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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2020年08月31日 06時42分38秒

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    ああ、休みたい。眠っていたい。

    久々に体調、悪し。
    まぁ、飲み過ぎに決まっているが、それだけが原因ではなかった。
    心の体調もよくはないからだ。

    私にとって他人事は、コントロールのできないことだ。
    しかし、そこに臨んでいない不具合があったら、どうだろうか。
    「えっ、そう思っていたのか・・・」の驚き。
    しかし、そのことは、自業自得で、私のせいで、仕方ない。
    何故、そのことで心の体調を乱してしまうのか。
    それは、思っても、悩んでも、そのことは何も変化しないからだ。

    ちょっとした一言で、相手に嫌な思いをさせてしまう。
    腹を立てさせてしまう。
    そんなことも、私にはよくある話だ。
    慎重の言葉を選んでいるつもりが、
    受け取る側の気持ちの違いに気付かない。
    よかれと思った言葉が、悪しかれの言葉となって伝わってしまう。
    これも、私のコントロールできないことだ。

    人が落ち込んでいる。
    今の私がまさにそうだが、
    その気持ちを感じたり、話してもらったりしても、
    私は、その人を慰めることはできても、
    やっぱり無力なんだな。
    その人本人が解決をすることだ。
    私が、その人の替わりに生きることはできない。
    決断し、実行するのは、その人だ。
    これも私のコントロールではない場所にあるもの。

    一昨日、大事なカメラを失くしていたことを知った。
    リックの底にいつもいつも入れていたカメラだった。
    だから、ここにあるものと信じて疑わなかった。
    それでは「写真を」と思って探ったら、
    そこにはカメラが収まっていなかった。「あれっ」だった。
    しかし、いつものことだが、
    どこで失くしたのか。最後にいつ使ったのか、それすら忘れた。
    忘れてしまったのは、カメラでけでなく、私の記憶だった。

    大事な物から順に失くしているような気がする。
    どうでもいいものは、そこらへんに転がっている。
    さて、使おうと探すと、それがなくなっていることに気付く。
    つまり、ちゃんと私が片づけていない。
    どこかに置いたまま、その場を立ち去る。
    すっかりそのものの存在を忘れている。
    辛いことだか、最近は、物忘れのオンパレードだ。

    人間関係のどつぼに入ることに、今日は何だか耐えられない気がする。
    気が重い。仕事に行くのが、とても辛い。
    また、あの沈黙と忍耐と他者の思惑の中で働かねばならないのか。
    6~7名の他者だ。
    まだ、心の体調がよい時は、そんなもの全く無関係で仕事ができる。
    しかし、弱っている時は、過敏であり、微妙であり、はねのける力も弱い。
    だから、もろに影響を受けてしまう。
    心が重く、辛くなる。

    朝から、こんなに暗いのには、やっぱりわけがある。
    この身体の体調の悪さなんだな。
    胃腸関係が疲れている時。
    まだその回復に至らず、気分が善くない時。
    やっぱり、心の体調もよくないよえだ。
    健康第一とは、私にとっては「飲み過ぎ注意」だった。
    胃腸が弱り、軽い吐き気すらある時、
    私の気分はどっと落ち込み、こんな辛さばかり考えてまた落ち込む。

    この空のようにすっきりしないから、
    余計なつまらないことばかり考えて、自分で自分を弱らせる。
    だから、まず体調の回復が第一だった。

    失ったものは、二度とは戻らない。
    言ってしまった言葉は、もう取り返しがつかない。
    相手の気持ちを変えることは、自分の気持ちを変えることより至難のことだ。
    そして、飲み過ぎた酒は、元には戻らない。
    人はそれぞれ違う考えで生きている。
    その違いの中では小さく生きねばならないだろう。

    ああ、今日は、ずっと眠っていたい。
    休んでいたい。
    休養にしたい。

    どうやってリカバリーをしようかと、何だか途方に暮れている。

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  • from: クマドンさん

    2020年08月30日 15時44分10秒

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    奇跡は、今、ここに、あるものだ

    激動の三日間。
    昨日、土曜日の昼は討ち死にだったな。
    そのまま、布団の中で本を読み、眠った。眠った。
    気付いたら、午後2時過ぎだった。
    朝食を食べて10時からの4時間の睡眠だった。
    それでも、3時には支度してから熱波の中をバス停まで歩いた。
    4時からの駅前「つぼ八」での三人会だった。
    さてさて、その激動の三日間を振り返る。

    木曜日の夜は、Noismだった。
    このチケット、本当に奇跡のチケットだった。
    Noisum2の公演チケットを私は返却して、再購入することを忘れていた。
    返金を手続きをお願いするために電話したら、
    丁度その日からNoismのチケットの販売日だった。
    すぐに申しだら、何とこのプレミアチケットの7列目をゲットできた。
    不思議なこともあるものだと、感謝、感謝だった。

    熱く熱く、本当に待ちに待った公演だった。
    本公演は来年に延期されたが、そのプレ公演とはいえ、
    踊れることの喜びと感動だった。
    それは、ファンの私たちも同じこと。
    とにかく、待っていた。ずっと待っていた。
    そして、その願いは、とうとう実現した。
    静かな幕開きだった。井関さんと、山田さんの二人だった。
    感応同行とでも言うのか、お互いでお互いを感じつつの反応だった。
    自然に手と足が動く。それは、風に揺れる木の枝葉のようだった。
    感情に任せての身体の動き。ここから、Noismは、再開された。

    あの米がさーーっと降り注ぐ祈りだった。
    それは、復活への深い深い祈りそのもの。
    絢美さんが、いかったなぁ。
    彼女の想いの熱量は半端でなかった。
    光っていた。輝きを増していた。それが、存在感として感じられた。

    ウェストサイド・ストーリーのような躍動感。
    1人ひとりの個性的な踊り。
    西澤さんが、井関さんとのデュエットは、嬉しかった。
    彼女は、そうやって抜擢されながらの成長だった。
    目が違っていたな。まっすくに踊りに向かっていたあの目。
    やはりただものでない素敵さを感じた。

    しかし、またプレなのか、爆発的な魂が震える感動は、味わえなかった。
    何か斬新なものはなく、何かセオリーの中での、そのままの。
    だから、あの立ち上がれない位の歓喜はと涙は私にはなかった。
    この状況下での上演だ。
    どれだけ集中し、どれだけ打ち震えるような感動が・・・と期待したが、
    ターテンコールで、座ったまま拍手する私だった。
    確かに「ブラブォー」は禁止されていたが・・・。

    金曜日は、Jazzフラッシュで、
    吉川ナオミさん(vo)、田中トシユキさん(p)、若林修一さん(dr)、
    小松原さん(g)、潤さん(b)の豪華メンバーによる演奏だった。
    ここでも、奇跡が起こった。
    私は開演を1時間間違えていた。
    7時に会場に入ったら、リサの真っ最中だった。
    田中さんが、私のことをそのまま置いといてくれた。
    私は、みんなと30分以上、素敵な演奏を聴くことができたということだった。

    長男が今、Jazzギターで演奏したり、セッションに参加している。
    彼もなかなかの腕前となっている。
    そこで、大好きな小松原さんが出演するので、彼を誘った。
    仕事終わりに、彼は、バスで駆けつけた。
    みんな知っている人たちばかりだ、ボサノバがとてもとても美しい。
    Diana klorlに、私は今、はまっている。
    まさに、ピアノとボーカルと、粋な美人voだった。
    スコッチに酔い、音楽に酔い、大人たちのその雰囲気に酔った、酔った。
    そしたら、打ち上げに誘ってもらった。

    これも奇跡だった。
    そして、その「しののめ」という居酒屋も奇跡だった。
    何と佐渡の名酒「金鶴」が置いてあったからだ。
    とにかく親父たちで飲み比べた。
    ダントツが、この金鶴だった。これこそ、求めていた日本酒だった。

    そして、私の向かいに三条から来たという中年の男性に声をかけた。
    みんなから「先生」と呼ばれていたので、学校関係者なのかと思ったからだ。
    そしたら、「えっ」と絶句して驚いた。
    三条でフリースクールをしているSさんだった。
    私は、その朝、新潟日報に掲載された写真入りの記事を切り取り、壁に張った。
    そして、いつか必ず連絡して、見学させてもらおと思っていた。
    そしたら、その人が飲み会の席の、真ん前に座っていた。
    こんな不思議なこともあるんだなぁと、改めて不思議を信じた。

    宴たけなわだった。
    終了時刻が何と午前2時過ぎだった。
    こんな時刻まで飲んでいたのは、30代以来ではないかの驚きだった。
    財布も封筒もみんな空っぽだった。
    帰りのタクシーの支払いは、長男のカード払いだった。
    まぁ、情けない親子と言えば、そうに違いなかった。
    帰り際に、吉川さんから、嬉しいお言葉をいただいた。
    「クマさんが、聴いてくれると、のりがいいから、気持ちよく歌えるんだよね」と。
    それは、若林さんも言ってくれた。「クマさんが、盛り上げてくれる」と。
    そんな役目も私は果たしていたのかの驚きだった。

    さてさて、やっと土曜日にたどり着いた。
    4時に新潟駅待合室だった。
    私は銀行のATMでお金を降ろした。何と所持金は763円だった。
    お金は本当に出て行く時には、流れるように出て行って、消えるものだ。
    松浜のKさんは、79歳。西郷隆盛の研究家・賢治の童話を語る会主催者だ。
    秋葉区のJさんは、62歳。小学校で再任用教師。陸上・水泳の全日本の審判資格者。
    三人の付き合いは、既に30年近くになろうといていた。
    人は、好きな人たちとなら、こうして長年のお付き合いになるものだった。

    西郷隆盛の「敬天愛人」の話になった。
    そして、鶴岡の庄内藩へKさんと私がシュクラでの旅の話だった。
    次に、西南戦争の話になり、
    戊辰戦争を東北から見たら、
    あれは長州・薩摩藩の狂気の私怨なのだとの話となった。
    そんな話をしている時が、本気になって愉快な三人だった。
    こんな飲み会も、あるのだの話。

    次に、どうしてこの三人が30年間も繋がってきたのかの話だった。
    それは、Kさんが、私やJさんが臨時教員で赴任した時、
    本当に可愛がってもらったからだと、2人が語った。
    出会いそのものが、奇跡だった。
    「クマさん、お前は、ダンボだ。だんぼだ。」と、
    よく飲みに連れて行ってもらう度に、酔っぱらったKさんから言われた。
    「がんばれ。採用されるんだぞ。お前は、先生になるんだぞ」だな。
    どれだけ二人は、彼のその言葉に励まされたことか。
    ダンボとは、松浜弁で、「馬鹿」という意味の言葉だった。
    私とJさんにとって、この言葉が何よりもの愛であり、励ましでもあった。
    だから、今も、こちらから望んで、飲み会に付き合ってもらっている。

    私と、Jさんとは「腐れ縁」の仲だった。
    きっと私のことを一番理解してくれている友は、彼だろうなぁ。
    二人にもいろいろあったが、採用が同じ歳だった。
    それも、私が32歳で、彼が31歳だった。
    彼は、坐禅する人で、連休には山奥の道場だし、毎日2時間は座っている。
    そんな二人の出会いは、まさに、奇跡だった。

    そうやって振り返ってみると、人生とは、奇跡の連続なんだ。
    ただ、そのことを奇跡だと信じられるかどうかで、
    その人の生きる意味は違って来ると思っている。

    何事も感謝だ。何事も奇跡なんだ。意味の無いことは一つもない。
    そう信じて生きている私には、その信じた通りの出会いであり、出来事になっている。
    いつもいつも全てのことは、恵なんだと、ありがたく感じている。

    Noismに出会ったおかげで、敬愛するヨガマスターに出会い、TETTOに出会った。
    そして、J&Yと出会い。チーズとワインのハーモニーが始まった。
    Jazzとの長い長い付き合いと追っかけで、
    大好きなJazzの歌い手と演奏家たちと知り合いになった。
    そのおかけで、シンさんのお店でconcertを行い、打ち上げまで声をかけられた。

    同じ小学校に勤務したおかげで、Kさんと、Jさんに出会えた。
    そして、2人には本音で語れる。自分のあるがままでいられる。
    お互いでお互いのことが大好きで、尊重し合っている。
    まさに、love&risupektだな。
    そうした人との出会いは、奇跡なんだな。

    そして、65歳になったら、フリースクールをと夢にみていたら、
    向こうからその学校を自力で立ち上げ、実践している先生が向かいに座っていた。
    それこそが、奇跡、奇跡ではないだろうか。

    願うことだ。求めることだ。信ずることだ。期待することだ。そして、祈ることだ。
    その人には、いつか必ず「奇跡」と呼べる瞬間がやって来る。
    本当にそのことを信じて、期待しているかの話だ。

    やっと今、復活した。
    平常に戻った。
    そして、これから午後5時から、北区のKさんとリモートでのちょい飲みだ。
    かれが4月に退職してから、このリモートでの「ちょい飲み会」が始まった。
    この出会いもまた、「奇跡」なんだな。

    奇跡は、日常に在るものだ。
    それを信じられる人には、きっとその奇跡の瞬間は到来する。
    それを、信じられるか、どうかだなぁ。

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  • from: クマドンさん

    2020年08月28日 06時58分26秒

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    63歳 雲起きる時

    今日から63歳を生きる。
    というか、これは通過点の一つにしか過ぎない。
    今朝、気付いた。
    「生まれる」と「生きる」とは、同じ漢字だ。
    だから、日々「新たに生まれ、新たに生きる」それでいいと。

    奇跡が起きた。
    あの「お前は、生きている意味があるのか」のししとうが、
    4㎝くらいの小さな緑色の実をつけていた。
    「へぇー」との驚きだった。
    「ほら、みたことか」かな。
    ちゃんと生きていたし、ちゃんと実をつけていた。

    私は、そんなししとうのことを想いながら、朝食を食べていた。
    そしたら、何でもそれでいいのではないのかと、ふと気付いた。
    つまり、「そのままでええ」と言うこと。
    余計な心配も、お世話もいらないと言うこと。
    それは、それなりに、生きるということ。
    「大丈夫なんだなぁ」を改めて知った。

    小千谷のSさんにそのことを話した。
    実は、大事なことは、何もこだわらないことですねの話だった。
    考えたところで、悩んだところで、
    ししとうは、その私の気持ちを察して、実をつけるわけでない。
    ししとうは、このまま葉っぱを大きくつけたまま、
    枯れて行っても、ししとうには変わりない。
    それでも、生きる。ただ生きる。生きていいる。
    それでけで、それでいい。
    そのうちに、ひょいと気付いたら、小さな花をつけ、実をつけている。

    何だか、庭の出来事を見ていると、
    何でもそのまま、そのように、そうなったかで、いいのではないのかの気付き。
    その内に、私は、ししとうになり、なすになり、トマトになっている。
    育てているのではなくて、共に育っている私。
    私がししとうで、ししとうが私。
    その「同事」で、いい。
    だから、何をしてやればよいのだではなく、
    共に生きているものとして、感じて、動けばそれでいいのではないのか。

    こちらが空っぽだと、そうしたいろいろな気持ちや感情や想いがやって来る。
    それは、庭に生きている花や野菜や野草たち。
    すずめに、蜘蛛に、蝶や、トカゲたち。
    ふと、それを見ると、それになる。
    自分を捨てるとか、自分を放下するとか、そんなたいそうなことでなく。
    ふと、それになる。
    同化するというのか、そのものになっている。
    そのことが、心地よく、そのことで、分ち合える。

    自分なんて、いらないよなぁ。
    自分があるから、ごつごつとぶつかり合う。感情をぶらす。イライラする。
    自分なんてどこにもなければ、ぶつかる相手もいなくなる。
    例え、そこにごつごつした固い石があっても、
    こちらが空っぽなら、それはた固い石がそこにあるだけ。
    私は、きっとその石や岩の間を、水のようにすーっと流れる。
    ひっかからない、とどまらない、こだわらない。

    長い引用になる。唐木順三著「良寛」からの抜粋だ。

    「其処、そのところは、名山霊峰も、障壁瓦礫も、ともどに在るところ、のみも
     しらみも、うぐいすもつるも、ともどもに在るところである。山川草木、有情
     無情がただ其処に確乎として存在する。同じ資格において存在する。善いとか、
     美しいとか、或いは悪いとか、醜いとか、そういう形容の以前において存在する。」

    「もし平等というなら、これほど平等なところはない。のみ、しらみが、うぐいす、
     つると共に、おのれなりに、おのずからに在る。その運命を背負って平然として
     在る。さらに言えば、其処に生があり死がある。生は生として在り、死は死として
     在る。生の終わりが死なのではない。生は生、死は死、各各独立して在る。」

    「存在も、生起も、消滅も、孤独、「独」のままに在る。そしてここで飛躍して
     いえば、ここが仏教の「慈悲」の働くところである。取捨選択の道徳とは次元を
     異にする慈悲は、こういう存在の平等世界を確認した上のねのである。」

    山川草木、生きとし生きるものは、全て「平等」な生きる命だ。

    元来ただ、これこれと、良寛は言っている。
    本当にそうだと思う。
    ただこれこれ、それが在るだけ。
    そこに生きたい。

    「行到水極処 坐看雲起時」  王維

    「行きては到る、水、極まる処。坐しては看る、雲、起きるの時」
    今は、水、極まる処だ。
    そしたら、坐することだ。きっと、雲がわき起こることを、感ずるはずだ。

    ここまでは、来た。
    ここから先は・・・。

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  • from: クマドンさん

    2020年08月27日 07時44分43秒

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    62歳、最後の日

    「やりたいことを、やる」
    何だか今朝、そんな言葉が心に浮かんだ。
    「わはは本舗」の柴田理恵さんのお話だった。
    とにかく、自分が好きなことを夢中になってやっていたら、
    きっと結果は、後からついて来るということだ。
    だから、やりたくないことは、やらなくて、いいのではないかだな。

    お仕事もそうだった。お金のため、家庭のため、老後のため。
    だから、やりたくなくても我慢して仕事をしている。
    そんな気持ちでお仕事をしている人も多いとは思う。
    でも、この人生は、たった一回。やり直しがきかない。
    私は、教師と言う仕事が天職だったから、
    それはそれは辛くて挫けることは何度もあったが、
    それでもこうして退職まで現場で全うできたことは、感謝している。

    確かに、カミュではないが、「健康第一」だった。
    もし、私が大きな病であったり、身体が不自由であったりしたら、
    このようなこれまでの生活を送ることはできなかったと思う。
    だから、そこそこの健康を与えられて来たこのこれまでの人生に対して、
    私は、心から感謝している。

    次に、多くの人たちの助けによって生かされて来たことだ。
    私は、人生の岐路に立たされる時、
    必ずこんな弱くて愚かな私のことを見守り、励まし、支えてくれた人と出会えた。
    人生に迷い、混沌と、悶々とした日々を送っていたあの頃、
    私には、私の話を聴き、私に行く道を示してくれる師や友がいてくれた。
    そのことを、私は、やはり心から感謝している。

    それから、父と母だった。85歳まで、長く生きてくれたことは、
    私に親の無い寂しさと辛さとを味わわすことのないまま、
    ここまで育つことができたからだ。
    親を亡くした人。親を失った人。親が遠くへ去った人。
    その人たちにとって、その事実は、なかなかの辛さ・哀しさだったと思う。
    父も母も、その歳まで生涯を全うしてくれた。
    最後の20年間は、私たち家族は、父と母と共に暮らせた。
    そして、最期を心を込めて看取り、送れた。
    そのことに、何の後悔も未練もなかった。
    私が、今、ここで、こうして生かされているのは、父と母のおかげさまだ。

    よく妻は、こんな私と結婚してくれたものだった。
    「あの頃は、若かった」「結婚は、間違っていた」と、はっきり言われる。
    でも、いろいろあっても、こうして共に暮らしてもらえることは、感謝だ。
    長男と次男を神様から、預かったことも、幸いだった。
    けっしてまともな父親ではなかったし、
    何もしてやけなかったなぁとも、思っているが、
    とにかく、可愛がり、愛することには、徹した。
    子どもたちがそれをどう思うかは、分からない。
    ただ、私は、一方的に愛した。それだけ。

    何でこんなことを書いているかと言うと、
    明日28日で私は、63歳となるからだ。
    私は、年金が支給されるこの歳を、何だか人生の大きな節目と考えていた。
    働かなければ、お金が入らない生活をずっとずっと続け来た。
    しかし、来月からは、ほんの僅かでも現金収入を得ることができるのだ。
    特に、時給900円で5時間働き、4,500円を一日の賃金とするようになって、
    私は、お金の価値についての認識を全く変えることができた。
    代金を支払う時、労働に換算することができるようになったからだ。
    そのお金が、年金としていただける。
    これこそ、天からの恵みと言うほかないではないかの「問い」だった。

    だから、これからは、「やりたいことを、やる」人生で生きたいのだ。
    しかし、私のやりたいこととは、「誰かの喜び」「誰かの慰め」「誰かの癒し」
    つまり、自分の我がままを貫くことではなく、
    どれだけ自分のことを忘れて、誰かのために、隣人のために生きられるか。
    そんな生き方を、この余生では全うしたいと願っている。

    つまり、食べていく、養っていく、少しだけ贅沢するために、
    お仕事をしてきたのなら、そろそろ生き方・考え方を変えて、
    自分のことを先にせず、出会った人のことを先にする生き方に、
    シフトを変えると言うことだった。

    ここまで、先に記したように、生かされて来たのは、
    私が独りでやってきたからではなく、
    健康に恵まれ。仕事に恵まれ。師や友に恵まれ。家族に恵まれたおかげさまだ。
    だから、まず全てのことには、感謝。感謝。感謝だった。
    そして、次は、何か。
    それは、やっぱり「身心脱落」なのだと、唐木順三著「良寛」を読んで思った。
    これからこそ、「宮沢賢治」であり、「良寛」である。
    つまり、やりたいこととは、この二人の師のように生き切るということだった。

    ここで、言い切ったのだから、私の覚悟も決まった。
    そのように生きるでは駄目、駄目だ。
    そうなって生きる。これに尽きる。
    では、どうするかの「問い」だな。
    きっと今日かもずっとずっとこの深くで語りかけて来る「言葉」に、
    どれだけ自分を捨て、自分を忘れて、素直に聴き従って生きられるかだった。

    今朝、はっと気付いた。
    「身心脱落」とは、自分を先にする欲と迷いを捨てるということではないかと。
    身の欲は、いろいろとある。その欲に捕らわれ、執着し、我を失う。忘れる。
    心の欲は、これもいろいろだ。その欲に惑わされ、騙され、振り回される。
    つまり、この身と心は、大事なものだが、
    そこに惑わされることで、人は愚かになり、大事なものを見失い、
    道を失い、彷徨い歩く。

    つまり、そうした身と心から、脱出する。抜け出す。捨て去る。離れ切る。
    すると、本当の喜びである身と心が自覚される。覚悟される。
    それがきっと、本来の面目なのだ。
    ここに人が人として生きる本来の幸いと喜びがあると信じた。
    本当は、「イエス」のように生きたい。
    しかし、これは究極・至難の道だ。
    こんな私には、まだ、まだ、まだ、まだ、その道は遠く険しい。

    私の人生と書道の師「大泉蒲水」先生の色紙の言葉だ。
    「我執を捨てて、ただ なんとなく」
    24歳で出会ったこの言葉に、やっと身の丈が合って来たような気がする。
    私は、きっとこの言葉を指針にして、ここまで生きて来たのかも知れなかった。
    この言葉が、私の今を導いてくれる。

    捨てることなんだな。
    この師たちは、みんな捨てて来た人たちだった。
    その師たちが捨てて来たものに、まだまだ執着し、惜しんでいたなら、
    きっと私は、いつまでたっても「身心脱落」には、至らないと思う。

    賢治さんをまた見つめ直し、良寛さんをまた学び直している。
    すると、やはり、一つになる。同事になる。一体になる。
    だから、私もそれになりたい。そこで同事として生きたい。
    それが、私が死ぬまでの祈願となす。

    多くのこれまでの愛と恵みとにただただ感謝だ。
    ならば、これからは、受くる人だけでなく、与える人に少しでもなれたら、
    本望ではないだろうか。

    そうなれば、きっと父や母も、師や友たちも、そして教え子たちも、
    喜んでくれると思っている。

    62歳の最後の日に、これを記す。

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  • from: クマドンさん

    2020年08月26日 06時51分26秒

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    みんなの私

    28日で63歳になる。
    へーつ、誰が?という感じだ。
    歳はとるかもしれないが、感ずるものではないようだ。
    いつまでも、きっと、今、ここなんだろうと思う。
    そうすれば、今、ここだけの私だ。
    どこから始まり、どこで終わる私ではない。
    始まりがないから、精神的な年齢は、いつも今、ここ、それだけだ。

    それでは、それなりに人生の経験を積んで変わったこととは何かを思った。

    まず、違っていいということだった。
    みんな違っている。
    違っているものがお互いに繋がり合いながら存在している。
    多様性と言うことに、本当に気付けば、そのことがよく理解される。
    みんな違う。
    なのに、どうして是非があるのか。
    その是非があるから、対立も分断も差別も生まれる。
    全ての命はフラットに違ったまま繋がって生きている。

    ならば、これが是で、これが非だと、誰が言えよう。
    それは、そのまま、それでいい。
    しかし、こだわる人は、そのことが許されない人だった。
    どうしても是でなければならない。
    みんなが是としているのに、どうしてあなたは是とは認めないのか。
    私は、その中から、距離を置いた。
    その是非に強くこだわる人を諦めた。
    そして、その人からも、私は離れた。それだけだ。

    次に、全てのものは変化するものだと思った。
    そして、明日のことは、誰も知らないとも思った。
    だから、こうであるべき。こうあらねばならない。は、なくなった。
    今、ここを、どう気持ちよく生きているか。
    そのことだけで、一日が過ぎる。
    疲れたら休むことにした。
    あるだけで、生きることにした。
    余計なことは、やらないことにした。
    何だか、シンプルな生活になった。

    やわらかい石で生きようと思っている。
    だから、どうでもよいことは、どうでもいいままにしている。
    最近、気付いたことは、一体感だ。
    何だか、私は、その一体感の仲間入りができたような喜びだ。
    本当は、全てのものは、一体だった。
    この朝の光も、空の青さも、松の緑も、雀たちも、
    それは一体だからの安心立命ではないだろうか。
    その一体に委ねる。一体に身を任す。
    「騰騰任運」だ。

    朝、我が家の庭に集まって来る雀たちによく話しかける。
    プランタの茄子にも話しかける。
    スズメノテッポウを抜きながら、話しかける。
    そうやって話しかける相手が、本当にここには数多数多だった。
    自然の中で生きるとは、その自然の友となることだ。
    そうすると、何でも話せる。
    そして、自然の命は、それを黙って、何も言わずに、聴いてくれる。
    その感覚が、とても嬉しく、気持ちよくなる。

    今朝のラジオで環境教育のNPOを30年間やっている高橋さんという女性だった。
    彼女は若かりしとき、あるキャンプに参加した。
    それは、オーストラリアの大自然で、三カ月間、
    いろいろな国の人たちと共同生活するキャンプたった。
    彼女がそのキャンプを選んだ目的は、
    多様な国の多様な文化や考え方に触れたかったということが第一の理由だった。
    「私は、1年間アメリカに留学しました」
    その時、日本では絶対に味わえない多様性の本質と幾度も出会ったということだった。
    つまり、多様性であり、多様性の中で生きることとは、
    自分もその多様性の一つにしか過ぎないことを自覚することだということだ。
    「多様性であることが、自然であるということです」だな。

    だから、その人のその自分とは全く異なるその違いと出会いに、
    このキャンプに参加したそうだ。
    私は、その言葉を聴いて、はっと思った。
    そうなんだ。是非にこだわる人たちには、この多様性が認められないんだ。
    そして、多様性を認めない人たちは、違いに対しては不寛容な人たちなんだと。
    つまり、人が違った人や文化を寛容に認めるためには、
    自分もその多様性の中のたった一粒なのだと、理解することが大事だということだ。

    しかし、権力者にとって一番恐れることは、この多様性でもあった。
    「こうあるべき」「こう考えるべき」「こう信ずるべき」と、
    自分たちに都合のように人を支配し、情報を統制し、
    一つの方向だけを向くようにする。
    多様性を認めたら、その国家は成り立たないと、不安に想う。
    だから、差別する。排除する。統制する。支配するだな。
    ここには、絶対に平和は存在しないと、彼女も言っていた。
    つまり、寛容であるということは、多様性を認め合うということだった。

    もう1つの話。
    ある湖の近くでキャンプしているときだった。
    「あの湖に、夕方になると、たくさんの動物たちが水を飲みに来ます」と聴いた。
    そこで、少し離れた茂みに隠れて、その時を待っていた。
    そしたら、来るは、来るは、たくさんの野生動物たちが、水を飲みにやって来た。
    みんな仲良く、肩を並べ、お互いが感ぜられるほどのディスタンスで、
    安心して、気持ちよく、水を飲んでいたそうだった。
    そこに夕日のオレンジが、バーッと照らし出し、
    その瞬間、彼女もそこへ行って、その水を一緒に飲みたくなったそうだ。

    涙が押さえきれず溢れ、感動で身体が震え、
    何か本当のことが身体に入ったような気持ちになったそうだ。
    それは、「みんな生きている」ということ。
    「私も、みんなと同じ生き物であること」
    「私も、みんなの仲間に入れてほしいと思ったこと」
    何よりも「私は、水や空気そして数多の命で生かされていること」
    それは、「あの動物たちも同じだということ」

    これが、本当のことだ。

    一体の中の一粒の私。

    一体によって創られた私。

    一体でしかありえない私。

    みんな、一体の中のみんな。

    みんなは、1つ。

    1つは、みんな。

    だから、自然の中で生きることだと、彼女は語った。
    そのことを、子どもたちにも気付いてもらいたい。
    そして、そのみんなと私は一体・同じなんだという思いで生きてもらいたい。
    大人になっても、その気持ちのままでいてくれたら、
    きっと、その人たちは、人とも自然とも、仲良く付き合っていけると思う。
    自然の中に居ることで、この一体感を学び、
    違ったもの同志で折り合いをつけて生きる生き方を学ぶことができる。

    だから、彼女は今も、子どもたちに大自然でのキャンプを体験させている。

    63歳にあと二日だ。
    この彼女の話は、そんな私への神様からの贈り物だ。
    もう、人の中では生きない。
    街の中では、ぽっんと、一軒家で生きる。
    そして、自然と対話しながら生きる。
    その自然としてであう仲間たちと、互いに認め合って生きる。
    挨拶する。言葉をかける。大切にする。世話をする。

    ここに本来の心の充足感があるようだ。

    プランタの2本のししとうだった。
    背丈だけが伸び、葉だけを茂らせて、1つも花も咲かせず、実もつけなかった。
    「お前には、生まれた来た意味があるのか」と、
    私は、昨日、ひどいことを思ってしまった。
    ところが、そのことがずっとずっと気にかかっていた。
    「おい、クマさん、そのししとうは、ここで生きていることが、意味なんだ」
    「クマさんよ、そのししとうは、お前にいろいろと心配をかけたよな」
    「でも、そのおかげで、お前は、いろいろと工夫したな。考えたな」
    「なぁ、クマさんよ。そのししとうが居てくれて、いかったな」
    そうなんだなぁ。
    そのししとうは、私だ。

    一体の私。

    みんなの私。

    そのままで、生き、そのままで老い衰え、そのままで死にたいものだ。
    そのことを教えてくれた自然のみんなに感謝、感謝、感謝だな。

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  • from: クマドンさん

    2020年08月25日 07時10分34秒

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    一歩を超えて行く

    今日から平常勤務となる。
    長かったなぁと、つくづく感じた。
    一日の勤務は、ただ只管の忍耐だった。
    それは「修業」そのものでもあった。
    そのおかげで、私も少しはタフになったような気がする。

    毎日、ランチには「カンボス」だった。
    とにかく、このお店に通うことができたことが、幸せだった。
    私の書道の師である蒲水先生の御贔屓の店だった。
    私も若かりし頃、何とが先生に連れて来られた。
    いつもいつも先生の驕りだった。
    何だかねぇ。「カンボス」が我が家に近かったらと、いつも思った。

    ところが、私がすぐ傍に来た。
    これは、先生のお導きだと信じている。
    とにかく、私がお疲れなことをよくよく知っているママは、
    いつもいつも優しく、労いの言葉をかけてくれる。
    その言葉が、何よりもの励みだった。
    帰りには小さなポットに氷と冷水を入れてくれる。
    「行ってらっしゃい」と、送られる。
    「よし、やるぞ」と、その声を背にして、気合を入れる。

    また、ここは東区劇団の人たちもよく来ていたそうだった。
    昨年度の演目がここの商店街を舞台にした物語だったからだ。
    そして、劇のポスターの写真を、このレトロなお店で撮っていた。
    一目で「カンボス」だと、分かった。
    今も、秋葉区のミュージカルのポスターがはってある。
    私のメル友である村上のTさんも、稽古の前にはよく来ているそうだ。

    そういうお店になんだ。
    いつもランチの時間になると満席だった。
    本当に地元のお年寄りから、雑誌を見て来た若い女性たちや家族連れ。
    とにかく幅広い年代が訪れ、おいしい料理に感動して帰る。
    このお店のすごいことは、そうした馴染みの常連さんが多いことだ。
    それには、この絶品料理の数々だけでなく、
    いつも温かく迎えてくれるマスターとママの人柄にあると感じている。

    ある時、カウンターで座っていた40代の男性が私にメロンパンをくれた。
    私が、その人が勤めているとんかつ屋さんについて話かけたからだった。
    ママが、私に「子どもたちのためにコントやりましょうよ」と、持ちかけた。
    そんな二人の話を聴いた彼は、「私、書きます」と言ってくれた。
    その翌週の水曜日。サービスランチの日にその脚本を手渡された。
    「瓢箪から駒」だったな。
    そして、よくよく聞いた、彼は、村上でTさんの高校の生徒でもあり、
    朝日村の演劇鑑賞会の事務局を一緒にやった仲なのだそうだった。
    渡る世間は、よい人ばかり、だな。
    この出会いに驚いて、さっそくTさんに報告したら、もっともっと驚いていた。

    私は、昨日で11のメニューを制覇した。
    その間に、こうして劇的な物語が起きていた。
    今、その脚本を私が預かり、仕上げに入っている。
    11の美味しい料理を食べている間に、一本のコントの脚本だ。
    まさに「塞翁が馬」とは、このことだな。

    さてさて、最後の日は、カウンターに座った。
    とにかく満席、オーダーが次々と入っていた。
    「マスター、ナポリタン2、ランチ1、プリン1、アラモード1、アイス2、ホット1」
    厨房に立つのは、マスター独りだ。
    ガス代は二つ。その横に小さな流し。まな板はカウンターのすぐ前だった。
    私は、そこで、マスターの職人技を観ることにした。

    まず、段取りだった。頭の中での同時進行だ。
    50年の賜物だ。
    メニューを聴いた途端に、直ぐに、身体が動き出す。
    まさに、間髪をいれない。

    中華鍋のフライパンを火にかける。
    腕の動きは、なめらかで、しなやかで、しっかりとした動きだった。
    一つ一つその動きには、意味もあり、意図もある。
    そして、何よりも、次に繋がり、次を想定した流れでもある。

    パスタを炒める。サラダ油は心の計量カップだった。
    さっと入れる。塩・故障もそうだった。ぱっぱ。ぱっぱ。
    きっと目をつぶってもできるはず。
    長年の感は、絶対に嘘をつかない。
    余計なことを考え、迷うから、ぶれるのだ。
    じゃんじゃと悼める。
    その横の小さなフライパンには同時進行の卵焼きだった。
    これは、この店の名物の卵サンドへと使われるはず。

    さて、その身体の動きを観ていたら、
    何だか踊りのような感覚だった。
    それは、メロディーであり、調和であり、そして、リズムだった。
    そのしなやかで、美しさすら感じられる身体や腕の動きに、
    私は、いつしか魅せられていた。
    そして、キュウリを包丁で切るだけでも、
    真剣な、集中した眼差しだった。
    声をかけるすきは、そこには絶対に無かったな。
    こんなに料理をつくるということが真剣で真摯な仕事なのだと、
    あの凛とした眼差しを観て、感じた。

    とにかくすごい、すごい。
    次々とオーダーが目の前の皿の上に出来上がる。
    出来上がったそれを目指しているだけでなく、
    マスターの頭の中では、次のオーダーのメニューについて考えが及び、
    右手は、これからお客さんに出す皿に、
    右手は、コーヒーを温めるポットに触れようとしている。
    同時にいくつものことが交差しながら、すすめられる。

    それが、どこにも滞らず。
    どこにもつっかえず。
    全てのオーダーが完成されるので、休みなく続くのだった。
    その横で、ママが立っている。
    そんなマスターの様子を見て、
    次のオーダーを伝えるタイミングを測っているのだ。

    昨日、山川宗玄さんの話を聴いた。
    「作務」についてだった。

    「塵を払う。そのものと一つになる」
    「息を合わせる。和合する。和合僧第一」
    「全部無くなる」
    「本来の人間性。それこそ仏陀だ」
    「今、ここで、その只中に至る自覚を、悟りと呼ぶ」

    「一歩超えて行く。全く、世界が変わる」

    その瞬間だ。カンボスのマスターの姿、そのものと重なった。同事になった。
    そして、次の言葉が、私に生まれた。

    「無心とは、一心である。
     一心とは、無心である」  by クマ

    マスターのあの姿は、作務に集中する師家の姿そのものだった。
    彼の姿は、筋金入りのいぶし銀だ。
    私は、彼の姿に、何かを超えた一心であり、無心であるものを見た。
    魅せられた。言葉にはならない。本当は私もなりたいその何かが、ここにある。

    悟りの作務を観たかったら、是非、この店のカウンターに座って欲しい。
    「マスター、写真を撮ってもいい・・・」と、
    その言葉をかけることすらはばかられた。
    偉大で、美しい、その姿は、決して私は忘れないと心に焼き付けた。

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  • from: クマドンさん

    2020年08月24日 06時33分04秒

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    サングラスを外す

    武勇伝を二つ報告する。

    土曜日の夕方、酔っぱらって映画「糸」を観た。
    何だか館内が暗かった。そして、映像が全てセピア色だった。
    北海道のあの爽やかな空が曇って見えた。
    しかし、そんなものだと何の違和感も感じなかった。
    そして、トイレの鏡を見てはっと気付いた。
    サングラスの私だった。

    日曜日の午前9時、暑い朝だった。
    東区ボーイズの合唱の稽古に大形のコミセンだった。
    今は、感染対策がとても厳しく行われている。
    フェースシールドをつけての合唱練習だった。
    私は、先輩たちに挨拶をしても、楽譜を見ても、先生から指導されても、
    何も違和感を感じなかった。
    そして、練習が終わり、帰る時にトイレに寄った。
    鏡の中の私は、サングラスをつけていた。

    二日に渡り、二度もサングラスをつけたままだった。
    それも、映画に合唱練習だ。
    周りの人たちは、どう思ったかと、何とも恥ずかしい気持ちになった。
    しかし、だな。
    そのサングラスと言うフィルターに対して何も疑問も違和感も感じなければ、
    そのまま、日常の生活を続けられるということだった。

    もし、私の心や魂にこのフィルターがかかっていたしても、
    その心や魂を映し出し、客観的に見つめなおすことができなければ、
    きっと、サングラスをかけたままで、平然と生きていると思われる。
    何も疑問も、問いもなく、それはそれでいつものように・・・。
    しかし、そんなことは、本当はいつでも起っているのではないかの気付きだった。

    言っても無駄だ。
    そう思い、私がアプローチを諦める人が居る。
    本当に固い石だ。
    がちがちだ。
    何でも自分に対する意見や考え方をはねつける。
    聴く耳をもたない。そういう人は、居る。

    以前なら、まだまだ甘く愚かな私は、それでも意見を伝えた。
    自分が考えていることは、そのままにしなかった。
    しかし、この固い石は、そう言って自分のことを何か言って来る人を許さない。
    それを、自分に対する批判・避難と感じるからだ。
    それが、この人の感性のフィルターになっていることに気付かない。
    ある意味では、サングラスをかけたまま、自分のことや相手のことを見ている。
    そして、自分の見え方だけが、正しいのだと思い込む。

    だから、全く見え方の違う私の意見なんか、聴く耳があるわけはない。
    聴く前から、何も変えない、変わらない、私が正しい。
    そのことが、その人の中では決定しているからだ。
    だから、その人にとっては、自分に従順に従う人か、そうでないかの二通りの人だ。
    そうでない人は、目障りだから、無視する。拒否する。時には、苛める。

    そんな時、私は、その人とはかかわらないことにしている。
    言っても無駄だからだ。
    私は、その人のサングラスを指摘する必要もないし、
    サングラスを外して見える世界について説明し、説得する義務も無い。
    その人は、生涯そのサングラスをつけたまま生きる。
    本来の世界の光と色とを知らぬまま、
    その生涯をとじることになる。
    その人には、トイレの鏡は存在しないからだ。

    昨日、「賢治童話を読む会」に久しぶりに参加した。
    「北守将軍と三人兄弟の医者」だった。

    私は、賢治の年表を読んで驚いた。
    ・1928年 32歳  ・8月肺湿潤 ・12月急性肺炎
    ・1929年 33歳  ・9月~12月 病勢やや劣る
    ・1930年 34歳  ・4月園芸を始める
    ・1931年 35歳  ・7月「北守将軍と三人の医者」を発表
              ・9月東北砕石工場のセールスマンで上京するも発熱
                 帰郷し、病に伏す・・・満州事変
              ・11月「雨ニモマケズ」を書く。
    ・1932年 36歳  ・「グスコーブドリの伝記」発表
              ・1月上海事変 3月満州国建国 ・5月五・一五事件
    ・1933年 37歳  ・9月21日 永眠
              ・1月 ドイツでヒトラー内閣成立
              ・2月 小林多喜二 警察署で虐殺
              ・3月 日本国際連盟脱退 昭和三陸地震

    さてさて、ここから何を感ずるだろうか。
    サングラスをかけたまま、賢治の物語を読んでは、
    きっとその奥深くに仕舞われている賢治さんの本意は分からないだろう。
    賢治さんは、生きたかった。
    本当に病に侵され、死が近づくその宿命を知りつつも、
    生きたかったと、切に切に願っていたはずだ。

    そして、時代は「大戦前夜」
    とてもとても固い固い石になっている。

    この賢治の余命と時代の変遷と危機感とを知らずして、
    賢治さんの童話を読んでも、
    きっとフィルターのせいで、その真実の意味は理解されないだろうと、
    はたと、昨日は、思った。
    その時、私は自分のかけていたサングラスを外した。

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  • from: クマドンさん

    2020年08月23日 07時25分50秒

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    リアルな物語を生きて創る

    徒然なるがままに、これを書いている。
    何でこんなことを、飽きずに書いているのか。
    別に何の欲も無い。
    これをどうするというあてもない。
    でも、書きたいから、ただ書く。それだけだ。
    「徒然なる」とは、そういうことではないのかと、自足している。

    さてさて、一本の脚本が二稿目の仕上がりだった。
    それを、ある友に読んでもらった。
    書いた本の感想は、私にとってはその作品に対する一つの評価だからだ。
    劇団を離れて、今更脚本ではないが。
    何だか書きたいことと出会うと、
    それを劇の脚本を通して、物語にしたいという衝動に駆られることがある。
    今回も、そうだった。
    「この人を書きたい」という思いから、構想4日制作3日かな。
    それだけのものでしかない、それだけの物語だった。

    感想は・・・「熱すぎますね」それだけだった。
    そうだろうなぁ・・・と、少しの落胆・意気消沈。
    しかし、それでめげないのが私の良いところであり、進歩のないところか。
    私は、私で、実は今回のことを大満足をしているからだ。
    一本の脚本を書けた。
    ということは、まだ、私には物語を書く力が残っているということだからだ。

    もう1つの発見は、その人の物語を書きながら、
    私は、いつしか自分や友の体験をそこに書き記していたということだった。
    実感の無い台詞を書かない。
    でも、実体験を通して深く味わった感覚や感情には、リアルな力が存在していた。
    そりリアルさに、少しでも近づけた手応えがあった気がする。
    それは、物語を書いて、書きながら、自らが発見することの驚きでもあった。

    それから、伝えるべき、渡すべきは、「言葉」なんだの気付きだった。
    つまり、人とは、迷いの中を生かされているものだ。
    自分では全く思い通りにならない、この人生を生かされている。
    そして、人生とはいつもいつも選択と決定と行動だった。
    そその連続、何も切れ目なく、死ぬまでそれをただ只管続ける。続ける。
    今朝方観た夢の中でもそうだった。
    私は、絶えず考え、工夫して、自らのベターを求めて生きていた。

    その時なんだな。
    その人に勇気と励ましと新たな発見と気付きとをあたえるものが、
    「言葉」だったの驚きと歓びだ。
    どうして人は、物語を観るのだろうか。
    それは、同じような状況に置かれた登場人物が、
    何を選択し、どのように生きることを決断するかを、見つめたいからだと思う。
    自分はその人生を生きられなくても、
    もし、自分だったらどう生きるだろうかの「問い」を持つことでもあった。

    その時なんだな。
    その男が、その女が、どういう「言葉」を語るか・・・。
    そこに、これから生きて行くための「力」や「勇気」を感ずるのは。
    つまり、物語から、勇気をもらう。希望をもらう。気力をもらう。
    「よし、私も・・・」それか、感動の涙となる。
    生きるを挫折と苦難を乗り越えて生きている人を体感することで、
    私の中の芯に在る「生きる」が、震え、感じて、動き、涙する。
    そこからなんだな。
    私も、あの人のように生きてみよう。と、心の中で静かな爆発だ。

    だから、きっと、映画「被ばくピアノ」であり「糸」なんだろうなぁ。
    実は、私は、きっとその感動を求めに物語に出会いに映画館に行くのだった。
    しかし、その物語がセオリー通りの造り物で、
    またこれかぁ。こうなるんだよなぁ。では、私の心はときめかないなあ。
    つまり、戦争反対・愛すること喜び、ではあるが、
    それをどのような物語として、伝え、手渡して行くか、
    そこのところを、問われているのだと、いつもいつも私は思う。

    「ごぜ」は、魂の映画だった。
    一点一画に常にピーンとした作者の祈りや意図が感じられた。
    そして、全ての空気感とその役者さんたちの仕草、語り、沈黙・・・には、
    深く深くで震え、感ずるものに満たされていた。
    私は、そういう物語の書き手となりたい。
    それが、私の、願いだった。
    だから、「熱すぎる」という感想から、
    まだまだ、至っていないのだなぁと、感じた。
    でも、それが何よりもの励みでもあった。読んでもらえたからだ。

    私は、私の物語を生きている。
    それが、私の人生だ。
    そして、この人生は、全くオンリーワンの人生である。
    みんな1人ひとりが自分だけの人生・生きる道を歩いている。
    そして、高村光太郎ではないが、「ぼくの前に道はない」なんだな。
    今、ここまでの来し方を振り返ると確かに曲がりくねって延々と続く来た道はある。
    しかし、今、ここから先の私の道は、未だ存在しない道ではないのかの「問い」だ。

    生きるとは、その道を自分独りで造りながら、歩むことだ。
    そして、時々、来し方を振り返る。
    そして、そうして歩いて来た道を見て、満足するか、後悔するかだな。
    もし、後悔もあり、懺悔もあり、悔やんでも悔やみきれない道であったら、
    今、ここからの道を、そうではない道に変えて、歩きだせば、それでいい。
    その苦難や試練や失敗やどん底から、確かに学んだはずだ。
    「人は一度死ななければ、本当に生きることはできないものだ」
    そう、語る師がいて、その言葉を引導としてもらうことで、
    きっと、その人は、その言葉に導かれて、生きると思う。

    物語であり、言葉であり、
    それは、それと出会って感動した人が、
    次の一歩を真っ直ぐに、真実に歩み出せるための、指針となり、決意となっている。
    「引導」という言葉は、そうした意味で深い言葉だった。

    もはや、ここから先を、迷いと煩悩と欲望のままのこの私が導いてはいけないのだ。
    本当に生きるためには、本当に生き抜いた人・師が求められるのだ。
    そして、その師の言葉をただ信ずる。
    何も余計なことは入れず、ただ言葉のまま、生かされる。
    例えば、ごぜのハルさんが、先導に導かれるままに歩いたようにだ。

    この「先」を行く人。
    そして、無常の世に生きる私を、真っ直ぐな道に導いてくれる言葉。
    それを伝え、手渡せる物語を、私は死ぬまでには、たった一本創りたい。
    それが、言葉から呼ばれてしまった、私の使命ではないのかと、考えている。

    先導者のことは、若い時は、全く見えなかったかも知れない。
    その内に、中年となり、数々のクライシスを経験したら、
    おぼろげながら、微かながら、その存在を感じるようになった。
    そして、あの生きる死ぬのどん底の闇で感じた、微かな光明と呼びかけ。
    私は、それを信じた時、それに全てを委ねた時、
    私のこれから歩む道は、確かに決まったと、思っている。

    実は、今回の物語「沢根団子」では、そのことを伝えたかった。
    しかし、Tさんにはそれが伝わらなかったことで、
    私の物語が、まだまだなのだと実感した。
    リアルな感動で、この物語が読み手の先導者となれる。
    しかし、そうなれない今、まだまだこの精進は続くと思った。

    確かに、徒然なるままに、書いているだけだ。
    「方丈記」を現代語訳で世に紹介する蜂飼耳さんが言う。

    「長明が悟りを開き聖なる言葉を残すのではなく、この世の迷いや人間の愚かさに
     共感をしながら、山のポッンと一軒家で生きていることは、何とも人として懐か
     しいものだ」(これは、まったく私の解釈なので、ご容赦・ご容赦)と。

    まぁ、ここから始まるこの道を歩く旅では、
    どんな出来事と出会い、どんな師と出会い、どんな友と出会えるものか、
    それを楽しみにして、今、ここを、のほほんと、歩いて行きたいものだった。
    それも、長明62歳までの人生における生き方でもあったようだ。

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  • from: クマドンさん

    2020年08月22日 07時45分09秒

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    「方丈記」は面白い

    人に話を聴いてもらうことで、心がほっとすることがある。
    本当にどこか深く深くで通じているひとならなおさらだ。
    お互いに聴いて欲しいことが、どこか似ていて、共通している。

    その人とは、話す前から、安心感と安堵感だった。
    それは、全てを受け入れ、共感してくれる人だからだ。
    自分の気持ちや感情を先にせず、
    いつも相手のそれをおもんばかり、尊重してくれる。
    聴くとは、黙っているということだ。
    そして、何も否定や批判をしないことだ。
    今、世の中で仕事を再開するようになって、
    一番のストレスは、「俺が」「俺が」ばっかりで、
    相手の気持ちや考えをそのまま聴こうと言う人が少ないことだった。

    私は、Sさんといつも電話で話しをしている。
    ここ三日間は一日勤務の為にその時間をとれずに残念でならない。
    「どうですか・・・今朝のお目覚めは・・・」から始まる。
    そこから、Sさんの深夜の闇の中での散策での発見の話に続く。
    いつもいつも自然の光や音や色に触発されている彼だった。
    その美しさに気付けば気付くほど、
    小千谷の大自然の中には、その美しさが無尽蔵に顕れる。

    その話を聴きながら、私も庭やかっての登山で感じたことを話す。
    すると、Sさんの感動と、私の感動は、共通するものだとの了解だった。
    Sさんが心に深く感じたことと、私が日々に感じていることが、
    不思議なことに一致する。
    本当に「そうですねぇ・・・」と共感できる。
    私は、この深く深くで共感できることが、
    人と人との出会いでは貴重なのだといつも感ずる。
    何故なら、日々の世の中では、イライラと腹を立てることが多くても、
    共感できる人に出会うことが本当に希少なことであるからだ。

    「この人と、酒でも飲んで二人で語り合いたい」という人は、
    私には何人いるのかの「問い」だった。
    だから、世の中では、私は、自分を語らず、自分を出さない。
    さしさわりなく、とどこおりなく、さらって、そのまま、
    かかわりをこちらからは求めず、淡々と日々の業務をこなすだけ。

    不具合があり、調整が必要だと思っていても、
    それを文書に書いて提出したり、直接言ったりすることもやめた。
    小さな折り畳みテーブルの足のがたつきをペンチで直す。
    途中で動かなくなってしまった引き戸を直す。
    これなら、誰とも話さなくてもいい。

    だから、忌憚なく、本心を、そのまま、何も気兼ねなく語れることは、
    とてもとても幸いなことと、いつも感ずる。
    大抵その人とは、世の中から降りた人であるようだ。
    Sさんとよく言う生き方は、
    この都会で在り街中であっても、「ポツンと、一軒家で生きること」だった。
    どんなに世の中の真っただ中であろうとも、
    山中の荒れた細い山道を車で進んだ奥の奥。
    そこに独り住んでいる境地で生きる。
    そうした生き方をしている人は、確かに何でも語り合える人だったる

    せめて、「世の中は」とか、「みんなは」とか、「あたりまえだろう」とか、
    言わない人とだけ、せっかく残り少ない人生の時間なのだから、
    無駄に使う余裕や気持ちは全く無いということだった。
    そういう人の自慢話や、指示・命令、「当然だろう」を聴くと、
    今は、身体全体が生理的に拒否をする。
    疲れる。嫌になる。あああとため息が出る。だから、かかわらない。
    それだけだ。
    それが、ポツンと、一軒家で生きる極意でもある。
    多くの人の中に居ながら、和せず、同ぜず、独り孤に在る。

    語りたい人とは、時間をかけてじっくりと話す。
    今は、本当にそうやって選択しながら生きている。

    「方丈記」 鴨長明  蜂飼耳 訳   光文社

    方丈記を現代文に訳したこの本を、今朝、一気に読んでしまった。
    痛快だった。いやいは、「山奥ニート」の大先達だな。感銘を受けた。
    その文をいくつか、ここに抜粋させていただく。

    「世間に近く住むことがどういうことか、どうなるか、すでに知っているから、
     もう何かを望むこともない。あくせくすることもない。ただ、静かに暮らす
     ことだけわ考え、余計な心配のないことそのものを楽しんでいる。」

    「私は、自分のために方丈の庵を作った。人のためではない。なぜかと言えば、
     今の世の中、自分の生き方には、ともに住む人もいないし、頼りにする下僕
     もいない。」

    「もし、するべきことがあれば、自分の身を使えばそれでよいだけだ。疲れて
     しまうこともあるけれど、人を使い、そのために気を遣うよりは、気楽だ。
     歩かなければならないときは、歩く。苦しいといっても、馬、鞍、牛、車
     などについて、いろいろと思い煩うよりもましだ。一つである自分の身を
     分けて、二つの用をさせる。手という下僕、足という乗り物は、我が心の
     思い通りに動いてくれる。」

    「自分身は、自分の心の苦しみを知っているから、苦しいときは休み、元気で
     あれば、使う。使うといっても、度を越すことはない。疲れていて休んだと
     しても、それで腹を立てることはない。しかも、いつも歩いたり、動いたり
     するほうが、健康にもいい。」

    「人に会うわけでもないから、自分の身なりを恥ずかしく思うこともない。
     手に入る食料が少ないから、どんなものでも、おいしく感じられる。」

    「世界とはいうものは、心の持ち方一つで変わる。」

    他にもまだまだここに記したい言葉があるが、
    出かける時刻が迫ったのでここまでとする。
    読みたい人は、是非この文庫本を一読あれだな。

    この長明の言葉に、我が意を得たりと共感できる人こそが、
    私が求める友なのだった。

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  • from: クマドンさん

    2020年08月21日 06時43分22秒

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    私たちの海援隊を

    毎週、火曜日か木曜日の夜8時から、
    三重県のHさんと、リモートで対話している。
    私も夕食を早めにすませ、
    ビールやワインを用意してその時刻を待っている。
    彼は自室でハンモックの上で、
    ウイスキーを水割りにして待っている。
    こうした対話ができめようになったのは、
    私たちが二人して、同じような課題を抱えているからだった。

    彼は福祉施設に就職をした。
    結婚を機会に、新潟市から自分の故郷に帰って行ったからだ。
    彼は「福祉士」の資格と「音楽療法士」としてキャリアを持っている。
    しかし、会社は、彼を超多忙な食道に配属をした。
    そして、68歳の女性のチーフの共に、
    日々の弁当づくりや、ランチの料理に勤しんでいる。

    しかし、おかしな話だった。
    彼には障がいをもった人たちを支え、助ける力があり、
    また、多くの心の病をもった人たちのカウンセリングを行い、
    実績とキャリアとを十分積んだ人でもあった。
    だから、そうした施設においては、
    最も大事な利用者と直接かかわる部署にこそ配置されるべきなのに、
    何で、厨房なんだの「問い」だった。

    しかし、話を聴くと、それもまた致し方ないのかと、
    私も納得するように哀しい状況が、そこにはあった。
    それは、主任が主任とは名ばかりで、
    福祉に対する勉強も、経験も、実績も何も無い人が就いているからだった。
    そこへ、他県から有能な職員が採用され、
    それも、無力・無能な自分の部下として配属された。
    そうなると、やっぱり、いじめになることは致し方ないなぁの話だった。

    男の妬みである。
    とにかく彼が現状の課題や困っていることを上げても、
    聴いただけで、何の手立ても行わない。
    また、彼が上げた情報と異なり、
    この主任に有利な情報にすり替わって報告されている。
    自分は暇なので年休を好きな日にとり、三連休を作る。
    なのに、彼には、年休を要求すると渋るそうだ。

    まぁ、その厨房のチーフである叔母ちゃんも、
    なかなか強烈な個性の持ち主で、
    自分の仕事を自分のやりたいようにどんどん進める人だった。
    だから、彼が来る前に何人か辞めていた。
    チーフと、合わないからだった。
    しかし、Hさんは、その人柄と意欲を評価され、
    その難しいチーフとタッグを組んで、日々の業務をそつなくこなしていた。

    しかし、そのことが、尚更、主任には面白くはないようだった。
    だから、時々、会社の上司に泣いて自分の不満を訴えているそうだった。
    自分よりも有能で何でもこにせる部下が来たなら、
    主任としては在り難い話だと思うが、
    やっぱり、その会社での査定・評価を気にする主任は、
    自分が愚かな分、他の査定を下げなければ、
    安心できないということなのだろう。
    いつもの陰口・悪口・あることないこと誹謗中傷の数々だった。

    まぁ、哀れな人だと私も思うが、
    実は、どこの会社や組織でも、
    この手の人たちが居ることは確かだった。
    そして、実は、その手の人たちは、係長や課長など、
    上司でいることも多々ある話だった。
    何故なら、人事権を握っている部長などに、
    取り入ることが上手いからだ。
    自分の実力の評価を得られないのなら、
    相手の評価を落とす。
    または、ある種の情報をこっそりとリークする。
    そして、最敬礼で、いつもいつも忖度を忘れない。

    「半澤直樹」だな。

    既存の組織は、そうした人たちに支配され、束縛されている。
    だから、やのたいことはできない。
    改革の提言は、即座に握りつぶされる。
    会議とは、やらない理由を見つけるためのものになる。
    一部の「固い石」の考え方で、その組織はぎゅうぎゅうに縛り付けられる。
    そして、長年そこに詰めている人たちには、
    そのどうにもならない上司に対する諦めがある。
    余計なことを言って睨まれ、疎まれ、逆恨みされても損なことだ。
    「見ざる。聞かざる。言わざる」でござる。

    だから、新しく入って来た人を、最初の出鼻でがつんくじく。
    それは、会社のためでなく、自己保全のためにだった。
    こんな漫画のようなことは、本当にどこの組織でも行われている。
    この国の政府がまさに、これだ。
    誰も、主任にはものを申さない。損だからだ。
    だから、どんどん愚かなことが行われ続け、
    この愚かさの連鎖が止まらない。
    我が家の長男や次男の世代の借金に回す。馬鹿な話だ。

    しかし、本当に、変わらない。
    改革を叫べば、自腹を切らされる。
    そうやって討ち死にした人たちを見ているから、
    尚更、声を出さない。意見を言うと、主任に対する批判ととらえられる。
    会社の命令に逆らう者とされる。
    「先生の言うことをききなさい」「黙って従いなさい」だな。
    そうした教育の中で優秀だと言われる子を、
    この国は育てようと努力する。
    その結果が、この組織の淀みと、主任の腐敗だ。

    とは言っても、私も、ほんの少し大人になった。
    そうであっても、私も、こうした固い石の主任には、
    「恐れ多くも・・・」と、提言することをやめた。
    それは、全く聴く耳の無いがちがちの岩石が相手だからだ。
    ここで、言ったところで、逆恨みされるだけの提言は、
    私は、言わないことに、心で決めた。

    彼と私との共通理解は、こうした主任がのさばっている組織では、
    私たちが本当にやりたいことは、いつまでも出来ないと言うことの理解だった。
    「こりゃ、だめら」「言うだけ、無駄ら」「聴く耳どころか、憎まれるぜ」
    いつもいつも彼も私も、組織の中では「孤」で生かされる。
    それは、自分の信念や想いを貫くためには、
    私たちが組織の中で生きる立ち位置が、そこしか存在しないからだ。
    孤軍奮闘は、無理だ。無駄だ。もう、やらない。
    そのかわり、その組織の中で、「個」で生きる。
    できる範囲で、私がやりたいことを、ただやるだけ。
    それなら、できる。

    しかし、そうした個の仕事は、全体を最優先する主任には目障りなものだ。
    細かなことにいちいち指導を入れる。
    これを、嫌がらせと言う。
    その指導には、合理的な意味は全くない。
    「そうだから、そうしてください」ただそれだけ。
    「どうしてそうするのか」の問い直しは無い。
    だから、「はい」と言う。

    昨夜の二人の結論は、
    自分たちでやりたいことがあったら、組織内改革ではなく、
    既存の組織を出て、同じ理念や信念を持つ仲間と、
    新たに組織を立ち上げることだった。
    そして、まず初めは、私独りから始めればいいんだだった。

    ここまで書いて来てはっと気付いた。
    これは、坂本龍馬の生き方そのものだった。
    藩政改革を最優先として家老を惨殺した武市半平太は、
    藩の重職に登りつめ、改革しようとして、裏切られ、切腹させられた。
    龍馬はそんなことは分かり切っていたので、脱藩の道を選んだ。
    そして、長崎に渡り「海援隊」ほを作り、貿易に夢を見た。

    龍馬の夢も、暗殺によって道半ばで途絶えたが、
    彼は、その理想を海援隊と言う商社によって実現した。
    「そうだ、私もHさんも、自分たちの海援隊を創るべきなんだ」
    そう想うと、日々の労苦にも耐えられそうだ。

    会議は、何かをやらないための理由を考える場所である。
    だから、まず、誰かが、何かを、始めることが優先なんだ。
    先人たちは、そうやってこの国を造って来てくれたはすだ。

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