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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2017年09月30日 06時46分33秒

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    在ること・考えること・喜んでいること

    在ること・考えること・喜んでいること。

    当たり前を、ただ当たり前に生きる。

    今日がある。在り難い。

    仕事がある。在り難い。

    何だかね。私は、やっぱりそれを忘れていたな。
    いや、そうありたいときっとずっと私は願っていた。
    でも、その願っていた私ではなくて、
    どこか我がままで、自分勝手で、人の心を感じられない私が、
    きっと生きていたのだと、ある時から想い始めた。

    混沌だ。
    どう生きたら分からないどん底だ。
    何だかすべてを失ってしまったような喪失感と挫折感だ。
    そんな混沌をそれこそ、幾度も幾度も過ぎて来た。
    この「親父たちよ」は、その足跡に過ぎない。
    しかし、そうやっても、ここで、こうして生かされている。

    落ち着くと言う言葉通りに、
    私は、俺だと言う自意識の荒波から、その水面から沈没し、
    ずっとずっと無意識の阿頼耶識に沈みつつ、
    そして、老いと衰えと共に、
    とうとう何だか、「底」についたのかもしれないと感じている。
    それが「落ち着く」という感じだ。

    ここには、私が居る。
    その私が、私のままで生きてくれる。
    余計なことはしない。悩まない。くよくよしない。後悔しない。
    何だかそんなこだわりの私を脱ぎ捨てる。
    「どうでもいい」し、「いい加減」でもいい。
    自他の区別なしだ。

    開かれた私は、空っぽの私。
    空と風と雲とお日様と一つ続きの、がらんどうの私。
    ここを風が通り抜ける。
    すーっと空っぽだから、空とおんなじだ。

    在るとは、そういう感じのままに息をしているということ。
    ただ、在ればいい。
    しかし、小さなさざ波がいつもいつも生まれて来るのも自然な姿だ。
    だから、ほっておくことにしている。
    全ては、時間が融かしてくれるからだ。
    時間に委ねる。
    それは、私のかかわりではないこととして、忘れることにする。
    とどまらない。流れるままにする。消えていくのを、ただ待っている。

    在るとは、そうした心の所作・諦めではないだろうか。
    委ねる・任す・そのまんまにする・まぁいいか・どうでもいいだな。

    でも、いつも考えている。
    「悩むな。考えろ」by池田晶子さんだ。

    生きるとは何かを、やっぱり考えるために人はこの世に生まれてきている。
    知恵とは「いかに生きるか」を考えることで、私の中で育つもの。
    やっぱり仏陀の言うように、「人間を完成しなさい」「修業しなさい」だろう。

    人は、人の中で育ち人となる。
    だが、どんどん人になるにつれて、浅い愚かな人となったとしたら、
    それは、きっと何かの間違い、勘違いだろうと私は想う。
    人は、きっと「深い人」「いい人」になるために、この世に生を受けたはず。
    だから、どうやったら「深い人」「真人」「主人公」になれるのかを、
    絶えず、自分に問うて生きることが肝心・肝心だ。

    ソクラテスは言う。「魂のお世話をしなさい」と。
    身体のことは眼に見えるから養生をする。
    しかし、本当はこの目には見えないが、私として存在するこの魂を、
    しっかりと確かに感じ取り、その魂こそを養生すべきなんだ。
    いや、その魂から養生されるべきとでも言おうかな。

    そろそろ、人生をしまいにする頃が来たのだから、
    その私に主人公になってもらい、私は潔く勇退すればいい。
    そしたら、きっとのほほんと、生きられる。

    その時、きっと「いつでも喜んでいなさい」のあの喜びに満たされることだろう。
    深い人は、深いものと繋がっている人だ。
    きっと深く聴く人であり、深く感ずる人でもあろう。
    その人は、深く祈る人でもある。

    そして、その人はきっと言葉少なで、いつも笑顔の人でもあるだろう。
    その人は、まるで良寛さんであり、賢治さんのような人なんだ。
    「そういう人に、私はなりたい」と、想って行えば、
    その人は、きっとみんなのことを先にするから、
    自分のことなんぞ数の中にも入れていないから、
    人のために東西南北奔走できるのだろう。

    人の痛みや悲しみを、自分の痛みや悲しみと感じ、
    おろおろとしたり、涙をぽたぽたと流したりする。
    そんな人は、きっと、やっぱり、馬鹿だなぁと言われるだろう。
    「あいつは、損ばっかりしている」
    「人のことばっかりで、自分のことを一切かまわない、馬鹿なやつだ」と。

    でも、やっぱり「木偶の坊」になりたいものだ。
    人は、人で、それでいい。
    私は、私で、木偶の坊を目指す。木偶の坊を生きる。
    やっぱり一人ぐらい、そうして生きている見本が必要なのではないだろうか。

    私の見本は、イエス様であり、仏様であり、良寛さんや賢治さんだ。
    太鼓や笛の師匠から習うのとおんなじだ。
    見よう見まねとはよく言ったもので、
    師匠のようになりたかったら、師匠よーく見て、そのまんま真似をすることだ。
    その太鼓の響きを身体で聴き、笛の音を身体に染み渡らせる。
    それができで、その「則」ができて、初めて習うことができる。
    どんな姿形を私の師とするか。
    きっと、そのことで私の人生は決まるのだと想っている。

    私は、師匠の辿ったこの道を往くことを決意した。
    ただ、それだけ。

    だから、今は、笛を習っている。
    「煩いからやめろ」と言われても、私は、やめない。
    この深く深くで聴こえる笛の音を、
    私自身の笛の音とするまでは、
    日々、是精進だ。

    「病床にも山野あり」

    だから、「日々是好日」と生きたいものだ。
    今日も介護職員の初任者研修がある。
    一日、素直に習う人に徹する。

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  • from: クマドンさん

    2017年09月29日 06時14分21秒

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    次は、笛だ。神楽の笛だ。

    今、師匠に教わりながら、篠笛の稽古をしている。
    「高森いざや神楽」の笛の音だった。
    山ノ下祭りのお囃子にも笛がある。
    いつか私も笛を自由自在に吹ける人になりたい。
    山ノ下ではSさんが、目指す私の憧れの人だった。

    きっかけはどこからやって来るのか分からなかった。
    神楽の笛を吹く名手Sさんと、お知り合いになれた。
    保存会でも笛を吹く人が少なく、後継者を養成したいとのこと。
    「私を、ぜひ、一番弟子に」と、さっそく弟子入りを希望して、認められた。

    音は、出ない。
    エアギターは見たことがあるが、エアー笛とは、私だけの特許かな。
    とにかく、最初は、どんなに力んで頑張って息を吹きだしても、
    音は、風のようにすーっとか、ひーっとか鳴るだけだった。
    しかし、音となるうちはまだいいほうだ。
    本当に、息を吹きつける枯れ果てた音しか聴こえないことが多い。
    過呼吸で、何だか目眩がしそうだった。

    そこで、とにかく体感するために、工夫した。
    まず、吹き口と唇の位置である。
    まさに見様見真似で、いろいろな位置を試みる。
    ヒットすることもあり、空振りばかりの時もある。
    いい音が一瞬出ても、その音色を続けて吹けなかった。
    それでも、また呼吸を整えて再びのトライだった。
    吹き始めてから1カ月。
    今は、微かに音を最後までつなげられるようになった。

    どうして笛が鳴るのか、未だにそのからくりが分からない。
    ただの一本の竹であり、中ががらんどうの竹でしかない。
    左端に吹口があり、六つの穴がその下には開いている。
    師匠に習って、数字の譜面を作った。
    5565 53212 
    これが神楽の練習用の譜面となった。
    それをあっちこっちの壁に張っている。

    しかし、音が、身体に沁みていない内は、
    その微妙な味わいのある音色や響きとはならなかった。
    やっている途中に、音を忘れると、どうにもならない。
    ここには、リズム・調子が表現されていないからだ。
    「どうだったっけ」と、途方に暮れる。

    師匠に習う日は、師匠に吹いてもらい、その横で私も吹いて行く。
    音の全く出せない情けない弟子だが、
    その内に、門前の小僧だ。身体にその独特の調子が染みてこむ。
    習うって、やっぱりこういうことなんだな。
    親鳥の羽ばたきを見て、雛たちが羽ばたきの稽古をする。
    その姿から。「習」の漢字ができたそうだ。
    まさに、羽ばたきを私は弟子として習っていた。

    そこで、はっとする瞬間が訪れる。
    「あっ、そうか。そうだったのか」だ。
    それは、私が修練して、修練して、一歩も半歩も進まずに、
    四苦八苦している時に、その天啓は訪れる。
    師匠のその指の動かし方や、唇の当て方、首の傾き、
    その姿形そのものから、「あっ」という気付きが生まれる。

    不思議なことだ。
    習うとは、本当は、こういうことだったのだと、
    今は、習うこととは何かを実感として味わっている。
    太鼓と同じで、出来の悪い弟子である。
    でも、太鼓も笛も、私は好きでたまらない。
    何とか自分のものとしたい。
    その一念は、その一心はここにある。
    だから、きっと、どんなに下手くそでも続けられるのだろう。

    しかし、哀しいかな。下手くそなんだ。
    昨日は、練習していたら、「煩いからやめてください」とのクレームだ。
    「ごめんなさい」と頭を下げた。
    それでも、やっぱり吹きたくなる。うずうずする。

    何とも言えぬ、人であると、自分自身をそう想い、呆れることもあるな。

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  • from: クマドンさん

    2017年09月28日 06時16分00秒

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    自然の意見

    酔っぱらって書いたものは、後から読むと恥ずかしい。
    まあ、これも私と、諦めてはいるが・・・・。

    今朝も、2時半に目覚めてしまった。
    そんなもんだと諦めているから、仕方ないなぁと、床の中。
    ただ目を閉じて、じっとしている。
    すると、さっきまで見ていた夢が思い出された。

    昔住んでいた家の二階の私の部屋のガラス窓が割られ、
    階下の玄関の前に、私の机が逆さになって壊れていた。
    あれっと想って中に入ると、父が瀕死の状態だった。
    「酸素がない」と、割烹着を着た叔母さんの看護師2人。
    父は、確か身体のどこかに管を入れるチューブがあった。
    父は、死ぬのか・・・・と、目が覚めた。

    3時半、やっぱり起きるかと、腹這いなっていつもの本を読んだ。
    松原泰道さんの本だ。
    一つ一つの仏の言葉が身に沁みる。
    しかし、次々と忘れて行くのは変わりない。
    小千谷のSさんには、心に残った言葉をメールで打って送っている。
    不思議なことだが、何だか同じ本を二人で読んでいる気分になった。

    「どうにもならないものをどうにかしようとあせるから「悩む」のです。
     どうにもならぬものを、もう一つ高い立場で、「どうにもならぬ」と
     がっちり受け止めたら、身も心もそこで楽になるのです。」

    本当にそうだなぁと、いつもちっぽけなことでいらいらとしたり、
    腹を立てたり、怒っていたりするちっぽけな私は、そう想った。

    そして、分かっちゃいるんだが、これができないんだよな。と、嘆く。嘆く。

    向こうからやって来る試練とは、
    やっぱり私の心の修業の場である。
    私が、私になるためのそれは山野であり、道場だった。
    今、一つ、大きな課題と向き合っている。
    それとどう対処して、お互いの益とするか。
    そのことで、ちょっと悩んでいる。苦しんでいる。

    理不尽は赦せない。
    しかし、対立や喧嘩はもっと嫌だ。
    お互いに学ぶ機会となり、
    お互いとってこのことは、
    あってよかったと想える結果にどのように結びつけるか。
    「考える」ことだ。
    こは、「悩む」ことではない。

    関東大震災の日、惨状を鎌倉で知った鈴木大拙の言葉。

    「自然は人間がしていることに意見を吐いた」と、言ったそうだ。

    その謙虚さと、気付きとで、この課題を乗り越えたい。
    そのためにも祈ることかな。

    父は、まだ死んでいなかった。
    早く酸素吸入器を届けなければだ。

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  • from: クマドンさん

    2017年09月27日 21時43分39秒

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    言うことは、できない

    「人はそれで在ることはできる。だが、言うことはできない」

    どう在るかしかないなぁと、想う。
    どう在るかを問うている。
    その問いの視点は、私ではなく、仏様だ。
    その仏が生きる。

    私が、私を生きるのは、もうやめにしたい。
    いいではないか。
    ここからは、私ではなく、仏に生きてもらえばだ。
    全てのことは必然で、意味が在る。
    そのことを信じられるようになってから、
    そうだったのかと、分かったのは、
    「まさか」とは、こうして平穏無事に生きている今、ここのことだったんだ。
    「まさか」ばかりが人生だと、想って、
    その「まさか」ばかりを生かされてきたが、
    ふと、改めて想うと、今日、ここで、こうして生かされていることこそが、
    「まさか」だっんだと、通勤の車を運転しながら気付いた。気付いた。

    何事もなく、こうして、酒を飲み、
    虫の音を聴きながら、この言葉を語っている。
    さっきまで、「ためしてガッテン」を観ていた。
    そして、「ハートネットTV」で自閉症の世界を感じていた。
    そして、今は、感じたことを言葉にしている。

    ありがたいことだった。
    視点を変えて、向こう側から、今、ここを観たら、
    ここにあるものだけで、充分であり、豊か過ぎると、そうも感ずる。
    死んだ後で、この日を思い出したら、
    「ああ、あの日に帰りたい」と、切に願うのではないだろうか。

    任せたんだから、全部を委ねたんだから、
    とやかく言うなだ。
    昨夜、シネウインドで「阿賀の記憶」だった。
    もし、鬼籍に入ったとしたら、
    今日、ここでの出来事は、全て記憶の中のオマージュだ。
    しかし、今は、記憶にはなっていない。
    リアルにして、ここに在る、今、ここだ。

    最近、「味わう」という生き方に素直に従おうと想って生きている。
    「考える」ことも大事だし、「語る」ことも大事なことだ。
    でも、まず、その前に、黙って「味わう」こと。
    これって、私がずっとずっと忘れていた生き方ではなかったかと、
    やっと気付いた。嬉しかった。だから、黙っている。ただ、味わっている。

    その何もない時間の流れの中で、
    まるでどっぷりと気持ちよく湯船につかっているように、
    ああ、極楽極楽って、言いながら、歌の1つも歌いながら、
    「いかったなぁ」「おもっしぇかったなぁ」と、ただたゆたう、漂う。
    それが何になるか。
    それがどうだとは、別に言わなくてもいい。
    それは、それで、そのままで、いい。

    その漂泊感とでも言うのか、どうでもいいではない感とでもいうのか、
    そこんところが、何だか、実に愉快で、楽しい境地だ。

    人からどう想われようとも、どうでもいいこと。

    人には、何だか、余計なおせっかいだと想われるくらい、
    何だかやってみたいと想えること。

    「まぁ、いいか」「どうでもいいな」「いい加減に生きようかな」と、
    全く不真面目に、ただの酔っぱらいで日々を生きること。

    時には、感情的になり、怒りや腹立ちも感ずるが、
    いや、待てよ。
    まずは、このさざ波を静かに収まるまで待とうではないかと、
    その感情のままに、この身を任せないこと。

    左足にはまだ若干の痺れあり。
    腰は、中途半端な完治のまま。
    いつ、また、椎間板ヘルニアを発症してもおかしくはない。
    そんな不安定な身体の状況こそ、至極自然なんだと、諦めること。

    餅屋の加藤さんも、船大工の遠藤さんも、棚田を耕す斎藤さんも、
    今は、すっかり鬼籍の人だが、
    それを記憶として映像を遺した張本人佐藤真さんも、鬼籍の人となっている。

    どう生きている人たちの心に、想いに、形見を遺すか。
    これからは、そんな生き方しか在り得ないと、私が私に語っている。
    あの小千谷の大谷さんは、今も、ここに生きている。
    あの重厚で、渋くて、温かく、不思議に人の心を開かせる人柄は、
    まさに大谷さんの「徳」だったに違いない。

    私は、大谷さんに出会った。
    紙すきの百姓の小林さんにも出会った。
    そこで、私は、私と出会った。
    そういうものだ。

    その結果、目覚めてしまったら、仕方ない。
    ただ、人のことなんぞ気にせず、わき目もふらず、ただ只管、その道だけを行く。
    その道こそ、大道であり、ど真ん中の道だった。
    そこに立ち、今、ここで、そこを歩いている自分に気付いたなら、
    いいではないか。
    これからどんなことになったとしても、それは、それだ。

    ただ、この道を離れては、つまらない。
    とにかく、独りぼっちなんだから、それでいい。
    この道を、淡々と、粛々と、喜びをもと、味わいつつ、歩く。

    生きるとは、その道を選んで、迷わずに、だ只管黙々と歩くこと。

    そして、細やかな何かを感じて、その在り難さを味わうこと。

    言うのは、そのずっとずっと先だ。
    言葉そのものが、こうして語りたくなったら、語らせる。
    語ってもらう。
    私は、その語りをここに記すための自動機械であればいい。

    欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑ってい。だな。

    今朝、少し寝坊したから、ここに語れなかった。
    しかし、酔っぱらってこの睡魔に襲われながら、
    やっぱり言葉は、語りたがっていたとみえる。
    こんなふうにして、言葉を紡ぐことが私は、大好きだ。
    とめどなく湧き出る言葉だ。

    初めに在ったその言葉の、僕となる。

    しかし、未だに、真人が語ろうとする言葉にはなり得ない。
    首皮一枚。まだまだ、遙か彼方だ。
    それでもだ。「在る」ことはできるようだ。

    「人はそれで在ることはできる。だが、言うことはできない」

    だから、生きるは、面白い。

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  • from: クマドンさん

    2017年09月26日 06時18分02秒

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    痛みには、大いなる意味が在る

    痛みを通してしか、私は学ばない。
    だから、不意に、ここですかという時に、どかんとやって来る。
    その瞬間には、そのあまりのことに何が何だか分からなくなり、
    気が動転し、どうしてわたしなのかと、怒りや恨みも湧いてくる。
    でも、よくよく考えれば、
    その痛みは、私のためだけに与えられた痛みだったことが分かる。

    必然だなぁ。と想えるかどうかだ。
    不思議だなぁ。と感じられるかどうかだ。
    そう想い、感じられると、そこには「意味」があることが分かってくる。
    そうなるようにしてなさせられていた私とは、
    そうなるようになさしている何かの働きを感じている私だった。
    その「働き」を信じられるか。
    その目には見えない、音にも聴こえない、そんな意志や働きを、
    その痛みの中で体感し、自覚することができたら、
    その痛みとは、恩寵であり、感謝すべき一方的な愛でもあった。

    そんなことはあるわけはない。
    そう想っていた私は、今は、そうだったのかと、納得する。
    それは、ここに到るまでには数多の痛みと苦しみと挫折とがあったが、
    今、ここに、私は、生きている。
    いや、そうした苦難を経てこそ、
    こうしてここに生かされている喜びと感謝を感じているからだ。

    この夜中に、不思議な、不思議な夢を見た。
    まさに、その夢は、与えられ、それを味わうことを試されていた夢だった。
    その味わい、感じ、考えているプロセスで、
    何だか「分かる」が「分かって来た」予感を感じた。
    ある私の意識は、その体験する私を、そうなんだと見つめ、考えていた。
    つまり、体験する、体感して変化して行く私を、私は見守っていたのだ。

    そのことは、いつか、もっと確かになったらここに記したい。

    さてさて、この痛みから学んだこととは何かだ。

    私は、はっとした。
    人生の優先順位をどこかで私は取り違えていたのではないかということだ。

    何よりも、教会の礼拝だろう。
    遅れて行ってみて驚いた。
    韓国からいらした女性宣教師 李先生の特別伝導集会だった。
    それで、駐車場が満車だったんだ。
    とてもとてもいいお話しだった。これは、私のための語りでもあった。
    「奥さんを尊敬しなさい」「私は、あなたのことを尊敬しています」
    そう声に出して言いましよう。
    そうだなぁ。彼女がいなかったら、我が家はどこにも存在しなかったな。
    彼女が、本当に全部の苦しさを担いながら、歩いてきてくれたから、
    今日、こうして、家族で生活できるんだな。だ。
    御言葉は、命だ。
    御言葉を、深くで味わう。

    次に、家族のことだった。
    どんなに酷い父親であっても、こうして一緒に暮らしてくれる。
    黙っていても、やっぱり、お互いに心の支えとして感じ合っている。
    何も言わなくても、何もしてあげられなくても、
    こうやって一緒に生活できるのは、家族だけだ。
    夕食に次男の希望した「スシロー」に行って、みんなでの食事だった。
    嬉しかったなぁ。
    私は、家族でいることの幸せを味わっていた。

    それから、地域の家族のことだった。
    お年寄りたちへの見守り訪問を行った。
    「ごめんください」「お元気ですか」「何か困ったことがあったら言ってください」
    そう言って30件近くのお宅を回った。
    回っているうちに、心の重荷やわだかまりが溶けていくことがよく分かった。
    それは、迷惑そうな人もいないではないが、
    何だかほっとする笑顔で、感謝の言葉をかけられて別れると、
    「ああ、行ってよかったな」「今度は、いつ訪ねようか」と心がほっと温まった。
    人の痛みと孤独を味わう。

    教会にも、本当は私が果たすべき役割がある。
    家族には、感謝はされていないかもしれないが、私の責任は確かにあった。
    地域社会においては、天から与えられたこの仕事を全うすることだろう。

    私は、私のことなんぞ先に考えてはならないんだな。
    「すべてをお委ねします。お任せします」と言っておきながら、
    それはないよの必然の痛みだった。
    授業料は高い方が、いい先生といい学びとに出会うものだ。

    さてさて、おかげさまで目が覚めた。
    あの太鼓の師匠のように、本気の言葉は、厳しく、痛いものだった。
    しかし、厳しくも、痛くもなければ、私のような愚か者は、目を覚まさない。
    神様は、そんな塩梅をよくよくご存知だった。

    本当に人とは、いかに死ぬかを学ぶために、この世に生まれて来たのだと私は想う。
    その人の死にざまが、その人の生きざまだ。
    何を形見と次の人たちに遺していくか。
    それは、人生を諦めず、やっぱり人として闘って、
    生き抜いた姿ではないかと私は思う。
    「ああ、クマは、ああ生きて逝ったな」ってね。
    そんな生き方を、ちゃんと神様は応援している。
    だから、怠けたら、拳骨なんだな。

    それだけ、私は、神様に愛されている。
    そのご恩を、やっぱり誰か隣人に返すべきだろう。
    その「働き」こそ「私を動かす働きの意味」なのだと、
    この痛みを通して学ぶことができた。

    夜中に不思議なことが私に起こった。
    本当にそれは声無き声の私への呼びかけだった。
    深い深いそこの扉が開かれたようだった。
    やっと「生まれた」んだな。

    今は、その私を、じっと味わっている。

    「一隅を照らす人 その人こそ国の宝だ」  法然上人

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  • from: クマドンさん

    2017年09月25日 06時02分21秒

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    代車が・・・・・・・・・。

    こんなことがあるんだなぁを、ここに記す。

    昨日は、日曜日。
    私は、シネウインドで「阿賀の記憶」を観たいために、
    車の車検の時刻を早め、10時にお店に向かった。
    ピカピカの代車に乗って、それから急いで教会に向かった。
    するといつもの駐車場満車だった。
    仕方なく路上をと思ったが、そこもいっぱい。
    ままよと、教会の隣の医院の駐車場へ入れた。

    とにかく狭い駐車場で、やっと何度も切り返してそこに入れた。
    ところが、教会のHさんにそのことを言ったら、
    「私の場所に止めてください」と、車の移動を促された。
    その場所は一番端で、すぐ左隣に小屋の階段があり、
    絶対に左に切ったらこするだろうなぁの場所だった。
    仕方なくそこに止めた。

    そして、少し早く帰るために車を出したら、
    やっぱりハンドルが切れなかった。
    代車のために車幅感覚がなく、ぎりぎりのところをハンドルを切った。
    ぎぎきーーっと嫌な音がした。
    慌てて降りたら後の祭り。
    しっかりと左後方のドアが、そのコンクリートに食い込んでいた。
    代車が・・・・・・。

    傷がついていた。
    借りてたった3キロばかし走っただけなのに、
    その傷は、いったい何を私に教えてくれるのかだ。
    お店に電話した。
    「見て見ないと分かりませんが6から7万円はかかります」だった。
    保険はないのか・・・・。

    たった一回、他人の車に乗っただけなのに。
    危ないと分かっていたのに。
    その場所を観た時に確かに不安だったのに。
    しかし、せっかくのHさんの親切だから、断れなかった。
    あそこは、今考えても、私にはハンドルを切れない場所だ。

    さて、人生にはこんなことがある。

    代車である。
    手続きが遅れて、駐車場が満車である。
    仕方なく入れた場所から、狭い場所に移動させられる。
    慎重にハンドルを切ったが、やっぱりこすってしまう。
    それでけで、多額のお金を払わねばならない。
    そして、全てのことは、逆回しして、元に戻ることはできない。

    あらゆることが必然だった。
    ここから私が学ことは何か。
    とにかく冷静ではいられなかったし、
    怒りが湧いて仕方なかった。
    感情が高ぶり、もう何もかも嫌になった。
    そもそも日曜日に車検に入れたこと自体が間違いだった。

    しかし、すべては事実として今にある。
    いつまでも、いつまでも、それを悔いて、嘆き、怒っていても始まらない。
    そのことを、人生の授業料としなければ。

    私は、何だか空しくなり、何だかどこかにお金はないかと、
    無意識に机の引き出しを探した。
    そしたら、失くしたと想っていた大金が封筒の中から出て来た。
    ユッカのために数年前に書いた脚本が出て来た。
    それを読んで、自分で感動して涙が溢れた。
    それから、M委員として、地域のお年寄りの見守りに出かけた。
    一軒一軒訪ね歩き、「困ったことはありませんか」と、聴いて回った。
    本当に人生いろいろだった。

    それから、傷ついた代車を返しに行った。
    帰って来たら、家族四人で寿司を食べに行った。
    こうして家族四人は久しぶりのことだった。
    次男は、来年の春には東京に就職だそうだ。
    四人で食べられるのも、後、わずかだ。

    どれだけ私は、倹約して生活していた。
    Tシャツすらも、ここ1年間買っていない。
    あるものだけで、ここ数年は生きている。
    背広はぼろぼろになっていても、新調はしていない。
    行きたいコンサートも料金によっては諦めている。
    特に買いたいものがないからいいが、
    2~3万の物を買うことすら、諦めている。

    なのに車屋に、6万円を支払うはめになった。

    たった半日の出来事なんだが、
    本当にこの傷ついたお金を、何かの気付きの授業料としなければと、
    今も切なく、悔しく、悲しく、哀れに想っている。

    くれぐれもそんな場所には、駐車しないことだ。

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  • from: クマドンさん

    2017年09月24日 09時36分20秒

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    「阿賀に生きる」だなぁ

    「人がこの世に生まれて来るのは、けっして偶然ではない。
     みな神の思し召しをいただいて生まれるのである。
     しかし、神の思し召しがどのようなものであるかは、
     本人をはじめ、誰も知らない。
     思し召しを『美』という。
     その美を引き出すのが教育である。」
                          原田 実

     この美は、『聖なるもの』と言い換えてもよろしいでしょう。
     仏教でいうなら、それは『ほとけのいのち・ほとけの願い』です。
     誰もが生まれながらに具えている本心・本性です。
     どのような人の心の底にも、この聖なるものがあることを信じあい、
     敬い合い、愛し合ってゆくところに、しあわせが与えられます。
     つまり、「底抜けに人を信ずる人間になろう」と願うのです。

     つまり、底抜けに人を信ずるといっても、やみくもに信ずるのではありません。
     愚かな人でも子どもでも、罪を犯した人でも、悪人でも、
     表面はどのようにあっても、すべての人の心の底に、
     もう一人の真人がいるということを信ずるのです。

                          松原 泰道

    はきだめに
    えんどう豆咲き
    どろ池から
    はすの花が育つ
    人みなに
    美しき種あり
    明日
    何が咲くか
                「明日」 安積 得也

    おこるな
    いばるな
    あせるな
    くさるな
    まけるな 
                 堀田 庄三

    「老年は、一歩一歩、歩きながら味わうことができる年なのである。
     その意味では、誰もが芸術家である。
     老人になって俳句や和歌を作り始める人が多いのは、そのせいなのである。
     急ぐことはない。ゆっくりと遅いほどいい・・・・」  曾野 綾子

    「わたしは考えることができます。
     わたしは待つことができます。
     わたしは断食することができます。」
                       『シッダルタ』 ヘルマン・ヘッセ

     慈悲と愛とは別です。
     慈悲の原語は、梵語のマイトレーヤ・カルナーです。
     慈(マイトレーヤ)は、普遍の友情です。
     普遍の友情とは、特別の少人数への友情ではなく、
     誰にも持つ友情をいいます。
     悲(カルナー)は、悲しいのではなく、うめきの意味での、あわれみです。
     人生苦にうめき声をあげることです。
     人生の苦しみや悲しみにうめき、嘆いた『涙の先輩』だけが、
     その後輩を正しく理解し、共感できるのです。
     この苦しみをともにし、同感できるのを<悲>と呼ぶのです。
     いつも同じ低さにある者どうしの心の接触を感ずるのが慈悲です。

     自分も苦しみつつ、
     しかも自分ではどうにもならぬ他者の苦痛に融け込むのです。
     相手の考え方や生き方に理解は持てても、それについていけないのが、
     対人関係の実情です。
     ついてゆけなくても理解ができたら、無理に妥協せず、
     相手をこちらに屈服させようとも力まず、
     へつらわず、干渉もせず、
     いわば平行線の立場で温かく『凝視』をつづけるのです。
     はらはらするだけで、どうとすることができず、
     ただ凝視を続けるのは不満かもしれません。
     しかし、大いなる凝視は、大いなる救いとなるのです。

     なぜなら、誰でも大事な厳粛なときは、ひとりぼっちです。
     絶対の孤独です。
     生まれるときも死んでゆくときもひとりです。
     老いるときもまたひとりです。
     いや入学試験も就職試験も、ただひとりです。
     試験場の入り口までは付き添えても、一歩中へ入るときは、ただひとりです。
     親でも中には入れません。親の出来るのは、
     はるか遠く見えないところで見つめることだけです。
     それが本人には大きな力になるのです。
     凝視は慈悲と申すゆえんです。

                          松原 泰道

    昨日、「阿賀に生きる」をシネウインドで観た。

    仏様ばっかりらったな。
    仏様しかいねかったな。
    もし、仏様に会いとなったら、この映画らな。
    自然と涙が深いところから溢れてくるんさね。

    仏様ってなんだろかなぁと不思議に想ったら、
    ここに来て、加藤さんと遠藤さんと長谷川さんに会いに来ればいい。

    歳をとるってことは、仏様になっていくっていうことら。
    だすけ、仏様に会わんとな。
    ああ、こんな人に俺もなりてのぅと、
    そう想われる人に、俺もあかたも、ならんとな。

    そのために、今、ここらんね。

    ほんねさ。毎日毎日、仏様になるための毎日毎日らったんね。

    そんなゆっくりで、のんびりで、おめさん任せの毎日を、
    味わいながら、生きてもんらてば。

    人生ってな。味わうもんらんだな。

    いい顔のじいちゃんに、なりてもんらてば。

    酒を味わう。友達と味わう。いいねっかて。そのまんまでさ。

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  • from: クマドンさん

    2017年09月23日 06時27分53秒

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    俺がの人へ

    何だろうなぁ。
    そのままでいいのに、そのことに素直になれない。
    弱くていいのに、強がっていて、弱みを見せない。
    愚かでいいのに、賢い人のようにしてふるまったりする。
    それは、自分が頭で造り出した仮の自分でしかないのに、
    そう決めた。それが正しいと思い込むことで、
    がんじがらめにそこから抜けだせない。縛られる。

    心をそうして不自由で辛いものにしてしまうのも人間なんだなぁ。
    だからと言って、私が「そうじゃないよ」と、言える立場でもない。
    大人って、本当に生き方が難しい。
    きっとその人は、そうやって突っ張って、弱音を吐かず、
    時には、自分のことを厳しく諌め、追い込んで生きて来た人なのだろう。

    人は、甘えると駄目になる。
    人は、強くならなければいけない。
    そんなことでどうすると、叱咤され、追い込まれて生きて来た人。
    その人にとって、弱さって、人生の敗北者と想われるのだろうか。

    この歳になり、辛さと苦しさと哀しみをこれでもかこれでもかと体験をした。
    いや、自分の思い通りにならないことは、
    天から与えられたこと。天から預かったことと、松原泰道さんが言っていた。
    そうだなぁと、今は、やっと想えるようになった。

    どうして、天は、私にそうした過酷な試練を与えて来たのか。
    それは、その結果を見ればよく分かるはずだ。
    それは、自分自身の弱さを知ることであり、
    どうにもならない自分と言う人の愚かさを知ることであり、
    ここまで生きて来られたのは、自分の力ではなく、
    たくさんの人たちによって支えられ、生かされて来たことを悟らさせるためだった。

    つまり、弱さと、愚かさと、罪とは、
    その人を、本当の人として再生させるための大事な気付きだった。
    もし、そんな自分に気付かせられたとしたら、
    そんな自分を、しっかりとあるがままに見つめられたとしたら、
    「俺が」とは、言えなくなるに違いない。
    「これが正しい」とは、誰が言えるか。
    「何でそんなに駄目なんだ」とは、誰に対しても言えないことだし、
    「そんなことは世の中の常識です」とは、断言はできないはずだ。

    でも、本当に強いと勘違いしている人は、
    周りの人にも、自分のちっぽけな価値観を押し付ける。
    その価値観だけで人を裁き、差別する。
    時には、相手を低く見て、馬鹿にする。
    同じ60年を生きたとしても、
    まだまだこうした「俺が」の生き方しかできない人も多いのが現実だ。

    私は、そうした人に出会うと、絶句する。
    何を言っても無駄だと諦める。
    何故なら、人の話を謙虚に聴く耳をもたない人だからだ。
    不思議なんだが、この人たちは、私が語っている間、
    違うことを考え、そうではないと反発し、頑なに拒んでいる。
    そして、自分の話す番になると、
    全く話の脈絡に関係なく、自分の正しさだけを主張する。
    そのすぐ前の、私の話って、どこに消えてしまったのだろう。

    「自己を学ぶとは 自己を忘れることだ」と、道元さんが言っている。
    この「俺が」の人たちは、自己で目いっぱい、ぱんぱんに膨らんでいる。
    だから、他者の言葉や、真実の言葉が、その器には入って行かない。
    語る私は、ただただ虚しさだけを感じる。
    私も、そうだったから、よく分かる。
    人が語る忠告や戒めや、間違った生き方を修正せよとの言葉は、
    全く耳に入らず、全く聴く気にもならず、拒み続けていたものだ。

    我見とでも言うのだろうか。
    そのことで目いっぱいで、頑なにそのことだけの正しさで生きていた。
    そんな「俺が」の日々も長く長く続いたから、よく分かる。
    その「俺が」に「真実」を分からせるためには、
    一回どん底に突き落とさなくてはならないのである。
    自分自身に泣かねばならないのである。
    どうにもならない自分と向き合わせなければならないのである。

    それを、天は、試練と呼んだ。

    それは、時には病として訪れ、身体の障害として訪れ、死として訪れる。
    また、災害として訪れ、不慮の事故として訪れ、家族との離別として訪れる。
    その時なんだな。
    「生きるとは何か」を、人が本気で問い直す時が。
    その苦しみと孤独とを経ていない人たちは、
    きっといつまでも聴く耳をもたずに、強がって生きることだろう。
    でも、それって、とても寂しい生き方ではないだろうか。

    人を馬鹿にしたり、人を駄目な人だと決めつけたり、
    「何でそんなにできないのか」となじったり、怒鳴ったりしている人を見ると、
    私は、何とも哀しい気持ちになってしまう。

    ああ、この人は、自分を知らないまま、ここまで生きて来たんだな。
    ああ、この人は、自分の弱さから眼をそむけて生きて来たんだな。
    そうである自分が、きっと赦されないから、人にそれを求めているんだなぁ。

    本当の自分になれずに、作り物の仮想な自分のまま、
    自分自身を騙しながら、生きようとしているんだなぁ。
    それって、とてもとても同じ人生を生きる人として、
    哀しいことではないだろうかなぁと、私は想う。

    でも、「余計なことを言うな」「お前とは、私は違う」という、
    そんな声も私には聴こえてくる。
    だから、私は、何も語らない。
    ただ、天はきっとその人を憐れんで、
    思いもよらぬまさかの試練を与えられることだろうと想っている。

    人は、体感で、身体の痛みを通してしか、学ばないものだ。
    私が、そうだった。

    ただ、その人たちの心の頑なさが、少しでも溶けることを祈っている。
    涙を信じることだ。
    涙を流すことだ。
    涙がきっとその人の頑固な心を溶かしてくれるはず。

    涙を流せば流すほど、本来の真実の自分に「戻れる」はずなんだ。

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  • from: クマドンさん

    2017年09月22日 06時07分42秒

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    至難だなぁ。でも、この道を往く。

    自分に目覚め。人間を完成させることこそ、幸せだ。

    諸法実相。

    全ての人には仏性がある。

    これはみな「法華経」の教えだった。
    そうだなぁと、想える歳になったようだ。
    「俺が、俺が」でやって来た。
    それはそれでよかったとも想っている。

    もし、それがなかったら、今の私は居ないからだ。
    どん底に落ち。孤独に立たせられ。激烈な痛みを与えられた。
    その時、いつも「私」を見つめた。
    そして、私には、この私ではない、「私」があることに、
    その闇の中で、やっと微かに気付いたものだった。

    身体は、こうしていつかは朽ちて、滅ぶだろう。
    父と母がそうであったように、
    肉体としての身体の役目を終えると、
    その身体はすーっと消える。骨になる。
    しかし、そこには父も母も居ないことは、
    あの夜によくよく分かった。

    人は、死なないものだ。
    ああ、違った在り方で、父も母も再誕したな。
    ここに居るなぁ。
    それは、二人の臨終の時。最期の瞬間そう想った。
    それは、決して別れではない。
    ある意味、純粋な魂としての父と母との再会であったと想う。

    きっと私も、そうなんだ。
    ああ、この身体でのこの世の旅を終えようとするとき、
    それは、感謝であり、喜びでもあるのかも知れない。
    こうして自分を見つめ、どうにもならない自分に翻弄されて来た。
    煩悩によって自分自身を焼いても、焼いても、懲りない人だった。
    しかし、そうでありながら、やっぱりど真ん中だったなぁとも想う。

    そのど真ん中を生きているのが、私としての仏性そのもの。
    これは、私ではなく、ずっとずっと久遠の昔から、
    まだまだここに光無く、混沌とした時間と空間に、
    在るはたらきそのものの。

    生まれてもいないから、死にはしないし、無くなりはしない。
    ただ、その私に出会うためには、
    この私との出会いを阻害している、勘違いの私を無くさねばならなかった。
    「私の想う通りに」ではなく、「私が想う通りに」なんだな。
    38年前に焼き鳥「山小屋」で出会った書だ。

    「我執を捨てて、ただなんとなく」 蒲水

    ずっとずっと憧れて、欲しくて欲しくてたまらなかったこの書の言葉が、
    私の奥深くで黙って生きていた仏性の生き方だったんだなぁと、
    今は、その言葉との出会いを感謝している。
    若い私は、知らなかった。
    60歳になった私は、その意味の深さを改めて悟り、
    そのようにして、自分を捨てて生きる生き方に、
    自分の日々の生き方を添わせたいと願っている。

    「そう生きよう」
    それが、きっと生きているということではないかなぁと、今は、感ずる。
    それは、難しいことだが、本当にそう想いつつも、
    瞬時に私の欲や怒りや愚かさが現れて、しゅんとなる。なる。
    そんな自己をコントロールして、バランスをよく生きる生き方が、
    大事、大事と教えられる。

    「ただなんとなく」で、それでいい。
    そのなんとなくの自由・自在が、生きることの本当に喜びではないだろうか。
    肩の力を抜いて。「まぁ、いいか」と、こだわらず。
    「どうでもいい」し、「いい加減」に生きている。
    人からどう想われようと、われ関せず。
    ただ、私の声が語るままに、そのまんまに生きている。いや、息をする。

    ずっと回ってたどり着いたのが、
    やっぱりこの「我執を捨てて ただなんとなく」だった。

    自分に目覚め、人間を完成させよう。

    そのことが、仏性としての私の目標となっている。
    しかし、しかし、あの合唱曲どころではない。
    至難の生き方が、これだった。

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  • from: クマドンさん

    2017年09月21日 06時06分43秒

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    受けて、立つ。ぞ

    たまげたな。
    三回のお休みのため、久しぶりの北区の合唱だった。
    そしたら、山のような楽譜を与えられた。
    何と十数曲はあるだろう。

    歌の祭典の第三部の曲だった。
    みな知っている曲であっても、
    バスの部分を全部歌いきることは至難の業だった。
    私は、耳だけの歌だった。音符が読めない。聴いて歌う。
    だから、人一倍稽古しないと、その音は私の音にはならなかった。
    まさに、途方もない宿題を与えられた、できの悪い子のようなものだった。

    正しい音程は、ここにある。
    楽譜は、ただ五線に書かれた、音符の高低、並び方。
    私には、楽譜を観ても、その音は響いては来なかった。
    ところが隣でいつも歌っている70歳になろうかというIさんは、
    一見して、すぐにその音をとって歌いだす。
    その音そのものが、身体に沁みているからだ。
    私は、そのIさんのおかげさまで、声を出せる。歌を歌える。

    この歌というものも、とてもとても深いものがあるものだ。
    まず、呼吸法から稽古は入る。
    肋骨を広げたままで、腹筋を使って、息を入れて、すーっと吐きだす。
    音は、息なんだ。
    その響きを豊かにするためには、発声法の前に呼吸法だった。
    それは、まさに目から鱗の修業だった。
    身体を作る。息を作る。そこからしか、歌は始まらない。

    次に、歌い方だ。
    先日のアルビレディースの監督を90分間全力でやったおかげで、
    私は、一週間、声を満足に出せなかった。
    枯れたというやつだった。
    監督の翌日には、日常会話もままならないかすれ声だった。
    「声を、つぶした」
    しかし、そこから本当に時間をかけて復活すると、
    普段の会話の響きすら、太く低く豊かになった感じがする。

    響きなんだ。
    それは、胸全体を使い、響かせていく。
    音は、頭のてっぺんから出しなさい。
    音を出しながら、両手でその音を押し上げるようにだしましょう。
    まるで講師の先生の話は、禅問答そのものだった。
    つまり、私が、私の身体で体感しない限り、
    その求める音には決してならないということだ。

    ここにも、太鼓と同じイデアは存在していた。
    私は、まだ音になっていないその音になろうとしている。
    その音は、まだ私が耳に聴いたことのない音であるかもしれない。
    講師の先生には、その音は確かに響いている。
    だから、「まだまだ」と言う。
    「もっとこうしてください」と指摘する。
    そのアドバイスを一つ一つ私は自分の身体で試みる。
    発声とは、そのプロセスだった。

    歌うことは、聴くことだった。
    私は、全身を耳にして、ピアノとIさんの歌声に集中する。
    私が、私をそこで無理に発揮すると、音は必ずずれるものだ。
    その瞬間は、私は居ない。
    私は、その音、そのものになりきるためには、
    私自身を無にするしかなりようがないからだ。
    音は在る。
    ならば、その音だけに成り切ってしまう。

    そして、一つの音と成り、四つの音が和して響き合う時、
    何とも言われぬ高揚感を感じる。
    歌うことは、没我なんだな。

    覚えきれない楽譜を渡された。
    楽譜を読める人には、それでも解決の見通しは立っているだろう。
    私のような素人は、途方に暮れるばかりなのだ。

    北区文化会館から帰って来たら、10時だった。
    心地好い疲れに、一休みしながら、ビールに〆張り鶴だった。
    禁酒・休肝日を医師から言われるようになっている。
    守らないから、肝臓の数値は、またまたよくはなかった。
    それでも、飲む。

    歌うことも、同じかな。
    とてもとても下手なんだが、
    私が一つだけ人から褒められることがあるとすれば、
    それは、叔母ちゃんたちが言うように、この声だった。

    今は、バリトンの響きに磨きがかかってきた。
    酒を飲めば、酒になり、酒に酔う。
    歌を歌えば、歌になり、歌に酔う。
    還暦からリセットだ。
    私は、再び、大曲に挑むつもりで、歌いに行く。

    ある意味、この十数曲の楽譜は、私自身への挑戦状だった。
    受けて、立つ。

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