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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2017年04月30日 06時43分09秒

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    草取り・草取り

    さてさて、昨日は山ノ下祭りの本宮だった。
    いつもの年なら一番太鼓を押して町内を回っている。
    酒を飲み、酔っぱらって太鼓を叩く。
    これがまた調子はずれなために、みんなの顰蹙を買っている。
    それでも、やっぱり祭りの太鼓はやめられない。
    春と秋、年に2回のお祭りだ。
    しかし、ここ2年間ずっと出ていない。
    それは、病気と手術のためだった。

    遠くで太鼓の賑やかな響きと笛の軽妙な音が聴こえる。
    来た来た。宮昇りの行列だ。
    一本離れた大通りをその一団は通り過ぎる。
    いつもはそこで老いた父と母と叔母たちが応援してくれたものだった。
    今は、行けない。諦めた。

    私は、これ以上ワイルドにならないようにと、
    庭の草取りを一気呵成にやることにした。
    腰をかがめての作業が出来なかったので、ここまでほったらかしたが、
    いよいよここまでという段階に来ているようだった。

    とにかくわっさわっさと野草を鷲掴みにして採って行った。
    90ℓのビニル袋がみるみると一杯になった。
    順番にゆっくりだが、確実に採り進んだ。
    その野草の下の芝生は、それでも無事に育っていた。
    あらかた庭の手入れを終えると、何と3時間近くの格闘だった。
    ビニル袋は3つになっていた。
    集中してしまうと、行くところまで行かないと気が済まない。
    そして、ただ只管、無心になった。

    無心とは、何もない空っぽではないのかもしれない。
    何かにどっと集中して向かい、わき目も降らずに奔走している。
    その最中は、目の前の一瞬一瞬を考えるだけだから、
    余計な雑念は一斉入らない。

    今もこうして文章に集中して、言葉を紡いでいる。
    すると、自分の意図や意識ではなく、
    自ずから次々と動き出す自分自身を感ずることがある。
    その瞬間も無心だった。

    あの激烈な痛みの最中も、痛みとの格闘だけで、ただただ無心だ。
    本当に余計なことを考えずに生きていた。
    「痛い、痛い、いてーーーー」で、何も悩みはないのだった。

    なのに、ほっと一息入れたり、ダイニングに居たり、家族といたり、
    そんな人の中にぽっと入ることで、
    何だか雑念・雑念・妄想・妄想となってしまうのはどうしてなのかな。
    寂しさや、腹立たしさや、時には怒りだったり、諦めだったり。
    人の中に居ることは、どうしてこんなに感情や想いが揺れ動くのか。

    私は、太鼓を叩き続けてトランス状態になったことがある。
    「クマ、へたくそ」といつも言われる親父に、「クレージー」と言われた。
    それでも叩き続けたあの瞬間は、確かに無心に生きていた。

    すっかりときれいになった庭だった。
    ついさっきまでのワイルドはいったいどこへ消えたのか。
    プランタまで土を掘り返したので、花を植えたくなってしまった。
    庭が在って、外で仕事で来て、本当に幸せだと想った。
    その草取りの瞬間、瞬間も無心だった。

    でも、人の中に居るとなぁ・・・・・。

    人が一番難しいなぁと、ふと感じた。

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  • from: クマドンさん

    2017年04月29日 07時43分18秒

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    居酒屋「うだつや」さん

    山ノ下にいい店がある。
    「うだつや」さんだ。

    昼はラーメン店であるが、夕方からは居酒屋営業だ。
    店に入ると幅広のカウンターがぐるっと厨房をコの字型に囲んでいる。
    厨房に立つのは60代後半だろうか、温かい親父さんと、優しい女将さんだ。
    なかなかこの二人のお客あつらいが気持ちいい。
    行き届いた心配りとでも言うのだろうか、
    そうくるかと、ほっとする優しさの対応がいつも嬉しい。

    お酒の缶は、アルミの容器に入れて、何とラーメンのための鍋の中だ。
    電子レンジの燗では、やっぱり味が抜ける。
    こうしてゆっくりじっくり湯灌をするのが日本酒には丁度よい。
    本当にそう思うから、わざわざ注文を聴いてから燗をする。
    その酒飲みの想いを知る対応が心憎い。

    ガラスのグラスに受け皿はない。
    居酒屋で飲むときは、その受け皿に酒をこぼして、増量感を感ずる。
    「どうして受け皿はないの?」と聞くと、
    「皿に酒をこぼして、それを飲むのが、私が嫌だから」と、女将だった。
    こうして、この店の一つ一つには意味が在り、ポリシーがあった。

    夕方になると一人のみの引退親父たちが、ぼつぼつと飲みに来る。
    みんな常連さんのようだ。
    黙って焼酎のボトルを置いて飲んでいる親父さんは、釣りの名手だった。
    釣った魚はこの店に持って来て、刺身にしてもらい、
    他のお客さんにふるまっているそうだ。

    ウドの天ぷらもそうだった。
    お客さんが採れた山菜を届けてくれたので、
    これもサービスで分けてくれる。
    そんなお客さんへの温かい心づくしは、あの山小屋を思い出す。
    お客さんは、大事にされるから、声をかけてもらえるから、
    またまたこの店に飲みに来るものだ。

    夫婦で来るお客さんも多いようだ。
    カウンターだけでも30席はあるだろうか。
    だから、みんな離れた席に腰掛け、ゆったりとくつろげる。
    夕方、近くの店に老夫婦で飲みに来る。
    ほんのささやかなつまみでも、それはそれで二人にとってはご馳走だろう。
    そんな場所が、ここにあることの幸せだった。

    山ノ下に気軽に飲めるお店が少ないと、私は想っていた。
    割烹の名店「よしはら」には、よくよくお世話になっている。
    ここでも心づくしのほっと温かな酒とご馳走とをいただける。
    私にとっては、とてもとてもありがたいお店だ。
    ほんのちょっとのチョイ酒を気軽に飲みたい。
    それも、千円二千円の安い料金で。
    それは、あの山小屋に毎夕集った親父たちの願いでもあった。

    よく山小屋の森田さんが言っていた。
    「クマさん、お客が店を選ぶんじゃなくて、店がお客を選ぶんだよ」って。
    確かに、山小屋や、よしはらや、うだつやには、
    同じ落ち着きと安らぎとを感じられる。

    それって何かなぁと考えてみたら、
    やっぱりお店の親父さんや女将さん、働いている人の人柄だなぁと気付いた。
    「また来てくださいね」「お待ちしております」と、
    帰る時に親父さんが声をかける。
    その言葉には、本当に心からそう願い、想っている、
    親父さんの温かな人柄が伝わって来る。
    これなんだなぁと、私は感じた。

    とにかく、「うだつや」さんは、お勧めの店だ。
    テレビの音をぐっと絞っているのもとてもいい。
    余計な音楽も鳴っていない。
    人と人との会話が、いつの間にか肴になっている。
    うーーん。いいコミュニティーになれそうだ。

    私は、この幅広で、ちょうどいい高さのカウンターが大好きだ。
    あの山小屋のカウンターの高さを思い出した。

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  • from: クマドンさん

    2017年04月28日 06時04分54秒

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    ままならない、ままならない、では、どうする?

    さてさて、疲れ果てていた。
    帰ったらくたくたで、何も話したくなかった。
    重い疲れとでも言うのだろうか、
    何もしたくないので、ただぼーっとテレビを観ていた。

    NHKドラマ「火花」の9回目だ。
    スパークスの解散を決めた2人。
    芸人としての引退を決意する。
    これから徳永はどうやって生きて行くのか。
    このドラマの空気感がとても好きだ。
    徳永が独り涙する顔をアップでずっと撮っている。

    私にとっても現役最後の4月がもうすぐ終わろうとしている。
    毎日毎日が現役最後の1日だった。
    昨日、退職手続きの書類を書いた。
    もうこのことは決定していることなんだ。

    私は、その後のことを考えていない。
    再任用で続けてこの仕事をするか、
    それとも介護や福祉の施設に勤めるか迷っている。
    しかし、その日は来るのだし、
    そこから先のことを私が考え、決めなければならない。

    身体は、年相応に衰えてきている。
    ずっと走り続け、山にも登り、スキーも続けると思っていた。
    しかし、手術で縫った跡が、がちがちに固くなり、
    まだまだ繋がってはいないようだ。
    そうだよなぁ。繋がるわけはないよなぁと、
    もう無理なことはできないと観念している。

    坐骨神経痛はまだ痛み、左足を引きずりながら歩いている。
    不自由な生活だ。
    かがむことが難しいので、部屋の掃除も後片付けもままならない。
    庭は野草でワイルドな状況だが、草取りはまだまだ難しい。
    スポーツどころか、日頃の生活もままならなくなった。

    そう想うと、ままならないことばかりだった。
    どうしたってこの年は変わりようがない。
    私の周りの人たちの私への想いも変わりようがない。
    歩くことがやっとで、走ることもストレッチもままならないこの身体。
    不自由な生活は、もう2カ月以上も続いている。
    足はこうしても僅かであるが痛んでいる。
    もう、元には戻れない。
    もう、元には戻れない。

    本当に人生はままならないことに満ちている。
    徳永の涙は、そのままならないことへの涙だった。
    私は、しかし、年をとったようだ。
    そのままならなさを、ままならなさのまま、受け入れているようだから。

    「何で・・・・」「どうして・・・・」とは、
    思わないようにしいてる。
    それは、やっぱり時々は、嘆くこともあり、こうしてどっと疲れることもある。
    でも、それはなってしまったことで、どうにもならないこと。
    ままならないことなんだから、悩んだって、嘆いたって無駄なことだと思っている。

    ならば、どうするか。
    何ができるか。
    そうやって考えることは、私にもできる。

    元には、絶対に戻らない。
    全てのものは、流れ、変化する。
    元に戻るとか、相手が変わるとか、身体が元通りになるとかは、
    全て幻想だ。

    まず、今、ここ。何ができるか。
    その具体と実感だけは、確かに生きている証となるだろう。
    後10年生きられて、70歳だよ。
    ここから先は、いつ死んでもおかしくない年となっている。
    ならば悩んでいる暇も、疲れている暇もない。
    解散は決定しているのだから、この最期の舞台に賭けるだけ。

    今、ここ、今日、1日。
    お日さまは、今、昇った。
    徳永は、最期の舞台のためのネタをきっと必死で考えていることだろう。
    次回が「火花」最終回かな。

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  • from: クマドンさん

    2017年04月27日 06時03分03秒

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    風呂場で転んだ

    さてさて、つくづく年を感じた。
    昨夜、風呂に入っていて突然「刺身だ」と、思い出して湯船から上がったら、
    咄嗟のことで覚えていないのだが、滑って転んでしまった。
    気が付いたら裸のままで身体をくの字に曲げてうんうんと唸っていた。
    またまた左膝を強打したようだ。
    シャンプーやリンスのボトルが散乱していた。
    緊急事態なので助けを呼んだが、誰も来てくれなかった。
    暫くしてやって来た次男は、じっと横たわっている私を見下ろし、
    「どうしたん?」だけだった。

    やっぱり私は、独りで痛みに堪えるしかないようだ。

    運命とは、神様から与えられた、宿命であり、必然だった。
    しかし、そこには与えた神様からのメッセージが必ず存在している。
    意味のないものは、一つも人生には起こらない。
    どんなに悲惨で、苦しく過酷な運命であろうとも、
    その極限的な状況に置かれない限り、
    私は、その意味を分かることができないようだ。

    ふりかえってみたら、
    どうしてみんなことをしてしまったのかと、
    自分で自分のことを嘆いてしまうような選択と行動ばかりだったとしても、
    それは、そうせざるを得ない状況に置かれ、
    そう選択するように内なる声に命じられ、
    その指図によって突き動かされて、
    そうなってしまったことが、多い気がする。

    何故ならば、今、そのことやあのことを振り返って見ると、
    「どうしてあんなことをしてしまったのか」と、
    自分でありながら、自分が選んだことでありならが、
    訳が分からないことが多いからだった。

    理性的に考えたら、それは間違った道であったかもしれない。
    もっと違った道も、そのすぐ脇にあったかも知れない。
    そうではない選択の出来る場である分かれ道は確かにあった。
    それでも、私は、その道を選んだ。
    それは、その時の私には、運命であり、必然であると感じられたからだ。

    そして、確かにその選択は、
    私にとっては偉大な運命であったことがよく分かる。
    そうせざるを得ず。そう生きざるを得なかった。
    どうしてそんな厳しい選択を、私は自分の人生の中で迫られるのか。
    それは、確かに私の不徳の致すところであるだろう。
    平安に生きたいと願いつつも、いつも怒涛の海に漕ぎだして行く。
    そんな生き方を選択することも、私が私としてここに生きている宿命なんだな。

    しかし、どうしようもない私であっても、
    きっとそこに再び立てば、感情と強い想いとに促されて、
    同じような行動をするのだろうとも思っている。
    何故なら、それがこの世に生まれた私に与えられた物語だからだ。
    過酷な運命に落とされ、その暗闇の中で独りもがき、苦しんでいる間は、
    その物語が、その先にどのように展開するのかは、
    誰にも分からないことだった。

    しかし、救いは、必ずある。
    希望は、必ず存在する。
    その救いこそ、その希望こそ、決して失われることのない絶対のものなんだ。

    それを、本当に心から実感するために、
    私は、私だけの物語を最期まで全うすることが求められていた。
    役者とは、そういうものだ。
    役者が、物語の途中で舞台を降りることは、赦されることではない。
    その物語の筋書きを味わいつつ、その台詞を語りつつ、
    私は、やっと私と出会い、私を感ずることができる。

    そして、最期には、人生とは、救いであり、希望であり、平安であることを、
    きっとその瞬間に悟るのだと、私は想う。

    「運命」とは、神様の働き。
    「宿命」とは、その働きを自覚しつつ、自らを委ねて生きること。

    昨夜、風呂場で転び、左足の膝を強打して、今も痛みを感じているのも、
    やっぱり私の物語であり、運命であり、宿命なんだ。

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  • from: クマドンさん

    2017年04月25日 05時56分26秒

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    飛行機雲は消える

    何から始めたらいいかねぇ。
    年なんだなぁ。
    自分の生きてきたこれまでのことをふとふと振り返る。
    何もなかったなぁ。
    あったとばかり思っていたのに、
    こうして振り返ってみたら、何もなかったのではないかと感じた。

    それでは、何を為したら、何が在ったと言えるのだろうか。
    そう考えても、たとえ国を創ったとしても何もないことには変わりはないんだ。
    ただ、それだけ。
    そう感じて、ただ今、ここを生きればいいのでは・・・・。

    後悔ばかりだとしても、
    どうしてあの日、あの時に気付かなかったのだと嘆いても、
    やっぱりその事実は変わらないし、
    そのことにかかわった人たちの私への想いは変わらない。
    それでは、あの日、あの時に、違った選択肢があったのかと言うと、
    何だかそう選ぶことだけが私の宿命だったように感ずる。

    私と言う役を生きてみて、
    やっと私と言う物語が分かる。
    こう生きざるを得ない私が居るから、
    その私が実感した人生がコトバとしてここに現れる。
    私は、私の物語を演じきることが、
    私の宿命なのではないだろうか。

    ならば、その物語を創作し、私に私と言う役を与えた働きを、
    私は、やっぱり信頼し、語りつつ、祈りながら生きていればいい。
    悩んだところで、何も変わらない。
    悩むことで、どうにもならない苦しみに自分を追い落とすこととなる。
    意味は、悩むことにはない。
    考えるそのことだけに在る。

    心を観る心なし

    心そのものとなれば、それでいい。
    それは、ただこの風のようなもの。
    常に流れ、止まることなく、通り過ぎて行くだけ。
    その過ぎて行く今、ここだけを、楽しもう。味わおう。

    朝日に輝く空を、一筋の飛行機雲が南に向かっている。
    大きく曲がったその軌跡を、あの飛行機はこだわらないだろう。
    軌跡は、遺る。
    ただ、一時だけは。
    そして、今は、既にその軌跡が端から消えて来た。
    でも、飛行機は、今も、南に向かって飛び続けている。

    過ぎ去ったことは、終わったことだ。
    軌跡が遺ったとしても、ほんの束の間の出来事だ。
    飛行機は、そんなことに何もこだわらずに、今も、飛んでいる。
    風を切り、雲の中を真っ直ぐに飛行しながら、
    ただ、エンジンの音を聴いていたら、それでいい。

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  • from: クマドンさん

    2017年04月24日 06時01分53秒

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    奇跡だね

    昨日、ゴスペル・クワィアーのラストコンサートだった。
    最前列で、偶然出会ったHさんと一緒に観た。
    まさにミュージカルの世界だった。
    想いが、願いが、喜びが、そして、哀しさが、溢れていた。
    神様は確かに降りていた。
    神様が人を創造されたのは、賛美して、証するためだ。

    あの圧倒的なパワーと、エネルギーは、
    人を超えたうねりとなって爆発し、
    ただただ感動するばかりだった。

    奇跡とは、その世界を体感・実感することだ。
    そして、その実感を通して、
    私の中にもその奇跡が存在していることを感じられる。
    その大いなる私を実感するために、
    私は、ステージを観に行くようだ。

    東京交響楽団の「惑星」にも没我だった。
    当日券は、何とパイプオルガンの前だった。
    指揮者と正対し、指揮者の腕と指の動きに集中する。
    音楽は、その微妙で大胆な動き一つ一つに共鳴し、
    巨大なうねりとなって出現した。

    音楽がホール全体に鳴っていた。
    音楽がここに在り、生き生きと生き物のように躍動し、静まっている。
    ほんのほんの消える瞬間の音を、水沼さんはすーっと握った。
    音楽に吾を忘れていると、オーケストラもいつの間にか消えていた。
    奏でているものは誰なのだろう。
    巨大なる音楽のうねりの底に、小さな彼が神がかった指揮をしている。
    まさに、この音楽と言う巨人を操っている魔法使いだ。

    最後の恩寵と静謐なる女性のハミングで、この大曲は静かに終わる。
    「ブラボー」と叫ぶタイミングはどこにもなかった。
    私は、もう再び「惑星」は聴けないと思った。
    ここには、奇跡が存在した。
    私は、ここでも奇跡を実感した。

    人智を超えたものが、この世界には存在している。
    たった今、朝日が昇った。
    その存在の訪れを告げる使者だ。

    その存在を信じる時。
    まさに思う存分に私を超えて私を発揮し、感ずる時。
    その存在は、その人たちのパワーを通して、
    この世に姿を現す。

    そして、その存在を実感できるのは、
    私もまた、その存在を知る者であるからではないだろうか。
    「ここに在った」
    「では、何が?」

    その実感は、確かにここに在る。

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  • from: クマドンさん

    2017年04月23日 07時15分16秒

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    哀しいな

    今朝も同じ。
    何だかねぇ。哀しくもあり、寂しくもありかな。
    これからどう生きるか・・・・ではなくて、
    「生きるとは何か」なのに、アルビの敗戦からどっと力が抜けてしまった。

    昨日は、久しぶりの本町だった。
    コシアブラにタラの芽と、山菜がやっと市場に出回って来た。
    佐渡産というやけに短い蕨も小さな束にして売っていた。
    また春が来たんだ。
    一回りして、こうしてまたまた原点に立ち返った。
    新潟の季節はいいものだなぁと、いつも想う。
    今頃、山古志や松之山はまだまだ雪の下だが、
    春を迎えて、フキノトウが顔を出していることだろう。

    あれだけ早く元気になりたいものだと願っていたのに。
    もう歩けなくなってしまうのではと不安になっていたのに。
    こうしてゆっくりと歩けるようになると、
    今度は、いかに生きるかの心配をしている。
    この年になると、つくづく生きるとは、孤独なものだとしみじみと感ずる。
    「心を観る心なし」
    そうなんだけれども、こうして余計なことを考えて、悩んでいる。

    痛みの最中では、ただこの痛みが消え去ることを切に願った。
    立ち上がることができるようになったら、せめて杖をついて歩きたいと願った。
    少しずつ歩けるようになったら、今度は椅子に座れるようにと願い。
    今は、畳の上で胡坐をかけるまでに回復をした。
    身体は、こうして身体としての蘇生を日々行っている。
    回復の歩みをこの身体を通して体験した。
    本当に遅々たるもの。微々たるもの。極々僅かだった。
    でも、自然に委ね、任せていると、そうやって身体とは回復に向かうものだった。

    では、心はどうなんだろう。
    この心には、やっかいな我執というものがある。
    私という我儘な自分がいる。
    もういいよと、その私とは離れたような気持ちになっていても、
    その私はひよっこりと顔を出す。
    「孤独だねぇ」「寂しいねぇ」「哀しいねぇ」と、囁いて来る。

    私は、二カ月間のリタイア生活だった。
    まさに一カ月は寝たきりの状態だった。
    そんなことにならなかったら、今頃は山に登っているかもしれない。
    こんな天気のよい日曜の朝は、日和山まで走ったものだった。
    映画には二カ月も行っていない。
    観たかった映画は、もうどこにも存在していなかった。

    でも、哀しいのは、出来なかったからではない気がする。
    この哀しさとは、そういう哀しさではないようだ。

    お日さまが昇って来た。
    いい日になりそうだ。
    新潟のこの季節は、最も私が好きな季節だった。
    風は止まない。止んでもいない。
    この心の哀しみと言う病も、その回復を風に委ねて、待つしかないのかもしれないな。
    59歳と9カ月。
    何も分からず、今日を生きている。

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  • from: クマドンさん

    2017年04月22日 11時43分44秒

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    風は止むときはなし

    少々二日酔いである。
    何だかねぇ。日本酒を飲むと、ブレーキがきかなくなってしまう。
    豊栄での飲み会には、必ず帰りの電車での菊水を一本仕入れておく。
    道連れがある時は、その人のためにビールを用意する。
    新潟駅で飲めば、また金がかかる。
    電車を移動の居酒屋とする。

    その分、駅からは1500円のタクシーで帰宅する。
    近くのコンビニで降りて、また菊水を買う。
    帰ってからカレーを温め、ご飯にかけて、それをつまみに酒を飲む。
    その結果どうなるかは分かっていても、やっぱりやってしまう。
    その繰り返しが人生だ。

    それにしても、動けるようになったものだ。
    先週の土曜日には、妻とのバス旅行だったが、さんざんだった。
    バスの座席には腰を浮かして座り、歩けば十歩歩いて十止まる。
    同行の妻には呆れられ、最後はおいてけぼりで独りで帰った。
    ずっと使っていなかった足を使ったために、
    どっと痛みが押し寄せたのだろう。
    何事も徐々になんだな。

    さっきまで久しぶりの庭だった。
    キャンプ用の椅子に座れるようになった。
    それはそれで嬉しいことだった。
    庭は、野草で生い茂っていた。
    たいしたものだと、その生命力と繁殖力とに驚いている。
    私が寝たきりだったおかけで、この子たちはのびのびと育っている。
    何だかこれから手を入れて、きれいにしてしまうのも可哀想な気がする。

    草ぼうぼう。
    それもまた良しではないかと、想ったりしている。
    どれだけの種類の野草が育っているのか、ちょっと興味もあった。
    こんなところにと、カタバミの小さな黄色い花だった。
    それから、白菜の茎は1メートルに達し、小さな菜の花を咲かせている。
    キャベツの茎もみるみる伸びて、もう少しで花が咲く。
    ブロッコリーには、小さな小さな黄色い花だ。
    食べられずに放置されることで、この野菜たちも花を付けられた。

    何だかねぇ。何となくねぇ。生きることが哀しくなっていた。
    ああ、生きていていいのかなぁ。
    何だかねぇ。ふとふと、生きていることが無性に寂しくなった。
    これは、二日酔いのなせる業だった。
    あの激烈な痛みの中で心配していたことは、
    もうこの身体は元には戻らないのではないかということだった。
    この痛みとは、これから一生付き合っていかねばならないのではと、
    そんなことを勝手に想い、絶望感の中だった。

    それなのに、こうして豊栄まで飲みに出かけられる身体となったのに、
    やっとこうして歩けるようになったのに、
    私は、それなのにどこか寂しく、孤独で、哀しくなっていた。

    「心を観る心なし」
    本当に妄想ばかり、余計なことを考えるから、こんな気持ちになってしまう。
    心無し。自分も無し。ただ、在るのはカタバミの花。白菜の花。
    やっと庭に出て、日向ぼっこをすることができたのだから、
    ただ、この花たちや野草たちと一緒に、ぼーっとお日様を浴びていたらいいのだ。

    そうすれば、いつの間にか、何かは変わる。
    同じということも、止まるということもない。
    この風は止む時はなしなのだ。
    それを信じて、ただなんとなく生きていたっていいのではと、野草たちに教わった。

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  • from: クマドンさん

    2017年04月19日 05時52分17秒

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    「みんなに」

    みんなに    上野千里

    悲しみのつきぬところこそ
    かすかな喜びの芽生えの声がある
    熱い涙のその珠にこそ
    あの虹の七色は映え宿る

    人の世の苦しみに泣いたおかげで
    人の世の楽しみにも心から笑える
    打たれ踏まれて唇を噛んだおかげで
    生まれて来たことの尊さがしみじみわかる

    醜い世の中に思わず立ちあぐんでも
    見てごらんほらあんなに青い空を
    みんなが何も持っていないと人が嘲っても
    みんな知っているもっと美しい本当に尊いものを

    愛とまことと太陽に時々の雨さえあれば
    あとはそんなにほしくない
    丈夫なからだとほんの少しのパンがあれば
    上機嫌でニコニコ歩きたい

    それから力いっぱいに働こう
    そして決して不平は云わずに
    何時も相手の身になって物事を考えよう
    いくらつらくても決してひるまずに

    どこかに不幸な人がいたら
    どんなことでも力になってあげよう
    もしっかり自分を忘れてしてあげられたら
    もうそれできっと嬉しくてたまらないだろう

    うつ向いていればいつまでたっても暗い空
    上を向いて思いきって笑ってごらん
    さびしくてどうしても自分が惨めに見えたら
    さあもっと不幸な無数の人々のことを考えてごらん

    道はどんなに遠くてもお互いにいたわりあい
    みんな手をとり合って歩いて行こう
    哀しいときは共に泣き楽しいときは共に笑い
    肩を組み合って神のみ栄えをたたえよう

    朝お日様が昇るときは
    あいさつに今日もやりますと叫びたい
    夕べお日様が沈むときは
    夕焼雲をじっと見つけて座っていたい

    心にはいつもささやかな夢を抱いて
    小鳥のようにそっと眠り
    ひまがあったら古い詩集をひもといて
    ひとり静かに思いにふけれたい

    幸せは自分の力で見出そうよ
    真珠のような涙と太陽のような笑いの中に
    今日もまたあしたも進んでいこうよ
    きっといつの日か振り返って静かに微笑めるように

    偽って生きるよりは偽られて死に
    偽って得るよりは偽り得ずに失え
    天国からじっと見守っているお父さんに
    手を振ってみんな答えておくれ「おう」と

    何度転んでもまた起き上がればいい
    なーんだこれしきのことでと笑いながら
    さあ、みんな朗らかに元気いっぱい
    さわやかな空気を胸に大きく吸いながら

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  • from: クマドンさん

    2017年04月18日 21時36分39秒

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    「リトル・フォーレスト」夏

    疲れているなぁ。
    1時半に目が覚めた。それから、また眠った。
    3時半に目が覚めた。それから、寝床で本を読んだ。
    しかし、この身体の疲れと、眠気とはどうだろうか。
    復帰して二週間たった。
    痛むときは畳の上で5分間だけ横にならせてもらう。
    それでも、杖を忘れて歩き出すことがあるから、
    やっぱりそれなりに回復をしているのだろう。

    「リトル・フォーレスト」夏を観た。
    身体で味わい、身体にじーんと沁みて来る映画だった。
    夏だった。
    山間の限界集落。そこでの農業を二十歳ぐらいの女性が独りで生業していた。
    育った稲の中で、果てしない草取りを腰をかがめてやっている。
    帰ったら蒸し暑い部屋を乾燥させるために、まきストーブに火をつける。
    からからに乾かした後で、そのおきを使って、パンを焼く。
    こんがりと焼けたフランスパンに自家製ジャムをぬってほおばる。笑顔。

    甘酒は簡単だった、お粥にパンのイースト菌を混ぜて、一晩寝かせる。
    翌朝、味見をすれば、上等な甘酒の誕生だ。
    その甘酒がたくさんできたので、分校の後輩の青年を家に招く。
    その夜は甘酒を飲み、そのまま蒸し暑さの中で。

    ウスターソースも自家製だった。
    亡くなった?母から教えてもらった手法だった。
    それは彼女にとってのこの世でのウスターソースだった。
    ある日、スーパーでブルドックソースを観て、驚いた。気が抜けた。

    くこの実だったか、採って食べた。
    渋い。苦い。まだまだだった。しかし、時期を過ぎると甘くなりすぎる。
    この実を使ってジャム造りに挑戦した。
    よくよく煮詰めて砂糖をたっぷりと入れる。
    またまた煮詰めて、水の中にぽとんと一滴落とすと、玉になる固さだそうだ。
    それを、晒して裏ごしする。
    みんな道具は、食べるために長年使いこなされた道具だった。

    あの青年は、都会から帰って来た青年だった。
    「町に暮らしていたら、うわべだけの言葉ばっかりで嫌になった」
    「この村の人たちの言葉は、身体から出る言葉だ」
    「ここでは、ちゃんと食べるためには、自分でちゃんとしてやらねばなんね」
    イワナを食べる時は、自分の手の上で、そのイワナの腹に包丁を入れて裁いた。
    それを、食べる。

    ここに生きている人たちは、そうして自分の手で造ったもので、生きていた。
    そして、そのいのちをしっかりといただいて、身体と言葉とを造っていた。
    ただ、ただ、単調なる繰り返しであるかもしれない。
    しかし、その生業の働きに、何だか生きることそのものの豊かさを感じられた。

    生きるとは、このいのちをいただくことだ。
    そんな想いで、私は、実際、食べていない。
    それは、食べるものが、私の手を経ていないからだろう。
    手作りで、丹精を込め、気持ちを込め、願いを込めて、造っていないからだろう。
    人工物・加工物・何だか、自然そのものと離れた形だけのものを、
    私は、毎日食べているのかもしれないなぁと、感じた。

    彼女は、都会で男と暮らした。
    しかし、やっぱり、それなのに、この山間の村に帰り、農を生業としている。
    それも、たった独りでだ。
    風の音だけの夜に、独り黙って読書する。

    ああ、こんな生活してみたいなぁと、ふと想った。
    しかし、私のようなやわで、生きる知恵も技もない男が、
    こんなところで生きられるわけはないとも、寂しかったがそう感じた。

    何だろうねぇ。人間としての生業を、いつから人は忘れてしまったのかね。

    「リトル・フォレスト」秋は、4月28日にBSで観られる。

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