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親父たちよ

親父たちよ>掲示板

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  • from: クマドンさん

    2016年06月30日 06時16分59秒

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    野菜を育てる人

    さてさて、庭の草花や野菜の栽培を愛する人が居てくれる。
    それはそれはありがたいことで、
    その人とならどんどん話が盛り上がる。
    同好の士というだけでなく、まず夢中になって話していると、
    まるで同志となるようだ。

    先日、アグリパークに行って来た。
    子どもたちに農業に触れてもらい、体験させるための施設だ。
    そこには、田んぼを改良した広大な畑があり、
    牛舎では乳牛を飼い、搾乳体験や餌やり体験ができる。
    体験棟では、ピザづくりが親子で体験できる。
    私は、その畑に行き、畑を管理している職員さんと話ながら、
    何と野菜を育てている人たちとは、愛情豊かな人たちなのかと感動だった。

    ミニトマトの話を二人でしていた。
    トマトの甘味はどうやったら出せるのか。
    どこまで背丈を伸ばせるのか。
    肥料は何をどれくらいやったらよいのか。
    お互いにいろいろと失敗しながら、試行錯誤しているので話は尽きなかった。
    場所は違っていても同じ作物を育てている者同士。
    何だか初対面の気がしない。

    キュウリは私の畑では深緑の多いな葉がたくさん茂っている。
    昨日は20本のキュウリの収穫だった。
    私はこの畑の管理を委託されている農家の親父さんと話をした。
    キュウリはどのくらいの大きさが収穫の時期なのか。
    枝別れをどのようにさせ、どこでその伸び放題になりやすい枝を切るのか。
    どうして曲がったり、変形したりするキュウリが育つのか。
    親父さんは、笑顔で、分かりやすく教えてくれた。

    私は、次々と質問をした。
    きっと施設の職員の人は、私のことを不思議に思ったかもしれなかった。
    私は、そんな話を夢中でしながら、
    この15年以上の畑人生がまんざらでもなかったなぁと想えるようになった。
    「やって来てよかった」それが、実感だった。

    ある時から、突然、畑人生は始まった。
    最初は興味関心から、見様見真似の試みだった。
    そして、初心者の私には、それは失敗の連続だった。
    一度失敗すると、そのシーズンはその失敗を取り戻せない。
    だから、次の年にはどうすればよいのかを、作物に問うた。
    また、その失敗を携えて農業の先生である、
    農家のじいちゃん、ばあちゃんを訪ねた。
    すると、野菜を育てる知恵が満載に溢れていることがよくよく分かった。

    その知恵は、長年の経験で、作物から伝授されたものばかりだ。
    そこに、じいちゃんやばあちゃんの経験知からの工夫も加えらている。
    「そうか。そうだったんだ」と、ガッテンがいき、腑に落ちる話ばかりだ。
    私は、そんな話が聞きたくて、畑の傍を歩くとき、農家の人に声をかける。
    葉っぱを観ると大体の野菜の名前は分かるようになった。
    そしたら、それを育てている名人に聴くことが一番手っ取り早い話だった。

    そして、分かったことがある。
    それは、笑顔の温かいじいちゃん、ばあちゃんの育てた野菜は元気だということだ。
    不思議なことだが、やっぱり畑の作物も人柄によって育ちが違う。
    そして、毎日毎日、畑に通い、手間をかけている人の畑の作物は育つということ。
    何よりも愛情深く、作物の成長を見守り、せっせと雑草をとり、肥料をやる。
    そんな愛情と手間暇とを惜しまない人の育てた野菜は、
    本当によく育っている。

    畑を観ると、育てている人の人柄が分かる。
    私が失敗だらけの畑人生で気付いたことは、このことだった。
    昔、じいちゃんから教えてもらって、今でも忠実に守っていることがある。
    それは、「畑に毎日足音を聴かせる」ことだ。

    そうすると、本当に畑の野菜たちは安心して、すくすくと育っていく。
    けっして目には見えないが、その不思議は存在している。
    その不思議は、その畑で育つ野菜を観れば一目瞭然の事実なんだぁ。

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  • from: クマドンさん

    2016年06月29日 06時17分50秒

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    生きてみないと分からない意味

    意味だなぁ。
    そんなことをしみじみと想った。
    そして、人は生きてみなくては、その意味が分からないんだなぁとも想った。

    昨夜はS叔母が帰宅の日だった。
    私は、その日にはT叔母の家でビールをご馳走になっている。
    それも、キリンの瓶ビールとプレミアビールだ。
    そこには、K叔母も居てくれた。
    その叔母としみじみと話したことが、この意味だった。

    K叔母は、旦那さんが一途でまじめで融通が利かず、
    いつも叔母を自由にさせずに束縛して来たことに不満をもっていた。
    叔母は85歳だった。
    その年を誰にも感じさせない美しさをもった叔母だった。
    その叔母は、60年以上連れ添った旦那をそうやって不満にも想っていた。

    しかし、私からすれば、旦那さんはとてもとてもいい人で、
    純粋に生きた人でもあった。
    確かに、世間知らずで、お坊ちゃんで、
    自分から外の世界とかかわれない人でもあった。
    だからこそ、叔母のことだけを頼りに、
    叔母に依存しながら生きて来たのだと想っている。

    だから、どれだけ叔母のことが好きで、好きでたまらないに、
    その想いを伝える言葉を言えないばかりか、
    口から出る言葉は、自分の想いと裏腹な言葉ばかりだった。
    だから、叔母にとってはそんなに自分を低く見ている旦那さんのことが耐えられない。
    この年になるまで、よく耐えて来たとも言っていた。

    しかし、しかしだ。
    叔母はそんな旦那さんに嫁ぎ、厳しい姑仕えをしてきた。
    彼は、ちゃんと叔母のそうした苦労と哀しみとを理解して、
    時には姑に毅然として叔母を庇って抗議もしてくれた人だった。
    叔母は、自分が置かれた状況を、不憫で哀れなものだと嘆いていたが、
    実は、そんな叔母のことを一番愛し、頼りにして生きていたのが旦那さんだったのだ。
    そのことを、この年になるまで、叔母は理解していなかった。

    昨日、そんな話が出た。
    同じように溺愛する母親に育てられ、どうにも勘違い男となってしまった私は、
    叔父さんの今の心境がとてもよく分かるようになったので、
    僭越ながらと、叔父さんの気持ちを代弁して、叔母に語った。

    叔母を自由にできないのは、叔母が叔父さんから離れて行くことが不安だからだ。
    叔母は、社交的で、友達も多く、友達からの誘いも頻繁にあった。
    それを叔父が許したら、叔母がどこかに行ってしまうようで不安だった。
    だから、大好きなお母さんに傍に居てもらいたいように、
    叔母のことを束縛し、外に出られないようにした。
    それは、嫌いだからそうするのではなく、それだけ好きだからそうしたのだ。
    叔父は、自分では自立できず、叔母だけが心のよりどころだった。
    ある意味、叔母は、そんな叔父の母親でもあっただろう。

    私もそうだったが、依存的に生きた人は、なかなか自立できないものだ。
    そして、大好きな母親から認められようと、
    そのことだけで頑張ってしまう傾向がある。
    私は、母が亡くなってから、やっとそこに目が覚めた。
    いかに自分が人ばかりを頼り、どんなことがあっても何とかしてくれるとばかり、
    勝手に人に依存して生きて来たのだと、やっと今、この年になって理解した。

    しかし、叔父は、そんしたどん底をまだまだ味わっていないので、
    自分を卑下し、否定するまでに至っていない。
    だから、まだ家族の中での主人として生きている。
    だが、それも全部叔母の幸せのためを思ってのことだった。
    純粋で一途な叔父には、そうした形でしか叔母に対して愛を伝えられなかった。
    実は、全ては叔父の叔母に対する深い愛情が為してきたことなんだ。

    そうではないですかと、私は叔母に語った。
    叔母は、はっとしたように私のことを見つめた。
    「そうだったんだろうかねぇ」と、
    それまでは否定的にとらえていた叔父との関係を、
    全く逆転した視点で見つめ直した。
    「そうだったんだね・・・・・。」
    叔母は、やっと何かに気付き、何かを分かり、穏やかな気持ちに変化した。

    「そうだったんだと、俺は想うよ。」
    「クマさん、ありがとね。そうだね。きっとそうだったんだね。」
    叔母は、結婚してからずっとずっと変わらず一途だった叔父の叔母に対する愛情を、
    その叔父が叔母と共に生きて来たこの長い長い人生の意味を、
    その瞬間に悟ったようだった。

    意味のないものは、存在しない。
    ただし、その意味は自分にとっての意味ではなく、
    神様がよかれてして与えられた試練としての意味であった。

    自分だけのとらえで人生を想うと不満と後悔の多い人生と想うかもしれない。
    しかし、神様の視点から見つめ直すと、
    その人生に起こった些細な一つ一つのことが、今の自分の幸せにとって、
    かけがえのない意味あることだったことに気付く日が必ず来る。

    S叔母が突然倒れ、自立した生活ができなくなり、施設に入所した。
    しかし、そのおかげで、K叔母は旦那さんからの深い深い愛を感ずることができた。
    不思議なことだが、実は、人生とは不思議の連続なのだと、私は想えるようになった。
    生きてみないと分からない。
    本当にそうだなぁと、昨夜も感じた。

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  • from: クマドンさん

    2016年06月28日 06時14分30秒

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    「ジプシーのとき」「アンダーグランド」

    このページに不具合が起こっている。
    変な帯がページにかかって読めなくなっている。
    こんなこともありかと、諦めてもいるが、
    メッセージの全容は翌日に明らかとなる。

    代休の月曜日の午前中は、せっせせっせと庭仕事だった。
    身体を使った生業のある人の羨ましさだ。
    春には春の、夏には夏の仕事がちゃんと向こうから用意される。
    その求められている機微を察知して、手を加え、手間をかける。
    だから、いつも外での仕事。
    私は、休日には何も予定がない時は、庭に出て何かの仕事に没頭している。
    この日中はお日様の下で汗して働くって、本来の人の生業なのではないだろうか。
    おかげさんで、庭の片隅にささやが新たな花壇が誕生した。
    私は、手術の前に、花を植える人になっている。
    ここに何かを託しながら。

    さてさて、全部で5時間余りも映画館でスクリーンに向かっていた。
    シネウインドのサラエボの名匠 エミール・クストリッツァ監督の名作
    「ジプシーのとき」と「アンダーグラウンド」を観ていたからだ。
    午前中は暑さでふらふらとする光の中で、
    午後は映画のアブラカダブラの光と闇の中へ。
    途中、コンビニからお握りとサンドイッチを買って来て、
    夕方はそれを食べながらの鑑賞だった。

    シネウインドの館長Hさんの絶賛する映画だった。
    「ジプシーのとき」は、純粋に生きていた若者が、転落の人生に向かう映画だった。
    故郷に残してイタリアに旅立った彼が、悪事で貯めた大金を手に帰って来ると、
    新婚の妻は、叔父に犯され、妊娠していた。
    妻は、彼の子だと言うが、彼は信じられなかった。
    絶望のどん底で、彼は彼女をイタリアに連れて戻った。
    彼女が出産するシーンがよかった。
    その瞬間に、彼はその子がまぎれもなく自分の子であると信じる。
    しかし、時すでに遅く、妻はそこで命を果ててしまう。

    「アンダーグランド」は、二回目の出会いだった。
    強烈な生き方の二人の男と、そのはざまに翻弄される一人の女優。
    このブラスの響きが今でも心に鳴っている。
    第二次世界大戦から、冷戦の時代へ、そして内戦と、
    サラエボを襲った戦争の悲劇なる時代が舞台だった。
    ここでのクロの生き方が秀逸だった。
    その一途な想いをただただ貫いて生き抜いて来た男。
    内戦の最中に、親友と愛する女優の死を知りながらも、
    見失ってしまった愛する一人息子を探しながら、戦場を訪ね歩く。
    家族こそ幸せの道だった。
    その家族や親友や恋人や昔からの仲間たちが、
    笑顔で幸せに暮らせる場所は、どこにあるのだろうか。

    アンダーグランドから、水の世界に。
    そして、ラストは想像の世界へ羽ばたき、愛する息子の結婚式となる。
    亡くなった懐かしい人たちがそこに集い、酒を酌み交わし、ブラスに酔いしれる。

    私たちは、大事なものを失わないと、その大事さが分からないもののようだ。

    喪うことで、愛しさが募る。
    喪うことで、真実が分かる。
    ただ、後悔する生き方からの再生を、
    私はやっぱりしなくてはいけないようだ。

    クストリッツァは、ただジプシーの愛すべき家族を描いた。
    そして、犯罪であり、戦争であり、その家族を取り巻くいかなる状況であろうとも、
    本当に見失ってはいけないものは、家族への愛それだけなんだ。
    二本の映画には、父による息子への深い深い愛が描かれている。
    「ジフシーのとき」では、復讐の結果、若い父親が死ぬ。
    「アンダーランド」では、20年間地下で生きた愛する息子が死ぬ。

    私は、喪う前に、そのことに気付いて、よかったと想う。
    だから、どう愛するかしかない。

    今を、ここで、この家で、家族と共にどう生きるのか。
    夫として父親として、私は何を為すべきなのか。
    その本当はとても単純で当たり前でそうあるべき生き方を、
    どこかで私は忘れてきてしまったようなんだ。
    喪ったのは、私の魂なのか。

    しかし、「再生」は必ずある。
    「蘇り」は、ここに存在するではないか。
    私は、そのマインドフルネスを信じている。
    だから、この二本の映画と出会えたのだと想っている。

    あの切ったなでしこの茎からは、可愛い花芽がたくさん育っている。
    「蘇り」とは、自然のもつそのものの生きる力だった。
    私も、自然の一つ。
    それを信じて、今日を一日だけ生きてみようと想っている。

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  • from: クマドンさん

    2016年06月27日 06時52分28秒

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    奇跡の「運命」ダダダダーン

    さてさて、本日は代休だ。
    平日のお休みは、私にとっての至福のときだ。
    今日は、庭に新たに花壇を創ることにしている。
    昨日、コメリで大量に花たちを買い込んできた。
    これも出会いの1つだった。
    あれだけ並べられている花の中で、私が選んだ花たちだ。
    その花たちが、今日から新たな生き場所でその生涯をスタートする。

    最近は、出会いのことばかりを考えている。
    すると、出会いとは全てのことが奇跡ではないかと思ったりする。
    そのことを当たり前と思っている人にとっては、
    何も想うことも感ずることもないことだろう。
    しかし、それを奇跡と感じ、その視点から見直すと、
    やっぱりこの出会いとは、一つ一つがまさに奇跡なのだと私には感じられる。

    昨日、北区フィルハーモニーの定期演奏会だった。
    5回目のコンサートで、「運命」を選んだ。
    私は、このオケの団長であるWさんとまさに運命的な出会いを16年前にした。
    それから、私の人生は全く違った人生の道へと変わった。
    そして、彼とはあるミュージカルで共演となった。
    実に、実に不思議な縁だった。
    私たちが出会わなかったら、一つのミュージカルはこの世には生まれなかった。

    そのコンサートを目指して交差点に差し掛かった時、
    一台の車が信号手前で止まったまま動かなかった。
    右の車線には真っ赤なワーゲンが停まっていた。
    事故だった。
    そのために前に進めなかったので、ワーゲンの人に声をかけた。
    「もう少し車を前に動かしてもらえませんか」と。
    すると、車の陰から出て来た運転手が、
    私がWさんと出会った職場で同僚だった女性だった。
    Tさんは今年の春に退職だった。
    だから、またみんなで会いたいと願っていた人だった。
    まさか、その人とこうして事故現場で会えるとは・・・・。

    さて、私はマエストロに会いたくてコンサートに行った。
    正面から4列目のど真ん中。
    指揮者の背中ばかりが見える席だ。
    私の尊敬するマエストロの音楽に傾ける全霊を感じたいからだった。
    劇的な表現力とでも言うのだろうか。
    このオケの弦の音の深さと豊かさとには感動だった。
    一つの音から一つの音へ、30位の段階で変化して行くのだ。
    1と2だけの音ではなく、それは10であり、15であり、19であったりする。
    音そのものが豊かで芳醇な音楽になっている。
    それは、まさにマエストロが目指す音楽なのだろう。

    運命は、かくありたい。
    第三楽章辺りから、本当に心臓がどきどきと激しく鼓動を始めた。
    それは、私の身体が自然にこの音楽に感じて動いている証拠だった。
    すると、涙がいつものよいにじわっとにじむ。
    これも素直な魂の反応だ。
    身体と魂とが感じて、動いている。喜んでいる。歓喜している。

    私はマエストロの背中と腕の動きをじっと見つめた。
    そのうちに、不思議な感覚に居る自分自身に気付いた。
    音が全ての音が一つの大きなうねりとなって轟いていた。
    それは一つ一つの楽器の音ではなく、「運命」という音楽の音だった。
    融け合い、響き合い、抱き合い、支え合う。
    演奏する全ての人たちの想いが、真摯で、懸命な一途な想いだけが、
    伝えられる純粋な何かが、今、ここにあることを私は感じた。
    私もその音の中に融け込んでいた。

    あのミュージカルを観た人たちが、涙を流して感動したような、
    その純粋で、素朴で、温かな感動が、この運命には存在していた。
    奇跡の音楽だった。
    私は、奇跡の「運命」と出会えた「運命」に感謝し、深く深く感じていた。
    私が叫んだ「ブラボー」の声が、泣いていた。

    今もここにはその音が響いている。
    プロが絶対に奏でられない音がそこには存在していた。
    偉大なるアマチュアしか、その奇跡は起こせない。
    実は、奇跡とはそこで演奏する全ての人の心と魂とが一つに融け合うことで、
    初めてそこに生まれる嵐のようなものではないだろうか。
    マエストロとオーケストラが、奇跡の嵐を呼ぶ。
    私たちは、その奇跡と出会うために、コンサートやステージに向かうのだ。

    アンコールのグリーグも美し過ぎた。
    この豊かな弦の音色はどうだろう。
    変幻自在とはこのことなのだろう。
    私は、残雪の春山の風と沢の音とをこの音楽から感じた。

    さて、これから久しぶりのLSDに出かけよう。
    それから、庭に新たな花壇を創ろうと想う。
    私が手術してもしものことがあれば、
    この花壇は私からの家族への贈り物となる。
    きっとこの花壇からも奇跡が生まれることだろう。

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  • from: クマドンさん

    2016年06月26日 06時23分19秒

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    「あき乃」の蕎麦としばしの別れを

    どうしても食べたくなってしまう蕎麦がある。
    土曜日の午後しか私にはその蕎麦と出会う機会は与えられていない。
    しかし、用事があって行けない日もある。
    手術までの土曜日は、予定で埋まっていた。
    昨日しかなかった。
    それで、私はバスに乗って本町に出かけた。

    BRT開始以来、私が一番本町に通っていたりする。
    人情横丁の「あき乃」に行くたびに、本町で何か買っているからだ。
    とにかく、蕎麦がなくならないように事前に電話だ。
    マエストロがいつも出て、歓迎してくれる。

    三時半がこの店の閉店時刻だ。
    それまでにその日の蕎麦を全部売り切ってしまうから、
    その人気のほどはよく分かる。
    私は、いつもの蕎麦焼酎を飲んで特盛の到着を待っている。

    「手術まで今日が最後の蕎麦になります。」
    「そうですか。大変ですね。」
    「今度来るときは、回復してからなので8月になります。」
    「お待ちしておりますよ。」
    60代半ばだろうか、素敵で上品な女性が、
    いつもそうして優しく私に声をかけ、話をしてくれる。
    これも「あき乃」のご馳走の1つだ。

    これが最後になるかもしれない蕎麦にまず合掌する。
    そして、山のように盛り上がったてっぺんを箸でつまみ、
    つゆにつけて食べ始めた。
    噛むことは、蕎麦と語ることだった。
    私は一口一口蕎麦を噛みしめながら、
    蕎麦とのしばしの別れを惜しんだ。
    それは、まさに祈りでもあった。

    そんな私の気持ちを察してくれたマエストロは、
    夏野菜の天ぷらを増量してくれていた。
    こうした心遣いが、何よりもお客には嬉しいものだ。
    「お名前を教えてくださいな」と、彼女に言われた。
    そうだ、こんなにも通っていながら、私は名前を名乗っていなかった。
    「クマ太郎です。」
    「そうですか、珍しいお名前ですね。新潟の人ですか。」
    「何だか福島から来たらしいですよ。」

    私は、蕎麦との名残を惜しみながら、最後の一箸を口にした。
    ざるの上にはもう蕎麦は不在だった。
    この蕎麦の味を励みにして、痛みと苦しみを耐え忍ぼうと心に決めた。
    治ったら、また「あき乃」の蕎麦を食べられる。

    二杯目の蕎麦焼酎を飲みながら、田口ランディの広島でのエッセーを読んだ。
    そして、原爆の日の夜、あの川の土手でヨー・ヨー・マがチェロを演奏した。
    その演奏を聴いて、初めて祈りが自然と生まれて来たと書かれてあった。
    そこには、死者が居た。そして、その死者を悼む人々の静かな祈りがあった。
    祈りなんだなぁと、またまたこんなところでと思いつつも、
    涙が溢れて止まらなくなってしまった。

    「あき乃」最後のお勘定は、恥ずかしいが涙目の私だった。

    それから、私は、クラフトビールへ参戦した。
    そのことは、また後で。

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  • from: クマドンさん

    2016年06月25日 07時13分36秒

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    太威のラーメンに最敬礼

    今朝は、冷たく強い風が吹いている。
    曇り空でどんよりと暗い。
    私の身体もこの天候のように、少々疲れが残っている。
    疲れがとれない。
    それだけ、毎日ハードな生活をしているということか。

    今週も三日間、早朝のジョグだった。
    4キロを24分代で走れるようになった。
    走り続けることで、足の筋力が回復し、ふくらはぎが細くなった。
    トレーニングとは、続けることだった。
    晴れたら走る。
    そう決めたら、決めたことを何も考えずに実行する。

    朝、少しの時間でも庭で花や野菜に声をかける。
    ヒマワリとコスモスは芽を出し、それなりに育っている。
    あの刈り取ったなでしこは、何と若々しい黄緑色の花芽を出した。
    時が満ちれば、花は咲く。
    時が来なければ、花は咲かない。
    庭の草花を見ていると、待つことの大切さをいつも教えられる。
    そして、全てのものは変化して、そのままではないことも学ぶ。

    昨日は、出張だった。
    午前でお仕事が完了したので、昼は拉麺を食べることにした。
    私の仕事で平日の外食は、本当に珍しいことだった。
    私は、木戸にある「太威」を選んだ。
    ここの新潟県拉麺コンテスト第3位のチーズ入りの特製拉麺を先日食べた。
    「出会えた。これだ。」
    その濃厚でコク深い何とも言えない味わいのスープの虜に私は一口でなってしまった。
    味もまた出会いだろう。
    しかし、この奇跡がなかなか起きないのも現実だった。

    カウンターに座る。
    本日は、四川風の辛口である麻婆麺をいただくことにする。
    イケメンの若者二人が厨房で黙々と汗して拉麺を作っている。
    「辛さはどうしますか。」
    私は、初心者なのでお試しの1にした。
    そして、運ばれた麻婆麺の味に脱帽だった。最敬礼。拝んで食べた。
    「これだ。これだよね。」
    ここにいたのか、この味は。

    すりおろしたにんにくを入れる。
    練った辛子を入れる。
    コショウを入れる。
    その度に、微妙に味が変わり、深くまろやかに濃厚になっていく。
    私は、一口一口その味の変化を楽しんだ。
    こんなにも堪能できるスープが世の中にはあったのか。驚きだった。

    名残惜しかったが、身体のためにスープを底に少し残して完食した。
    カウンター越しに店主に言った。
    「うまかった。本当にうまかったてば。」
    店主は笑顔で深々と私にお辞儀をしてくれた。
    この瞬間とこの醍醐味が、うまいものを食べる時の至福の喜びだ。

    やっぱりうまいものを創ってお客に出せる人も、
    「グレート・ヒューマン・ビーィング」な人なのだ。
    拉麺も偉大な人が創るもの。
    蕎麦も偉大な人が創るもの。
    それこそ、まさに職人技だった。

    私は、夜、そのことを妻に話し、
    今度長男と次男を今度連れて行こうと言っていた。
    すると、ジムに行っていた長男が帰って来た。
    「ご飯、食べる?」と彼女が聞くと、
    「食べて来たよ」とのこと。
    「木戸にある美味いラーメン屋でラーメン食べたよ。」
    私は、どきっとした。
    「おい、その店太威って店じゃないけ。」
    「そうだよ。何で父さん知ってん?」

    本当に、こんな出逢いもあるものだと、その奇跡に何も言えなくなってしまった。

    今日の昼は、あき乃の蕎麦を食べに行く。
    ここも最敬礼の味なんだ。

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  • from: クマドンさん

    2016年06月24日 05時44分49秒

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    「会いたいと願っている人にはいつかは逢える」ものだ

    「会いたいと願っている人にいつかは逢える」
    そんなことを考えた一日だった。

    35年前になるだろうか、
    私は「メサイア合唱協会」に入れてもらって、
    合唱の全くの素人なのに、
    県民会館でヘンデルのメサイアを歌うことができた。
    それも、原曲を英語でだ。
    5年間その合唱団でメサイアを歌えたことで、
    私の合唱の基本が育てられたと感謝している。

    その時、私はあるCDを買った。
    当時はまだまだCDが高価だったので、
    輸入盤のものを探していたら、
    エラート盤のメサイアと出逢った。
    それが、トン・コープマン指揮 アムステルダム・バロック・オーケストラの
    「メサイア」だった。
    1985年の録音と書かれてある。
    31年前の録音だ。

    私は、彼の演奏が大好きになった。
    当時、早朝にFMで「バロックの響き」だったかの番組があった。
    私は、毎朝早起きをして、この番組を聴いていた。
    そこでも、彼の指揮し、また彼のチェンバロの演奏に心をあらわれていた。
    彼は、私がまだまだ音楽の初歩に居たときの、音楽の先生でもあった。

    その憧れの彼が、昨夜、りゅうとぴあで、オルガンのコンサートだった。
    私は、そのポスターを観て、驚き、感動し、心が躍った。
    まさか、まさか、まさか・・・・だった。
    彼が、この新潟に来てくれる。
    30年前から憧れていた音楽家の彼が、ここでオルガンを演奏する。
    それも、バロックの名曲と、バッハとを。

    そして、昨日、憧れの彼と私は対面した。
    笑顔が素敵な老フィロソフィーである。
    音楽に向かい、全知全霊で鍵盤を弾き続け、魂の音を高らかに奏でてくれた。
    曲が終わり、拍手に応えるために振り向き、立ち上がり、お辞儀をする。
    そのお辞儀の仕方が、何とも茶目っ気があり、愉快だった。
    ここには、やっぱり、私の憧れる「グレート・ヒューマン・ビーィング」がいた。

    音楽は、そうした人として偉大な人が奏でるからこそ、音楽と成るのだった。
    音楽とは、音を奏でる人がここにいることなんだ。
    何だかどう書いてよいか分からなくなったのでもうやめるが、
    自分としての人生を貫き、耐え忍び、只管理想とする音を追い求め続け、
    それでいて、とてもしなやかで、優しく、ミューズに自分を捧げて生きている。
    そんな生き方をしてきたからこそ、コープマンの音楽はこの世に存在するのだ。

    生き方が、作曲家の書いた譜面を読ませ、その音をここに現してくれる。
    私の前に座っていた老紳士は、何と譜面を読みながら演奏を聴いていた。
    譜面がまるで物語を奏でる絵本のようだった。
    コープマンという人生を生きて来た彼が、バッハと出逢い、バッハを現す。

    私の大好きな音楽家は、
    やっぱりみんな「グレート・ヒューマン・ビーィング」だった。
    小澤征爾・佐渡裕・レナード・バースタイン・グレン・グールド・ホイジンガー等
    私は、その人ならばと、チケットを買って、コンサートに出かけて行く。
    それは、音楽と言う偉大な人に出会うためではないだろうか。

    さて、私の願いは、思いもよらぬ形で神様は叶えてくださった。

    それでは、もう一つ「偶然は、必然である」の話。
    コンサートに間に合うためにすっ飛ばして帰って来た途中。
    信号で停まっていたら、隣の車がCさんだった。
    彼は今、福祉関係のアートのことで東奔西走・獅子奮迅の働きぶりだった。
    私は、ウィンドーを下げて、
    「Cさん」と声をかけた。
    彼が驚くこと、驚くこと。
    さてさて、この信号で2台の車が隣どうしに停まる確率はいかに、いかに。

    やはり、「逢いたいと願うことだなぁ」と、

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  • from: クマドンさん

    2016年06月23日 06時14分11秒

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    必然を信じる

    さてさて、「偶然は、必然だ。」
    最近、そんなことがたびたびあった。

    ある日、N大病院のエレベーターに乗った。
    ある階で止まり、扉が開き、入って来た人を見て驚いた。
    いつも行っている床屋の女将さんだった。
    「あらっ、クマさん」
    こんなこともあるんだなぁと、その時は想った。

    小千谷にSさんを訪ねた時だった。
    小千谷蕎麦の名店「角屋」で待ち合わせをした。
    私が車を駐車場に止めて中に入ったら、驚いた。
    海老ケ瀬に住むKさんがそこで会計をしているところだった。
    「おっ、クマさん。どうしたん。」と、驚くこと驚くこと。
    山でずっとずっとご一緒させてもらいながら、最近はご無沙汰だった。
    新潟で会えないのに、小千谷の蕎麦屋さんで再会だった。

    先日の大学病院でのこと。
    私の診察を終えて、待合室のベンチの前を通ったとき、
    「あれっ」と見覚えのある人に出会った。
    「金熊さんらろ?」と、私が聞くと、
    「やっぱクマさんらったね。採血のときそうじゃねぇかなぁと想ったさ。」
    彼とは、沼垂の山小屋で30年前からお付き合いをしていた人だった。
    山岳会が違うので、山にはご一緒できなかったが、
    山小屋では、いっもご一緒で、よく山の話で盛り上がった。

    まさか、こんなところで・・・・。
    彼は山で突然具合が悪くなり、腎臓を患い、三分の二を摘出したそうだ。
    「糖尿病がね、おっかねんさ。」
    私は、またどこかで会いましょうと、彼と別れた。

    いつもいつも想うことがある。
    「これって、約束されていたことかもなぁ」と。
    ほんの数秒違った行動を取っていたら、
    私はこの人たちとは会うことはなかった。
    何かの計らいや意志が働かなかったら、こんな再会はあり得ないことだった。
    私は、そのたびごとに、その見えない手と意志とを感じてしまう。

    すると、人生の全てのことは、まさにこの通りなのだとも想って来る。
    「私が決めたことではなく、そうなるようになっていること」だと。

    偶然だなぁと想うことは、実は、必然なのではないだろうか。

    私が、父と母との子としてこの世に生まれ、
    私が、こうした人間としてここまで育ち、
    私が、どうにもならない道を歩き、
    私が、それでも多くの人の助けによって何とかここまで生きて来た。

    その歩みの中で、確かにほんの数秒そうではない行動を取っていたら、
    きっとそうは成らなかったことが数えきれないくらいあるはずだ。
    結婚し、こうして長男と次男が生まれ、ここに住んでいて、
    またまた昨夜は庭で爆睡をしたのも、
    やっぱり「そうあるべきよう」を私が生かされているからではないだろうか。

    そう想うと、何だかほっとするし、安堵する。
    それは、これからも何があろうとも、それは約束されているところへ、
    私のことを導いていくための困難と言う通過点だと想うからだ。
    「もうだめだ」と何度も何度も想い、絶望したこともある。
    しかし、そんな人生ではあるが、必然だったようにしてここに至っている。
    振り返ってみたら、罪深き者でありながら、それていかったんだと、
    そんな肯定感を感じたりする。
    それは、この年まで生きてみなければ分からなかったことかも知れない。

    ここで、究極の必然を話そう。
    スイスでの出来事だった。
    トップオブヨーロッパ、氷河の山頂展望台に私たち山賊の仲間が到着した。
    私たちは広大なる氷河とアルプスの山々の姿に感動の声を挙げた。
    そして、私たちは帰りの登山電車のチケットを買うために窓口に向かった。
    すると「キャッ」という喜びの悲鳴が聞こえた。
    何とそこには、別行動でヨーロッパを旅していた山賊の仲間であるOさん家族が、
    立っていたのだった。
    世界中の中でのたった一か所のチケット売り場で、
    私たちは、再会できたのだ。

    これは、やっぱり必然だと、私は今でも信じている。

    必然を信じる。
    それは、これからの人生を楽に生きる秘訣でもあった。

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  • from: クマドンさん

    2016年06月22日 05時58分21秒

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    「ごめんなさい」

    昨日の夜7時頃だっただろうか。
    ベランダに洗濯物を干していたら、電話がかかって来た。
    N病院の医師からだった。
    「入院と手術の日が決まりましたのでお知らせします」だった。
    いよいよ来た。決定だ。

    「12日に入院です。手術は14日になります。」
    「そうですか、ありがとうございます。よろしくお願いします。」
    私は決まったことにほっとしながら、あの恐怖が蘇って来た。
    恐怖というほどではないが、怖れとでも言うのだろうか、
    あの術後の苦しみと痛みと不眠とがまたやって来る。
    それでけでも怖気づいてしまう。

    しかし、私の手術は、裂けて繋がっていない腹膜を縫合する手術だ。
    癌が見つかり、それを摘出する大手術とは違う。
    しかし、やっぱり全身麻酔で眠り、腹をメスで真っ直ぐに切られる。
    今は、その傷跡が痛々しく、おかしな具合に両方に伸びている。
    こんな悲惨なお腹をしている人に、私は温泉でも会ったことはない。
    それが、私の宿命なのだと、今では何も思わず諦めている。

    しかし、二回の手術、二回の失敗。
    私は、この私の体験から、
    人のやることは失敗と成功とは半々なのだと想うようになった。
    しょせん、人のやることだからだ。
    だからこそ、失敗を想定しながら、何事も慎重に誠意を込めて当たらねばならない。
    「私、絶対に失敗しませんから」の大門道子は、やっぱりドラマの人だ。
    失敗しようと想って手術する医師は一人も居ない。
    みんな患者のことを想い、必死にになって病気と向かい、執刀してくれる。

    でも、失敗することはある。
    傷が治っても、その人の人生がこのことでおかしくなってしまったら、
    それは、失敗なのだと私は想う。
    その人が、少しでも以前の生活に戻れたとき、
    初めてその手術は成功したのだと言えると、ある医師が語っていた。
    その言葉こそ、患者の立場からはありがたい言葉だ。
    その処置によって、その人のその後の人生は決まる。

    そして、もしも、もしも、私のように千分の1%の確率で失敗が起こったなら、
    やっぱり人として「ごめんなさい」は、言うべきだとも想っている。
    「ごめんなさい」を言ってしまうと、医療裁判で不利になる。
    絶対に自分の否を認めない。
    失敗しても、謝らなくていい。
    だから、私のような失敗は世の中に出ないまま、
    繰り返されているのではないだろうか。

    つまり、誰にでも失敗はある。
    誰も失敗しようと想って何かをする者はいない。
    特に人の命とその人の人生がかかっているならなおさらだ。
    そのことを想い、何百人の内の一人の患者としてではなく、
    その人として向き合い、誠実に真摯に対応するなら、
    きっとその医師は、「ごめんなさい」と言ってくれる人だと私は想っている。

    原発も同じだ。
    失敗したのに「ごめんなさい」を誰も言わない体質。
    「ごめんなさい」と言ったら、負けるとばかりに損得だけで考えている組織。
    その人の命とその人の人生を守るのではなく、
    組織と自分の地位を守るために、「ごめんなさい」を絶対に言わない。

    だから、過ちと失敗とはこの国では繰り返される。
    しかし、それを行った当事者の謝罪がないために、
    その責任はうやむやにされ、いつしか時間の流れの中でその声は消えて行く。
    そして、当事者は、その時間によって追究が弱まることを待っている。

    私は、未だに「ごめんなさい」を言ってもらっていない。
    福島の人たちも「ごめんなさい」を言ってもらっていない。

    こう書いてみて、何だか今、分かったことがある。
    「ごめんなさい」を言われていない人は、
    きっとその苦しみから癒されることは一生ないのではないだろうかと。
    自分をこんな酷い目に合わせた相手が、
    心から謝罪する姿失くして、本当の赦しと癒しとはないのだった。

    それでは、私はそうして「ごめんなさい」を言って来たか・・・・・。
    「ごめんなさい」は、本当は、私の言うべき言葉だった。

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  • from: クマドンさん

    2016年06月21日 05時28分52秒

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    庭には在る

    さてさて、花たちに教えられることが多い日々を過ごしている。
    夕方、庭に出て、ぼーっとしている。
    この庭がここにあってよかったなぁと、そんなことを感じた。
    それまでは、そんなに深くこの庭のありがたさを感じてはいなかった。
    父の庭だった。
    父がいつもいつも落ち葉一つないように掃き清めた庭だった。
    花は植えられていなかった。
    日本庭園のようなそんな庭を父はこさえていたように感ずる。

    今は野趣に溢れ、自然のままにぼうぼうとしている。
    それでも手を入れ、花や樹木に聴きながら、鋏を入れる。
    「切ることは、育てること。」
    それは、この花たちから教えられたことだった。
    そう考えると、縄文の昔から、人は身近なる自然から、
    きっと生き方の多くを学んだのではないかと、そう想えるようになってきた。

    半分近くの丈に切り込んだ茎の先から、花芽がやっぱり出て来た。
    それは、花そのものに生きる使命があるからだろう。
    小さな薄緑色した花芽は、しっかりと茎の先に育っていた。
    「蘇り」の力だった。

    遅く撒いてしまったヒマワリとコスモスも、プランタで発芽した。
    種は種のままでは、いつまでも発芽しないが、
    土に埋められ、水をもらい、適度な温度となると、自分の殻がはじける。
    種を割っても双葉や根っこはどこにもないが、
    やっぱり植えられると、芽を出して生きようとする。
    これも自然のいのちの使命としての「蘇り」なのだと想う。

    私たちも同じで、一度人生のどこかで死ななければ、
    自然としての私と言う人のもって生まれた使命が果たせないのかもしれない。
    人が、人のまま、人として生きている間は、
    きっとその「蘇り」に至らないだろう。
    「蘇り」とは、その言葉の意味の通り、一度死んだ命だけに許されているからだ。
    「死ぬことは、生きること」なのかもしれない。

    苦難や試練を経て、蘇った先人の言葉に救われることが多い。
    その人は、もしあの苦難や試練が無かったら、
    きっとその人としての言葉の花を咲かすことはなかったはずだ。
    イエスには、十字架があった。
    だからこそ、「私は蘇りであり、命である」と言える。

    私は、あの臨港病院の手術の失敗で、一度は死んだ身体だった。
    本当にそのままでは命そのものが危ういと想われ、
    緊急に新大病院に救急車で運ばれた。
    そして裸になって処置されながら、
    「これから緊急に手術しますね」と、医師から言われた。
    運命とは不思議なもので、今は二度目の手術の時を待つ身でもある。

    しかし、私は、全てを受け入れ、感謝すらしている。
    それは、私の命の力そのものを、私が信じているからでもあった。
    実は、人は、自然なのだ。
    この花や樹木、野菜たちと同じ、自然の命として生かされている存在だ。
    ということは、この庭で起こっていることは、私にも起こる。
    この庭で起こらないことは、私には起こらない。
    それだけのこと。

    七月の二度目の開腹手術を想うと、怖くなる。
    でも、それは私と言う人が通らなければならない道であるならば、
    それは、私の使命として与えられ、恵まれた道なのだと想っている。

    案外、庭に全ての真理は存在し、明らかなのではないだろうか。

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