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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2020年12月30日 16時04分37秒

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    ぼーっと生きるだけ。

    強い風になってきた。雪が舞っている。
    いよいよ大雪になるらしい。明日の朝は真っ白な世界に変わる。
    今年も後二日となった。
    ついさっき年賀状を投函して来た。
    今年は、私にとってどんな歳だっただうか。

    コロナ禍での巣ごもり生活だった。
    3月に退職をしてから、二カ月間は遊ばせてもらった。
    本当は、鹿児島から北上して歴史探訪の旅をするはずだった。
    しかし、県境をまたいではならないとのこと。
    そうした夢も断念せざるなった。

    6月半ばから、学童保育に勤めることにした。
    新たな経験のスタートだった。
    実は、再任用を希望しなかったのは、介護職や放課後ディ等の、
    これまで私が携わっていない職を体験するためでもあった。
    何でもそうだが、実際にその仕事を体験しないと学べないからだった。
    そして、学童をやって分かったことは、
    「やれるかもしれない」と言う実感だった。

    それは失敗もいろいろとあり、指導も度々受けていた。
    しかし、全くの新人でありながら、
    私は教育職としての長年の経験を持っている。
    そこで身につけた知恵は大きく役立つという実感だった。
    経験が活きる。
    それは、人間関係についても言えることだった。
    この関係性の中でどんな立ち位置で仕事をしたらよいのか。
    女性7人に囲まれての仕事だった。
    だから、難しく、気も使う。
    しかし、そこで無理なく、自由に、仕事で来たことは、
    私にとっての自信となった。

    人は、人から学ぶものだ。
    しかし、それは言葉として学ぶことより、
    その人の態度や行動によって現われるものからの学びだ。
    私は、きっと私もそう人には見られているのだと感じた。
    その人がどうやって生きて来たのか。
    その人が何を大切にして生きて来たのか。
    それは、こうやって歳をとると直ぐに感じられるようになる。
    言葉の使い方。言い方でもそうだ。
    そこに心を込めているか、それともぞんざいなのか。
    それも手に取るように分かる気がした。

    人は、自分のことがこんなに露わに現われているということを、
    理解して生活しているものだろうか。
    やはり、その端端にその人らしさが出て来る。
    とてもとても優しい声の支援員さんがいた。
    子どもに寄り添い、その子の気持ちを尊重していた。
    その姿から、学んだことが多くあった。
    私もそうしよう。そうしてみたい。そういう人に出会えたことは幸せだ。

    今年一番の収穫は、「カンポス」の常連となれたことだ。
    夏休みの間、私は毎日この店でランチを食べた。
    メニューを全部制覇することを目標に、
    食べ終わり「行って来ます」と出る時に、既に翌日のランチを決めていた。
    とにかく、この店の料理には、手作りで、愛情たっぷりの味わいだった。
    これは、職人肌のマスターが50年間かけて積み上げた確かな味。
    その味には、絶対にぶれがなく、いつもの美味しさをいつみのように提供する。
    料理しているマスターの姿にほれぼれとする。
    無駄がなく、効率的で、意識して次々と料理が造り出される。
    身体の動きは、まさに舞を舞うような軽快で、リズムを感ずるそれだった。
    料理は、身体で造る。
    私も毎日食事を造る時、マスターの真似をする。
    まさに、見よう見真似で、調理する。すると、やっぱり気持ちいい。

    ママは、いつも笑顔で、好奇心の塊だった。
    いろいろなことにアンテナを張り、興味関心の範囲が広い。
    これも長年の人生の経験知である。
    とにかく、何を言っても反応が早い人だった。
    そして、褒める。褒める。本心で心底褒める。これがすごい。
    カンポスでは、マスターの料理と美人ママの笑顔だった。
    この二人と縁ができたことが、何よりの今年の収穫だったな。

    「歳をとらないと分からないものだね」と、Sさんとよく話す。
    こうして歳をとり、ぽつんと一軒家の精神で生活していると、
    何だか今まで分かっていたと思っていたことが、
    本当は分かっていなかったことであり、
    本当のことは、今、ここ、自分でやっと分かったということに、やって気付いた。「ああ、このことに気付いて、よかったてば」だったな。
    もし、そのことに気付かないで、亡くなっていたら、
    そのことを分からないままでこの生涯を終えることになった。
    分からないままだから、きっと分かりたいとは思わないだろうが、
    このことは、実は、生きて行く上でとてもとても大切なことだった。

    そのことは、体験を通して、身体を通して、味わわなくては、
    絶対に分からないことでもあると、分かった。
    向こうから試練や苦難がやって来る。
    その時は、「何で」「どうして」と、恨むこともある。
    しかし、そのことがあったから、このことが分かる。
    まだまだ強い我があるならば、絶対にこのことは分からない。
    そして、人は、自分から自分を捨てられるほど強くはないし、我が侭だ。
    そんな我がある内は、このことがすーっと身体には入らない。
    そのことを、何だか少し分かった気がする。

    「大丈夫」なんだ。
    本当にそうだった。
    「任せて生きる」そこに活路ありだな。
    自然に学ぶ。あるがままでいい。何もくよくよすることはない。
    そうなることは、そうなっていいことだけ。
    だから、何があっても、起っても、そのことを受け入れる。
    その覚悟のようなものが、少しだが出来るようになった。

    これから、またまた長いあの冬の生活が始まる、始まる。
    この屋根に少しずつ積もりかけている雪を見ている。
    これはこれで仕方ないことだ。
    こういうものだと、そのままにする。
    そのことで何も思わない。思い煩わない。それだけのことだ。

    縁側で独り、ぼーっとしていることがある。
    時間と共に流れて行く、流れて行く、そのことを受け入れる。
    そう言えば、あの雀は2年位しかこの世では生きられないそうだ。
    そう思うと、この雪の寒さの中で凍えている雀が可愛くもなる。
    しかし、人だって80年というところだろう。
    いつも束の間を生かされている。
    そう思うと、自分のことも愛おしくなるものだ。

    さてさて、明日の朝は、雪除けになる。

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  • from: クマドンさん

    2020年12月29日 08時12分44秒

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    小さなイライラ

    今朝の不調は、昨夜の飲み過ぎ。
    最近、そんなに呑んだわけではなくとも、翌日に残る身体となっている。
    何だか怠いし、疲れを感じる。
    すっきりとしないし、何かやる気が起きて来ない。
    こんな日もあるさと、諦めてもいる。
    諦めたら諦めたで、じたばたしない。
    駄目な自分で、そのままでいい。

    やはり寝坊がきいている。
    もうこんな時刻の午前8時前。
    いつものルーテーンなら朝風呂から上がり、
    朝食を造っている時刻だ。
    しかし、しばらくは朝食造りもストレスとなる。
    妻が、調理台の前を占拠しているからだ、
    食材や器具、ビニル袋が山積みされている。
    そこに彼女が立っているから、私の作業スペースがそこにはなかった。

    次に、流しの下に敷いた長いマットだ。
    その端がめくれているために、そこにカリッパが引っかかり、
    何度もそこで前のめりに転びそうになった。
    今朝も三回それがあった。
    何とかしなければと思いつつ、それをまたしていない。

    車のスノーブラシを探した。
    物置に私が出しておいた2本の内1本は確かに私が使っていたものだ。
    今朝、その2本は、妻と長男が車に入れたそうだ。
    すると、もう1本はどこへいったのかの不思議だ。
    その1本が無いために、私は探した。
    その時間が、全く無駄な時間となってしまった。

    仕方ない、諦めるか。
    そして、風呂に入ろうとして裸になり、浴槽に手を入れたら、
    冷たっ、だった。
    それでまた服を着て、ここに座って、「親父たちよ」を打っている。
    まぁ、こうしたちぐはぐがあると、途端に心と感情が乱れるものだ。

    とにかく、その乱れを小さくし、朝の内に修正したい。
    では、実験だ。
    どうすればいつものような平穏無事な朝を迎えられるかだ。

    まず、忘れることだ。これまでの不具合・不調。
    それは無かったこととする。
    そんな過ぎたことにこだわらない。
    いつまでもくよくよと考えない。
    これが頭の造り出す妄想マジックだ。

    次に、さっさと行動する。
    そろそろ風呂が温まったはずだ。すぐに入りに行く。
    そして、朝食をスペースを造って調理する。
    身体をまず動かすことだ。
    そして、こうして何かに集中すること。
    それでも駄目なら、散歩に出よう。

    こんなイライラ感は、久しぶりの感じだった。
    それは、異星人同志である妻が、
    いよいよ年末年始で家に居るからでもあった。
    お互いがお互いで距離を取りあい、
    お互いの空間と自由を尊重して生活してはいるが、
    やはりバッテングすることもあり、やり方が違うこともあり、
    その不具合・不調に、やっぱりいらっとしてしまう私だった。

    ここに物を置かないで下さい、と言っている場所に物を置く。
    掃除機は、使ったまま、そこに置いてけぼりにされている。
    こんな小さな事だが、私にはいらっとする材料になる。
    その特性は、変わらないことは知っている。
    でも、まぁ、これ以上は言わない。
    どうもこれも私の身体のフ不全・不調から来る症状のようだ。

    確かに今朝は、何かがおかしいぞ。疲れているぞ。眠たいぞ。
    ということで、これまでにする。

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  • from: クマドンさん

    2020年12月28日 08時13分45秒

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    生きてみないと、分からないものだ

    「独り遊びぞ、吾は楽しむ」 BY良寛

    私は、退職してから、この楽しみ方を実験することが、楽しみの一つになった。
    しょせん人は、独りなんだ。
    そのことを、一日独り暮らしをしていると、ふと感ずる。
    それなら、その独りは嫌なことなのか。恥ずかしいことなのか。
    そんなことは、けっしてないとも、この暮らしをしていてよく分かった。
    「みんな、独りじゃないか」と、日中ここで暮らしているとよく分かる。
    確かに、老人の独り暮らしの家は、何件もこの町内にはある。
    我が叔母たちもそうだった。
    御主人を早くから亡くして、子どもたちは巣立ち、独居している。87歳だ。
    みんな独りなんだ。独りでいいんだ。独りだからだ。

    そう気付くと、ちょっと心が落ち着くもんだ。
    「あの人は、友達がいっぱいいるから、羨ましい」
    「あの人は、いつも友達と出かけているから、羨ましい」
    とは、思わないことだ。
    そのあの人も、家に帰るとぽつんと独りぼっちかも知れない。
    それでは、ずっとずっと誰かと一緒ならば独りではないだろうか。
    私は、けっしてそんなことは無いと思う。
    どんなに気心の知れた大好きな人と一緒であろうとも、
    独りは、独り。
    しま真実にただ、「そうだねぇ」と受け入れ、肯けばいい。

    最近、よく「幸せ」について考えるようになった。
    独りでこうして生きる幸せってなんだろうと、考えるからだ。
    私は、どんな時に幸せを感じているかと、振り返る。
    そうすると、家族でいる時。大好きな友と酒を呑み、語り合う時。
    師と向き合い教えられる時。
    確かに、そこには相手がいるが、その時も幸せを深く感ずる。

    しかし、独りである時も、やはり幸せを感じて生きている。
    こうしてFBや「親父たちよ」を書いている時間。
    二人の友にメールを送る時間。
    朝風呂に入って、クラシックスを聴く時間。
    朝食を造って食べる時間。
    ヨガをする時間。
    つまり、好きなことを独りでやっている時間は、
    今の私には、至福の時間だった。

    その中に、好きな人が居るお店で、食事やワインを飲む時間も入っている。
    行きつけのお店と、大好きなオーナーが居るお店。
    そのカウンターや、お独り様の席で過ごす時間も、
    これは、私とっての至福の時間だった。

    これは、自分を仕事から解放して、空っぽにしているから生まれた歓びである。
    今日は月曜日だ。この朝を、どんだけ憂鬱な気持ちで迎えたことか。
    「ああ、仕事に行かなくては・・・」
    3月までは、もうこの時刻7時46分には、教務室の机上の仕事を片付けて、
    教室に向かっている時間だ。
    仕事モード全開で、この時間を過ごしていた。
    しかし、今は、ここで、これを打っている。
    それは、私が「仕事」を空っぽにしたからだった。
    そこで、やっとこの「自由」な「独り」の時間を手に入れた。
    さうなんだな。この「独りの時間」とは、とても貴重な時間でもあるんだな。

    さっき、ひょんなことから16年前のPHP「私の幸福論」を見つけた。
    何気なく読んでいたら、その語られる言葉が、心にぐっと響いて来たのに驚いた。
    47歳でこの「幸福論」を読んだ時の味わいと、
    今63歳でこの「幸福論」を読む味わいが全く違っていると感じられたからだ。

    谷村新司さんが、ある年、コンサートツアーを全部やめ、事務所をたたみ、
    空っぽになることを決心して、そのことを実行した時のことを語ってる。

    「そして僕には何も無くなった。何もないということは、何でもできるということ」
    「人生を生きたいように生きられるということ」
    「もちろん不安がないと言えば嘘になります。でもその不安に勝るだけの
     ワクワクした気持ちに包まれていました。」

    「自分にとって何が幸福か分からない。そういう人はきっと幸福の輪郭が
     ぼやけているのでしょう。もしそれをはっきりとさせたいのなら、箱の
     中身を捨ててみることです。」
    「もし自分の人生を変えたいと思っているのなら、過去の道のりに執着しない
     ことです。人生と言うものは、自分の意志次第でいくらでも帰ることができます。
     しかし、ただ1つ、家族の大切さだけは忘れないでほしい。家族の幸せこそが、
     原点なんです。僕はそう思っています。」

    「自分がやりたいから引き受ける。自分自身が幸せを感じられることを仕事にする。
     本来仕事とはそういうものではないでしようか。」

    「夢は夢にあらず」というのが僕の人生哲学です。

    「人生は川の流れをーのように流れている。幸せに向かって流れたり、
     幸せに向かって流れたり、不幸へと流されたり、その流れに逆らうことは
     できないこともある。ならば、流されればいいと僕は思う。どこへ行くか
     分からない川の流れに乗る。行きつく先が分からないからこその人生です。」

    「ただし、自分の意思をもって流されていくことが大切なのです。自分を見失う
     ことなく、心の命ずるままに流れて行く。そんなふうに僕は生きたいです。 
     流れ着く先に幸せがありますようにと願いながら。」

    47歳で読んだところで、どれだけ分かったことだろうか。
    しかし、63歳の私は、この言葉を実感として味わうことができた。
    本当に人は生きてみないと分からないものである。
     
     

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  • from: クマドンさん

    2020年12月27日 07時37分21秒

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    ある国のリーダーの話だ

    本当にひどい人を見た気がした。
    怒りしかなかった。
    それは、あの委員会でのA氏の答弁だ。
    あれだけぬけぬけと公然と嘘を平気でつける人間がいるのか。
    自分が言えば、みんな信じてくれると思っているのか。
    長い間権力をかさにして、好き勝手やってきたつけが、
    この愚かな人間を創り出してしまった。
    これが権力者に与えられた、罪と罰だ。
    こんな人間、見たこともない。

    簡単なことだ。
    ホテルからの請求明細をもらえばいいだけ。
    たった一枚の明細書ですむ。
    例え、国会の審議中、自分は全く知らなかったことだったら、
    「おい、あれはどうなっていたんだ」と、秘書に問いただすことはできた。
    領収書と明細書がなかったら、ホテルに頼んで再発行してもらえばいい。
    そして、「私は分かりませんでしたが、事実は補填がありました」と、
    事実を正直に述べるだけでいい。
    「ます、隠すことありき」という隠ぺい体質では、
    この男の嘘つきは、治らないと思った。

    その事実を知っていたか、本当に知らなかったのかは、どうでもいい話だ。
    そのホテルからの請求明細書があれば、それでいい。
    そこに、もし一人3000円の補助が彼から出されていたら、
    これは全くの利益給与であり、政治家としては絶対に許されない行為だった。
    あの広島で自分の選挙の票の為に金をばらまいた夫婦がいる。
    この人たちも他の人たちも、本質的にはみんな悪であることにはかわりがない。
    そうやってみんな生き残り、多額の資金と権力とを手にしてきたから、
    この人たちの集まりでは、こうした悪は、当たり前のことなんだな。
    もとリーダーのこの不祥事を諌め、批判する根性すら失せている人たちだ。
    この国は、こんな人たちが動かしている。

    お仲間のB党の人は、原稿の丸読みだった。
    どうして俺がこんな損な役目をと、身体がぶるぶる震えていたな。
    同じくC党の代表は、A氏を先生と呼び、その業績を讃え、全国民の前でよいしょする
    何ともはや、何のためにその場所に立っているのか分かってもいない。
    つまり、これなんだな。
    A氏は、この二人の質問には余裕しゃくしゃくで、いつもの弁解を繰り返した。
    この人は、こうした無駄な話を長く続けて、質問の時間をいつも減らしている。
    まぁ、狡猾というよりか、何とも哀れなお坊ちゃんだった。
    何故、こんな人間に党は、見切りをつけないのか。
    まだこの人から甘い汁を吸えるとでも思っているのか。

    「深く責任を痛感している」
    この人は、何百回と国民の前でそう語った。
    責任を痛感することと、責任を自らが執ることとは違うことだと、
    この人は、私に教えてくれた。
    どんな悪を行っても、痛感だけすればいいんだ。
    痛感したら、責任なんかとることは必要はないことだ。
    しかし、どれだけ部下の大臣や議員や秘書に責任をとらせ、辞めさせた人だ。
    その本人は、何百回痛感しただけで、まだ現職でいる。
    今回こそ、正しい日本語として、責任をとって、議員辞職すべきなんだ。

    つまり、権力者の愚かな姿の典型が、この人だ。
    自分は、好き勝手に悪ができる。
    自分のためになる人や自分を支えてくれる人には贔屓する。
    そのためには、陰でどんな金や権力を使ってもかまわないと思っている。
    それは、自分でもそれを悪だと知っているから、
    絶対にばれないような仕組みでそれをやっている確信犯だからだ。
    証拠は、いつも紛失・廃棄・裁断だった。
    残念ながら、ございません。
    それで、どれだけぬけぬけと切り抜けて来たことか。
    あろうことか、とうとう告発する検察のトップの人事まで手を出した。
    どこまで悪党なのかと、あきれてしまう。

    つまり、この人は、法に違反している悪を自分が行っていることを知っている。
    そして、もし、ばれたらどうやって自分にその責任が及ばないかも、
    ちゃんと事前にシュミレートしている。
    だから、官僚が自殺する。一度左遷した官僚を昇格させる。秘書を辞めさせる。
    痛みと責任を、この末端の人たちに押し付ける。
    痛み・苦しむのは、その押し付けられた部下や関係者だけ。
    本人は、ああ、よくやってくれたなぁと、思うだけ。
    本当は、痛みすらも感じていないはず。

    ただし、面白い場面があった。
    対立する党の代表者たちの質問には、しどろもどろ、たじたじだった。
    本当に同じことを繰り返し弁明するだけ。
    全く何も先に進まない。
    そうやって踏ん張っていたら、許されると思っているのか。
    ああ、幼稚なんだなぁ。子どもなんだなぁ。
    この人が、この国のリーダーを8年間もやっていたのか。
    それは、この党の責任でもあるはずだ。是非、痛感してもらいたい。

    この人が、「美しい国をつくる」ために「道徳」を教科にした。
    この人がである。
    この人にとっての正直とは、何だろう。嘘をつかないは、その基本だな。
    平気で嘘をつく子がいたら、その人は何と言って諭すのかな。
    「嘘をつくなら、絶対ばれないようにしなさい。」
    「そうすれば、それは本当のことになりますよ」
    「それでもばれたら、誰かのせいにしなさい。そうみんなを信じさせなさい」
    きっと、そう教えるのだろうなぁ。情けない。情けない。

    問題は、どんな人間が、この国のリーダーであるのかの問いだった。
    そのことを、利益を優先に考える輩たちが取り囲んでいるから、
    そんな人間性なんか、誰も問題にはしていない。
    覚えめでたく、その人に可愛がられ、いいポストに入れてもらう。
    大臣になる。次の選挙で勝たせてもらう。官庁で昇格される。最高の地位に就く。
    まぁ、そんなもんだな。
    何とあのマスクをつくった工場は、既にどこにも無くなっているそうだ。
    人を騙す人は、人にも騙されやすい人のようだ。
    本人は、国民の為と本気で思っている。
    あの裸の王様、その人だ。

    そろそろ、「王様は、裸だ」と、言ってあげたらどうだろうか。
    この人、このまま生涯を生きたら、哀れなものだ。
    何と言うか、あの答弁の姿を見て、情けなく感じたのは、私だけだろうか。

    この人が、議員辞職した時に、やっとこの人は、道徳的な人間となる。
    そのためには、もう一度小学一年生からやりなおし、
    自分がつくった教科である「道徳」を一から学び直したらどうだろうか。
    「人は、嘘をついてはいけません。正直に生きましよう」
    「もし、悪い事をしたら、ごめんなさいと謝りましよう」
    「そして、自分がやってしまったことを、正直に話しましょう」
    こんなことがもし国のリーダーができないと言うのなら、
    この国は、いったいどんな国になってしまうのか。

    この話をしてくれた人は、ある国の私の友である。
    この話を聴きながら、へぇー、そんな哀れな国があるのだなぁと、私は思った。
    私の国のリーダーは、そんな人では絶対ないと信じているからだ。

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  • from: クマドンさん

    2020年12月25日 07時20分03秒

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    P病の彼のこと

    今週も、夜が忙しい一週間だった。
    満足に夕食を妻と食べられたのは、火曜日だけ。
    これでは、妻も呆れてしまうのは仕方ないことだった。
    どうしてもこうなってしまう。
    土日も予定を入れているために、自宅での夕食はできなかった。
    つまり、一週間で自宅で夕食を食べられるのが、一日だけということになる。
    退職してから、こうやって、仕事を休んでいてから、
    どういうわけか、夜の予定が忙しくなったことに、
    私自身、困惑している状態だ。

    最近、昼間や夕方になると、いつのまにか睡魔に襲われ、
    うとうととすることが多くなった。
    それは、身体から来る休養・睡眠欲求のようである。
    昼間は、その分何もしないで、自宅待機をして自粛している。
    これで、昼も予定を入れたら、私の身体が壊れてしまうからだった。

    身体のことを最優先にして生活している。
    それは、私のこれまでの数多の失敗から学んだことでもあった。
    身体は、した通りに反応する。
    負荷をかけ過ぎ、間違ったことをやれば、
    そのまま、身体には症状が現われ、異常をきたす。
    生物体としての身体については、花や樹木たちに学んだことの応用だった。
    だから、この過密スケジュールを、危惧している私だった。

    そう言えば、昨年のクリスマスは、市民病院の個室だった。
    突然の腹痛と発熱で救急車で運ばれた。
    その日、北区の歌の祭典のコンサート当日だった。
    本当に何とも情けない男であった。
    妻は、ずっとずっと私のことを呆れて溜息をついている。
    「どうして、こんなことばかりなんだろう」と、情けなく思っている。
    私だってやりたくてやっているわけではない。
    あの自転車事故でも、そうだった。
    「どうして、自分から電柱にぶつかって行くわけ」だな。

    こんなことばかり繰り返している私だ。
    確かに、10カ月に2回の救急車は多いと思う。
    それでけ、無駄な出費の医療費もかかっている。
    あのGO TOのキャンセル料と同じことだ。
    やらなければ、使わなくてよかったお金だ。
    まぁ、こんなことばかりだから、きっと妻は呆れて、情けなく思うばかりだ。

    P病のAさんが、セカンドオピニオンのために東京に一昨日出かけた。
    ある大学病院が、この病の治療では日本一と言われてらしい。
    彼は、発症してから3年はたっただろうか。
    しかし、本当の発症は、そのずっと前だったと思っている。
    その身体から発する小さな兆候に気付かなかったからだった。

    ある頃から、どうも自分の身体が違っていることに気付き始めた。
    腰が曲がる。すり足になる。身体の関節が強張ることがある。
    しかし、彼は現役の仕事を休むことも考えず、
    何とかなるだろうと、医者にも診察してもらうことなく、生活を続けた。

    すると、どうも身体の動きがおかしいと自覚が深まって来た。
    疲れたのではない。どこかで怪我をしたのではない。
    では、どうしてこんなに自分の身体が思う様ように動かいのだろう。
    朝、立ち上がり歩くまでに、どうしてこんなに時間がかかるのだろう。
    「何か、変だ」しかし、熱が出るわけでもなく、腹が痛いわけでもない。
    医者に診察してもらう理由が、彼にはまだなかった。
    そんな状態のまま、時間だけが過ぎて行った。

    ここで、考えなければならないことは、
    頭での自覚と認識と、本来の自然な身体の変化とは、
    全くべつものであるという事実だった。
    「こんなぐらい、何とかなるさ」
    「こんなわけのわからないことで、仕事は休めない」
    「まぁ、時間がたてばよくなるだろう」と、人は、想いやすいもののようだ。
    それは、自分のことを悪くは思いたがらないからだと思う。
    「大丈夫」は、こんな時は、「全く危険な認識」であった。

    この夏から秋にかけて、急速に症状が悪化して来た。
    昨年の今頃、難なくできていたことが、今は、とても難儀となった。
    身体が強張っているために、自宅から車まで歩くことが難儀になった。
    仕事中も休憩時間は、身体を横にして、休ませるばかりだ。
    「とうして、俺が・・・」と考えても、身体の症状は進んで行くだけ。
    若いから、進行が速いと言うことも考えられる。
    とにかく、暗澹たる、欝々たるその気持ちは、晴れない。
    強い薬を処方してもらい飲んでいても、一向に良好な変化はなかった。
    「これから、私は、どうなってしまうのか・・・」

    そんな崖っぷちに、彼は、今、立たせられている。
    「このままでは、駄目だ。セカンドオピニオンを受けよう」
    彼は、決心すると、行動はとても早い男だった。
    「東京のA病院で診察してもらう」
    彼は、ここに自分の病についての救いを求めた。
    その切実な気持ちは、私には痛いほどよく分かる。
    しかし、ここに、大きな問題があった。
    「コロナの感染」だった。
    今、東京は一日の感染者数が900名近くになっている。
    その最中に、彼は跳び込んで行くのだと言う。

    周囲の関係する人たちは、反対し、説得もした。
    しかし、彼の意志は固く、がんとしてその意見をはねのけた。
    「それでは、二週間自宅に帰らないでください」と、妻の宣告だった。
    彼女は福祉施設の管理職として勤務している。
    彼女の感染は、多くの人の感染につながる危険がある。
    その言葉は、最もなことだと、彼も思った。
    でも、それでも、彼は、東京に行った。
    そして、一昨日から安ホテルでの生活が始まった。

    バス・トイレは部屋の外。
    三食食事はつかない。
    着替えや洗濯物は、妻が取りには来ないので、そのままである。
    不自由な身体で、独りでのベットでの生活。
    パソコンを使える環境ではないために、
    彼の趣味のネット検索も出来ずに、この不便極まりない生活を、
    彼は、14日間続けることを決心した。

    これは、私には出来ないことである。
    ある意味、軟禁状態で、独り自分自身と向き合う生活が始められた。
    それは、まさに自分を深く深く探究する道場でもある。
    これまで、彼は、ずっと外に刺激を求めて来た。
    海外旅行は、中国が7回?中南米その他の国を含めると10回位行っている。
    それだけの見聞を深め、学んだ来た彼だった。
    しかし、P病を患い、今では身体の不自由を感ずる生活を続けている。
    この病で、現状維持、身体の温存ができたら、幸いな病だった。
    「悪くなるだけ」つまり、「治療はできない難病」でもあった。

    さてさて、この朝を彼は、どんな気持ちで迎えたことだろうか。
    誰一人手助けの居ない生活は、彼にとっては初めての経験だ。
    そうした状況で身体を思う様に動かせないことのストレスと孤独。
    彼は、今、そのどうにもならない孤独と向かい合っている。

    彼の妻は、私の妻と同じように、これまでの彼の行動を呆れているに違いない。
    行っても言うことを聴かない。
    自分が生きたければ、毎年夏には二週間の海外旅行を続けた。
    土日は、地域の行事や彼の総合学習の為に、あちらこちらと出没した。
    家庭は、彼が居ないことが当たり前となっている。
    そうした主人を、妻も、子どもたちも当てにはしない。
    その結果が、このホテルの独り暮らしとなっている。

    彼は、実は、私だった。
    彼のことを思うと、可哀想だと思うことがある。
    私だったらどうするか・・・。そんなことをいつも考えつつ、心配している。
    「今頃、何をしているのだろうなぁ」
    今朝は、曇りだ。午後は、雨になる予報だった。

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  • from: クマドンさん

    2020年12月24日 07時31分44秒

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    afterコロナは、ルネッサンスだ

    ラテン語で苦しんでいる。
    何で今頃、もはや誰も話さなくなったこのラテン語で悩まねばならぬのか。
    それは、「レクイエム」のおかげだった。
    やっと何とか音がとれてきている。
    微妙な音は、まだまだアバウトだが、
    全曲をスコアで追えるようになった。
    とにかく、音を身体に入れることだ。
    毎日、少なくとも"回は、全曲を身体に聴かせて、覚えさせている。

    ところが、ラテン語が、全くもって入らない。
    これは、どこの星の言葉なのかの、嘆きと驚きと無力感だな。
    教会の聖職者たちが今でも使っているこの言語の響きは、確かに美しい。
    しかし、その意味を考えつつ覚えようと努力するが、
    なかなか入らない。覚えられない。その焦りと苦しみ。
    あの落ちこぼれであった高校時代を思い出す。
    あれが、勉強が分からないと言う状態だった。
    教室に居ても、ここは外国かの感じだった。
    それでも、教師を全うできたのだから、何とかなるとは、思ってはいるが・・・。

    今朝、ラジオ深夜便を聴きながら、「ルネッサンス」について考えた。
    このラテン語で書かれた聖書は、
    当時カトリック教会の聖職者だけが読めるものだった。
    それは、日常会話に使われていないこのラテン語で、聖書は書かれていたからだ。
    ラテン語は、聖職者だけが神に祈りを突捧げる、特権的な言語であった。
    それを、印刷技術の革新的な発達により、
    イタリア語等の日常使われている言語に翻訳し直し、
    それを大量に印刷して、市民の手に渡した。
    これも、ルネッサンスの一つのきっかけとなったと聞いている。

    今、コロナ禍の最中だ。
    確かに、この禍が居つ去るのかは、誰にも分からない。
    今は、第三波だと言われ、緊急事態宣言前の逼迫した状況だ。
    しかし、私たちの気持ちは緩み、そうした緊張感に欠けている心理で生きている。
    それは、それで仕方ないのではとは、私は思う。
    withコロナなのだから、どうやって感染を防ぎながらも、
    自分たちの当たり前の生活を取り戻すか、考えて行かねばならないからだ。

    そんな時に、14世紀末のヨーロッパのペストについて知った。
    1348年のペストによって、ヨーロッパの人口の三分の一は亡くなった。
    その死を前にして、教会が「悔い改め」を迫ったのも、この時代だった。
    人は、みんな束の間の人生を生きた後、死を迎える。
    死は、いつのまにか忍び寄り、突然現われることもある。
    だから、みんな死を想い。死の準備をしなさい。
    これが有名な「メメント・モリ」だった。

    死を想うことで、人は、生を振り返るものだ。
    この生き方のままで善いのか。
    私は、神様の教えに従って生きているのか。
    傲慢で、我が侭で、自分だけ良ければいいと思って生きてはいないか。
    今、ここで、生き直しができるのだろうか。
    「より善く生きたい」
    そんな願いが、当たらな時代の気運を創った。

    また、その時、古くから続く因習と習慣が見直され、改革された。
    「世の中はこういうものだ」と、教えられ守られて来たことは、
    この不測の事態に陥った時、何の役にもたたなかったことが暴露された。
    あの政治家の爺さたちの失態・醜態はどうだろうか。
    「俺は。国会議員だ。県会議員だ。市会議員だ」
    「先生と呼べ。俺は偉いんだぞ」
    そのカス総理は、全く記者会見もせずに、引きこもりを続けている。
    選挙の票を買うために税金であるお金を賄賂でばらまく。
    それをもらった市会議員は、グアム旅行と借金返済に使う。
    マスク会食と言いながら、三密の忘年会を行い、
    ある市会議員たちは、コンパニオンを読んで酒盛りをする。
    国会で嘘をつきまくり、とうとう事情聴取を受けた元総理も居る。
    これが、今のこの国の現状なんだ。

    こんな既得権を手放さない爺さたちが、
    この国の未来と若者たちの幸せを考えて生きているわけはない。
    それなのに、その権威の下で、
    のこのこと美味しい汁を吸って生きている人たちも、この国には多くいる。
    それは、もう、いい。
    実は、あのルネッサンスの時も、
    当時の王様や、貴族、聖職者たちの腐敗が暴かれ、
    そうした権力者たちの愚かさと罪が暴露され、
    失墜させられていったのも、この時代だった。
    この国も、そろそろ馬鹿な爺さたちから、その特権をはく奪して、
    新たなビジョン・価値観で、
    新しい世の中・社会を復興させる時代がきたのだと、私は考える。
    いつまで、カスに夢を託しいてるのだ。
    無力。無能・無策のただの番頭なんだ。

    と言うか、
    このことを機会にして、「みんな」「普通」「当たり前」「常識」を、
    もう一度問い直すことが必要なのではないの「問い」だ。
    それらの存在を信じて、それらのことを目標にして、
    そうなろうと我慢して、自分自身を押し殺して生きて来た人たちは、
    今は、そのことを守り・固持して、自分は本当に幸せなになってするのかと、
    そあ「問い直す」時代が、今なんだということだ。

    偏見と差別。いじめ・失業・貧困・自殺。
    そんな時代にいつの間にかなっていたのに、
    私たちは、うわべだけの嘘の情報と展望に騙されて、
    その「みんな」「普通」「当たり前」「常識」から外れることを許されず、
    外れてしまったら、社会からの失格者として扱われ、
    世の中の片隅に追いやられてしまうような、不幸で、全く不公平で、不平等な。
    そんな愚かな社会を、この爺ささたに騙されて、築いてきたのではないだろうか。
    経済活動のために、命が後回しにされる政治だ。
    それは、己の就活。次の選挙で当選して、億の金を手にする手段。
    何も信念もなく、内閣支持率が低落すると慌てて、舵を切り替える。

    もはや、こんな立て看板のような薄っぺらなリーダーはいらない。
    今こそ、当たらな幸福論。
    「みんな」「普通」「当たり前」「常識」の生き方を問い直し、
    いつやって来るかも知れない死を想い、
    いかにしたら幸福な人生を全ての人たちが生きられるのか。
    そのことをみんなで「問い直し」「やり直す」ことが、
    このコロナ禍の本当の意味ではないかと思っている。

    その学びを、私たちは、15世紀の「ルネッサンス」で行うこたなんだな。
    私たちは、実は、時代の転換期を迎えている。
    確かにコロナウイルスの退治・全滅が急務だけれども、
    その後に、またこの「みんな」「普通」「当たり前」「常識」な社会に戻せば、
    喜ぶのは爺さたちばかりだ。
    そんな世の中・社会には戻してはならない。
    もっと、みんなが安心・安全を感じ、幸せに生活できる社会や世の中にする。
    そのことを、もっと現代の哲学者や、歴史学者や、芸術家たちがして欲しい。

    私たちは、差別と偏見に満ちた、
    この爺さたちが特権を有するこの社会を望んではいない。
    私は、全く新たな「みんな」「普通」「当たり前」「常識」を求めている。
    本当の意味での「人間復興」=「ルネッサンス」は、今、ここ、なんだ。
    だから、独り独りで考えよう。
    どんな社会・世の中であって欲しいかを。
    それを、旧態依然とした爺さたちに、任せていては碌なことは無い。
    どうせ仲間の料亭でコンパニオンでどんちゃん騒ぎをして終わるだけだ。
    実は、かっての王様・貴族・聖職者等の特権階級の権威は当の昔に失われているのだ。
    ひのことを自覚できない爺さたちが、ああして愚かなことを繰り返している。

    もう、そんな社会や世の中をやめにしよう。
    一人ひとりの人間が大事にされる社会が、afterコロナの世の中にしたいものだと、
    改めて、今朝、ラジオ深夜便で「ルネッサンス」を学んで、思った。

    それにして、21世紀の現代に、ラテン語で苦しんでいる男もいるんだなぁ。

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  • from: クマドンさん

    2020年12月23日 07時30分44秒

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    どのように一日を過ごすか

    定年退職後の生き方について、考えている。
    日々、そのことを実地で学ぶ。
    やっばり身体で学ばないことには、何も分からないと同じことだ。
    人は、想像はできる。
    しかし、想像を現実は超える。裏切る。全く違う。
    現実に起きることは、私のことなど全く眼中になく、
    ただ淡々とあるがままに、時間が過ぎる。

    問題は、その時間の使い方なんだ。
    今朝も3時40分に起床した。眠くて、眠くてであったが、起床した。
    そして、電気ポットでお湯を沸かし、ラジオ深夜便を聴いた。
    それから、FBを1時間書いた。
    これも10月からの私のルーテーンの1つになっている。
    読んでもらうために書いているのであるが、
    本当は自分自身のために、これを書き続けている。
    その後、友にメールを送り、これを書き始める。

    ここまでのルーテーンがあると、
    何をしようかと考える必要はない。
    ただ、自分が決めたことを、決めたようにやることだ。
    そのルーテーンを持っているかどうか。
    そのことで、同じ流れの時間を、どう感じて生活できるかが、変わる。
    「今日は、何をしよう」
    「何もすることが、ないなぁ」では、ちょっと寂しい。
    きっと人は、何もしなくても、
    どこかで「意味」を求めているのではないだろうか。

    次に、自分のことは自分でやる生活だ。
    朝食と昼食は、自分で造る。
    そのことも、ルーテーンの1つとする。
    例え、自分だけのためと言え、家事は、私に達成感を感じさせる。
    つまり、家事をすることで、働く欲求を少し満たせるということだ。
    だから、家事を一切やらないで家に居る定年族は、
    何ともたっぷりある暇な時間を持て余すことだろう。

    身体をとにかく動かすことから始めることだ。
    テレビはつけない。テレビをつけると、その前から動かなくなる。
    番組を創っている側の意図は、それだった。
    最期まで釘付けにする。途中、膨大なCMを観させる。
    その内に、それを観ないと気が済まなくなり、
    番組依存が始まる。だんだん、テレビ視聴の時間が増える。
    観終わった後、何だか虚しさを感じて、夕方を迎える。
    だから、番組は録画する。後で、CMをかっとばして短時間で観る。

    私は、息詰まると、身体を動かす。
    ヨガを始める。庭に出て花の世話をする。部屋を片付ける。
    そうやって何かに集中して取り組んでいると、時間を忘れる。
    いくら時間をかけても、いいと思う。
    この一つだけでも、やり終える。やり遂げることに満足がある。
    「今日は、あれをやれた」それだけで、いい。
    その時間の「意味」を自分でつけてやる。

    ゆっくり、のんびり、おだやかに。
    そうやって時間を過ごすことを、「無駄」だとは考えない。
    今、そうやっていても「何もしていない」とも考えない。
    今は、お日様に当たっている。今は、花の色を観ている。
    今は、ぼっとしながら、考えている。瞑想している。
    そうした時間の味わいを、味わえるようににると、
    何もしていないようなその時間を、すっきりと過ごされる。

    話をすることも大事なことだ。
    ほんのささいな日常会話でもいい。
    外に出て、ご近所の人と挨拶するだけでもいい。
    また、私はSさんに電話して、お互いに心を開いて対話することを、
    とてもとても喜びに感じている。
    自分の思っていることを、言う。
    自分が感じたり、気付いたことを、相手の人と共感する。共有する。
    このことにも「意味」を深く深く感じている。

    新しいことを一つやる。
    そうなんだな、「いつかやってみよう」と思っていることがあったら、
    その日、一つだけやってみる。
    すると、これも予想外の気付きと発見と出会うことがある。
    私には、いつか入りたいカフェがあった。
    昔からの知り合いの女性が開店した店だった。
    いつか、いつかと思いつつも、その勇気がこれまでなかったようだ。
    昨日、散歩の途中で雨になりそうだった。
    「そうだ、あのカフェで雨宿りしよう」
    そして、入ったら、大歓迎で迎えられた。
    ここにも、昼間の私の一つの居場所ができたようだ。

    それから、時々、空を見る。
    今も、日の出前の薄青い空の色と、オレンジに煙が輝いている。
    この景色を観ていると、時間を忘れる。
    その景色に浸る。何かを感ずる。物思いにふける。
    これも大事な時間の使い方だった。
    庭に出て、ただ花たちを見て佇んでいるだけでもいい。
    その時も、やはり自分を忘れ、時間を忘れる。
    だから、自然は在り難いものなんだと思う。

    実は、こうして何かを書いていることにも、
    私にとっての貴重な時間の使い方でもあった。
    書くことは、確かに現すことである。
    言葉にすることで、この私の考えや気付き・発見が、
    読む人と共有される。
    しかし、そのためだけでなく、やっぱり私は、私のためにこれを書く。
    書くことで、時間を忘れる。何かにただただ集中する。
    その気持ちよさがあるから、これを書いているのかも知れない。

    膨大な暇な時間を与えられている。
    何かが向こうからは、やっては来ない。
    この時間をどのようにして味わい、楽しんで1日を終えるのか。
    そんな難しく考えることではない。
    「何もしない」「何もやらない」「ほーっとする」
    それも自己決定の1つだと考える。
    つまり、時間にただ流されることに、
    私は、「意味」を見出さない。
    そまの時間をどう使うかを、自己決定・自己選択するところに、
    何だか生活する「意味」と「楽しさ」があるような気がする。

    この自宅でずっと1日過ごす。
    その中に自分なりの「意味」と「楽しさ」とを味わうことができれば、
    それは、私にとって「善い1日」であると、言える。

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  • from: クマドンさん

    2020年12月22日 09時16分09秒

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    孤独を生きるためには

    分かっていることは、みんな孤独を生きていること。
    独りではない人は、1人もいないということだ。
    だから、この人生。どうやったら、独りを幸せに生きられるのか。
    そのこを「問い」として、考えて、日々を生活することが大切だと思う。

    「独り遊びぞ、吾は楽しむ」と良寛さんは言っている。
    しかし、この心の裏には、やはり壮絶な孤独があったと思っている。
    あの山中の五合庵での貧しい独居生活だ。
    ただの托鉢だけで生きて来た良寛さんが、生涯を全うしているのだから、
    私もきっと、どんなに孤独であろうとも、生きられるとは思う。

    しかし、生活とは、身体を養い、健康を維持する努力だけでない。
    時には、病となり、怪我もする、身体を痛めて不自由になる。
    これから先、どんなことがこの身に起きることか、予想はできない。
    しかし、それは、身体のことだ。
    身体は身体として生命体の私として、摂生しつつ維持をする。
    健康第一で、今は生きている。それは、まぁ、いい。

    孤独とは、心の問題だ。
    身体には栄養と適度な運動・休養・睡眠だ。
    それでは、この孤独にはどんなことをすれば癒されるのかの「問い」だな。
    これは、人が人となってならずっとずっと問われている「問い」だった。
    孤独は、癒されるのか。
    孤独は、解消されるのか。
    孤独は、無くなるのか。

    そんな訳は、ないだろうとは、誰もが思うこと。
    確かに、何かに集中し、その刺激に夢中になっている時は、我を忘れる。
    そんな孤独であることの、哀しみ、痛み、切なさすら、忘れている。
    つまり、自分が孤独であることすら、気付かないまま生活できる。
    その時は、孤独であるが、孤独を感じていない状態だ。

    しかし、それは、長続きはしない。
    そもそも、孤独とは、解消できるものなのだろうか。
    いつまでたっても、寝ても覚めても、私は、独りなんだ。

    家族がいるではないか。
    友がいるではないか。
    しかし、それは何人いても、その数だけの孤独があるだけ。
    独りでなくなることは、生きている限り絶対にないと思う。
    だから、この孤独な心の処方箋と薬なんだな。
    というか、どうやったら、この独りを幸せに生きられるか。
    つまり、「独り遊びぞ、吾は楽しむ」と言う、良寛さんのようにして、
    その哀しみ、痛み、侘しさ、寂しさを忘れられる何かを得たいものだと、
    日々の生活の中で感ずることがある。

    しかし、よく考えてみたら、孤独を寂しいものと感ずるだけだから、
    少しでもこの孤独から逃れようとするのではないだろうか。
    良寛さんのように、決して強がりではなく、
    「独りが、楽しい」と、思うことができたら、
    それはそれで在り難いこととなるような気がする。

    今、リタイア何回目かのサイクルに入った。
    次の仕事を決めるまで、のほほんと生きていることを許している。
    まぁ、いいかと、のんびりと生きている。
    これは、これで、もうけものとも感じている。
    これって、やっぱり孤独だからできる楽しみ、ではないだろうか。

    独りは、いいのだ。本当は、好きなんだ。楽しいんだ。
    やりたいことをやりたい時にすぐできる。
    人を気にすることも無く、相談して意見を交わすことも無く、
    時には、対立して喧嘩をすることもない。
    我が道を、我らしくずんずんと行けばいい。

    旺盛な好奇心さえもっていれば、
    その好奇心を満たすための行動をとることができれば、
    欲張らずに、足ることさえ知っていれば、
    孤独は、実は、楽しいものなんだな。

    いつも誰かのことばかり気にして、周りの評価で生きている人がいる。
    その人の口癖は、
    「みんな」「当たり前」「普通」「常識」「世の中」だった。
    そのことを基準にして生きて来た人は、いつも周りの人の評価で生きて来た。
    「あれをするとだめだ」「これをすると褒められる」
    つまり、その相手の人の視線をいつも意識して、
    その人の価値基準に自分のことを合わせて生きて来た人だ。
    その人たちには、はっきり言うと、「自分」が居ない。
    その「自分」を創るための努力も、反発も、反抗も、してこなかったからだ。

    それは、ある意味では、哀しいことだった。
    この人たちは、いつも何かを決める時には、人に答えを求める人だ。
    または、何かを期限を限って決めねばならない時には、
    その「期限」「期日」を決定しないで、先延ばしにする人だ。
    「あなたは、どう考えますか?」と訊かれても、意見を言えない人だ。
    そして、困るといつも「どう思いますか?」「あなたなら、どうしますか?」と訊く人だ。
    ところが、意見をいろいろと言われたとしても、受け入れない人でもある。
    自分にとって都合のよい、利益となることは、取り入れるが、
    リスクがあったり、自分を変えねばならないことには、無反応をする。

    つまり、自分が空っぽであるために、
    変える自分すら存在していないことを、この人は、感じてはいるからだ。
    はっきりと、こうだとは、言えない。
    しかし、「出来ない理由」は、いつも持っている。
    これが不思議なんだが、相手と対立し、攻撃する時、この人たちは、
    例の、「みんな」「当たり前」「普通」「常識」「世の中」を持ちだす。
    これをバックに、相手の間違いを論破しようとする。
    しかし、哀れなんだが、こんなものはどこにも存在しない幻なんだな。

    大いなる幻影だ。
    そのことを後生大事に信じて生きて来た。
    そして、50歳・60歳になっても、まだまだ目が覚めない。
    いや、覚めるどころが、歳をとればとるだけ、頑固に固執する。
    今更、それを幻だった。それに騙されて生きて来たとは、言えないからだ。
    言えるためには、本当の自分と言う基準を持たねばならない。
    この人には、自分は、未だに存在していない。
    人の目から見られる自分は、居るのだと錯覚はしているが。

    さてさて、孤独と自分との関係についてだ。
    実は、孤独を深く深く感じ、ひしひしと寂しさと侘しさを募らせるのは、
    この「みんな」「当たり前」「普通」「常識」「世の中」の人たちなんだ。
    この人たちは、自分が存在していないと言うことは、
    孤独な存在でありながら、独りで生きられない弱い人たちとなってしまう。

    独りでぽつんと置かれる。
    さて、好きなようにして生活できる状況だ。
    自分を生き、孤独を生き、好きなことを自己選択と決定で行って来た人は、
    そんな状況でも、どう生きたいったら幸せなのかを、訓練の中で身につけている・
    孤独でありながらも、笑顔で、すいすい、「楽しいなぁ」と言って歩き回れる。
    いや、歩かなくてもいい。ここに居れてもいい。
    孤独であることは、当たり前だと、受け入れられる。
    だから、どうしよう。何をしようと思案する。
    日々の独りの時間を味わいつつも、楽しんで生活できる。
    それは、自分が居るからだ。

    ところが、自分が居ないと、そわそわと落ち着かない。
    とにかく、どこかに出かけないと気が済まない。
    だから、もっと孤独に陥る。
    だから、もっともっと刺激を求める。走り回る。へとへとになる。
    そして、もっともっと孤独を感ずる。

    さてさて、どうしたらいいのかなぁと、いつも思う。
    私は、「みんな」「当たり前」「普通」「常識」「世の中」と真逆を生きた。
    だから、ぼこぼこになり、あっちこっちの壁にぶつかり自爆した。
    それでも、また、立ち上がり、生きて来た。
    その立ち上がった数だけ、自分を育てた。自分を鍛えた。
    今は、はっきりそう言える。

    そうなると、独りってとても面白いものなんだ。
    時間を自分で自由に使い、好きなことをやりながら、過ぎて行く時間を味わえる。
    孤独で居られる力とは、自分であることの度合いにも由るようだ。
    孤独を忘れて生きるためには、そうした生き方ができる自分であることだ。
    いつまでも、「みんな」「当たり前」「普通」「常識」「世の中」では、
    自分なんて自分の中から生まれては来ないことだ。
    「自分で、自分を、自分する」だ。

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  • from: クマドンさん

    2020年12月21日 07時29分01秒

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    身体が病んでも、心は病まない

    どか雪の先週末だった。
    その雪の量には、雪国の湯沢の人も驚いていた。
    こんなこともあるんだな。
    いつも私たちは、こんなことに会って、初めて目を覚ます。
    「まさか」しか、本当はないのではないか。
    そして、いくら想定していても、自然はその想定の外にある。

    大震災がまさにそれだ。
    突然の大地震に大津波。
    ついさっきまでここに居た人たちが、消えて亡くなる。
    そのことは、いつも私たちの当たり前。
    今は、ただ、まだ来ていないだけ。
    その日がいつなのかは、誰も知らない。
    しかし、「必ず、やって来る」と、思っていた方がいい。
    それは、絶対に、いつか、来るのだからだ。

    また、病もそうだ。
    私の場合は胆石の摘出のための簡単な内視鏡手術の失敗。
    そこから地獄に真っ逆さまに落とされた。
    しかし、ここまで身体は、回復するみとができている。
    それは、とてもありがたいことだった。

    しかし、突然、自分が難病に罹ることもある。
    どうして私が・・・と思ったところで、その病には変わりなかった。
    ALSでは、日に日に筋肉が萎縮し、衰え、
    寝たきりとなり、身体の手足が動かせなくなり、
    目だけでコンタクトをとる生活になってしまう。
    最期は呼吸が出来ずに、心臓もその機能を果たせず、止まってしまう。
    その進行を、止めることは今の医学では無理だった。

    だから、もし、そうなったら、どうするか。
    そんな想定も、この健康な内には、少しはしておくべきなのだと考えている。
    癌は四人に一人の病となっている。
    早期発見なら、生存率が伸びているが、
    いつもいつも再発の危険性の中を不安に生きていることが現実だと思う。
    余命宣告を受けたらどうするだろう。
    来年の夏までは、生きられません。
    そう言われて、この冬を私は、どんな気持ちで過ごすことか。

    つまり、当たり前の生活の中で、
    この当たり前、いつか当たり前でなくなってしまうかも知れない。
    そんな、そうではない生活と隣り合わせで生活していることを、
    私は、忘れてはならないのではないかと、今は、思う。

    だから、今日一日だけの感謝なんだ。
    目が覚めた。今日も生きている。身体が動く。昨日と同じ今日である。
    そんな当たり前のことを、当たり前であると、思わない。
    それを在り難いものと、感じ、心から感謝する。
    感謝するとき、きっと感謝する相手のことを感ずると思う。
    感謝しない人には、この相手は存在していない。
    いや、ちゃんと日々、守ってくれているのだが、
    そのことに、気付かないで生きている。
    気付かなくても、その存在は、何も変わらない。
    回心すけば、ずっと傍らに共に生きていてくれたことを悟る。

    P病の彼が居る。
    彼は、2年前に?診断を受けた。
    しかし、彼は、身体からの声を聴かない。
    いや、そうした感性がなければ、この声は聴こえない。
    だから、とにかく彼の身体とこれからの人生を思って、
    私とSさんは、彼にアドバイスした。
    しかし、彼は、その言葉を受け入れなかった。
    自分は、まだやれる。大丈夫だと思っていた。

    しかし、身体は、意志とは意識とは、全く違う動きをするものだ。
    それは、頭とは全く無関係に生きる生命体である。
    自然なんだ。
    そのことを、彼は、気付かずに仕事を続けた。
    すると、徐々に弱って来た身体が、劇的な変化を見せた。
    しかし、小さな兆候は必ずあったはずだ。
    突然ではない。徐々にゆっくりだ。
    その途中の警告の声を彼は、聴かない、聴こえない、
    だから、無視することになってしまった。

    私は、人が生きて行くとき、この身体の声を聴く感性が大事だと、
    今は、そう思って生きている。
    頭でなんか余計なことは考えないことにした。
    今まで、どれだけ、この頭が勝手に造りだす嘘や妄想に騙されたことか。
    頭は確かに知恵があるが、時には、自らの命を弱める悪魔でもある。
    そのことを知ってから、頭の優先順位をずっとずっと後にした。
    しかし、彼は、全く頭の人だった。
    考えたように、なると信じている。
    しかし、人は、こうやって頭に騙され、ひどい目に合わされる。

    彼はこの時節に東京の大病院にセカンドオピニオンに行くそうだ。
    感染者が蔓延している東京に行く。
    帰って来たら2週間のホテル住まい。
    職場には20日間き休むことを許された。
    さてさて、想定がどうしてできないのかの「問い」だった。

    もし、彼が感染したら、どうなるだろう。
    ここまで弱った身体は、きっと重篤な状態に陥るのでないだろうか。
    身体が不自由なのに、2週間食事もつかないホテル暮らしだ。
    感染の危険を回避するために、自宅にも帰られない。
    車で外には出られるが、それも濃厚接触者を増やすだけだ。
    彼の頭には、自分は感染しないと、決定されている。
    しかし、いつも出来事は、想定外なんだ。
    そんなに自分に都合のよいように物事は進まない。
    「まさか」が、当たり前。
    でも、頭の人は、自分の思った通り、それをやる。

    いくらリスクを説明して、止めても無駄だった。
    しかし、それほどに彼の身体は逼迫した状態に至っているのだとも思う。
    だから、やむにやまれずの東京行きの決断だ。
    今は、何事も無いことを祈るだけだ。
    しかし、彼の身体は、この決断をどう思っているだろうか。
    彼には、その声が聴こえないので、そんなことは想像すらできないことだ。
    だが、きっと身体は、自らの命を少しでも延ばすために、
    今、この朝も、彼はきっと叫んでいると、私には感じられる。
    その必死な身体の叫びを、自らの身体の悲鳴を、彼は無視する。

    私は、今は身体の声を最優先にして生活している。
    だから、何をするにも身体に訊いている。
    そして、身体が気持ちよいと感ずることだけをやることにしている。
    身体が気持ちよく生きてくれると言うことは、
    今、ここ、自分は、健康であるということだった。

    しかし、例え、難病であろうと、癌であろうとも、
    今、ここ、自分の身体にとって、気持ちよい状態は必ずあるはずだ。
    その気持ちよさを、身体のためには最優先する。
    もし、私がそうなったら、このことは忘れまいと心に決めている。
    私は、長期間天井だけを見つめる寝たきりの状態になったことがある。
    そ時、心まで病んでは駄目だと、自分に言い聞かせた。
    とにかく、少しでも痛みを和らげ、身体を楽にする。
    すると、気持ちまですーっと落ち着く。しっかり眠れる。休んでいられる。

    彼は、身体の痛み・痺れ・不全感をひどく感ずる時間帯があるそうだ。
    ならば、尚更なんだ。
    その時は、休む時。動かない時。癒す時。
    なのに、彼は頭で考え、その身体を叱りつけ、酷使する。
    これでは、身体が彼のことを諦めるのも仕方ないと、私は残念に思う。

    身体は病んでも、心は病まない。
    そのためにどうやって日々を生活したらよいのか、
    そのことを考えるために、この頭はあるのではないだろうか。

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  • from: クマドンさん

    2020年12月20日 07時27分26秒

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    絶対矛盾的自己同一なんだな

    ここ一カ月余り、ラジオ深夜便を聴いた後で、
    私のFBに長文を打っている。
    「長か過ぎーーーー」と不評であるが、
    そうであるからこそ、受けて立ち、燃えた心で書いている。
    つまり、この「親父たちよ」は、第2ラウンド。
    へとへとになってから、また立ち上がったボクサーもようなもの。
    あれだけ書いていて、またよく出て来るものだと、
    自分でも呆れている。

    だからと言うわけではなく、浅めで短めなコメントになっている。
    フラフラになりながら書くのだから仕方ないと、
    そう想いながら、気楽にこれからも書き続けることにしている。

    昨夜も、三重の友とリモートだった。
    奥さんの話は、余りお互いにしなくなった。
    まず、今は「異星人学会」は、開店休業とした。

    彼の仕事の話だった。
    介護福祉士・音楽療養士が、彼の専門だ。
    だから、就労型の福祉施設に採用になり、勤務した。
    とかし、どういうわけか、厨房のサブに回された。
    一時的なものだろうとは思っていたが、そうではなかった。
    チーフの70代の大ベテランの叔母ちゃんのアシスタント。
    つまり、この二人でカフェのランチと、お弁当を作っていた。
    百を超える数を、2人で賄う。

    その叔母ちゃんが、先月に鎖骨?を骨折した。
    そしたら、彼一人が厨房を任された。
    早朝の出勤が続いた。
    主任は、ただ彼に仕事を任せて、何も手伝うことはしない。
    注文の数は多い。人手が足りない。
    就労の人たちにアルバイトとして入ってもらう。
    それでも、日々を必死に、やり切っている。

    何とも理不尽なことだ。
    どうしてこんなことが起こるのか。
    しかし、彼は不満でありながらも、それを受け入れて仕事している。
    先日は、4時に家を出て、早朝の仕込みだった。
    それは、彼がそう言いながらも、その現実を受け入れているからだと思った。
    この現実を、よしとはしないが、有とする。
    そして、その仕事の中にも楽しさと遣り甲斐を見出して行く。

    全く厨房での調理が初めててあっても、よきチーフに育てられ、
    今では、二百近くのオードブルを用意できる腕となっている。
    また、チーフから調理のこつと、味を伝授されている。
    それを、彼は自分なりにカスタマイズして、工夫している。
    そして、出来上がったランチやお弁当、オードブルを、
    お客さんたちは美味しいと言ってくれる。買いに来てくれる。
    その張り合いと喜びは、彼にとっては大きな生き甲斐となっている。

    理不尽に与えられたその調理の仕事だが、
    そのことを受け入れ、チーフに学び、育ててもらい、成長を遂げる。
    自分の作品としての料理をお客さんが喜んでくれ、
    わざわざお弁当やオードブルを買いに来てくれる。

    何もしないその主任は、きっと何もしない分、何も成長していないはず。
    たいてい、この種類の人たちは、仕事を人にさせる。人に回す。
    そして、自分はどうやったら楽をできるか、考えているものだ。
    確かに、早朝出勤も無く、年休は自由に取られ、忙しくても知らぬ存ぜぬ。
    それを、本人は「楽だ」と考えているのかもしれない。
    しかし、そうやってのらりくらりと生きて来て、30年たった。
    この人は、きっとそのまま爺さになるのだろうなぁ。

    つまり、現実を受け入れ、それとしっかりと向き合い、
    そこから逃げず、自分の課題として問いを持ち、挑戦を続ける。
    その中にしか、人が人として成長する機会はないのだと思う。

    最近、「これは・・・」と思う、難しい課題を与えられることが多い。
    こんな平凡な日常生活を過ごしていても、その課題は日々向こうからやって来る。
    その時だ。
    それをどう回避して、やり過ごそうかを考えるのではない。
    それをどう取り組み、どのような方法で解決しようかと考え、実行する。
    確かに、この二本の道は、生き方としてあるような気がする。

    この時、頭で損得を考え、責任の所在とリスクを計算する人は、
    それを「やらない」「しない」という道を選ぶ。
    そして、「やらない」「しない」理由を、「出来ない」理由にすり替える。
    この人たちは、言い訳がとても上手い。
    何を言われても相手を納得させるための、想定問答すら考えていたりする。
    というか、相手に何か言われたら、直ぐに言い返す本能で生きている人だ。
    言われたままでは、負けなんだな。
    まぁ、頭で生きている人は、ゼロか1の人だ。
    その勝手に造り出した自分本位の企画が全ての基準。
    可哀想だが、この人たちは、歳をとったら、どんどん劣化する人たちだ。

    しかし、彼のように身体で考え、行動する人がいる。
    いつも身体を優先にする。ぐずぐず言わない。さっと厨房に立つ。
    目の前には次々と解決しなければ課題がやって来る。
    それを間髪を入れない。とやかく言わない。黙ってこなす。やり続ける。
    それは、全て身体の動きだ。頭は、その処理を速くするための工夫を考える。
    身体は次々と仕事をこなしながら、頭はどこか冷静に観察し、判断している。
    その一体感は、身体と心には、とてもとても気持ちよいものだった。

    この身体と心と頭とが、バラバラになっていたり、
    そのバランスが悪かったり、
    頭が8で身体が2となってしまった時は、仕事は全く気持ちよく進まないものだ。
    そのことを彼は知っている。
    頭を優先させると迷う、腹も立つ、やる気が失せる。
    しかし、身体をせっせと先に動かす。段取りを即決めて、さっさとそれをやる。
    やりながら、次の段取りを同時に考え、ぱっとそっちに移行する。
    これって、カンポスのマスターの調理する姿そのもの。
    彼の調理の姿は、踊りやダンスそのものだった。

    主任は頭で考え、ぐずぐずしている。
    彼は身体で考え、さっさと動き続ける。
    この二人の違いが、大きな違いなんだと、
    身体で生きる人たちなら、そのことがよく分かる。
    だから、その人たちは、決して頭の人たちのところに行かない。
    自分は、絶対に頭の人には戻らないと決めている。

    ここに書かれてあることが分かる人は、身体の比重が多い人だ。
    このことを「異星人」たちに語っても、
    頭で考え、「みんな」「普通」「全部」「常識」という企画が基準だから、
    このフリーダムな生き方は、企画外れのおかしな生き方と判断される。
    本当に、頭と身体とは、相いれないもののようだ。

    しかし、こんな言葉もある。
    西田幾多郎の言葉だ。
    これが、彼の哲学の本質だと言われている。

    「絶対矛盾的自己同一」

    きっと身体で生きている人には、この意味が少し分かる気がするはずだ。
    まぁ、頭でっかちで、世の中のありもしない規格品を生きようと努力する、
    私たちが異星人と呼ぶ人たちには、絶対に分からない言葉でもあるはずだ。

    私は、この「問い」を20代前半でいただいた。
    そして、ずっとずっとこの問いを温めて来た。
    無理だとは思わず、捨てることなく、大切に抱き続けて生きて来た。
    そして、今、ここ、自分は、
    やっと何だかそれになっていたのではないかと、思えるようになっている。
    不思議なんだが、「それで、いい」だった。

    だから、身体で生きている人と、何だか深くで同じ言葉を共有できる気がしている。
    みんな本当は同じなんだ。
    ただし、個性としては、片手に5本の指があるだけなんだな。

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