で生きる。
    その生き方を学ぶために、この苦しみが与えられているのかもしれない。
    神は、人が耐えられない試練はけっしてお与えにならないと、イエスは言っている。
    確かにそうだった。試練の中で分かるのは、ます自分の弱さと愚かさとだった。
    しかし、それを自己否定としてはならないのだ。
    なぜならば、自分とは本当はそういうものなのだと分かるためにこの苦しみがあったからだ。
    苦しみの中で、削ぎ落とされるのは、我という執着だった。
    まだまだそんなに自分のことをたいしたものだと思っているのかと、
    自分の中の自分が笑ってくれる。
    それがいいんだ。自分の情けなさと弱さと愚かさとが露になる。
    そこで、初めて本当の自分と出会うことになるのである。
    ただし、自分とは弱く愚かな自分だけでなく、その自分を見守る大いなる自分が居ることも、
    この苦しみの経験を通してだけ、人には明らかにされるのだ。
    そして、もう一つは、苦しみの最中にいるときには、去るべき人は去っていくが、
    いつもいつまでも心配してくれる真の友だけは、けっして去ることはなく、
    心配しながら、いつもどんな場所でも、魂として傍に居てくれるのだった。
    その事実を理解するためには、人は何度もどん底を味わうべきなのかもしれない。
    どん底には、ゆるぎなく信頼できる優しさと出会えるチャンスがあるのだ。

    「どこでも自分が主人公になれる力」

    人生は一幕の舞台であるとは、シェークスピアの言葉だっただろうか。
    物語には主人公が登場する。
    自分の人生そのものは、実は自分が主人公の一つの舞台なのかもしれない。
    ただし、主人公すらその舞台の粗筋も結末も知らないという、素敵な舞台なのだ。
    実は、この主人公という言葉は、中国の禅の師による言葉なのだ。
    人には、その人の中にその人である主人公が居るというのだ。
    私はある意味我執による迷える私であるが、
    その私の主人公は、ちゃんと道をわきまえ、その中道をまっすぐに歩いているのだ。
    だから、その禅の師は、時々坐禅の修行をしながら呼ぶのだそうだ。
    「主人公」と。それも大きな声で自分自身に呼びかけるというのである。
    すると、自分がこれも大きな声で「はいっ」と答えるのである。
    「主人公」「はいっ」
    私が生きているのではなく、できれば主人公の物語を私の人生として行きたいものだ。
    その自分の中に生きる、主人公の存在を信じて、委ねることが、
    どこでも自分が人生と言う舞台の主人公となれる唯一の道なのだ。

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    2013年11月29日 18時09分30秒

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    私は、何の為にこの世に生まれた来たのか。酒を飲むためさ。

    「教育の仕事は、人が癒されて、輝いて生きていくお手伝いをする仕事」

    教育とは、その子にとっての教育だと私は思っている。
    教育に子供が合わせるのではなくて、教育が子供まで降りていくのである。
    その子がどのように想い、どのように感じ、どのように成長するかが大事なことで、
    全体の平均点がどうだこうだと騒いでいるうちは、
    教育の本質を見誤り、はじかれてしまう子供がどんどん増えるのだと危惧している。
    学校は子どもたちひとりひとりのためにあるものだ。
    ひのひとりひとりのこのあり方の違いを認め、その個性とそのタレントを伸ばす。
    また、集団の中においての生活を学び、
    人と人とがつながり助け合って生きる喜びを感得できる場であってほしい。
    共生という視点から、できる子は、できない子を助け、お互いに支え補い合って生きる。
    子供たちはすでに人としての生きる力も、意欲ももっている。
    ならば、その力と個性とをじっくりと観察して、それを輝かせるように努力する。
    学力向上とは、学力工場なのである。
    工場では、効率が求められ、競争させられ、優劣があり、不良品は捨てられる。
    こんな状況では、けっし人の心は癒されないはずである。
    できる、できないではなく、あなたはあなたで素晴らしいのだということだと、私は思う。

    「人間は、一人ひとり使命をもってこの世に降り立っているのだ」

    これもやっぱり深すぎる問いである。
    私も人間のはしくれの一人とするならば、私にもその使命ととあるということだ。
    それならば、いったいその私の使命とは何かと問うことこそ、
    私のなかにおける「考える」という哲学の仕事なのだ。
    ふりかえってみたら、私は40代の頃からただただ突っ走ってきた気がする。
    とにかく、面白いものや、やりたいものが向こうからやって来たのだ。
    ビオトープしかり、山のクラブしかり、劇団しかりである。
    次々と楽しみながら、仲間の輪を広げて活動を続けることで、
    私は変わり、私とかかわってきた人の人生の方向が変わっていった。
    かかわりを通して、一人ひとりが輝ける場を創ることが私の役割であったが、
    そうやって生きてきたことには、何も公開はなかったし、
    ただただおもっしぇかったぁでもあった。
    「使命」とは、すごい言葉だと思う。
    「命を使う」のだ。しかし、それはきっと自分のためではないはずである。
    誰かの為にこの命を投げ出し、捨てることが、使命ということではないだろうか。
    使命を果たしたとき、この命がしめい(終わり)になるような仕事をしたいものだ。
    ただ、言っておきたいことは、子供たちにもそのことを分かっていてもらいたいことだ。
    あなたには、あなたしかできない使命をもってこの世に生まれて来たのだということを。
    やっぱり、その気づきこそ、教育の基本なのではないだろうか。

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    2013年11月29日 17時32分06秒

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    自然界における期待される人としての役割とは

    「途切れない自分の人生を精一杯に生きる人間のあり方」

    途切れない自分の人生なんて当たり前ではないかと考える。
    だって生まれてからこの命が途切れていないからこうして生きているんだか、
    しかし、途切れないとは、そういう意味でのことではないのだ。
    「いのちのバトンパス」という言葉を知っているだろうか。
    私という一人の人間が生まれるためには、両親が必要なのである。
    つまり、私は父と母との命を受け継いで今ここに存在しているんだ。
    あるお坊さんが言っていた。
    「それでは、あなたのご先祖はどれだけいるかご存知ですか。」
    10代遡るためには、1024人の男女のご先祖が必要なのだ。
    20代遡るためには、1048576人の男女のご先祖が必要なのだ。
    30代遡るためには、1073741824人の男女のご先祖が必要なのだ。
    たった30代遡るだけで、約10億7千万人の人生があったということだった。
    もし、この10億人のどこかで命のバトンパスが誤って行われなかったとしたら、
    今、ここに、私は存在していないのだ。
    そして、私の父も母も、長男も次男もここには居ない事となる。
    「あり方」を見つめているのは、何と10億7千万人のご先祖様たちなのである。
    やっぱりせめて身体だけでも大切にしなければと、そう改めて思って減量を始めた。

    「大いなる自然界の中に生きるいのちとしての自分
     その自分と他者とのつながりを大切にする教育」

    この問が実は、このずっと庭でたそがれていた私にとっての根本的な問だった。
    自然の中において人とはいったいどんな存在なのかということだった。
    例えば、自然の純粋な形での循環を輪っかのように考えると、
    確かに自然にある全てのものはお互いにつながり支え、助け合っている。
    つまり、姿や形こそ変えながらも、それぞれがかかわりあって存在しているのだ。
    鳥、花、草木、けものに虫に・・・と、「かぐや姫」の映画でも唄われているように、
    これが生きているからそれがあり、それがあるからこれが生きるのだ。
    大いなる自然とは、大いなるいのちの循環そのものなのだ。
    しかし、どうも人間は、その輪っかの外に置かれているらしいのだ。
    自然にとっては、迷惑な存在が人間なのだ。
    しかし、しかし、だ。
    本当にそうなのだろうか。
    人はこの自然界で果たさねばならない役割は必ずあるはずだ。
    ただ、消費し搾取し、荒らし、環境を汚染し、破壊するだけの存在ならば、
    この循環から消えたほうが良さそうだ。
    ところが、ずっとずっと考えていたら、やっぱり人しての大きな役割が存在していたのである。
    その答えは、鳥、花、草木、けものに虫にはなく、
    人だけが持っているものなのだ。
    それは・・・・。この問に対する答えはあまりにも大きすぎるので次の機会にすることにする。
    子供たちには、自然のいのちとかかわらせ、人としてのよき教育を願うだけである。

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  • from: クマさんさん

    2013年11月29日 16時46分17秒

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    自分のことは、自分が一番分からないのだ

    「今の私にできることがあるなら、子供といっしょにいたい。人といっしょにいたい。」

    わかるなぁ。感じるなぁ。そうなんだなぁ。独りはやっぱり寂しいんだなぁ。
    長男と次男が幼児だった頃、とにかく遊んだ。
    可愛くて可愛くて、いつも私の傍から離れずに、遊びをせがんでくれた。
    ぎゅうと抱きしめた。肩車をした。抱っこした。手を繋いで散歩した。
    こちょこちょをした。ほっぺたにキスをした。面白かったなぁ。そして、楽しかったなぁ。
    子供と遊んでいると元気をもらった。「おとうしゃん、おとうしゃん」
    しかし、今は、見向きもされない。名前を読んでも返事も無かった。
    でも、やっぱりこんなにでかくなった高校三年生の次男が居ると安心なのだ。
    人は人といるのがいい。それも手を繋いだり、肩に手を置いたり、抱きしめたりと、
    そんなスキンシップがあればもっといいんだ。
    心と心が、想いと想いが、魂と魂とが、目には見えないけれどつながることで、
    人は、生きているということの幸せを感じらるのではないだろうか。


    自己覚醒 自己の内外で起こっていることに注意を行き渡らせる状態」

    タイのある偉い偉いお坊さんが、「自分をいつでも観察しなさい」と言っていた。
    それは、自分というあるがままをしっかりと見つめて、分かるということらしい。
    絶えず変化し、一定ではないものが、やっぱり人の心なのである。
    感情もそうである。くるくると変化ばかりして、落ち着かないものだ。
    それから、あれも考え、これを想い、あれを悔いたり、これを欲しかったりと、
    やっぱりこれも落ち着きがないのだ。
    でも、その感情や心の心象の変化をただじっと見つめていなさいとのことだった。
    それが、自分を自分するための大切な修行としていた。
    そして、そのままほったらかしにしておきなさいとのことでもあった。
    そのトレーニングをすることで、人の心や感情を共感的に理解できるようになると言うのだ。
    そして、その内に何年か何十年かするうちに、
    「あっ、そうか」と、自分のことが分かるのだと言う。
    そんなものかもしれないと、今は思いながら、
    どうやってこの私のことを諦めたらよいのか観察しつつ考えている。

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