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親父たちよ

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  • from: クマさんさん

    2010年10月31日 06時12分30秒

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    諸声祭

    昨日は、山中の諸声祭だった。
    年に一度の合唱コンクールである。
    この日のために練習を積み、クラスの心を一つにして歌う。
    中三の次男にとっては最後のステージだ。
    私にとっても中学校最後のステージになった。

    長男と次男の6年間を振り返った。
    何だかとても感慨深いものがあった。
    この間に私は子どもに何を語り、何をしてあげられたのだろうか。
    子どもは私に何を感じ、どう親父を想って来たのだろうか。
    何だか思い出せることが少なく、かかわりが薄かったような後悔がある。

    次男は、髪を伸ばし、学生服のズボンを下げてちょっと突っ張っていた。
    「へーっ。」と親父として想いながら、黙っている。
    何だかそんなことで小さな自己主張している彼が可哀そうにもなってきた。
    「勉強せえ。もっと頑張れてじゃなくて、子どもが聴きたい言葉は、疲れたろ。大変らなぁだと思います。」
    それは、ある中学校の校長先生の話だったる
    「腹減らねけ。」「風邪ひくな。」「大丈夫らけ。」
    この言葉が、心を開かせる魔法の言葉だとも教えられた。

    人は、ちゃんと生きたいのだ。
    しかし、いろいろなことがあって、ちゃんと出来ないこともあるのだ。
    悩んでいるのは本人だし、一番困っているのも本人だった。
    その気持ちをそのまま受け止めてやれるのは親しかいない。
    私は彼にそんな親父だったかと、想い返した。

    しかし、純粋で青春真っ盛りの歌声には涙が流れた。
    特に、生き物係の何とかという応援歌には、止まらなくなってしまった。
    いい時代なのだ。
    そして、それなりに一人一人が苦しみや悲しみをもって生きている時代なのだ。
    それぞれの人生に、それぞれの幸せがあることを、祈りたい。

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  • from: クマさんさん

    2010年10月30日 06時44分18秒

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    再び「無声呼人」

    今週は天候が悪く、走ったのは一日だけだった。
    それでは体重が増えたかと言うと、逆に減ったので驚いている。
    飲み会もそれなりに自主的に続け、
    焼き鳥も食べたのだが、人間の体と言うものは不思議なものだ。

    さて、来週の日曜日7日に万代市民会館で東区市民劇団の劇が上演される。
    「川が笑う日を夢見て」午後1時30分開演 500円だ。
    この劇についてのこだわりは、通船川の河川改修だった。
    忘れられた川である通船川に、再び地域住民や子どもたちに関心を向けてもらい、
    この川を中心としたまちづくりを推進したい。
    それがHさんと、私との願いだ。

    本当は、この劇の脚本は私が書くはずではなかった。
    今回の公演については、立ち上げの段階では私はかかわりがなかったからだ。
    しかし、これもひょうな巡り合わせで、脚本を書きたくなり、
    急遽数日間で仕上げた脚本が、この劇の基となっている。
    「やむにやまれず。」そんな気持ちでいる時に、
    一気呵成に仕上げられる。
    それだけ、このことは言っておきたかったメッセージなのだと思っている。

    「演劇とは、歴史の再生である。」と言った演出家が居る。
    「演劇とは、メッセージを伝える働きである。」とある人が言う。
    私もこの言葉には同感である。
    伝えることに意味があり、伝えることで共感されるメッセージを表現する。
    そこに観客との一体感があり、観る人を感動させる力が存在する。
    それは舞台での存在感であり、リアルなのだ。
    演ずる人のこだわりと、本気さが、舞台を熱くし、人の心を動かして行く。
    そんな醍醐味がたった1時間余りの瞬間には確かに在った。

    私は、いつの間にか演劇の世界に連れて来られ、
    その魅力に飲み込まれ、その発信者の一人となっている。
    そう言えば、若いころ映画の脚本家になることが私の夢だった。
    日大の芸術学部の映画学科を受験したこともあった。
    映画が大好きで、名画座をはしごするために上京したようなものだった。
    新宿・池袋・早稲田と300円くらいだったろうか。往年の名画を追っかけた。
    そう想うと、この演劇との出会いは、私にとっての「フィールドオブドリーム」なのである。

    「その声が聴こえた。」
    「それを作ると、彼が来る。」
    ただ今運命的な出会いに寄り、その声に従って生きている。
    そして、とうとうオリジナルの新作を上演できる運びとなった。
    来週の日曜日には、その劇が上演される。
    そこで発信するメッセージは、次なる一歩の始まりなのだ。
    私たちの夢は、海援隊のようにでかくて地域を変えるものである。
    そして、きっとその時、「彼が来てくれる。」のだろう。

    もし、心に呼ぶ声が聴こえたら、
    声が指し示す方向に躊躇せずに歩き出そう。
    それが、本来、自分がこの人生で生きる道に違いないのだから。
    「無声呼人」
    人生は、人知を超えた処にこそ道があるのだ。

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  • from: クマさんさん

    2010年10月29日 05時54分07秒

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    否定はしない。肯定しよう。

    プロークンレコード。
    壊れた録音機。
    そんな気持ちで、根気強く相手に想いを語り続ける。
    これは、ある児童心理学の教授から教わったことである。

    とかく人間は自分の欲もあって、
    相手に対して語る言葉に感情が加わることが多くなる。
    特に我が子に対してや、伴侶に対してもそうである。
    何だか本当に話しながら冷静さを欠き、
    いつのまにか怒り声になっていたりする。
    「またやってしまった。」
    相手のことを想ってのアドバイスだったはずなのに、
    相手を怒らせ、自分も自滅してしまう。

    感情を入れずに、冷静に語ることは難しいが、
    勝ち負けだとか、俺の言うことを何で聴けないんだだとか、
    そんな上から目線で物を語ろうとするから、
    語っている内にイライラしてしまい、
    ついには怒り心頭に発するという惨めなことになってしまうのだ。

    ブロークンレコードは、壊れた録音機である。
    その機械で再生すると、同じ言葉が繰り返し繰り返し再生されてしまう。
    冷静になるように自制する前に、
    静かなトーンで語り始め、ある意味感情を捨てて語り続ける。
    昨夜、次男とそういう場面に遭遇してしまった。

    彼に語らねばならないことがあり、
    どうしても彼に分かってもらいたいことがあった。
    彼はそんなお説教は分かっていることだし、
    自分では親父から聴きたくない小言でもあった。
    まずプロークンレコードを再生した。
    私は、次男の困り感に立ち、共感的な理解に努める。
    私は床に座り、次男は椅子に座っている。
    私は彼を見上げる格好で、抑揚をつけず淡々と伝えたいことを話し、
    彼は適当に聞き流し、取捨選択をしていた。

    いつもならそんな態度に怒り出す親父であるが、
    これは彼の将来のためなのだとぐっと堪えて、感情を抑えた。
    このトレーニングは、日々職場で積んでいる。
    感情を入れずに、待機する姿勢は、
    けっこう有効であり、己にもストレスにならないことがよく分かった。
    人は、言ってすぐに変わるものではないのだ。
    人は、その言葉を取捨選択し自己決定する権利があるのだ。
    人は、人なりに考えているのだ。
    ただし、うまくいかないことが多いので、困っている場合があるのだ。

    そう想うと、彼は私である。
    「これでいいのだ。」
    その言葉で親父と子とは救われた。
    彼は、どう選択し、どのような結果になるか。
    それは神のみぞ知ることなのだ。

    親として出来ることは、これからもずっとずっと見守って行くことと、
    彼自身の困り感を感じ、同じ目線でアドバイスをすることだ。
    それから、「父さんは、あなたのことが大好きだよ。」とのメッセージを、
    やっぱりいつも子どもが感じられるような表現方法で贈り続けることだと思う。

    否定はしないことだ。
    あるがままをいかに肯定するか。
    それが親父修行の道なのだと、この年になってはたと気づいた。

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  • from: クマさんさん

    2010年10月28日 06時49分40秒

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    やっぱ海援隊らて

    さてさて、昨日は劇の練習にバイオリンの佐藤さんをお連れした。
    音楽と劇とを合わせるためだった。
    いよいよ来週が本番になる。
    この時期、練習はヒートアップし、みんなにも緊張感が感じられる。
    残された練習は、あと数回となっている。
    そんな現場に佐藤さんに登場してもらった。

    まず鳴らす。
    「春の小川」の演奏をバックに小さな物語が創られている。
    私が簡単に略歴と出会いとを紹介した後で、
    佐藤さんに演奏してもらった。
    第一音から、聴く人たちがシーンとして聴き惚れていることが分かった。
    「この音は何なのか。」それが本物の音楽の凄さなのだ。
    バイオリンの音に魅了され、動けなくなった人たち。
    「バイオリンに負けないような劇にしないといけませんね。」とは、演出家のSさんの言葉。
    私たちが目指すものは、木下恵介監督の「二十四の瞳」だ。
    テーマ曲については、弱視レンズをかけて演奏するそうだ。
    やはり佐藤さんのバイオリンを選択して間違いなかったと思っている。

    一人の女性がスタジオに居た。
    Sさんから紹介された二十代後半のその女性は、
    演劇が好きなので、制作に参加させて欲しいという願いをもっていた。
    りゅうとぴあへの就職を考えての帰郷であったが、
    採用がなくて困っていたところ、Sさんと出会ったのだそうだ。
    「演劇に何らかの形でも携わりたい。」
    その一念で、この東区市民劇団を訪れた。
    私は、この劇団を持続可能な劇団とするためには、
    意欲と情熱と才覚とをもったスタッフが居れば何とかできると考えている。
    劇団スタッフとしての参加希望はとてもありがたかった。

    「全てのことはこれでよかったのだ。」
    なじら家のCさんと話しながら、二人でそのことを納得したことがある。
    それはそれはさんざんいろいろな経験を積んできた私たちは、
    ある時出会い、ある時から共に地域活動に奔走した。
    「失敗や挫折があったから今がある。」
    「全てのことは、今に至るための伏線だった。」
    そんな想いも共通理解だ。
    この出会いによって、お互いの人生の舵はずいぶん修正された。
    「クマさんは、楽しそうだなぁ。」とも言われた。
    確かに私は、何かを立ち上げ、形にするプロセスに燃える男なのだ。

    バイオリンの佐藤さん。
    制作希望のあの女性。
    なじら家のCさんに、私。

    やっぱり今居るこの場で夢を描き、
    実現しようとしている同志ではないだろうか。
    Cさんによく話すことがある。
    「やっぱり坂本龍馬の海援隊だてば。」
    楽しいことに夢中になれることが、ある意味人生の醍醐味なのである。

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  • from: クマさんさん

    2010年10月27日 06時00分52秒

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    ここがロドスだ。

    やはり考えることよりも、行動することだなぁと思う。
    何かを立ち上げる時、私がよく言う言葉がある。
    「やりながら考えよう。」と。
    つまり、答えとは、行動のプロセスから生まれるものであり、
    決して、行動以前に分かるものではないと思う。

    考え過ぎると、何も出来ない。
    いろいろとマイナス面を考え、リスクを予測する想いは大切なことだが、
    人には、やってみなければ分からないことだらけなのではないだろうか。
    人知は、現実に及ばないのだ。
    現実は、人知を超え、その予測を越え、進む。
    それを人は、「運命」と呼ぶ。
    実は、人の人生はそんなことだらけなのだ。

    母と、昨日の夕食の時話した。
    少々胃の具合が悪く、病院に電話したそうだ。
    「食べられないって、本当に張り合いのないことだね。」
    そんなことをつぶやき、少ししょげている様子だった。
    あれだけ食べることを愛していた母なのに、
    食欲と言う感覚を失ってしまったというのだ。
    お腹が減るから、旨いのだ。
    お腹が減ってもいないのに、食べることは喜びとはならないのだった。

    生きる喜びの一つに、食べることがあった。
    その喜びを失ってしまった母は、改めてその喜びを発見した。
    「でもね。生きていた方がいかったよね。」とは私。
    「もし、あのまま発見されなかったら、今頃とうなっていたろっかね。」
    「この正月を迎えられなかったかもしれないよ。」
    「そうらね。そう想うと感謝らんて。」と母。
    本当に「運」の強い母だった。

    命拾いした母。
    一年後には、この失ってしまった喜びを取り戻しているかもしれない。
    それは、現実のみが知ることなのだ。

    人は、今を見て過度な期待をすることや、絶望をすることがある。
    しかし、現実は、そんな人の思惑をとうに超越して動いている。
    「そうだろう。」「そうかもしれない。」
    そんな予測や不安な材料も、全て現実は超越している。
    「その後」は、人が司るものではなく、人の手ではどうにもならないものなのだ。
    そのどうにもならないものを、思い悩むのが人である。

    「なるようになる。」「なるようにしかならない。」
    それは、確かに一つの答えなのだ。
    でも、思い煩い、揺れ動き、心定まらず、苦悶する。
    でも、何も変わらず、現実は自立して勝手に予想外の展開をする。
    ならば、それに委ねてみてはどうだろうか。
    それは、ほんの微かな望みだろうとも、「希望」は失わず、
    「きっとなんとかなるはずだ。」と、その時を長い目で待つ「期待」をもって、
    そして、振り返ってみたら、「ああ、こうなるためにあの時はあったのか。」という喜びを信じて。
    人は、「委ね」「信じて」いいのではないだろうか。

    現実は、親父の予測を超越してすすむものである。
    人は、考えたところで、答えには辿りつかないものである。
    だから、何かを信じて、歩きながら考えるしかないのだと、私は思う。

    我が家や、自分の人生を、「フィールドオブドリーム」にする親父とは、
    そんな生き方をしている親父なのだと、羨ましく感ずる。

    「ここがロドスだ。ここで跳べ」ギリシャ神話より。

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  • from: クマさんさん

    2010年10月26日 06時17分36秒

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    フィルドオブドリーム

    「フィルドオブドリーム」という映画がある。
    午前10時の映画館として、Tジョイで上映している。
    「人には、忘れられない夢がある。」
    とにかく親父たち必見の感動的な映画である。

    「それを作ると、彼が来る。」
    そんな声を心に聴いた主人公は、
    止むに止まれぬ想いになってトウモロコシ畑をつぶして、野球場を作ってしまう。
    ローンの返済を迫られる身でありながら、
    彼は、その声に従って素晴らしい野球場を作った。

    そこに、メジャーでの夢破れたり、半ばで引退させられたりした死んだはずの選手たちが、
    ユニホーム姿で現れ、そのグラウンドで野球を始めた。
    この姿は、主人公の妻とその幼い娘にしか観えないのだった。
    ある日、また新たな声が聴こえ、次の行動を予見する夢を夫婦が同時に観た。
    シカゴで、元人権運動のリーダーだった黒人作家に出会い、
    メジャーの試合を観ることだった。
    そこで、彼が観たものは、スコアーボードに書かれた言葉だった。
    「ある選手を探せ。」

    私たちは、若かりし頃、いろいろな夢をもっていた。
    しかし、現実は厳しく、時には自ら諦めてその夢からリタイアした。
    社会人となり、中堅で忙しい日々を送るなかで、
    家族と一緒に生活する毎日が必死だったりする。
    仕事のこと、夫婦のこと、子どものこと、
    そんな目の前の悩みと格闘している内に、いつの間にか年を取ってしまう。

    老いてしまった時、もう既に自分には、
    若かりし頃思い描いていた夢を実現するための、
    若さも体力も時間も残っていないことに気付く。
    主人公の父がそうだった。
    メジャーチームに所属は出来たが、選手生活は短く、
    しがない労働者として、父親一人でこの主人公を育てたのだった。
    息子は、そんな落ちぶれた父を嫌い、遠く離れた土地の大学を出て、家庭をもった。
    ある日、父とは大喧嘩してしまい、それ以来一度も会わなかった。
    そして、父の葬儀の日を迎えた。

    「心を癒せ。」
    「夢が叶う場所が、天国なんだ。」
    この野球場がとうとう抵当権も売られ、競売にかけられる瀬戸際に立った時、
    その言葉の意味が、はっきりと分かった。
    グラウンドに、若かりし頃の父が立っていた。
    主人公は、父に対する負い目と後悔をもってここまで生きて来た。
    「和解したかった。」「もっと話したかった。」「妻と子を見て欲しかった。」
    そんな心の重荷をもってこれまで生きてきたのだった。

    つまり、「彼が来る。」の「彼」とは、メジャーリーガーだった父のことなのだ。
    これまでの物語のプロセスは、この父との再会のための大いなる伏線だった。
    「心を癒す。」それが、彼の夢だった。
    「夢が叶うこの場所が天国だったのだ。」
    自分の息子と知らない父に家族を紹介し、その父にお願いしてキャッチボールをする。

    老いた我が父も、きっとめちゃくちゃ私のことを可愛がってくれたはずだ。
    肩車されて走ってくれたことや、自転車の乗り方を教えてくれたことを覚えている。
    「できればもう一度・・・。」そんな若くてはつらつとした父に会いたくなった。
    それは叶わぬ夢には違いないが、
    私は、このラストシーンの二人を観て、泣けて泣けて仕方なかった。

    その二人を照らすグランドに、延々と車のヘッドライトが続いている。
    「叶えたい夢をもっている人たちが、集まって来た。」
    私もその仲間の一人だ。
    「フィルドオブドリーム」
    最後の字幕は、「全ての両親に捧げる」であったが、
    私はこの映画を「全ての親父たちに捧げる。」としたい。

    この映画、今週の金曜日までの上映だ。
    親父たち必見の親父のメルヘンである。

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    2010年10月25日 06時24分31秒

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    夢への伏線

    劇団の練習があった。
    私は、ただの脚本かであるから、ふらふらと出かけた。
    今回の新作については、隠された大きな思惑があった。
    その壮大な夢を実現するための第一歩がこの劇になっている。
    そんな仕掛けの謎は、これから少しずつ解き明かされるはずだ。

    スタジオの二階では、役者さんたちが熱演をしている。
    その下で、スタッフの4名が集まり、これからのことを話しあっていた。
    持続可能な方法は何か。
    どんな組織でもそうであるが、立ち上げの勢いが失われ、
    人が少なくなってきた時こそ、次なる一手を打たねばならないのである。
    そのためには、資金と人と組織だった。

    昨日の会議で、決まったことがあった。
    それは、これまでHさんが15年以上続けて来た川づくりやまちづくりの活動組織を母体にして、
    新たにNPOを立ち上げようと言う話なのだ。
    これは、実はでかい話なのだ。
    私も環境教育に携わってから10年以上たっている。
    学校ビオトープや、栗の木川の再生、沼垂のまちづくり等、
    それぞれの立場から課題解決に向けての活動に参画して来た。
    Hさんと、一緒に活動するようになり、「子ども環境会議」は7年間も続けられた。

    Hさんとの夢は、「NPOにできないでしょうかねぇ。」だった。
    実績は、市民活動レベルとしてはどこにも負けないものを持っている。
    人的なネットワークも豊富で、環境教育には多様なノウハウを持っている。
    しかし、現実は事務所と専従職員だった。
    その部分がクリアできなかったので、その夢は夢のままだった。
    「瓢箪から駒」である。
    「演劇から環境NPOである。」

    実は、その方向を予想して、この脚本は書かれているのだ。
    そして、演劇の後の座談会では、その話をするつもりである。
    つまり、この劇を上演することが、大きな夢への第一歩となっているのだ。
    伏線とは、ドラマの鉄則である。
    さてさて、居ても居なくてもよい脚本家が、
    また一つ夢を描いて、自分で自分をときめかせている。
    全てはこれからのこと。
    ゆっくりと、落ち着き、心定めて、この行く末を追って行きたい。

    話は全く変わるが、
    次男が突然、私の部屋に入って来るなり、
    「父さん、それって父さんのなん。」とエレキベースを指差して聴いて来た。
    私が中古の物を買って、置いておいたものを彼は見つけたのだ。
    「どうしたん?」と聞くと、「Dと一緒にバンドやりたい。」と言う。
    音楽を聴いている姿を見たこともない父は、「へーーっ」と思い、
    少し嬉しかった。
    受験生でありながら、勉強に打ち込めない日々を送っている彼が、
    打ち込めるものを見つけたようである。

    これも大いなる夢に対する、一つの伏線となるかもしれない。
    父は嬉しい半面、とても心配にも想うのだ。

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  • from: クマさんさん

    2010年10月24日 15時17分03秒

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    山の下市場で、バッハを聴く

    第1回の「なじら家コンサート」は大盛況の内に終了した。
    とにかく私自身が休日出勤の後だったので、
    へとへとな状況だった。
    生ビールと、濃いめのハイボールとで、麻酔をかけて、
    全力パワーで乗り切ることにした。

    佐藤さんとは、何回もコラボしているので。「あ・うん」の呼吸はある。
    染之助・染太郎の乗りで、ギャグを入れながらの一発勝負の司会であった。
    そのために下準備は十分しておく。
    とかく固くなりやすいクラッシックのコンサートなので、
    音楽を聴くだけでなく、作曲家や楽器についての知識を得て、
    少しでもためになり、面白いコンサートになるように工夫はしているつものだ。
    短いバイオリンの曲を演奏する合間に、私が楽曲にまつわるエピソードを語る。
    佐藤さんは、それを聴きながら会いの手をいれ、補足の説明をしてくれる。
    「へーっ。そうだったのか。」
    そんな驚きと、時には感動が聴く人にはあるのだった。
    それが二人でやるコンサートの売りでもあった。

    親しい人たちが集まっていた。
    町内会の仲間や、ぷれジョブつながりのお父さんもいた。
    中学生の女の子が5〜6名いたのには驚いた。
    大人たちはみんな生ビールのジョッキを持って、胡坐をかいて聴いている。
    途中、追加注文する時間は、私と佐藤さんとの愉快なトークで場をつなぐ。
    すぐそばで聴く私には、とてつもなく美しい音色に聴こえた。
    生まれて初めてバイオリンコンサートに参加したSさんは、
    やっぱり本物の音色に感動だった。
    「ウィーンのようなホリゲーを作りたい。」その夢への第一歩を踏み出されたような気がした。

    コンサート終了後には、その場で演奏者を囲んでの懇親会となる。
    これが「居酒屋公民館」のすごさなのだ。
    自己紹介から始めた。
    それだけで初めて会ったお父さんともぐっと近くなった気がした。
    県外から山の下に来た人が3名もいた。
    新しい居場所と共に、この山の下ならではの仲間をみな求めているようだった。
    「毎月、第3土曜日に企画します。」
    「やっぱり限定20名です。」
    「懇親会は2000円で飲み放題です。」
    いずれこのコンサートに参加する人たちで「なじら家会」が作られるだろう。

    「コーラスならやりたいな。」
    「山登りを提案します。」
    「みんなで歌声喫茶はいかがですか。」
    「JAZZピアノの発表会にしたいです。」
    この空間を活かした夢は、多様なものがあるはずである。
    その一つ一つを月日をかけて現実にしていく。
    その第一歩が昨夜の会だった。

    「山の下市場に、バッハが鳴った。」
    それは夢のような瞬間だった。
    佐藤さん、ありがとうございました。

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  • from: クマさんさん

    2010年10月23日 06時54分20秒

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    なじら家コンサートの夜

    本日、山の下市場にある「なじら家」で、
    第1回なじら屋コンサートが開かれる。
    初めてのゲストは、沼垂が誇るバイオリンの吟遊詩人 佐藤博志さんだ。
    弱視で盲学校を卒業しながらも、東京芸術大学を卒業し、
    東京でプロとして活動してきた人だ。

    昨夜、なじら家へ行き、コンサートホールで段取りをした。
    座布団を20枚並べて、テーブルを置く。
    まさにウィーンのホリゲーののように生ビールを飲みながらの演奏会である。
    一番後ろのお客さんと演奏者の距離は5mくらいであろうか。
    すぐ目の前でバイオリンの音色を聴けるのだ。

    今回は、知り合いが中心のサロンコンサートとなっている。
    前売り20枚のチケットは、あっと言う間に完売である。
    このコンサート、回を重ねると、プラチナチケットになると予想している。
    毎月第3土曜日の夜にやろうと決めた。
    そのための演奏者とのコンタクトは私の仕事となった。
    プロモーターが私の役目だ。
    1時間1万円の出演料で、飲み放題つきである。

    実は、このコンサートは、まちづくり発展させる意図をもって行うつもりだ。
    だから、ここで集まった人たちと、山の下のことを語りながら、
    お年寄りや子どもたち、自分たちの人生のために、
    誰かがやったほうがいいことを、声を出してやる会にしたいと願っている。

    ただし、誰でも参加は自由であり、組織は作らない。
    気ままに、勝手に、おおらかに、「この指とまれ」でやっていく。
    親父の会である「やろう会」や町内会でのノウハウはもっている。
    そして、山の下の将来を憂うる熱い魂ももっている。
    そんなメンバーが一人でも増えることが、
    山の下のための本当のまちづくりになると思っている。

    だから、コンサート後は、
    そのホールでそのまま2000円会費で飲み放題としてもらった。
    ある意味これも画期的な企画だと思っている。
    ヨーロッパのオペラコンサートの後のパーティーのようなものだと思って欲しい。
    佐藤さんは、きっと興に任せてバイオリンを弾いてくれるはずである。

    「山の下には、なじら家コンサートがある。」
    そう地域の人たちから言われ、
    認められるコンサートにしたいものだと、店主であるCさんと願っている。
    とにかく第1回目を成功させることだ。
    司会は、私。ブラブォー・クマさんが担当だ。

    「おめさんが飲みたいからやってんだろ」との声も聴こえるが、
    私たちの志は、高くて深いのである。
    祈 大成功

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  • from: クマさんさん

    2010年10月22日 06時00分45秒

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    疑似大人たちよ

    昨日は、本当に疲れて帰って来た。
    我が家について、部屋に入るとぐったりだった。
    精神的な疲労もあり、休養の必要を感じている。
    そしたら、妻も同じだった。
    帰って来てから料理をしながら、イライラしているらしかった。
    職場は、北朝鮮のようだとのこと。
    上司の理不尽な命令に腹を立てながらも、
    反発する虚しさを知っているので、
    だだ粛々と従うのみなのだ。

    そんな理不尽なことに出会うことが多い。
    当の本人は、何の痛みもないのだが、
    その被害を被っている人は、とてもとても辛いものだ。
    なぜならば、同じ部署・同じ職場なら、逃げられないからである。
    そりが上司ならば、尚更悪い状況になってしまう。
    いつも低く見られ、「使えない」と言われることもある。
    本当は、その人こそそんな人なのに、
    自分を一番とうぬぼれている人には、そんな真実は理解されない。
    職場でのそうした人間関係から来る被害は大きいのだ。

    それでは、はっきりとNOを言ったらどうだろうか。
    それは怖いもの知らずの行動であり、
    想像力が不足する暴挙でもあった。
    「そうですか。すみませんでした。」と、理解できない人なのだ。
    だから、自分に対して反発した人に対する攻撃が、
    いっそうエスカレートするのは目に見えている。
    その人のことを想って言った忠告であろうとも、
    その人は自分に対する非難と受け止め、サイバー攻撃を仕掛けて来る。
    つまり、反発すれば、いじめられるのである。

    そんな子どものような、疑似大人は職場に存在しないだろうか。
    みんなで気を使って怒らせないようにしている。
    自分の気分次第で、周りに嫌なムードを漂わせてしまう。
    時には、声をかけとも無視をされ、
    話をすればつっけんどうな態度で受け答える。
    指示には一貫性がなく、とにかくああだ、こうだと自分の思い通りにならないと気が済まない。
    時には、でかい声で怒りまくり、感情の抑制がきかなくなってしまう。
    周りの人は、腫れものに触るようにひっそりと生きている。
    その人は、それをいいことに傍若無人の振る舞いを続ける。

    私の精神的な疲れも、妻の精神的な疲れも、
    原因はそういう人と毎日かかわっていかなければならないことから生まれる疲れだった。
    「はーーーっ。」である。
    夕食の話題がそれだった。
    どちらが凄いか、勝負していた。
    私の場合は同僚や上司でなく救われている。
    そういう意味では、我が職場は大人の集まりなのだ。

    しかし、少々酔っ払った私は、疲れてソファーで寝ている次男に、
    「散らかしたごみを、ごみ箱に入れろよ。」と言ったり、
    パソコンに向かっている次男に、
    「志望校を落とすな。ちゃんと勉強しろ。」と言ったりしていた。
    そのたびに、煩せぇなぁという顔をする。
    まだ飛びかかって来ることはないが、
    いずれ彼も実力行動に出て来ることだろう。

    彼にとって、私が疑似大人。疑似親父であるのかもしれない。
    私は、被害者と加害者の気持ちがよく分かるのだ。
    子どもは、私や妻のような精神的な疲れを感じて、
    親から離れていくのかもしれないなぁと、ふと後悔しつつ想った。

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