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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2020年02月29日 06時12分22秒

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    平安の言葉・不安の言葉

    尊敬する人に出会った。
    私の尊敬するS先生が、「韓国第一の宣教師だ」と言う人だ。
    本当に神様の導きにはいつも感謝だ。
    こんな小さな教会に、その人は昨夜訪れてくれた。
    何と私と同じ歳だと、話の途中で分かった。
    随分と若々しく見える朴先生だった。

    私は、彼の語りを聴きながら、何だか涙を感じた。
    おいおいいい歳の大人が何だと、自分を押さえた。
    しかし、その誠実な真実のこもった実話に、
    何とも言えぬ共感を感じて、目じりに涙が湧き、
    それがするっと頬を伝った。
    「泣いているのは、誰?」だった。

    先生のお話しは、教会の役員の在り方のお話しだった。
    全て、それは先生が体験したこと。
    先生がその出会った人たちから学んだこと。
    そして、そこに神様のご意志を感じ、それに素直に従ったことだった。
    「役員の人たちには、一つの輪になることが大切です」
    その言葉は、新しく役員となった3名と婦人部長とには、
    ずんと心に沁みた。

    この小さな教会には、苦難の時期があった。
    未だにその残党の1人が、反旗を翻し、嫌がらせを続けている。
    そんな苦難の中で、私たちは耐えて来た。
    それは、この60年間の伝統のある教会の変革の時だからだ。
    古きものは、全てが善きものとは限らない。
    人を中心として、その人に頼り、依存する教会からは、
    神様が居なくなる。

    するとその中で交わっている兄弟姉妹にも喜びが無くなる。
    何だか義務で、来なければ何かを言われるから、教会に来る。
    ところが、その御言葉が心に響かない。
    御言葉への感謝や感動を感じられない。
    だから、心の大きな穴は、そのままで、虚しい風が吹くままだ。
    それでも、人を信じて、これでいいと言われるがままに、その状態を維持した。

    ところが、新たな風が外からやって来た。
    それも、本物の神様の御言葉と共にだ。
    驚異を感じた。怯えた。このままでは、自分たちが守り通したものを変えられる。
    それは、絶対に許さない。
    そのための闘いが、3年間近くこの教会では続いていた。
    それは、苦難だった。迫害だった。試練だった。

    しかし、そうした迫害に耐える弱さの私たちには、
    必ず、時期に見合った救いの手が与えられた。
    偉大な救け人が現われた。
    昨夜もそうだった。
    神様の視点。御言葉。真理から見たら、
    あまりにも人間中心の我執と我欲とでこの教会は成り立っていたことが、
    明らかとなってしまった。
    だから、あれだけヒステリーになっての集団による攻撃だった。

    しかし、最後に残るのは、真実・真理。それだった。
    ここに神様の働きに拠る、証があった。
    私たち少数の弱気牧者と羊たちにとっては、
    見の前で繰り広げられる苦難の連続と、そこからの回復・蘇生を、
    リアルな神様のはたらきと感じた。

    そのことを、先生は、私たちに自分の実体験を通して明らかにしてくれた。
    私は、先生のお話しを聴きながら、2回、涙を流した。
    気付かれないようにそっとぬぐったが、
    正面に座る先生は、その涙を見ながら、優しく話を続けてくれた。

    ああ、ここの神様から選ばれ、深く深く愛されている人が居る。
    その実感だけで、心が豊かになり、充たされた。
    不思議なことでしたと、先生は言う。
    私は、「不思議だなあ」と心から言える人を信ずる。大好きだ。話ができる。
    本当に人生は、不思議に充ちている。
    しかし、そのことを「不思議だなぁ」と本当に想える人は、少なかった。
    私は、なかなかそういう人には巡り合わなかった。

    しかし、その不思議を感じ、不思議のままに、誠実に生きている人を、
    私は、師として尊敬している。
    その人は、確かに、神様の不思議と一体だった。
    その不思議に生かされていることの喜びと感謝がある。
    そして、祈りの人だった。

    昨夜も、神様のおかげで稀有な、奇跡のように出会いをすることができた。
    今日も、出会うために教会に出かける。
    明日は、先生のメッセージを聴ける。
    これほどの感謝は、あまりないと、感動は寝るまで続いた。今もある。

    ところが、これとは反対の言葉の話だ。
    1人の発言で、日本中がカオスになる。
    それは、見えない病原体よりも恐ろしいことだ。
    言葉による心に忍び込ませられた恐怖は、
    その人たちから正常な行動を奪う力が在る。
    言葉の病原体の驚異だ。

    今、この病原体は、直ぐに蔓延する感染力を持っている。
    そのことを知って、わざと権力者たちは、
    意図的にその病原体を拡散させる。
    そして、そのことを知った人たちは直ぐに感染させられ、
    イベントは中止となり、演劇やミュージカルの公演は延期となり、
    サッカーの試合すら、延期となった。

    品薄になるというデマで、コンビニに走り込み、
    マスクを買い占め、トイレットペーパーまで買い占めに走る。
    「欲しがりません、勝つまでは」と言うスローガンがかってあった。
    その言葉により、人々は「贅沢は敵だ」と言った。
    パーマをかける婦人は、非国民だった。
    この国難の時に宴会をしているとは何事かと、
    自粛は、自粛ではなく、禁止命令と等しくなった。

    そんな時代を再び来させてはならない。
    平和を守る。
    民主主義を守る。
    国民の権利と自由を守る。
    全ての国民の基本的人権は尊重される。はず。

    とうとう学校に通う言葉たちの教育を受ける権利すらなくなってしまった。
    有事だからだ。
    何か目には見えない恐ろしい病原体が感染を広げ、
    蔓延しつつあるような気配を感ずる。

    しかし、誰も、ここに異は唱えない。
    それは、当たり前だ、命を守るための必要な措置だからだ。
    だから、守る。従う。云う通りにする。
    今、ここで行われていることを、しっかりと見つめる。
    太平洋戦争時代の国民の生活は、
    小学校の教科書に写真入りで掲載されている。
    今、ここで行われていることを、記録しておくことが大事だと、
    最近の報道を見ながら、私は、考えた。

    まさか、あの時代に逆戻りするのではないだろうと、思いつつだ。

    人を平安にする言葉もある。
    人を幸せにかる言葉もある。

    しかし、
    人を不安に陥れる言葉もある。
    人を疑心暗鬼にする言葉もある。
    その人が知らぬ間に、操作される言葉もある。

    だから、賢くあらねばならないの戒めだった。

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  • from: クマドンさん

    2020年02月27日 05時35分38秒

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    「かさこじぞう」の物語

    「かさこじぞう」を子どもたちが上演する。
    それは2年生の国語の教科書にある物語だ。
    このお話、なかなか学ぶことが多い。
    今回の上演で、私が再発見したことをここに記す。

    おじいさんとおばあさんは、貧しいということだ。
    大晦日なのに、餅を買うお金がない。
    それでも、悲嘆しない。
    心配しない。
    何とかなるさと、ばあさんがすげがさを作ることを提案する。
    おじいさんは「それは名案」と、直ぐに従う。
    ふたりはせっせと菅笠を編んだ。

    「まぁ、なんとかなるさ」「仏様がきっと助けてくんなさる」
    その身に着いた信心が、ふたりを助ける。
    そんな気がする。
    状況は確かに悲惨かもしれない。
    けれど、きっとどこから助け手が来てくんなさる。
    信心とは、そういうことだ。

    菅笠を大晦日の市に売りに行く。
    まぁ、世間とはそんなものだ。
    「傘はいらんか。傘はいらんか。」と、じいさまは声をはって売るが、
    いっこうに声はかからず、
    その賑やかな人混みの中で、きっと孤独を感じたことと思う。
    売れない傘を担いで、とぼとぼと雪道を山の家に向かって歩くじいさま。
    思い通りにはいかない。
    期待したが、人には裏切られる。
    それかきっと世間なんだの諦めか・・・。

    そこに地蔵様が6人雪に埋もれて立っていた。
    さて、そこでだ。
    私ならどうするか。
    その傘を、地蔵様に被せるか、
    それともせっかく作った傘だから、家にもって帰るのかだった。
    じいさまは、「可哀想に・・・」と、地蔵様に被せることを選んだ。
    神仏に対するこの敬愛が、信心なんだと、つくづく感じた。

    そこには、地蔵様に対する深い信仰と、敬愛と共感だった。
    それが、私にはあるのかの問いだった。
    まぁ、私はクリスチャンであるから、地蔵様は、地蔵様だが、
    しかし、きっと見て見ぬふりはできないとは思う。
    雪に埋もれた地蔵様の頭の雪を払うことはしなくとも、
    「大変ですね」「寒くないですか」と、声をかける。
    きっとその前を通る人たちは、そうするのではないだろうか。

    じいさまは、違っていた。
    売り物の傘を被せた。5つの菅笠を一つ一つ地蔵様に被せた。
    その時の光景が目に浮かぶ。
    冷たくかじかむその手で、頭の雪を払い、傘を被せ、紐を顎で結ぶ。
    きっと指先はきんきんにかじかみ、痛んでいたはず。
    しかし、傘が一つ足りない。
    どうしようかと暫くの思案だ。
    そして、自分が被っていた傘を、最後の地蔵様に被せた。

    ということは、これからの山道を、
    傘も被らず、雪に吹かれて登ることになる。
    しかし、傘を被った地蔵様を改めて見て、
    「これでええ。これでええ」と、じいさまは思ったことだろう。
    身体は寒さで凍えそうだが、心はほかほかと温かい。

    それと同じ気持ちになったのがばあさまだった。
    傘を地蔵様に被せた話を聴いたばあさまは、
    「それは、それは、よいことをしなすった」と、じいさまを褒めて、労った。
    このばあさまの魂が、美しいと私は思う。
    この物語には、せちがらいあの大晦日の市の人々のような欲は無い。
    人から儲けようとか、自分だけ得をしようとか言う魂胆は、
    このふたりには微塵も存在していない。
    それが、稀有な物語を生んでいる。

    ふたりは、とことん腹を減らし、餅つきの真似をして、
    それからひもじさを忘れるために、布団の中に入って、大晦日を迎えた。
    しかし、やっぱり善いことをしたふたりは、
    心がほかほかと温かかったと私は思う。
    「人は、パンのみで生きるにあらず・・・」だな。

    そこへ、遠くから、歌のような大勢の人の声が聴こえる。
    「地蔵に傘を被せた、じいさまの家は、どこだ。ばあさまの家は、どこだ」と。
    まるで夢なのかと、その声をふたりで布団の中で聴いていると、
    不思議なことに、その声はずんずんとふたりの家に近づいてきて、止まった。
    そして、「ずさん、ずさん」と、重い荷物を次々に降ろす音が響く。
    その後、その声は、風に紛れて、また遠ざかって行った。

    ふたりが慌てて外に出ると、雪の峠に向かって6人の地蔵様の姿が見えた。
    空のソリを引きながら、地蔵様たちは歌を歌いながら帰って行った。
    ふたりの足元には、正月のご馳走と、宝がぎっしりと積まれていたとさ。

    さてさて、この話を聴いた幼稚園や小学校低学年の子どもたちは、
    どんなことを考えることだろう。

    とにかく、昔の人たちは、困っている人がいたら、助けることを当たり前とした。
    その困っている人を、見過ごしにしなかった。
    お互い様だと言う言葉は、もう存在していないのだろうか。
    じいさまの傘を被せた行為の尊さだ。
    そのことを、自分たちもきっと貧しかった親たちは、
    子どもたちにこの物語を語りながら、教えたのではないだろうか。

    困っている人がいたら、助けてあげよう。
    そうすれば、きっと自分が困っている時、助けてくれる人が現われるよ。
    貧しさには、やっぱり相互扶助の精神だ。
    何だか、深い深い物語だった。

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  • from: クマドンさん

    2020年02月26日 05時34分09秒

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    苦しみの中に意味はある

    苦しみを肯定できるか。
    その苦しみに意味を発見できるか。

    そこで、その人の生き方は、がらっと変わるような気がする。

    私は、絶対に独りにはなれないことを悟った。
    人は、離れていく。
    それは、それで仕方ないと思っている。
    しかし、私は、それでも独りにはならない。
    ずっと私を見守り、傍らに居てくれる神様を知っているからだ。

    どれだけ救われたことだろう。
    そのことに気付かせられるために、試練があり、苦難があった。
    「生きていれば、いつか笑える日が来る」という本を読んでいる。
    北九州市でホームレスの自立支援をされている牧師さんの本だ。
    ホームレスの人たちの一番の心の苦しみは、
    「独りで死ぬこと」だそうだ。
    誰からも看取られず、孤独死する。

    それだけでない、その人がこの世に存在していたことすら、
    その人の名前や経歴すら、誰も知らぬ間に、
    その人がこの世を去っていく。
    家族は居た。
    しかし、疎遠なり、その元を離れ、テントや路上で暮らして長い月日だ。
    その孤独たるや、想像を超えたものがあるはすだ。

    そうやって生きている人たちも世の中には居る。
    ただ、私たちには見えないだけなんだな。

    今は、貧困な家庭で飢えを感じながら生きている子どもたちも居る。
    虐待を親から受けて恐怖の日々を送っている子どもたちも居る。
    先進国では、若者の自死が事故死を超えてトップなのは、日本と韓国だそうだ。
    競争の中で曝され、そのレールから外れたら、「負け組」となる。
    経済的な困窮に耐えて生きていながらも、
    行政からの民間からの支援が届かない。
    生活保護を申請しても、条件が揃わないと却下される。

    しかし、それは、物やお金の問題ではなく、
    やっぱり魂の救いの問題なんだと、彼は語る。
    人に話を聴いてもらえたら。
    人に大事にされていたら。
    人がその人のことを覚えていて、訪ねて来てくれたら。
    そして、その人の生涯の物語を誰かが記憶してくれたら。
    彼は、生きられる。
    そして、いつか必ず笑える日が来る。

    この奥田知志氏も、私の先を生きる人となった。
    何だか、そういう人たちに、最近は出会っている気がする。
    その人たちの生き様。物語が、私に生きる意味を知らせてくれる。
    それは、私の命の使い方。使われ方なのかも知れない。

    もういなぁと、思っている。
    自分のために我武者羅に生きていた時代もある。
    新たなことに挑戦し開拓した時代もある。
    組織を立ち上げて、ずんずんと前ばかり見て進んだ時代もある。
    しかし、もう、それはいい。
    もう、それは、やめた。
    そんな宣言を、私はしている。

    独り静かに、誰か個人のためにできることを探す。
    組織や人との軋轢やしがらみや義理や人情や義務ではなく、
    もっと気軽に自由にあるがままに、
    その人たちが辿った道を辿って死にたい。
    そんなことを思うようになった。

    そして、4月から、無職となる。
    きっとまた神様が何かを私の為に準備して、
    「これはどうだ」と、差し出してくれることを期待している。
    変な言い方かもしれないが、
    「曲がり角の向こうに何があるか期待して、その角を曲がってみたい」のだ。
    ここからは、その角を曲がった先が見えない。
    でも、きっとその先に、私の想いや想像を超えた、
    何か神様からの導き、招きがきっとあるはずだ。

    その期待は、私の希望でもある。
    私は、苦しみの中でも独りにはならない。
    それは、苦しみの中でいつも生きる意味が見出されたからだった。
    苦しみがなければ、その意味を分からないままだったと思うからだ。

    今は、先を歩く人たちに出会えている。
    ただ、この道を信じて、今日、今、ここを、生きるだけだ。

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  • from: クマドンさん

    2020年02月25日 05時28分52秒

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    一日一日を生かされる

    何もしないことにした。
    昨日の休日のことだ。
    木曜日のトレーニングのせいか、土曜日の飲み会のせいか、
    とにかく疲れが抜けない身体になっていた。

    疲れていると、動こうと言う意欲も出てこない。
    そんな日には、読書に限る。
    予定を何も入れない。
    家に居る。
    そして、家でも掃除をしない。片づけをしない。
    とにかく、何もしないでぼーっと過ごす。
    そんな日も必要な気がした。

    きっと向こうからやるべきことはやって来る。
    その神様からの流れに身を委ねる。
    そして、これですと言われたら、それをやる。
    今は、それだけのことだ。

    そんなことを最近は、思っている。
    昨日は確かにやるべきことを無くした。
    ただヨガだけには夕方出かけた。
    一日に一つだけ。

    しかし、私のこれからの人生は、どんな生き方をすべきなのか。
    4月からまた無職となる。
    今の仕事は、本当に無理に頼まれ、引き受けた仕事だ。
    だが、きっとこうなるべき道だったと感謝している。
    本当に私に必要なことや、やるべきことは、私が決めたことではなく、
    向こうからやって来ることなんだとの実感がある。

    振り返って見たら、どうしてこうなったのか、
    確かに私が決断したことには違いないが、
    そのようになる道を備えられていたと感ずることが多すぎる。

    私が、思ったから、そうなったのではない。
    きっと、そうなることが私の道だから、
    その時、その機会に、そうなって行ったのではないのかの気付きだった。

    ここ数年。
    特に、手術の失敗から生死を彷徨い、再びこの家に帰還できてから、
    人生はまさに予想外の展開だった。
    そして、私は、考えた。
    それでいい。それでよかったと。
    私が考えたところで碌な答えは出せなかっただろう。
    しかし、向こうからやって来る使命や仕事を断らず、引き受ける。
    それは、私に具えられ、予定された決定事項であったのかもしれないのだ。

    今、ここで、こうであることに、何の後悔も疑問も存在していない。
    きっとこれからも、そうやって生かされて行くのだと思うと、
    何だかわくわくとした期待すら感ずる。
    何でも起こる。
    しかし、起こること全てには意味がある。

    そして、そのことは、神様からのギフトなんだ。
    神様は、その子である私によきものを与えないはずはない。
    確かに人間的な視点から見ると、「どうしてですか」と、
    問いたいこともあるにはあるが、
    「まぁ、いいか」と、今は委ねる。

    だから、「どうでも、いい」と思う。
    こうして今は、身体が動いている。
    今日、これから向かう職場も恵まれている。
    家族と共にこの家で生かされている。
    特に大きな病も無い。
    まぁ、何とか今日を生きられる。

    それで充分ではないかと、私は感ずる。
    だから、あれもこれもとは、考えない。
    神様が何とかしてくださる。
    最善な道は、神様からの道だからだ。

    確かに、今日、死ぬかもしれない。
    でも、それでもいいかと、今は、思う。
    私の人生に起こることは、全て神様からのギフトで、意味あることだからだ。
    死すらも、きっと意味があると信じられる。

    信じられれば、それでいい。
    信じられるのだから、生きられる。
    その信じるを与えられたことは、何よりもの感謝だ。

    だから、何もしない日があってもそれでいいと思う。
    「休養」は必要なこと。
    何もしないことは、何もできないことではない。
    できるのだが、休むと言う選択だ。

    しかし、5時26分。3時半起きには、眠い。眠い。眠っていたい。
    それでも、今日を生きる。
    せっかく与えられた一日だ。
    そんな気持ちで一日一日を生かされていることに感謝している。

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  • from: クマドンさん

    2020年02月24日 10時30分28秒

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    映画「沈黙」

    昨日は、アルビの開幕戦。
    群馬に対して後半10分間で3点の快挙だった。
    今年のアルビは、違う。
    そうした手応えを十分に感じさせる試合だった。
    その先は、分からない。
    信ずると言うことは、まだ見ないその先、曲がり角の向こうを信ずる。
    観ていないから、信ずる。
    これではないかと、思う。

    そして、信じた通りに、なるものだった。
    それは、本気で、本当に、芯から信じていたならばだ。
    信じることに、裏切りは存在しない。
    たとえ、その結果が思い通りでなくとも、
    沈黙であったとしても、それは、今ではなく、その先なのかもしれないからだ。
    だから、信ずるなら、ずっとずっと信ずることだ。

    映画「沈黙」をやっとネットで観れた。
    観たかった映画であった。
    しかし、観てはいけない映画ではないのかとも思っていた。
    だから、映画館での上映を見逃した。スルーした。
    しかし、やはり、観てよかった映画だった。

    パッドレが転ぶ。棄教する。
    その時、イエス様は、何を彼に語るのか。
    迫害を受け、どん底の苦しみだった。
    切支丹として隠れた暮らす人たちが、長崎や五島の僻村に住んでいた。
    その人たちは、奉行からの迫害から逃れ続けて今に至った。

    信仰を守ることは、許されている時代もあった。
    しかし、ある頃から、このキリスト教信仰は、危険な信仰として咎められた。
    禁止されたその信仰を生きる人たちを、幕府は断罪した。
    惨いことだった。
    熱湯の温泉を裸の身体にかける。
    こもで身体を撒いて薪の上で火あぶりにする。
    十字架に磔にして、波に飲み込ませる。
    袋に詰めて、逆さづりにする。

    それでも、信者たちは信仰を続けた。
    死んだらパライソに行ける。
    そこでは、みんな幸せに暮らせる。
    貧しさも、飢えも、年貢の取り立てもない。
    神様と共に平安に暮らせる。それが、切支丹たちの信仰だったる

    二人の司祭が密航して来る。
    それは、自分たちの師か棄教したという噂を確かめるためだった。
    命懸けで長崎の浜にたどり着いた。
    そして、僻村の切支丹たちに助けられ、かくまわれた。
    そして、キチジロウの密告で捕えられ、牢に入れられた。
    その村の人たちも隣の牢に入れられた。
    ここから、本当の信仰の闘いが始まる。

    奉行の井上は、司祭を転ばせたかった。
    そのために、多くの村人たちを目の前で殺した。
    踏み絵は、彼の足元に在る。
    そのイエス様の身体を足で踏めば、命を助けられる。
    彼は、ためらった。
    しかし、その魂にイエス様の声が聴こえた。
    「私はあなたと共に居る。あなたと共に苦しみの中に居る」
    「踏みなさい。踏みなさい。」
    しかし、その声は、本当にイエス様からの声なのか。

    試練の中。迫害の中。祈った司祭であり、村人たちだった。
    しかし、神様は、「沈黙」だった。
    何の声も聴こえず、その悲惨な運命から救い出してはくれなかった。
    現実は、そのまま何も変わらず、次々に仲間たちが処刑される。
    彼と一緒に長崎に渡って来た司祭は、最後まで信仰を守った。
    棄教せず。転ばなかった。
    しかし、そのために、多くの村人の命は犠牲となり、彼も死んだ。
    これが、信仰を貫くと言うことなのか。

    キチジロウは、何度も転んだ。
    何度でも踏み絵を踏んだ。
    そして、しばらくすると告解にやって来て、救いを求めた。
    司祭は、そんな彼を赦した。
    彼は、村からは追放されても、彼は、生き延びた。
    では、彼には、信仰がなかったのか・・・。

    司祭は、最後には呻き、泣き、叫び、踏み絵を踏んだ。
    しかし、だからと言って、それが何だったのだろうかの問いだ。
    「沈黙」が、神様なんだ。
    踏み絵を踏む。転ぶ。棄教する。
    しかし、神様は、そこにいなさる。何も変わらない。
    人が、神様を選ぶのではない。
    神様が、ご計画にしたがってその人を召すのだ。
    その約束や祝福は、人がどうあろうと変わるものではない。
    それは、たとえ「沈黙」であろうとも、在るものだ。

    神様の瞳に、私が映っている。
    あの悲惨な運命の中で泣き、叫び、死んでいった人たちのことを、
    神様は、黙って見ている。
    踏み絵を踏み。
    棄教して、友を裏切ったとしても、
    神様の眼差しは、変わるものではないはずだ。

    信仰は人が棄てるものではない。
    信仰は、神様が人に与えたものだから。
    人が、踏み絵を踏んでも、棄教しても、神様を裏切っても、
    神様は、神様のまま。
    「沈黙」こそ、神様の人への愛ではないだろうか。

    「沈黙」であるからこそ、祈りが聞き届けられてたと信ずる。
    たとえ、私が人として神様を棄てたとしても、
    神様は、絶対に私のことを見棄てない。
    その眼差しに何の変わりがあるものか。
    「沈黙」を信ずる。

    司祭は、江戸で暮らした。
    キチジロウが共に居た。
    彼は、キチジロウに感謝した。
    「いつも私の傍に居てくれてありがとう」と。
    キチジロウは、何度も何度も転んだ男だ。
    しかし、神様は、きっとこの男のことを愛し続けていたと思う。

    信仰とは、人が勝手にどうこうと決めるものではないのだ。
    それは、きっと神様からの祝福であり、約束、贈り物なんだ。
    そして、それを受け取った人は、あの当時もごくごく限られた人たちだった。
    踏み絵を踏まず、棄教せずに、死を選んだ人たちは、
    今もパライソで幸せに生きているはずだ。

    棺桶の中で司祭の手に握られていたものは、
    小さな木彫りの十字架だった。
    「沈黙」を信じよう。
    長崎や五島の隠れ切支丹の人たちを、
    きっと神様は涙の眼差してじっとじっと見つめていたに違いない。

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  • from: クマドンさん

    2020年02月24日 08時04分25秒

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    映画「スターウオーズ」

    映画「スターウォーズ」の話。
    昨年上映された映画の一位が、このムーンウォーカーだった。
    ファンと言うわけでもないので、観ないでいることが多かっが、
    やっぱり観て見たくなったので、行って来た。
    そして、分かった。
    このテーマがとてもてとても人間的に深いと言うことが。

    フォースのために。
    私はこのシリーズを全部観ていないので間違ったことを書くかもしれない。
    しかし、この物語から感じたことは、
    私の生き方そのものにとっての大きな学びであったと思う。

    フォースを感じて生きる。
    フォースは、目には見えないものだ。
    そして、その力は、感じられる者にだけ感じられる力だ。
    その力は、その力を信ずる者を守り、導いて行く。
    信ずる者は、その真実であることを確信し、ただその声に従う。

    フォースは、永遠にあるものだ。
    それは、レイの父や母が生まれる前にも、
    そして、その父である悪の帝王が生まれる前にも、
    そして、全ての者が滅び去った後でも、
    そのフォースは、力をもち、生きて働く。

    その使命を悟ったレイは、闘う人となる。
    悪の帝王たちにこの国を支配されないために。
    まさに命懸けの闘いに挑んで行く。
    あの荒波の中の基地に小さな船で漕ぎだして行く勇気だった。
    その勇気が、私にはあるのかの問いだ。
    この物語は、そうした「いかに生きるか」の問いに充ちている。

    ベンととの一騎打ちが始まる。
    ベンは、この世界を支配する力を得る為に、魂を売った男だ。
    彼は、悪の帝王に支配され、その手先となり、レイを殺しにやって来る。
    魂を売る。
    その代価として、権力を得る。
    その邪魔をする者を叩き潰す。
    そのために闘いを挑む。
    しかし、フォースは、レイの味方だ。
    この闘いは、まさにこの世的な闘いである。
    私も、こんな闘いを経験させられたばかりだった。

    悪の帝王は、レイに示す。
    自分に従うならば、この世界を支配する力をお前に与えると。
    つまり、いつも悪はこうして、代償を与える。
    真実の魂を売れと言う。
    真実を裏切れと言う。
    そして、自分の味方になり、仲間になれと言う。
    レイは断固としてその申し出を拒否し、この悪の帝王を倒す。
    その時、改心したベンが共に闘う。

    生涯を賭けてこの悪の帝王たちと闘ったレイア姫が亡くなった。
    しかし、その魂は生きて伝わり、戦士たちに受け継がれていく。
    その魂は目には見えないが、確かに戦士たち1人1人の魂を炎で燃やす。
    真実を守る闘い。
    大艦隊に向かって、戦士たちは命懸けで攻撃する。
    この時、生き延びることは考えていない。
    ただ、目の前の敵を撃つだけだ。

    老いたハンソロが、顕れる。
    ベンに真実に目覚めよと諭す。
    フォースに立ち帰れて、呼びかけ、促す。
    ベンは、気付く。その瞬間、回心する。
    それは、ベンの魂の帰還だった。本心に還った。

    目には見えないものこそ、魂の力であり、はたらきだ。
    人は、善にもなり、悪にもなれる。
    それは、あの悪の帝王が語る言葉だ。
    ただ、人には、その二つのどちらかを選択する自由は与えられている。
    それが、神様が人に授けた自由だった。
    命令ではない。選択なんだ。
    私たちはいつもその道を指し示される。
    どちらの道を行くのかは、自分自身が決めることだ。

    そして、その選択によって、どんな人生になったかの責任は、必ず問われる。
    しかし、神様は、全てをこんな愚かで間違いやすい人間には委ねてはいない。
    だから、人間には、魂が与えられている。
    魂と心とは、全く違ったものだる
    心とは、感情や気持ちや意識と同じで移ろい、変わるものだ。
    心は、とても人間的な弱さをもったものである。

    しかし、魂は、神様が授けてくれたもの。
    霊的な存在である。
    それは、不変だ。真実だ。かってあり、今もあり、これからも在り続ける。
    そして、それは、フォースのようにして、語り掛ける。
    人生の選択において、静かに耳をすませば、
    魂は、必ず、その人にとって善き道を選べるように、言葉を与える。
    その言葉こそ、魂であるのかもしれない。

    レイは、ただその言葉に聴き従った。
    どんな困難な中でも、もう駄目だと絶望の中でも、真っ暗な闇の中でも、
    その声を聴き、その声に従い、その道を選んだ。
    心と魂とは、日々、葛藤をしているのではないだろうか。
    心は、安きに流れ、楽に流れ、自分だけよければそれで良いと言う。
    しかし、不動なる、絶対なるフォースは、その心を諌める。
    レイは、父と母からその魂を受け継いだ。
    ベンは、途中で気付き、回心をした。
    悪の帝王は、フォースでありながら、その命ずる道に逆らった。

    スターウォーズの物語は、まるで「聖書」に描かれている物語だった。

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  • from: クマドンさん

    2020年02月23日 08時10分35秒

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    渡り蟹のパスタの物語

    いろいろとあった。
    だから、書きたいことだけ、ここに書く。
    本当はいろいろとあったことも、
    本質的には同じものからの輝きではないかとは思う。
    それは、私自身の生き方そのものだから、
    1つとは、この私なんだ。

    さて、「渡り蟹パスタ」のことだ。
    レシピが変わり、味が一変し、混迷を極めたこのパスタだった。
    私は、食べる度に、その時の気持ちを紙ナプキンに綴った。
    それは、この店の、このパスタのことを愛するが故だ。
    酷評したこともある。
    ある意味、クレーマーなのかも知れない。
    しかし、このお店の女性の人たちは、
    密かに私のことを覚えて、応援していてくれた。

    金曜日の夜、お店に入ったら、本当に笑顔で迎えられた。
    実は、先回食べた後で、私は、何も書かず、「ボーノ」と言って帰った。
    そのことがお店で話題になって、みんなで喜んだというのだった。
    「俺って、何者?」
    実は、いつの間にか私は、そのお店では有名人となっていたのだ。

    「私は、その話を聴いて、涙が出そうでした」と、
    20代前半の可愛い女性に言われて、
    「へぇ、そんなにして、私の意見を受け止めていてくれたのか」の驚きだったる

    この私と渡り蟹との闘いは、確か、1年以上たっていると思う。
    その間、私は、映画の度にこの店を訪れ、渡り蟹を頼んだ。
    そして、失望し、がっくりとして、時には、怒りが込み上げて来た。
    それでも、また、映画の前には、この店に来て、渡り蟹を食べる。

    先回のことだ。
    「うん、これは・・・」と、かってのあの味に近づいたことを感じた。
    「あれっ、違うぞ。何だか深いぞ・・・」の気付きだった。
    そして、私は、思った。
    「闘いは、もうここまでしよう。私は、この味を、受け入れよう。」と。
    それは、しかし、パーフェクトな収束宣言ではなく、
    その味のあるラインに達したことへの評価としての収束だった。

    しかし、今回は違った。
    ひと口そのパスタを口にした時、その味は深く深く・・・・。
    私は思わず、唸って、うなだれた。
    「やっと、この味に出会えた・・・。」
    「いや、この味は、ある意味で究極を超えた味わいになっている。」
    「あれだけ求め続けた味を、その味を超えて、ここまでの味に進化させた。」
    私は、黙って、パスタを噛みしめた。
    確かに、本物は語りかけてくれるのだ。
    私は、久しぶりの感動を味わった。

    「とうとう、この味に到達しましたね」の讃美だった。
    私は、彼女に笑顔で言った。
    「ボーノ。ボーノ。この味だよ。やっと戻ったね。」と。
    彼女の笑顔に、私と同じ渡り蟹への深い深い愛を感じた。
    私は、紙ナプキンに「シェフ殿」と手紙をしたためた。
    それは、感動への感謝の手紙だった。

    たかがパスタ一皿にと笑わば笑え。
    しかし、やむにやまれぬそれが私の渡り蟹への愛だった。
    愛するものは、愛するもののままでいて欲しい。
    そして、いつも深く深くの味わいで語りかけていて欲しい。
    それが、この店を訪る私の心からの願いだった。
    しかし、その味が変わり、そのパスタからあの深い語りが消えた。
    私は、諦められず、何とかその愛するものに戻って欲しいと、
    切々と手紙をしたためた。

    そして、金曜日の夜、もっと素晴らしく美しいものとなって、
    私の前に再び顕れてくれた。
    去って行った恋人が、再び不意に戻って来てくれたようだった。
    私は感極まって、強く強くその恋人を抱きしめた。
    心から愛おしさがあふれだすことをとめることはできなかった。

    その味は、スターウォーズを観ている間も、身体にあった。
    深い味とは、忘れられない愛する人なのだ。
    レジの前で、彼女が笑顔で立っていた。
    お互いに見つめ合い、何とも言えない喜びを感じていた。
    「すみません、よかったらお名前を聴かせてください。」
    寅さんならば、「名乗るほどの・・・」と黙って去るだろう。
    しかし、私は、自分の名前をその人に伝えた。

    その店で、また渡り蟹を頼むとき、
    名前で応えられたら、本望だな。

    本当に素敵なお店だ。
    たった独りのお客の我がままに、ここまで試行錯誤で応えてくれた。
    そして、究極の渡り蟹のパスタが、完成した。
    しかし、これも途上だ。
    さらなる進化を、私は期待している。グラッチェ。

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  • from: クマドンさん

    2020年02月21日 05時22分16秒

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    無為自然は、身体そのもののことだった

    身体は、自然そのもの。
    それは、雨が降るように。風が吹くように。川が流れるように。
    私の意志を超越して、そのままで在り続ける。
    そして、その身体は、無常であり、いつも変化して止まない。
    変わることが、身体そのものの自然な姿だ。
    そのことを自覚したら、
    きっときっと今日、今、ここのこの身体には感謝しかない。

    昨日、本当に久しぶりに東区ボーイズの合唱に参加した。
    年末の緊急入院から、いつもいつも体調不良でのお休みだった。
    60代後半から70代、80代の大先輩たちの中で、
    一番若い私が、体調を壊しての欠席だった。
    そんな私を、先輩たちはとてもとても心配してくれる。

    肝臓の数値の異常により、6日間の緊急入院。
    それから、1月には、突然の腹痛により二日間のお休み。
    そして、先々週にはインフルエンザA型による5日間の外出禁止。
    よくもまぁ、これでもかこれでもかとの体調不良だった。

    それは、決して私が望んだことではなく、
    私の身体が、自然に起こしたものだった。
    確かに、酒を飲み過ぎだったり、蠣を食べたり、過労だったりだったかも。
    しかし、そんなにも体力、対抗力が落ちていたとしても、
    これほどの病の連続、百貨店は在り得ないのでは・・・の問いだった。

    しかし、病は、発生する。
    それは、まさにこの天気と同じだ。
    雨は、降る時には降るものだ。
    風は、吹くと時には吹くものだ。
    川の流れは、激しい時は激しいものだ。
    それを、私は、いかともすることはできない。
    私が先ではなく、全く、私は、後なんだ。

    身体は、やっぱり自然だった。
    身体は、身体を生きている。
    いや、身体は、雨や風や川の流れのように自然であるから、
    こうして私は、意志も意識もしなくとも、生かされているのだと、
    今回の度重なる病によって、悟らせてもらった。

    この身体と共に62年と半年も生きているのに、
    その自然そのものであることの自覚は無かったようなのだ。
    忘れているとでも言うのだろうか。
    健康そのもの。体力増強。食欲旺盛。みなぎる精力。
    そんな時に、人は身体のことを心配はしないものだ。
    「我執」のまま、ただ我が道を行くだけだ。

    しかし、身体は、身体としての信念をもっている。
    このままでは、生き延びられない。
    このままでは、疲弊する。
    みのままでは、朽ちてしまう。
    それでは、困る。何とかしなくては。
    そして、私は、病に至る。激烈な痛みを腹に感ずる。
    身体からの警告を受ける。
    その苦しみの最中に、身体の異変に気付き、初めて身体で在る私を認知する。

    不思議なんだが、身体は私であって、私ではないのだ。
    雨であり、風であり、川の流れであり、身体でありだ。
    それでは、私とは何なのか。
    身体は、私である為の身体として、この世に存在してくれている。
    身体あっての、確かに、私。
    その身体は、ある意味、宿命を帯びている。
    弱い身体。強い身体。自由な身体。不自由な身体。生きる身体。衰える身体。
    それは、人それぞれいろいろだった。

    私には、この身体が与えられた。
    確かに臨港病院の内視鏡手術の失敗で、生死を彷徨い。
    腹を縦に一文字に二度も切っているが。
    それでも、こうして今日、今、ここを、生かされている。
    そして、自然であると言うことは、無常であるということだ。
    そのことを自覚して、「感謝」することが、
    この今日を生きてくれている身体に対する、謙虚な姿ではないだろうか。

    祈りなんだな。
    願いなんだな。
    自分では無いんだな。

    それは決して有為ではない。
    人の計らいや努力を超えている。
    あるがままにここに生かされている。
    つまり、無為はこの身体のことなんだ。

    老子の言う、「無為自然」な生き方だ。
    その師は、この私の身体そのものだったと、
    私は、62歳にしてやっと気付いた。

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  • from: クマドンさん

    2020年02月20日 05時28分25秒

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    小さな証 神様に導かれるとは

    昨日、教会での学びだった。
    「神様の導きを感ずる」と言うテーマだった。
    私は、前日、私の師であるS先生にお会いした。
    もう80歳をゆうに超えた御年だった。
    私は、先生と出会わなかったら、クリスチャンになっていたかどうか、
    本当に分からない。

    それほど私と言う人間は、我がままで、我執が強い人だったからだ。
    そんな私の希望は、若い頃、いつも砕かれた。
    それはそうだ。
    きっと私が望むことが、碌なことではなかったからだ。
    大学を卒業ぎりぎりの成績で卒業した。
    しかし、就職はできなかった。

    それで臨時の小学校の教師となった。
    それからが、長い長い苦節の道程だった。
    もし、私が順風満帆の人生であったら、
    きっと今の私ではないと思う。
    我がままで、人一倍我執の強い私は、
    「俺が、俺が」の嫌な男になっていたのかも知れない。

    しかし、私の人生は、これでもかこれでもかの試練ばかりだった。
    本当に森の中を迷っていたような、
    長い長いトンネルをとぼとぼと歩いていたような、
    とにかく、先の見えない、全く不安定で、心もとない人生だった。

    失敗の連続。
    挫折の連続。
    思い通りに行ったことは少なく、
    どうして私なんですか・・・の連続、連続。

    その時、大学卒業記念にいただいた聖書を読んだ。
    「シーザース・クライスト・スーパースター」は劇団四季だった。
    「メサイヤ」合唱団に入団して、歌を歌った。
    みんな、神様からの招きだった。

    そして、白山裏の花屋の裏の、十字架だった。
    私は、惹きこまれるようにして教会の玄関に立っていた。
    新潟福音教会だった。
    何もこの教会には繋がりは無かった。
    どういうわけか、この教会を私は選んでいた。

    そして、そんな私の前にラフな格好のまま、顕れたのがS先生だった。
    その時、私は、この人が牧師さんであるはずはないと思った。
    しかし、S先生だった。
    先生は、私の思っていたクリスチャン像を全く覆してくれた。
    真面目で、敬虔なだけの牧師だったら、
    きっと私は、ろくに話も聴かないで去っていたと思う。

    今から思えば、恥ずかしくなるほど幼稚な男だった。
    何も世間のことを知らず、本で読んだ知識だけが、頼りの愚かな男だ。
    そんな男の生意気な話を、先生は黙って聴いていてくれた。
    そのことが、とてもとてもありがたかった。
    何だか、自分には居場所が無く、社会から疎外されたまま、
    そこで生かされているだけとその無力感に、孤独感にさいなまれていたからだ。
    そして、夕拝を守るようになった。
    そこで聴く、神様の話は、真実だった。

    この世の中で、こんなにも「いかに生きるべきか」の話をしてくれる場所は、
    私には、教会の他には無かったからだ。
    どんなに混沌として、どんなに悩み苦しんでいたか。
    その闇の中で、その孤独の中で、その絶望の中で、
    私は、その御言葉一つ一つが、そんな私のために語られているのだと感じた。
    聖書は、まさに弱く、愚かで、罪深い人間の物語だった。

    私は、「ヨブ記」に出会った。
    そして、本気になってこのヨブの物語に読み浸った。
    没入した。
    ヨブの信仰を、私はどうしても知りたかった。
    ここまで悲惨な運命を神様から追わされながら、
    尚更、その信仰を深めていくヨブを、私は畏敬した。
    神様を信ずるとは、どういうことなのか。
    この今、ここで、私が負っている苦難をから逃れることができるのか。

    その時、イエス様の言葉が次々に胸に響いた。
    「苦しみのある人は私のところに来なさい。私はその苦しみを降ろしてあげよう。」
    そう言ってくれる人に、私は、会ったことがなかったからだ。
    苦しみ、悲しみ、痛み、孤独、絶望、挫折、それは、在るものだ。
    ヨブを見なさい。
    あなたがヨブだったら、生きられますか。
    全てを奪われても、神様への信仰を全うできますか。
    ヨブは、そう生きましたよ。

    うーーーんと、私は唸った。負けたなと感じた。私ではない。私は無力なんだ。
    その時、S先生が、次の歳の春に東京の神学校の校長として赴任することが決まった。
    「今しかない」
    私は、S先生の誘いと、同じく教師としての尊敬する先輩Kさんが、
    同じクリスマスの日に洗礼を受けることを知った。
    そんなこんなの状況の中で、洗礼をうける決断はごくごく自然だったと思う。
    28歳のクリスマスの日。
    私は、新潟福音教会で、S先生によって洗礼を授けられた。

    そして、今は、山の下福音教会の信徒の1人となっている。
    しかし、私は、30年以上も教会を離れて暮らした。
    まさにあの放蕩息子のような生活を送っていたものだった。
    そんな私は、S先生やKさんの祈りによって、導かれた。

    「神様による導きを感じていますか」の問いかけをもらい、
    ふと、これまでの人生が走馬灯のようにして蘇った。
    「ああ、これを導きと言わないで、何を導きと言うのだろうか。」
    私のこれまでの人生そのものが、神様の御計画そのものだった。
    そう悟ったら、何だか全てのことが安心だった。

    これからも、きっと神様に導かれて生きていけるからだ。

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  • from: クマドンさん

    2020年02月19日 05時20分10秒

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    異常無しがありがたい

    昨日、市民病院の診察だった。
    MR検査の結果かが分かった。
    「どこにも異常はありません。」
    「石も腫瘍もみつかりません。」
    「よかったです。私もこれで安心しました。」
    若い医師のその言葉に嬉しさが込み上げて来た。

    「この歳になると、何かが見つかることが当たり前だと思っていました。」
    「改めて、感謝です。ありがとうございました。」
    私は、何だか踊るような気持ちで診療室を出て来た。

    あれだけ、年末から、さまざまな身体のアクシデントだった。
    あれだけの痛みに襲われ、救急車で搬送された。
    どうもあれは、腸からの菌が逆流して肝臓内で騒いだおかげとの診断だった。
    人間の身体の不思議だ。
    私は、今回のことの「意味」を考えた。

    私は、いつも、そう思う。
    全てのことには「意味」があると。
    そして、その「意味」とは、私が作るものではなく、
    神様から来るものだと。

    つまり、私ができることは、どんなことであろうとも、
    その「意味」を味わい、「意味」に気付き、感謝することだ。

    それが例え、私が望んではいないことであっても、
    そんなこと起きてくれるなと思っていることであっても、
    それは、やっぱり今の私にとっては「意味」があることだ。
    そう感ずることで、試練を受け入れることが、私はできる。

    そして、やっぱりいつも、結果的には「感謝」となっている。
    今回の緊急入院も、本当は「感謝」なんだ。
    6日間の個室での生活は、
    全く非日常の道場に入れられたような生活だった。
    確かに、経済的に大きな負担だったが、
    それを超える何か大きな収穫があった気がする。

    独りに向き合う。
    自己との対話を行う。
    自分の弱さを想い、大いなる力に祈る。
    そうした孤独でなくてはできない心のはたらきを、
    この個室での6日間は行うことができた。

    人は、毎日の時間の流れに翻弄され、流されている。
    そうして、流される惰性の中で、個と孤に向き合うことを忘れる。
    つまり、「意味」そのものを見失って生きることになる。
    しかし、「意味」は必ず全ての人には存在している。
    その「意味」できっと私たちは日々を生かされている。
    それなのに、意味を味わうことの無い生活を送らざるを得ない。

    私は、目覚めてから寝床で、1時間の読書をする。
    今は、「唯識」の本を読んでいる。
    すると、新たな気付きが起きる。
    「ああ、そうか」と腑に落ちる。
    その時、こうして今日を、今を、ここを生きる「意味」を味わう。

    次に、友にメールを送る。
    それは、ほんの些細なことであるが、とても大事なことだった。
    今日を、今を、ここを、他者とつながる。
    その想いや「意味」を共有する。
    別々ではなく、同じだなぁと、いつも感ずる。

    次に、「親父たちよ」をこうして書いている。
    この瞬間、瞬間は、意味の顕れの連続である。
    言葉は、どんどんと湧き上がる。
    そして、「そうだなぁ。そういうこだなぁ」の気付きが生まれる。
    私との対話というより、私が私に語り掛けてくれる。
    そうして、何かを確認する。
    「そう、生きよう」と、決意する。

    それから、40分間のヨガをやる。
    じっくりと伸ばす。耐える。鍛える。
    そうして、身体の部分部分と出会う、感ずる。
    すると、次第に身体そのものが目覚めていくことがよくよく分かる。
    最後は、呼吸法で呼吸を整える。
    息とは、自らの心と書く。
    つまり、息を整えるということは、自らの心を整えることだ。

    そして、朝風呂にどぶんと浸かる。
    音楽をFMで聴きながら、リラックスする。
    その音のままの感情に全てを委ねる。
    心地好くなる。音楽は、感情そのものだ。

    さてさて、これが、私のルーテーンだ。
    それは、きっと私が、その生きる「意味」と出会うために、
    その「意味」を味わうために、
    その「意味」に気付くためのルーテーンでもあるはずだ。

    生きているということは、このルーテーンができること。
    そして、今日も仕事ができること。
    昼には給食を食べられること。
    そうした素朴な当たり前の生活を感謝しつつ生きることだ。

    個室での6日間は、この日々の当たり前が奪われた生活だったる
    すると、分かるんだな。
    どれだけ、この何も無い朝が、私にとって大事な朝であったことが。

    人は、失うことで、得ることができるものだ。

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