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親父たちよ

親父たちよ>掲示板

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  • from: クマさんさん

    2014年03月30日 09時20分29秒

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    走れないときは

    こうして長い間この掲示板を書けない時は、何かあるときだ。
    今回は、本当に体調が悪かった。
    身体が辛くて、朝起きられなくなってしまったからだ。
    これはやっぱりアルコールのせいであるらしい。
    減量もストップして、リバンドの日々が続いている。
    気を許すとやっぱりこのていたらくだ。

    いつもいつもその年のその日は、自分にとっては初めての経験になる。
    56歳と8ヶ月のこの心と体とも、初めての出会いだった。
    やっぱり感ずることは、劣ってきている。弱ってきていることだった。
    あれだけ、マラソンに向けて月間100km走っていた時代が懐かしく感ずる。
    常に何かに自分を燃え立たせ、立ち向かっていた時代もあった。
    劇団を離れてすでに一年になるが、
    あの市民劇団を立ち上げる時の情熱は何だったのだろうか。

    猪突猛進に突っ走る傾向があり、自分の力以上に突っ走るから、
    途中でバタンと倒れてしまうこと度々の私だった。
    そんな私が、この一年間とてもとてもおとなしく、静かに生きている。
    それは、自分を立ち向かわせる対象と出会っていないこともあるが、
    やっぱり年をとったということでもあるようだ。

    燃え尽きたというのではない。
    まだまだこれからが人生のもうひと花とも思っている。
    しかし、その相手は求めてはいても、出会うまでには時間と機会とが必要なようだ。
    それなりにいろいろとあった一年間だった。
    今は、そのことを振り返って、その意味を確かめる時なのかもしれない。

    走れないときは、歩けばいい。
    歩けないときは、たそがれればいい。
    そして、身体の健康を第一にして、しっかり休めばいいのだと、今は思っている。


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  • from: クマさんさん

    2014年03月25日 05時41分47秒

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    私の課題を

    何だか自分とは関係なく、私のことが決められていく。
    そんなものなのかもしれないが、時々腹の立つこともある。
    決められていても、それは私ではないのに、
    あたかも私がそうであるように勝手に決めつけられ、決められる。
    言っても無駄だから、諦めている。

    そういう意味では、年をとるということはいいことだった。
    「課題の分離」ではないが、
    私の課題ではないことが多いということがよく分かった。
    私は、私が決められることを、今、ここでやればいいのだ。
    人は、勝手に、私に関係なく私のことを決め付ける。
    それは、私の課題ではない。

    私は、私が置かれた場所で、いかにして「他者貢献」するかなんだ。
    自分が先ではなく、自分を後にする。
    誰かのために、たとえ小さくても何かをする。
    その生き方にしか、幸福になるための道はない。

    だから、きっと私には分からないが、
    この場所でも、私に出来る何かがあると思っている。
    そう思えるようになったことは、やっぱり年をとったということだ。
    確かに欲がなくなった。
    それは、とてもとても私の強みでもあると感じている。

    今日は、どういうわけか佐渡ヶ島だ。

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  • from: クマさんさん

    2014年03月23日 09時19分56秒

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    独自の課題をもつ

    「嫌われる勇気」という本を読んでいる。
    アドラー心理学を元にした、生き方の本だ。
    青年と心理学者との対話形式で書かれている本だった。
    読みながら、私が自分の人生で感じたことが書かれてあった。
    Aさんには、ぜひ読んでもらいたい本だった。

    人は、人。
    自分は、自分。
    人の気持ちは変えられない。
    変えられるのは自分の気持ちだけだ。
    変えられるものと、変えられないものをはっきりと分離して考える。
    すると、迷いや悩みもスッキリするようだ。

    例えば、私はよく攻撃にさらされる。
    それは、きっと私がその人たちのように考えず、
    その人たちの配下に収まらないからだろう。
    また、私がその手の人たちを嫌いだと思っている気持ちを、
    見透かされてのことかもしれない。

    どうして私だけがこんなに攻撃を受けたり、否定されたりするのだろうか。
    本当にまともにこの言葉を受けて、辛く苦しんだ時もあった。
    しかし、この人たちの勝手な思いとは、私が変えられない思いなのだ。
    だからと言って、この人たちの思う通りに私が生きたら、
    私がこの世からいなくなってしまい、
    きっとそんな私を私自身が好きにならないだろうとも思った。

    悲しいことは、私が私でなくなることだし、
    私が私というあるがままを好きになれないことだった。
    だから、やめた。
    言いたい人たちには勝手に言わせておくことにした。
    その時、案外私が人の評価や私に対する想いを気にしていることが分かった。
    たかがしれている私なのに、そんなによく思われたがっていたのだろうか。

    だから、逆に考えたら、「お前はだめだ」と言われることは、
    私が私なりに信念をもって生きていることの証拠なのだと思っている。
    独りであることが大事だった。
    独りであることで、自分なりの独自な生き方が可能となるからだ。
    あるということは、その独自を実現するためなのでないだろうか。

    このことを「課題の分離」と呼んでいた。
    その課題はを解決するのは、私なのか他者なのか。
    その他者の課題に巻き込まれることなく、
    独自の課題のみを解決するための勇気をもつこと。
    そのことを、アドラーは教えていると言うのだった。

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  • from: クマさんさん

    2014年03月22日 10時04分41秒

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    吾と出会うことこそ

    今日の日報に若松英輔氏が「手紙」という題で、一文を載せていた。
    「書く事で、内から支えられているものに気づくことがある。」
    自分の想いを書くことは、自分を知ることである。
    そして、自分を内から支え、励まし、応援している自分自身の声を聴くことでもある。
    意味は違うとは思うが、私は書くことによって救われた経験を何度もっている。

    実は、Aさんにも書くことを勧めた。
    「書くことで、自分と出会えるよ。」
    Aさんにとってはわけのわからないことかもしれない。
    しかし、「手紙」のようにして、自分に向かって書くことは、
    言葉を通して自分自身を発見する有効な手段だった。

    ある意味では、私は私との対話をここでしている。
    二人が、独りぼっちになってから、
    なおさら、自分との対話が増えている気がする。
    語るのは、吾である。吾が言う。
    その吾とは、自分の中の自分なのだ。

    独りになると、その吾がずっとそこに居てくれたことにまた気づく。
    この吾との長い長い旅が、私の人生だった。
    その吾と、こうして独りぼっちになると再会できる。
    なぜなら、話し相手は、この吾しか居ないからだ。
    その吾は、深くて、大きくて、果てしもなく永遠と繋がる吾だ。
    どんなことがあろうとも、人は、けっして独りにはなれない。
    それが、絶望のどん底での私の発見だった。

    たとえ、友が居なくても、愛する人が去っていっても、この吾は存在し続ける。
    沈思黙考の孤独な中で、この吾だけは私から去らないことを信じている。
    どれだけ愛しても、人は去っていく。しかし、この吾は、私が死んでも吾である。
    書くこことは、この私の中に存在し、私を私であり続けさせようとする吾と、
    向き合うことなのかもしれない。
    言葉とは、その吾の表現なのだ。

    私がこの掲示板を10年間も書き続けてきたのは、
    私の中の吾がそうさせ、私を通して語りかけてきたからだ。
    そのことを、私は、Aさんにも分かってもらいたかった。
    そして、AさんにもAさんの中に存在している吾と出会って欲しかったからだ。

    吾という人になることを、「悟り」と呼ぶ。
    「自己を忘れることである。自己を忘れ、万法に証せられることを悟りと呼ぶ」道元
    自己を捨て、自己を忘れない限り、真面目なる吾と成りえないのだ。
    私の中に存在しながら、吾とはかくも遠く遥かなものなのだ。

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  • from: クマさんさん

    2014年03月21日 13時14分08秒

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    えーっ、私ですか

    さて、Aさんの話だ。プライベートな話であるので、フィクションとして加工して語る。
    小学校の1年生の頃から、突然学校に行けなくなってしまった。
    原因というほどの原因は思い当たらないが、
    掃除の反省会の時のことが心に残っている。
    何でもなく、ごくごくいつもの反省会だったのに、そこから学校へ行きづらくなった。

    休むことは、よくないことだと感じていた。
    やっぱり学校は行くべきなんだろうなぁと、迷った。
    でも、行けない自分がいた。
    休むとホッとするし、重たい気持ちが楽になった。
    朝、学校へ行かねばと想うだけで、何だか辛くなってしまう。
    休むと決めると、安心する。

    両親は、とても心配してくれた。
    特に母親は、どう言葉をかけてよいのか迷っているようだった。
    まず、Aさんの気持ちを尊重しようと、「休んでいいよ」と言ってくれた。
    それから、しばらくは深く深く悩みながらも、口には出さなかった。
    しかし、職場に行っても、家事をしていても、Aさんのことが頭から離れられない。

    それは、社会的で常識的な判断基準から、自由になれないためだった。
    Aさんの一番の理解者であろうとする。
    しかし、自分が甘やかせたら、Aさんの将来のためにはならないとも思う。
    どちらかに態度を決定すればよいのだが、親としての迷いは妥当だと思う。
    そのうちに、小学校を卒業することになり、中学校へ進級した。

    何かリセットするための心の変化を期待していたが、その変化は現れなかった。
    ただし、この数年間のAさんの心の葛藤と辛さとは、大人には想像できないものがあるだろう。
    昼夜逆転の生活。パソコンに向かうが、心の虚しさには変わりはなかった。
    母親は父親に相談を続ける。
    父親は、Aさんの味方になってやろうとは思っている。
    父親自身、ある意味精神的なボヘミャンでもあるからだ。
    ギターを弾き、大型バイクでのツーリングを趣味としている50代の男性だ。
    だから、なおさら黙っているし、妻の相談相手としては力不足な感じは否めない。

    Aさんには、とても素敵な愛すべきダンディーなおじいちゃんがいた。
    彼をこここまで何十キロも車で送ってくるのはおじいちゃんの役目だった。
    車の中での二人の会話は「生きるの話」だった。
    二人になると哲学的な話がごくごく自然に語り合われる。
    そして、父と母と自分との家族のことだった。
    その深い話を通して、Aさんはおじいちゃんを理解し、その生き方に共感していた。
    おじいちゃんも、Aさんの今を肯定して、指示・命令を出さずに、そのままにしてくれる。

    そして、今はどうも父と母とおじいちゃんとの繋ぎをつける役目が、
    Aさんのところに来ている感じをAさんはもっている。
    母も父もおじいちゃんも、人間的な「生きるの悩み」をそれぞれが抱えている。
    時には、Aさんのことを語り合いながら、
    お互いの関係性や生き方についての対話となることもある。
    Aさんは、家族の大人たちのある意味隠れた悩みの内容を知っている。
    そして、長男として心を痛めているのだった。

    母の気持ちも、父の気持ちも、おじいちゃんの気持ちもわかるんですよね。
    Aさんは、私にはそんことは語らないが、こんな気持ちでいるのだろうと感じた。
    「大事なことは、Aさんがこの三人の真ん中に立って、関係性や繋がりをつけることだね。」
    これは、私からのAさんへの課題でもあった。
    Aさんは、今は逆に家族から頼りにされている存在になっている。
    私は、そう思われた。
    そのことを、Aさんに私は語った。
    「Aさん、この家族の要は、Aさんかもしれないよ。」

    「えーっ、ぼくですか。」
    Aさんは、私の話したことに意外だなぁと戸惑いながら、まんざらでもない笑顔だった。

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  • from: クマさんさん

    2014年03月21日 12時15分13秒

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    彼岸の中日

    先ほど、80代の叔母二人が母の仏壇をお参りに来てくれた。
    ロウソクに火を灯し、線香に火をつけた。
    静かに頭をてれて、手を合わせて拝んでいる姿を横に座って見ていた。
    「いいものだ」と、感じた。
    この沈黙には、対話が感じられた。
    この世の人とあの世の人でありながら、
    たった今は、生きていたあの時のように対話していた。

    二人にとっては姉である母だ。
    きっと母は、二人の老いた妹たちのことを心配してくれているだろう。
    それを感ずるから、二人はお参りに来てくれる。
    仏壇が座敷に置かれたということは、我が家に仏様がいらっしゃることなのだ。
    この仏壇とチーンとは、この世とあの世とを一瞬に繋げる。
    いや、同じ水平線に佇ませてくれる。
    あっちとこっちとではない。

    ここに、私と母とが居て。叔母と母がいる。
    そんな感覚をこの仏壇のおかげで感じられるようになった。
    目に見えない世界だからこそ、存在する。
    その確信は、叔母たちと同様に私の中でも揺るがなくなった。

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  • from: クマさんさん

    2014年03月21日 09時48分41秒

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    出会いの縁は必然なり

    人は、縁だとつくづく思う。
    今まで出会った大事な人たちとは、
    やっぱり出会うべくして出会ったのだと思っている。
    出会った人たちには、お互いがお互いで何かの影響を与え合った人でもある。
    その人と出会わなかつたら、別の人生を生きていていたはずだ。
    そう思える人たちが、私にたくさん居る。

    その人たちとの出会いが、私の人生を導いていた。
    そう考えると、その縁の不思議さに何だか感謝、感謝、感謝だけだ。
    私という人は、その人たちとのかかわりの中で育てられた人だった。
    人とは、人と人との間に存在し、成長し、生きて行くものなのだ。
    「人間」とは、そんな意味もあるのだろう。

    願わくば、よく出会いをである。
    そして、これからもその出会いを必然的な縁と考え、
    大事、大事に生きたいものだった。

    そんな出会いの一つに、ある高校生や大学生のグループとの出会いがあった。
    その出会いの前に、あるカウンセラーとの出会いがあった。
    そこから、この出会いは自然に導き出されたものだった。

    私は、学校へ行かないという選択があってもいいと思っている。
    突然、話が変わってしまうが、学校だけが人生ではないと思うからだ。
    世の中はそんな甘いものではない。
    みんながそうしているのだから、学校には行かねばならないのだ。
    そう思い込まされて、当たり前のように学校へ行く。
    しかし、その集団やその教師に馴染めず、孤立して、寂しい想いをする人も多い。
    でも、我慢しなければならない。耐えなければならない。
    強い子にならなければ、負け組になってしまう。

    私は、そうは想わない。
    もし、そこへ行くのが辛く、苦しいのならば、一旦休めばいいんだ。
    心の元気がなくなり、心が傷ついているのなら、療養は必要だからだ。
    自分をぼろぼろにしてまでも行くところではない。
    たかが学校なんだ。
    不登校の子どもたちは、いろいろな事情と背景を抱えながら、生きている。
    それも相当の生きずらさを感じながら。
    そして、学校へ行けなくなってしまった自分を責めている。
    その結果、昼間外に出るわけにもいかず、自室や家に閉じこもってしまう。

    そして、時間が経てば経つほど、外に出るきっかけを失ってしまうのだった。
    その若者たちは、そんな痛みや苦しみを経験した人たちだった。
    現在も、その切なさの渦中にいる人もいた。
    そして、その苦難を経た後に、大学に通っている人や、就職している人もいる。
    遠く遥遥と親子でやってくる人も居る。
    ここが、我が家であり、ここが心の居場所なんだ。

    長々となってしまったが、その中の一人Aさんとの出会いについて語りたい。
    私は、このグループに参加してから、Aさんとは出会うべきして出会ったと感じていた。
    まだ18歳の男子である。
    それはそれは心の優しい、素敵な男だった。
    彼と語り合っていると、私の心が和んでいく。
    そんなAさんとの、出会いの話だ。

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  • from: クマさんさん

    2014年03月20日 06時29分26秒

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    昨日、父に会いに行った。
    部屋に入ると、父はいつもベッドの中だった。
    「来たよ」と声をかけると、うっすらと目を開ける。
    私だと確かめると、軽く右手を挙げる。
    会うたびに年をとり、遠くにいくような気がした。

    暗い部屋だった。電灯がつかなかった。
    父が手元のリモコンを押しながら電灯をつけようとした。
    それでもつかなかった。私のせいだった。
    私が入口のステッチを押してしまったからだった。
    「来て、何かいじるから、いつもこうだ」と、父はいつものように怒り出す。

    私がもらった賞状があった。
    「あれ、どうしてここに置くんだ。もって帰れ」と、また怒り出す。
    私が黙ってテレビを観ている背中に向かって、
    何やらブツブツと怒ってばかりだ。
    うるさいなぁ。かわいくないなぁ。

    それでも、父は私の来るのを待っているそうだ。
    どうして、優しく話ができないのだろうか。
    せめて黙っていてくれたら、もう少し長くここに居られるのに。
    しばらくしてから、私は立ち上がり、コートを着た。
    「また来るよ」と、父の細く弱々しい右手を握る。
    昨日は、いつもよりも冷たかった気がする。

    私が帰るときだけ、右手を挙げて「ありがと」と言う。
    「また来るよ」
    ほんの短い訪れだった。
    それでも、父はここで生きていてくれている。
    母は、チーンの音の彼方に行った。
    でも、母は違った姿で私の背中をいつもいつも心配そうに見守ってくれている。

    父は、きっと母に会いたのに違いないと、
    部屋の扉を閉めながら、いつも私は思っている。



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    2014年03月19日 06時16分41秒

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    待望こそ

    先のことを心配しても、何もならない。
    それは、まだ来ないことだからだ。
    もうだめだと思って悩むことも必要はなかった。
    だめだと思って動かないのではなく、
    少しでもできることをやればいい。

    この朝を、私は迎えることができた。
    膨大な仕事量だった。
    復帰してから二ヶ月と少し。
    それでも仕事は変わらない。
    先週の日曜日には途方にくれていた。
    無理だ。やれない。どうしたらいいんだ。と。

    ところが、その仕事に立ち向かってからは、予想外のことが度々起こった。
    試練の時にいつも出会う手助けだった。
    あれだけ難しいと感じていた会計の処理が、エクセルで5分で終わった。
    それは、驚きだった。

    また、周りの人たちの支援のおかげで、
    メインの仕事もいつの間にか形となり、終えることができた。
    特に、こんちくしょうと思っていたそのことに救われたのには驚いた。
    そうか、人生とは、私が思ったり、願ったりする形で現れるものではないんだなぁ。
    時には、その瞬間は「何で私ばかりが」と思う状況でも、
    それが、後から考えると、救いであったということもある。
    まさに、今回はそれを経験した。

    いつの間にか怒りが、深い感謝に変わっていた。

    そういうものだ。
    やっぱりそういうものだった。
    私の思いや願いを超え、それを裏切り、予想もつかなかった姿で登場するもの。
    それが人生というものだ。

    今日1日。

    今、ここで。

    淡々とただ1日だけを生き抜く。

    後は、どんな人生が現れてくれるのか、期待して待つことなんだな。

    絶望とは、私が勝手に望みを断つことだ。
    希望とは、私が勝手に決めないで、お任せするということだ。
    待望かもしれないな。
    望みをもって待ち続ける。
    そこに、絶対に絶望はありえないからだ。

    もうだめだとは、言わないことにしよう。
    いや、そう思ったとしても、この日のことを思い出すことにしよう。

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    2014年03月18日 05時48分20秒

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    独りだなぁ

    本当に独りを感ずる。
    でも、この独りからしか何かが始まらない。
    独りだから、何かを成そうとする。
    そんな独りでありたいと思う。

    人生とは、とてもシンプルなんだよ。
    本当にそうかもしれない。
    ただ今日1日をどう生き抜くかだ。
    そして、今日とは選択と決定の連続だ。
    今だってそうだ。
    これをこのまま書き続けるか、それとも止めるか。

    歩くとは、選ぶということだ。
    また、時には決意して、その道を行くことを決めるということだ。
    だから、独りに人生の生き方は委ねられている。
    ある目的があるならば、
    そのために求められることだけをすればよい。

    誰が決めるわけでもなく、
    あらゆることは自分の選択と決断にかかっているんだ。
    ただ、必ず助けはやってくる。
    独りであるからこそ、試練の中で光は現れる。
    それは本当だった。

    だから、後ろ向きになることはない。
    自分を必要以上に卑下することもない。
    あるがままの独りの自分を大事に育ててやればいいんだ。
    この自分を育てるのは、自分しかいない。

    そういう意味での独りなんだ。
    人は勝手なことを言ってばかりだ。
    私はそんな存在ではなくとも、
    私という人間性は決めつけられる。
    だから、独りであるべきだ。
    そんなつまらなさと愚かさとに巻き込まれないために。

    独りであることの勇気。
    それが自分を生きるということかもしれないな。

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