新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

新規登録(無料)

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

親父たちよ

親父たちよ>掲示板

公開 メンバー数:62人

チャットに入る

サークルに参加する

サークル内の発言を検索する

新しいトピックを立てる

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: クマドンさん

    2019年09月30日 05時37分14秒

    icon

    一元で生かされている魂の私なんだな

    さてさて、日曜日の朝、防災訓練の為に消防署前に集合だった。
    そしたら、我が家の向かいのHさんに言われた。
    「昨日、すごい声が聴こえたよ。ラグビーでしょう」だった。
    そうなんだな。
    私は夢中になるとその中に入り込み、
    我が家の部屋はそのままスタジアムと化してしまう。
    声援と歓喜は、並大抵のものではないようだ。
    私の声で、道路を挟んだ向かいのHさんは、
    アルビのシュートが分かると言うのだ。
    「ご迷惑をかけてごめんなさい」だったが、
    「いいよ、いいよ、いつものことだから」と、彼女は笑って堪えてくれた。

    小千谷のSさんとの話だった。
    彼は、前日に月のクレーターを望遠鏡で観て、
    翌日、朝日に包まれた瞬間、ぱっと「これでいかったんだ」と、気付いたそうだ。
    何も考えたり、悩んだりすることもなく、
    ただ、このまんまでいいんだと、自覚した。
    そしたら、すごく心も身体も軽くなり、
    すーっと自由に生かされている喜びを感じ、
    嬉しくて、嬉しくてたまらなくなったと話していた。

    「ああ、いいなぁ。私も、そんな日を迎えたいなぁ」と、羨ましくもなった。
    しかし、それは、きっと魂が求める本当の姿なんだと感じた。

    今、私は、あちらこちらに不義理をしている。
    あちらこちらから手を引き、身軽になろうと努力している。
    それはとやかく言われることがいやだからでもあるが、
    そうではないのではないかと、最近、思えるようになった。

    独りになる。
    そのことが、何だか心地よく、気持ちよくなったからではないかと思っている。
    みんなは、きっと独りは、寂しく、辛いなぁと思うのかもしれない。
    それは、そうなのだが、私は、みんなの中に居ることが、
    時々、辛くなってしまうことが多い。
    理屈だったり、世間だったり、みんながそうだからだったり、頭でっかちだったり、
    時には、それが偽善に感じられたり、見かけだけの嘘のように感ずることもある。

    その人たちとの意志の疎通を図らねばならないのだろうが、
    根本的に考え方や生き方が違う人たちと、
    一体何を語りあえば、心地よく、気持ちよくなると言うのだろうか。
    当たり障りの無い世間話か。本音を隠した建前の話か。
    または、一方的に語られる「俺が」の話を聴くだけか。
    何だか、そういう語り・対話に「意味」を感じなくなってしまったようなんだ。

    全てのことには、「意味」があった。
    自分の人生を振り返って見たら、みんな何かの役に立ち、「意味」があった。
    生きて来てよかった。歳をとってよかった。
    そのことに生きている間に、そのことに気付いてよかった。よかった。
    Sさんとは、そこで深く深く繋がっている。

    その魂のあるがままの話に、自他は存在しなくなる。
    一元の私。
    私は、一元の私であり、Sさんも一元の私。
    つまり、全てのものは、この一元の働きによって生み出されたものであるから、
    私も、Sさんも、同じ一元。それは、等しく。同じ私。
    そこに気付くと、一元を感じて生きている人とは、
    例え、初対面の人であろうとも、何かお互いの大事な一元を語り合える。
    そんな信頼感と安心感と、語り合える喜びを感じられる。
    それは、その人が、同じ一元の人だからだ。

    そして、万物は、全てこの一元の働きによってここに存在しているという真実。
    Sさんは、小千谷の自然を二本のストックをつき、四足歩行で巡り巡る。
    その時、目の当たりにする信濃川や山本山や田んぼや森の風景を目の当たりにする。
    今朝も、こうして朝焼けの訪れだ。
    Sさんは、今頃、田んぼのあぜ道をせっせと歩き続けているはずだ。
    そして、瞬間、瞬間に、魂が何かのきっかけで弾けて、輝くことを感じているはすだ。
    「そうか。そうだったんだ」
    「そうか、これでいかったんだな」
    それは、同じ一元から生まれ、滔々とした時間の流れを経て来た自然に、命に、
    彼が、感得させられ、どんとそのものに成りきる瞬間でもある。

    私たちの話は、理屈ではなく、説明でもなく、目に見えるものでもなかった。
    その一元でありつつ、お互いが感じたことを語り合うと、
    そこに深い深い共感が生まれる。
    その感じは、Sさんの感じと、私の感じと別物の感じではない。
    Sさんが私になり、私がSさんになる。
    全く同一・一元なのだから、そこにどんな違いがあると言うのかだ。

    万物斉同と言う。
    やっとそのことが分かった気がした。
    ならば、何も姑息に考え悩むことはない。
    自然の命があるがままで滔々と永遠に生かされるように、
    私の命もその一元から生まれ、育まれているのだから、
    ただ、全てを委ねて、お任せしておればそれでいいんだ。

    Sさんも、言っていた。
    「何もいらなくなったな。余計なものを欲しくはなくなったな」
    「今、ある。これでいいがな」
    Sさんには、小千谷の大自然が師として存在している。
    私には、この小さな庭が、その自然の師である。
    Sさんも、私もその自然と一元。

    自分の「自」は、自然の「自」だ。
    自然は、何も語らず、あるがままの泰然自若。だから、自ずから然りだ。
    私は、やっぱりその然りを忘れ、見失っていた。
    だから、余計な物ものを捨てながら、どこかを空っぽにしながら、
    その然りなんだを了解する。つまり、分かる。それで「自分」だ。

    個別であるが一つである。
    「魂」はたった一つだ。
    その一つから生まれた個である。
    だから、深く深くに還ると言うことは、
    個からその一元と言う普遍に還ることだ。
    そこは、落ち着く。気持ちいい。もうここからは出たくない。
    だから、独りで生きる。それが、いい。
    Sさんもそう思って、今もきっと、黙々と大自然の中を四足歩行だ。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2019年09月29日 06時26分05秒

    icon

    アイルランドに快勝だ

    ラグビーで日本がアイルランドに快勝だった。
    歓喜・歓喜・歓喜だ。
    超満員のスタンドの観客だけでなく、
    こうしてラグビー初心者のファンであるわたしまで、
    とにかくあの男たちの身体と身体とのぶつかりあい、せめぎ合いに、
    何だか魂を奪われたように夢中になっている。

    私は、基本的なルールしか知らない。
    私はアメラグはやったことがあるが、ラグビーはやったことはない。
    もし、高校にラグビー部があったら、やってみたかったかもしれないが、
    新潟市にいる私には、その機会はやはり少なかった。

    そんな私が、こんなにも無我夢中になって試合に没頭するのは何故なのか。
    それは、男たちのただただ前へ、前へと向かうその姿勢にあるようだ。
    あの楕円のボールを受けた者は、
    真っ直ぐ前に突進する。
    百キロを超える巨体が前に立ちはだかり、
    強烈なタックルを受ける。
    そして、倒される。しかし、ボールは後ろで味方に渡す。

    そのボールを受けた男は、また、突進する。
    また、タックルで倒される。
    それでも、そのボールを味方に渡す。
    時には、キックを上げて敵陣に単身飛び込んでいくこともある。
    相手の隙をぬって、ステップを刻み、ランで走り抜けることもある。
    瞬時に状況を判断し、意思の疎通をとり、連携して全員が動く。

    倒されたら、直ぐに起き上がり、ガードに入る。
    どんなに疲れ、身体が傷んでも、
    相手の突進は、自らの身体をはって止めねばならない。
    怪我と激痛との恐怖心はいつもある。
    それでも、アドネラリンを爆発させて、勇気をもって相手に向かう。

    闘いが始まれば、休むことはできない。
    ただ只管、只管、走る。ぶつかる。タックルする。
    転んでも、転んでも、また起き上がる。
    「苦しい時こそ力を出せる練習を積み重ねた」と、解説者の言葉だった。
    相当過酷な練習を選手たちは自らに課した。
    そして、それを苦しみに耐え、全うしたからの勝利だった。

    チャンスは、いつ訪れるか分からない。
    だから、その稀有なチャンスを期待しつつ、ボールを運ぶ。前に進む。
    私は、そうした彼らの闘う姿から、「勇気」をもらう。
    そうなんだ。
    闘う男たちの懸命で直向きな姿から、
    私は、生きて行く「勇気」をもらっているような気がする。

    人生を、ラグビーのように生きる。
    今は、どんどんいろいろなことからリタイアして、
    世間から後ろ指をさされつつも、
    いろいろなしがらみを捨てている私だが、
    この闘争心とでも言うのか、前に進む勇気とでも言うのか、
    そことは、捨ててはいないと自負をしている。

    向こうからやって来るものがある。
    きっと向こうから「これだ」と思える何かがいつか必ずやって来る。
    その日が来たら、躊躇なく、それを受ける。
    そんな日が、きっとこの残された人生の中でも来ると信じている。

    その時なんだな。私の真価を試される時は。
    「そんなこと、どうして私がしなくてはいけないのか」
    「もう歳だから、そのことは他の人にお願いしてください」
    「身体が続かないから、無理なので遠慮します」
    ではなく、そのことは、誰かがやるべきことなら、
    そして、誰も、そのことの成りてがないことなら、
    「お受けします」と、逃げずに、受けることだ。

    それが、本当の私にとっての「勇気」なのだと思っている。
    しかし、ある委員では、私が予定外のフルタイム勤務となり、
    なかなかその仕事を全うできず、無責任にも一期で終えることとなってしまった。
    このことは、本当に申し訳なく思っている。
    だから、私にはできないことや、やれないことからは、手を引いた。
    これ以上、ご迷惑はかけられないからだ。

    それでも、そうであっても、向こうからやって来る仕事は、
    やるべきだと、自分では思っている。
    他に適任の人が居れば、ぜひ、ひの人にその任についてもらいたい。
    「誰もやる人がいなくて困っている。何とかならないか」と頼まれてやったら、
    確かに、ぼろくそになってしまったが、
    それでも、誰かがやらねばならず、その成り手が居ないならば、
    繋ぎだけでもできるのではないかとは思っている。

    自分がそのボールを託されている間は、しっかりとそのボールを保持する。
    しかし、倒されたのなら、そのボールは確実に味方に渡す。
    そのボールを繋ぐ。
    その繋ぐことの勇気と使命感だな。
    それを言える私ではないが、やっぱり全日本の闘いを見て、鼓舞された。

    ラグビーは、人生だ。
    それは、倒されても、倒されても、また、立ち上がり突進する。
    その繰り返ししか、前に進む道はないからだ。
    どんだけ私も、世間の荒波に倒されたことか。
    それでも、今、ここに生きている。
    そうした、日々を生き抜くための勇気を、
    私は、闘う男たちの姿から学ばせてもらっている。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2019年09月28日 11時47分13秒

    icon

    コトバで生かされる

    コトバなんだなぁと、ヨガをしながら気付いた。
    私は、コトバで動かされている。
    私は、コトバに従い、コトバのままに動いている。
    つまり、コトバは私を動かす働きになっている。

    マスターが言う。「右の膝を曲げて、左の足を後ろに伸ばしましょう」
    私は、そうする。そう動く。
    マスターが言う。「仰向けになりましょう。両足を上に伸ばしましょう」
    私は、そうする。そう動く。
    気付いたら、私は、マスターの動きを真似るのではなく、
    マスターのコトバのままに動かされていた。
    私は、マスターを見てはいない。
    時には、目を閉じて身体との対話をしている。

    それなのに、私は、マスターの思い通りに動かされている。
    マスターが言う。「右足に左足を乗せましょう」
    私は、そうする。しかし、細かな部分で不明だったら、目を開ける。
    時には、隣の彼女の動きを見て、正しい動きを確認する。

    マスターは、そのイメージのままのポーズで静止する。
    それはそれはバランスのとれた美しすぎるポーズだった。
    私は、そのポーズを真似る。
    その時、マスターは言う。「足の裏で天井を支えるつもりでやりましょうと」
    私は、その気持ちになって、右足をぐっと天井に向けて伸ばす。
    マスターのコトバのままだ。

    身体は、コトバによって動かされている。
    マスターの言った通りに、自分の身体を動かしている。
    その時、無心だ。
    私のコトバで私の身体が動かされてはいないからだ。
    この全身は、この両手両足は、マスターのコトバによって動かされる。
    そのこと自体が、私を無心にし、時のたつのを忘れるほどに集中させる。

    私は、コトバによって動かされていた。

    それでは、コトバが動かせるのは身体だけなのか。
    いや、そうではないことに、私は、気付いた。
    私の生き方。私の心の在り方。人に対する接し方。話し方。かかわり方。
    そうした内面にあって目には決して見えないものも、
    コトバによって動かされている。

    私は、イエス様のコトバで生かされている。
    私は、賢治さんのコトバで生かされている。
    私は、親鸞のコトバで生かされている。
    私は、道元のコトバで生かされている。

    実は、私は、この生き方をコトバによって示され、教えられ、励まされて、
    今、ここまで生きて来たのではなかったのかという、気付きだった。
    身体がコトバで動かされているように、
    私の人生は、コトバの働きで培われ、育てられ、
    生かされているのではないだろうか。

    たまたま私は尊敬できる善きマスターを得た。
    たから、身体がコトバによって動かされ、日々、成長を遂げている。
    確かに62歳の身体なのだが、されど62歳の身体なんだな。
    インナーマッスルが鍛えられ、体幹がしっかりとしている。
    少々体重は多めだが、胸や肩、太腿の筋肉はしっかりと逞しい。
    これは、マスターの教えを忠実に守り、日々、実践しているからだ。

    その身体と同じことが、魂にも言える。
    私は、魂のマスターのコトバを信じ、かく生きようと心から願う者である。
    コトバがコトバとして私に語り掛けて来る事実を実感している。
    私のために、私だけに言われたコトバは、
    ヨガマスターのコトバと同じように、私を内から働かす。
    コトバの通りに生きようと思う。
    そうありたいと心から願う。
    すると、ヨガと同じように、無心に生きられる。

    他人の目を気にすることも、他人の評価を気にすることもなくなった。
    他人は他人。私は私。
    本当にいろいろなことを言って来る人たちがいるが、
    私は、仕方ないと諦めている。
    それよりも、そんなことよりも、このコトバに忠実に生きることだ。
    もうここからは、このコトバしかない。

    では、そのコトバは、今も、ここで、聴こえるのかと問われたら、
    ちゃんとここで、そのコトバは聴こえると、言える。
    そして、そのコトバは、
    消えたことも、なくなったことも、存在しなくなったこともない。
    ずっとずっとここに在り続け、これからもいつまでもいつまでも在り続ける。
    私は、そのコトバの中に生かされている独りの人だ。

    そのコトバの顕れでないものは一つもこの世には存在しないからだ。
    そして、私もそのコトバの顕れの1つに過ぎない。
    ただし、ヨガマスターのコトバのように、
    私は、まだまだ完成までには長い道程が必要な途上の人である。
    だから、日々、ヨガを修業する。その修業を自分自身に課している。
    そして、一歩一歩あのマスターの美しいポーズに近づく努力をしている。

    それと生き方とは同じことなんだ。
    内なる声・コトバを聴く。
    自分を捨てて、無心にならないと、そのコトバは、魂には響かない。
    そして、多くの試練によって、粉々に踏みつぶされ、どこにも居なくなった私。
    その瞬間に、人は、生きるの初心に還る。
    その時、コトバが聴こえる。
    「大丈夫」「信じなさい」「歩きなさい」「自分らしく」「まっすぐに」だな。
    後は、ヨガマスターのコトバなんだ。
    コトバのままに、ただそのコトバを信じて生きる。

    昨日のことは、思い煩わず、明日のことは、心配しないで。
    今、ここに、聴こえるコトバだけを信じて生きる。
    この先は、後は、信ずるマスターにお任せすればそれでいい。
    力を入れない。脱力する。

    心身脱力・脱力心身。
    私の計らいを無にする。
    全てを委ねる。信じて生きる。

    このシンプルな生き方こそ、マスターが教える生き方なんだな。
    そのコトバに忠実に生きる。
    そのコトバになる。
    そのコトバが私になる。
    私は、コトバだと言える生き方をする。

    ヨガをしながら、一気にここまでの覚醒だった。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2019年09月27日 05時52分11秒

    icon

    二番出汁の人となる

    毎日4~5時間の睡眠だった。
    これでは寝不足になめのは当たり前だ。
    早起きは習慣だから仕方ない。
    その分、早く眠ればいいのだが・・・。

    今週は二回、夕食を食べながら眠ってしまった。
    酒を飲み、ラグビーを観ていたはずなのに、
    気が付いたら11時だった。
    メガネが足元に堕ちていることがある。
    妻も長男も眠ってしまった。
    独りここでとりのこされた酔っぱらい親父かな。

    おかげで今朝は、1時間の寝坊だった。
    それでも、長男を起こし、この朝日だった。
    「朝日には、救われた。」なつの爺さんの泰樹さんの言葉だ。
    「なつは、その朝日を描いてくれた。」
    そうだった。夕日も好きだが、朝日もいいなぁ。
    子の言葉を聴き、あのアニメの朝日のシーンを観て、
    私も、この朝日に励まされて、生かされていることを知った。

    5時26分。長男が出勤する。頑張っているなぁとリスペクトだ。
    さっき起こされたばかりなのに。
    いつもは起きている人なのに。
    彼も身体の疲れがMaxになっているようだった。
    彼もきっとこの朝日に励まされて生かされている人だろう。

    「二番だし」の話があった。
    だいを二回とることで味はいっそう深まり、こくができる。
    「人生も二番だしだね」と、朝美さんが笑って言っていた。
    私は、「なつぞら」を観ながら、よく声を出して号泣している。
    ビールを飲みながら、独りで観ているからだけではなく、
    何だかこの脚本家の書く台詞が、
    私の奥深くの魂を震わせるからだと思っている。

    「私もそう想う」
    「生きるとはそうなんだ」と、
    私が忘れていても、魂はずっとそうであるその真実を、
    その台詞と言う言葉で表された時、
    はっとして、魂が動ずる。目覚める。歓喜する。

    そうなんだ。
    一番だしの人は、きっと頭で考える人で、人目を気にして生きている人だ。
    人から善く思われたい。人から褒められたい。認められたい。
    そのことを生きることの真ん中にしている人たちは、
    きっと一番だしの人たちだ。

    しかし、二番だしの人たちは、そこから一歩先に進む。
    いや、そこを脱して、まさにさなぎが蝶になるように、
    全く質的に違う者へと変身する人だ。
    一番だしの人は、自分中心の生き方の人。自力の人だ。

    二番だしの人は、どんどん自分が薄くなり、他力の人になる。
    その味の違いは、食べてみたらすぐに分かる。
    こくや、うまみや、味わいや、二番だしは染み入るように深い、深い。
    私が「美味しかったです」と言わずに、
    「深いね」と言って賛辞する味とは、やっぱり本当に深い味に対してだった。

    つまり、人も60歳を越えたなら、二番出汁の人にならねばならぬということだ。
    そのためには、一番出汁で満足をしてはならない。
    この一番出汁を基本として、全く違った深味のある味へと進化させることだ。
    その進化・成長を遂げた人だけ、
    二番出汁の人として、その生涯を全うできる人となる。

    なつたち兄弟姉妹は、幼い時に「浮浪児」となった。
    その時、既に独自の「二番出汁」への人生が始まっていた。
    その二番出汁とは、「干拓精神」のことだった。
    自分の人生は、自分の想いで切り拓いていく。
    まだ誰も歩いていないこの原野に自分だけの道を切り開く。
    そのことを自分の生き方と決めたなつたちは、
    ずいぶん深い深い味の二番出汁になった。

    北海道に移住して、開拓を志した友がいる。
    私は、いつもこの友となつとが重なって見える。
    彼女もきっとなつと同じように自分だけの道を切り拓こうと奮闘努力中だ。
    今、この新潟での生活を捨てて、その地に移住した。
    一番出汁をベースに、今は独自の二番出汁を熟成している。

    私は、なつや、泰樹さんや、天洋さんたちに感ずるように、
    その彼女の開拓精神を応援したいと思っている。
    「がんばれ、Hさん」と、なつの父親のような気持ちでいる。

    私は、ここで、二番出汁の人になる。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2019年09月26日 05時31分03秒

    icon

    善く変わるために

    さてさて、どんだけ寒くなってしまったことか。
    短パン・半袖が当たり前の私。
    さすがに夕方は寒さを感ずる季節となってしまった。
    いつも季節のことを想うと、ほっとすることがある。
    それは、「今」は、いつまでも続かないということだ。

    ある日、突然、寒さの朝になるのではない。
    いつのまにか、知らすし知らずに、ゆっくりと、ひそやかに、
    その変化は、日々、刻々と起こされていたという事実だ。
    つまり、「変わらない」ものなど、何も無いと言うこと。
    どんなに辛く、悲しく、死にたいと思うくらい絶望しても、
    それはそれ。
    その時、本当に死んでしまったら、きっと後悔するだろうという気付き。

    何故なら、全てのものは変わるということ。
    きっとこの季節のように、日々、刻々と、その状況は変化する。
    いや、変化することが、在ることの真実なんだ。
    だから、わざわざそこで立ち止まらない。

    そんな辛く、切なく、どうにもならない暗闇で立ち尽さない。
    きっと、もう駄目だと嘆いているのは、本人だけで、
    その切羽詰まった状況も、いつか振り返ったら、
    「ああ、あんなことも、あったな」だと、私は、そうだった。

    だから、「無常」であることは、「生きる」ことの救いでもある。
    「変わる」という本質がありながら、
    「変わる」ことを恐れ、「変わらぬ」ことを願い、祈っている。

    どのような状況が、その人の幸福なのかは、人それぞれだろうが、
    そのことは、いつまでもそのままに続かない。
    そのままで居たいと願っていても、そうはならないのが人生なんだな。

    そのことを、私は、いつも季節と花や樹木や生き物たちに教えられる。
    この美しく静謐で神秘的な朝焼けも、あと数分で青い空に変わる。
    「変わる」こと。いつまでも「続かない」こと。
    そこに立つこと。

    そして、その流れや変化の中にあっても、
    いつまでも変わらないことを信じて生き続ける。
    その一つであり、みんな同じであり、全部であるもの。
    そのままに、そのこととして生かされ、感謝する。
    その想いは、きっと死んでも「変わらない」のだと、
    やっと想えるようになった。

    人は、歳をとらねば分からないものだ。
    50代は、まだまだだったな。
    歳をとることで、この朝焼けと同じように、その輝きの色が深くなる。
    やっぱり「深い人」になることが、
    こうして人として生かされている私にとっての使命なのではないだろうか・
    では、どうやって、深い人になるのか。

    その「問い」は、深く深くの私からの私への問いとして、いつも、いつまでも、
    問われ続けている問いである。

    体重がMaxだった。
    81.4㎏。とうとう、見てはいけない数字を見てしまった。残念。
    日々の食事と酒のおかげだ。
    今、ここが、踏ん張りどころと、昨日は、東区総合スポーツセンターだった。
    くたくたに疲れて帰るのに、ランニングコースで4㎞のジョグとウォークだ。
    目標のトレーニング時間は、1時間半。
    その間に、ジムではメニューを考え、決定して、自分自身を追い込んでいく。
    不思議なんだが、トレーニングをすると、身体も心も蘇る。
    「今に見て色いろ」と、心の決意だ。

    北区文化会館の「歌の祭典」に今年こそは、出演しようと願っている。
    昨年度は、あまりの日々の疲労感で、北区までの運転を難儀と感じて、
    参加しますと言いながら、練習には全く参加できなかった体たらくだった。
    だから、今年は、どんなに辛く、難儀でも、まず、行くことを自分に課した。
    こうした目標は、意識して自分自身に課すことなんだな。
    そしたら、どうやってその課題を解決するか、
    具体的な行動であり、実践でしかない。
    「やらねば」「できない」「当たり前」

    練習は午後7時半から9時半まで。
    それから車で東区大山の我が家に帰宅すると10時近くになっている。
    缶ビール一本飲んで10時半過ぎには床に入る。
    目覚めるのは3時半だ。
    それから、1時間の読書。そして、メールチェック。そして、「親父たちよ」だ。

    もし、この生活を続けることができるのなら、
    きっと、私もある意味「変わる」と思っている。
    しかし、その変わるは、マイナスではないだろう。
    きっと、「成長」と呼ばれる変わり方を、遂げるのではないかと期待している。

    善く変わるためには、日々の努力と鍛錬だ。
    そんな日々が許される健康な身体でありたいと、いつも願ってもいる。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2019年09月25日 05時42分20秒

    icon

    土の中の彼岸花

    さてさて、寒くなったものだ。
    いつでも短パン半袖Tシャツの私にも、夕方からの寒さは応える。
    季節はやっぱり変わっているなぁ。
    ところが、我が家のプランタに植えられたあの彼岸花が、
    今年は、お彼岸になってもまだちっちゃな芽のままだった。
    どうしたことか。
    いつもの年には、本当にお彼岸の日に満開となるはずなのに。
    今年は、その時期を逸してもまだ背丈も伸びない。
    こんなこともあるも、自然のありようかな。

    何だか、深く深くで沈んだままのような気がする。
    深く深くは、他者としての大人とのかかわりが少ない場所だ。
    面倒な説明や、解説が必要な立場には、
    極力ならないように気をつけている。

    人を嫌っているわけではなく。
    人を自分から裂けているのではないが、
    何となく「そうかなぁ」と思う話には付き合えないような気がするだけだ。

    話したいことは、「生きるの意味」かな。
    そのことをごくごく自然に、「そうだなぁ」「そうですよね」と、語り合える。
    それなら、話したいなぁと、私は思う。

    ところが、他愛ない、当てもない、確かに「そうなんだ」けど、
    でも、そこではないなという話には、
    何だか付き合えないような気がしている。
    偏屈な親父になってしまったものだと、自分でも笑えるが、
    どうでもいいような話をするくらいなら、
    独りで居た方が幸せだと、今は、感じている。

    だから、行かねばならない義務の会からは、脱退をさせてもらった。
    それでも、名簿には名前が載せられてある。
    年間会費500円なら、まぁいいかと、500円だけは払っている。
    その会の定期的な飲み会には一切参加しない。
    かっては、その会で会うことを楽しみにしていたKさんは、
    今は、とっくに鬼籍の人になっている。
    「会いたい人」が居なければ、わざわざ高いお金を払って参加することはない。
    そうした「忖度しない自由」を、私は得ることができた。

    「ああ、そう思うんだな」「そうだよな。仕方ないよな」と、思うことがある。
    人はみんな違っているようでありながら、
    どこかで同じような既成の考えや、世間的な生き方に、
    いつのまにか縛られ、それだけを信じて生きているようなところがあるようだ。

    「きっとみんなもそう感じるだろう」
    「こう考えるのは私だけでない」
    その「みんな」の1人である「みんな」が語る。
    そこには、深く深く共感したり、あっという発見があったり、
    そうかそうだったんだという、気付きを感ずることは少なかった。
    それは、本当の自分を語っていないからだと、
    最近は感じている。

    人とは、人になるためにこの世に生まれて来たと私は思う。
    人として在るから、それでいいと思うような人ではなく、
    本当の自分の生き方とは何かという「問い」を持ち続け、
    問い続け、体験や経験を通して学び、その学んだコトバを実践的に生きる。
    何だかそのことが、人として生きることの意味なんだと、
    今は、思っている。

    生きるのは、私、独りだ。
    その独りである私が、今、ここで、どう生きているのか。
    善く生きているのか。
    真実を生きているのか。
    美しく生きているのか。
    深く深く独りで生きるとは、
    そのことを問いつつ、そうやって生きることを目指し、
    そうした目には見えないがここに在るものの顕れとして、
    今、ここに、生きる。

    それは、意識しないでもいいし、
    昔のお年寄りの中には、
    自然にそうやって生活していた人たちも多くいた。

    何だか自分でも語りながら、明確でなくもどかしいのだが、
    そうやって生きている人が、1人でも多くなることが、
    みんなの幸せのために少しだけでも役にたつのではないのか、
    そんな話なんだ。

    歳をとればとるほど、
    「俺が、俺が」の人が多くなる。
    自分のやってきたことを誇りに思い、自慢する。
    そして、人のことを低く見下し、馬鹿にする。批判する。中傷する。
    みんな自分が一番かわいく、愛おしいことはよく分かる。
    でも、70年、80年、人として生かされて来た結果がそれで、
    本当にそれでいいのだろうかの「問い」でもあった。

    私は、だんだん黙るようになった。
    私は、だんだんいろいろなものから離れるようになった。
    退職してから1年半だ。
    今は、自分が気持ちよい人とだけ会うようになった。
    義務や義理やしがらみで、会わねばならないことから足を洗った。
    そのことで、また「あいつは・・・」と言われていることもよく感ずる。

    何だか、そうである人の中に居るより。
    内なる自分自身と向かい合い、
    こうして対話することの方を優先し、それを幸せと感ずるようになった。
    私は、私。他人は、他人なんだ。

    ところが、こうした独りの生活の時間を増やせば増やすほど、
    聖書の御言葉が、リアルに感じられるようになってきた。
    奇跡は、ある。
    それは、私のことを振り返ると、そのことは真実であると、ただ思う。
    私を通して、そのことはリアルと感ずる。
    それは、信じようとすることでもなく、「アーメン」と言うだけ。
    そのことのある無しを説明したり、証明したりすることもない。
    「在る」のだから、ただそれだけでいい。

    賢治さんの世界もそうだ。
    その世界を異界とと言う人がいる。
    でも、ここが異界なんだと、私は思う。
    私は二人の童子のことをリアルに感じた。
    ああ、かく生きたいものだと、心で願った。
    しかし、周りの人たちは、分かったような言葉で、二人のことすら語らない。
    語るのは、自分のことだけ。

    まとまりのない話になったが、今は、きっと私は、ここに居るのだと感じている。
    あの彼岸花が、今年は深く深く土の中で沈潜しているように。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2019年09月24日 05時33分39秒

    icon

    身体を動かすことから始める

    身体を動かす。
    そのことを第一に始める。
    台風の影響で、風が強い朝だった。
    前から気になっていたプランタの花の整理をしたかった。
    三日目の休日は、どこにも行かない、ここに居る。
    妻はまた川崎の次男のアパートだ。
    ご飯を炊いて、朝食を自分で作り、さっそく始めた。

    一つ一つのプランタの花たちを剪定する。
    雑草を抜き、寄せ植えにする。
    花がなくなったプランタの土を耕す。
    手でもむ。もぞもぞと固まった土を柔らかくする。
    そのもにょもにょ感が気持ちよかった。
    土を触る。土を感ずる。これも庭仕事の楽しみのひとつだ。

    次に野菜を育てていた大型のプランタに土を入れる。
    その時、赤玉土の上に培養土を入れ、腐葉土を重ねる。
    この隠れて目には見えないが、
    土の中の栄養分がとてもとても花の成長には大事になっていく。
    その土が、どれだけ柔らかな土であるか。
    その土が、どれだけ酸素を含んだ土であるか。
    その土が、どれだけの養分を含んだ土であるか。

    花は、その育てられる環境によって、生育に大きな違いが顕れる。
    その花の色や葉っぱの色や、
    その花の丈夫さや、力強さは、こうした環境によって左右される。

    それだけでない。
    元気な花たちに育てるためには、毎朝・毎夕の水やりだ。
    そうやって花たちに毎朝挨拶することで、
    花たちの微妙な変化を察知することができる。
    全ての花たちは、日々変化し、成長を続けている。
    継続しながら、次に続く。
    そのプロセスに何か障害や問題があると、
    そのことが、花の様子に顕れて来る。

    それを、察する。
    だから、毎朝、毎夕にこの庭に立ち、花たちを見つめる。
    その時、全体の花たちを見つめるだけでなく、
    個々の小さな花たち一つ一つをちゃんとしっかりと見つめることだ。

    花と言う存在は、無い。
    一つ一つの花は、在る。
    だから、そういう気持ちで、一つ一つに声をかけ、
    一つ一つに触ったり、見つめたりをする。
    それは、一つ一つと私が出会うこためには必要なこととなる。
    一つ一つを見過ごさない。
    一つ一つを大切に想う。
    そんな私の花への想いは、伝わっていると、感じている。

    その想いを感ずるから、花たちは喜び、独自の色をこの世で発する。

    だから、まだ何も植えられていない十数個のプランタの、
    この先がとてもとても楽しみだった。
    今年もどんな花たちとの出会いがあるかと心待ちにしている。

    その花は、他の人の他の庭で咲く花であったかもしれない。
    しかし、私と出会い、私の庭に連れられ、このプランタに植えられた。
    ということは、その花の命を預かった私には、
    その花を元気いっぱいに育てる責任があるということだ。
    その小さな命に対する責任を、
    愛情と言うのではないだろうか。

    愛は、命にに対する責任なんだ。

    午前中、実はフェン現象で蒸し暑かったようだ。
    全部のプランタの作業を終えたのが12時近くだった。
    実に3時間余りの作業だ。
    そしたら、へとへとにくたびれている私自身をそこに発見した。
    「動けない」「難儀だ」「どうにもならない」

    私は、さっそくカレーうどんを作り、休むことにした。
    しかし、その美しく整理されたプランタを観ると、
    何だか疲れを忘れて、充実した気分になる。

    だから、まず、何でもいい。身体を動かすことなんだ。
    身体を動かすと、必ず、結果が顕れる。
    その結果に満足すると、その日がきっと充実した一日なるものだ。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2019年09月23日 05時55分32秒

    icon

    双子の星の物語

    小千谷のSさんと、久しぶりの電話だった。
    82歳になるSさんは、益々元気になっていた。
    いつも新しいことに感動している。
    元気は、心のありようなんだと、いつも学ぶ。

    自分の住んでいる街の周りの自然の探訪だった。
    朝早く、田んぼにでかける。
    まだ夜が明けないうちに、水の音を聴きに行く。
    カエルを探す。風の通り道を歩き続ける。
    どこまでどこまでも歩きたくなる。
    そして、疲れたら水の音を聴きながらあぜ道で休む。
    じっと水の流れと向き合い。自分自身と向き合う。

    毎日の生活を、旅とする。
    その発想には、共感だ。
    いつものようにいつものものを見るから発見も気付きもない。
    そのいつもの場所やものに、何かの変化を感ずる。
    「あっ、そうか。そうだったんだ」という、感動。
    それは、私の小さな庭にもあちらこちらに溢れていた。
    みんな、そんな変化なんか気に求めずに素通りする。

    しかし、Sさんも、私も、立ち止まる。その場にしゃがむ、座る。
    そして、じっと見つめる。じっくりと味わう。
    すると、「あっ、そうか、そうだったんだ」を感ずる。
    そんな発見や気付きが、日々の日常の生活の中にたくさんある、ある。

    Sさんが言う。
    「時間がいくらあっても、足りねてば」だ。
    ここに居るだけで、こんなにも幸せに、豊かになれる。
    それは、私たちがやっと分かったこの感性にあった。
    「実感だね」と、Sさんは、しみじみと語る。
    私と、Sさんは、その実感を、実感だねで共有できる。
    不思議なんだが、私の実感は、Sさんの実感であり、
    Sさんの実感は、私の実感でもあった。

    きっと実感は、同じ一つなのではないだろうか。
    別々の疾患であったら、
    こんなにも深く深く共鳴し、共感することは難しいと感ずる。

    いつも二人で確認する。
    「この実感に気付いて、よかった、よかった」と。
    Sさんは、「クマさん、82歳でやっと気付いたて。遅すぎた」だったが、
    私は、そうは思わない。
    「Sさん、気付かないで亡くなる人が大部分だと思います」
    「生きている間に、この実感を、実感として味わえる幸せですよ」だった。

    そして、思った。
    この実感を味わっていない人には、
    不思議だなぁを実感として信ずることができないのだと。
    今、私は、その実感を味わったことの無い人たちに囲まれて生きている。
    つまり、この実感を言葉でなくとも共有できる人たちではない、
    その人たちの間に生かされている。
    そのことが、いろいろな試練を通して、明確になって来た。

    実感を味わった人か、そうでない人かの違いは、
    飛び越えることのできない全く異次元の違いでもあった。
    だから、その人たちとの出会いでは、語らない。説明しない。黙っている。
    どれだけ頑固に頭で考え、他人の言葉と自分の言葉をないまぜにして、
    強気でぐんぐん語る人には、会いたくはないし、直ぐ降参する。
    その私の立ち位置が、より明確になったということだった。

    「賢治の会」で、「双子の星」を朗読して、互いに語り合った。
    私は、この物語には、「悔い改め」と「魂の再生」が描かれている気がした。
    小さな海蛇が登場してから、物語の世界は一変した。
    チュンセ童子とポウセ童子の本当の姿が語られるからだ。
    「あなたがたはどうしたのですか。悪いことをなさって天から落とされたお方ではないように思われますが」

    「お前には善い事をしていた人の頭の上の後光が見えないのだ。悪い事をしたものなら頭の上に黒い影法師が口をあいているからすぐにわかる。お星さま方、こちらにおいで下さい。王の所へご案内申し上げましょう」

    「あなた方は、チュンセ童子とポウセ童子。よく存じて居ります。あなたがたが前にあの空の蠍の悪い心を命がけでお直しになった話はこちらにも伝わっています。私はその話をこちらの小学校の読本にも入れさせました。」王様の語り。

    「王様はこの私の唯一人の王でございます。遠いむかしから私めの先生でございます。私はあのお方の愚かなしもべでございます。いや、まだおわかりになりますまい。けれどやがておわかりでご゛いましよう。」

    その時赤い光のひとでが沢山出て来て叫びました。
    「さようなら、どうか空の王様によろしく。私どもがいつか許されますようおねがいいたします。」
    「きっとそう申し上げます。やがて空でまたお目にかかりましょう。」

    見るとあの大きな青白い光のほうきぼしはばらばらにわかれてしまって頭も尾も胸も別々にきちがいのような凄い声をあげガリガリ光って真っ黒な海の中に落ちて行きます。「あいつはなまこになりますよ」と竜巻がしずかに言いました。

    「海の王様が沢山の尊敬をお伝えして呉れと申されました。それから海の底のひとでがお慈悲をねがいました。またわたしどもから申し上げますがなまこももしできますならお許しを願いとう存じます。」

    そして、二人は銀笛をとりあげます。
    東の空かが黄金色になり、もう夜明けに間に合いません。

    さてさて、ここを語る人が居なかった。
    私も、そのことを語れなかった。
    それは、この二人の童子の実感をもっているか、どうかだったからだ。
    Sさんなら、この童子の優しさ、慈悲の心を味うことができるだろう。
    しかし、不思議だなぁを感じていない人たちにとっては、
    それは、ただの子どもたちに語る物語としてしかとらえない。
    そして、固い頭の常識的な大人の世間的な視点でしか解釈をしていない。
    だから、それはそうなんだが、本当はこうなんだと、
    私は、語る機会を失してしまった。

    と言うか、二人の童子を描いた賢治の心は、信仰そのものの心であった。
    それは、信仰をもつものにしか、理解できないものでもあった。
    この物語は真実の物語だ。
    この物語は私へ賢治さんが語りかけてくれる物語だ。
    「私」のこととして物語を味わわない限りは、
    この物語の命は、その人の命にはならないのだった。

    そんな違和感を、感ずることが多くなった。
    だから、稀有な生存者であるSさんと語ることが愉快なんだな、幸せなんだな。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2019年09月22日 06時48分00秒

    icon

    変わってもいい、変わらなくてもいい。

    我が家で独りだ。
    妻は、次男の川崎のアパートへ。
    長男は、何と中禅寺湖へ友達とキャンプに出掛けた。
    遺されたのは、親父独り。
    その親父も相当疲れを感じているらしい。
    それでも家でじっとしていられないので、出かけることにした。

    久しぶりの「あき乃」だった。
    お母さんに届ける花は、遠慮することにした。
    そうした心遣いが、お母さんには気が重いことになるからだ。
    まず蕎麦焼酎を飲む。そして、野菜天ぷらと蕎麦を食べる。
    季節は変わっても、ここの蕎麦の味は変わらない。
    この店とも、不思議な「縁」を感じている。

    ふらっと立ち寄ったら、コルトレーンだった。
    マイルスが流れ、チェットベーカーも聴けた。
    私は、ここでゆっくりと読書する時間が大好きだった。
    ご迷惑なこととは思うが、2時間余りも居たことがある。
    どこにも行かない。ここに居る。そんなゆったりとした気分をいつも味わった。
    小千谷に行かなくても、本場の小千谷蕎麦だった。
    蕎麦好きの私にとっては、本当にありがたいお店だった。

    しかし、ある日から、ゴスペルだったり、RBであったり、フィージョンになった。
    それはそれで楽しいのだが、蕎麦を食べて・・・。
    何だかとてもとても落ち着かないお店になってしまった。
    馴染みのお店とは、蕎麦を食べるだけの場所ではないような気がする。
    そのゆったりとした、心地よい時間を、
    その店に行くと、同時に味わえる場所のようなんだ。
    店主と話すと、ほっとする。他愛ない会話で盛り上がる。
    そっと、独りにさせてくれる。

    昨日は、カウンターで本を読めなかった。
    読んでもその内容が頭に入らない。
    するっと言葉が通り過ぎる。
    まずいなと、私は、席を立ち、荷物をまとめて、店を出た。
    たかが音楽、されど音楽だった。
    この店には年配の人も、お年寄りも常連としてやって来る。
    その人たちは、この音楽が変わったことを、どう感じているのだろう。

    変わることは、ある。
    変わることが、自然だ。
    しかし、何だか変わらないことがあるから、
    変わることも自然と受け入れられるのではないかと、感じた。
    そして、変わることを受け入れられない自分がいたら、
    その自分が変わるか、変わらずにそのまま去って行くかの、
    きっとどちらなのかなんだと、思っている。

    シンさんの店で、ある店のマスターに出会った。
    実に実に愉快な人で、本当に話が尽きない人だった。
    町内会で3時から公園で飲んでいたそうだ。
    私が出会ったのが6時半。
    それからシンさんのお店で、酒を飲む。

    いろいろな職業を経験した筋金入りの人だった。
    私は、不思議に彼のことを深く深くのリスペクトだった。
    それは、それだけのことをしていながら、全く威張らない、
    俺が、俺がを言わない人だからだ。
    そして、いつもユーモアたっぷりに自分の人生を語る。語る。笑いで語る。
    しかし、深く深くでは生き方・仕事に真摯にこだわっていながら、
    その事は、あの笑顔の陰にそっとしまわれている。
    なかなかの生き方上手な大先輩だ。

    彼と、会う度に話題が変わる。
    しかし、変わるのは話題だけ。
    そのことを話す彼は、全く変わらない彼だった。
    だから、きっと好きなんだなぁと、私は思う。

    変わるものは、変わればいい。
    しかし、その深く深くのその奥で、
    ちゃんと変わらない、確かでしぶとく変わらない何かが、欲しい。

    変わってがっかりしたことと、
    変わっても嬉しいなぁと思ったことと、
    そんなことのあった独りぼっちの親父であった。

    追伸:映画が面白くなくなった私。二本の映画に深い感動はなかった。
      一本の映画では、途中で帰りたくなってしまった。
      それは、私の感性の問題なのだろうか・・・・・。
      私の感性が、変わっていたりして・・・。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

  • from: クマドンさん

    2019年09月20日 05時40分29秒

    icon

    そういう人たち、こういう人たち。

    他者がいるから、私が分かる。
    違った人がここに居るから、私が観える。
    きっと私は、独りだったら、私と言う人を認知できないのではないか。
    そんなことが、ここ数年で、度々起きる。

    「どうしてあんなひどいことを言うのだろう」
    「どうして人のことを誹謗中傷する人がいるのだろう」
    「その人に対して、私は、何をしたわけでもないのに・・・」

    そんな思いになることが、あった。

    その時、はっと、思うことがある。
    私は、そんな人には絶対になりたくないなぁと、いうことだ。
    そして、そんな酷いことを絶対にしない人たちを私は知っている。
    他人のことを悪く言う人たちに、もはやかかわりになる気は全くなかった。
    どうせかかわりをもつのなら、
    やっぱり優しい人がいい。
    私も、そんな人になりたいと願うからだ。

    ある組織でのごたごたに巻き込まれている。
    何でこんなことがここで起きているのか。
    そんなことは起こるはずの無いことが、次々と起こっている。

    それは、自分たちの想いや願いだけを一方的に通したい人がいるためだった。
    それまでは、どっぷりとぬるま湯につかり切り、
    公私の区別も忘れ、公金や公のきまりを勝手に自己流に解釈をして、
    好き勝手にやってきた人たちだった。
    自分たちの想い通りにしている内は、まだよかったが、
    そこに、外部から全く新たな人がやって来た。
    その人のことも、自分たちの力でコントロールしようとした。

    しかし、その人は、良識が在り、誠実であり、真っ直ぐに生きている人だ。
    だから、その人を見たら、自分た、ちの思惑通りには動かない人だとよく分かる。
    そうすると、その人に対する度をその集団は一変させる。
    とにかく、その人がここに居られないように苛めにかかる。
    あることないことをいろいろな場所や機会で言いふらす。
    その新しく来た人のことを、よく知らないが関係する人に、
    その人を貶めるような嘘を言いふらす。
    すると、その嘘が誠に用になり、いつのまにかその人の評判は堕ちていく。

    そして、その人を追い出すために、徹底的に個人攻撃をする。
    ありもしないことをねたに、その人を責める。攻撃する。
    そのことを機会のある度に繰り返される。繰り返される。執拗に。
    外部からは白い目で見られ、
    内部の古くから居る人たちからは、集団で批難され、罵倒される。

    さてさて、こんな状況では、その人は、自分であり続けることができるだろうか。
    その人は、精神的に追い詰められ、疲弊する。
    いつもその攻撃の口調が心から去らず、
    いつもいつも責められているように感ずる。
    心が弱ると、なかなかもちこたえようとする力すら失われる。
    思考が進まない。いつも悪い方ばかり考える。
    孤立している自分をどうにもできないと感ずる。
    その無力感と絶望感とが、心をどんどん弱らせる。

    弱らせようとする集団は、そのことをよく知っている。
    だから、心理的に個人的な攻撃をさらに激化する。
    そして、あちらこちらに怪文書を送り、
    自分たちが正義であり、逆に、自分たちが被害者であるかのように文書を書き、
    何も事情を知らない人たちに事実とは全く異なる事実を、
    意図的にゆがめて伝える。

    さて、こうした孤立し、弱り果てたその人を、
    いったい私たちはどのようにして、支援し、救い出してやればよいのか。
    実際に、こうした悪意に満ちた、心無い人たちの一方的な言動で、
    深く深く心を傷つけている人たちは多くいる。
    また、自分がそうなりたくないばかりに、
    少しの後ろめたさを感じつつも、
    この加害者に加担して、その仲間の一人として、苛めに加わる人もいる。

    それでは、この集団は、どうしてこのような執拗な攻撃に出て来たのだろうか。
    それは、その人によって、自分たちがそれまでやってきた、
    隠された悪事の数々を暴かれたくないからだった。
    何も心に疚しいものがなければ、
    こんな苛めは起こるはずはないのだった。
    逆に、新たに自分たちのために派遣されて来たその人を歓迎し、
    みんなで力を合わせて、支えて行くはずなのだ。
    それができない、この人たちは。

    そのどうにもならない我儘な人たちを見るにつけて、
    「ああ、私は、あの仲間の1人でなくてよかったなぁ」と、思う。
    それまでは、集団の中で静かに、存在感も無く、ただの人として埋没していた私。
    その私が、独りそこで立ち上がってしまった。
    そして、同じ意志をもった人たちと団結して、
    その集団と対峙することになってしまった。

    きっと私は、「そうではない」と、思ったからだろう。

    私は、私のことを否定し、批難し、誹謗中傷する人を見る。
    私は、こうして集団で苛めを行っている人を見る。
    すると、私は、分かる。
    「ああ、私は、あの人とは違うな」と。
    「きっと私は、あの人たちと同じことはできないな」と。
    そこで、本当の私を初めて明確に認知するのだった。

    しかし、何も私が、真面目で、正義漢で、立派に生きている人だからではない。
    その反対だ。
    わたしほど、愚かで、どうにもならないいい加減で、罪深い男はいないと、
    私は、自分のことをそう思っている。
    煩悩であり、ただの凡夫だ。
    だから、私は、人のことなんぞ、
    恐ろしくてとやかく言うつもりがないだけなんだ。
    自分自身のことを深く深く見つめれば、
    どうして自分だけが正義で、あついは誹謗中傷されてもいい人なんだと、
    私には絶対に、そうは思えないから、やらないだけなんだな。

    そうやって、陰口や人の悪口を言っている人を知っている。
    こうやって、衆人の中で誹謗中傷を声高に行う人を知っている。
    その人たちは、自らを振り返って疚しいところが全くない人なのか。
    その「問い」は、こういう人たちを見る時、いつも感ずる。

    しょせん煩悩具足。どうにもならない自分で生きている。
    そんな私にとっては、このての人たちとは、
    これからの余生では絶対にかかわりたくはない。
    それだけは、言える。言える。
    その人たちの仲間に加わらず、その人たちから孤立させられて、それでもだ。

    私は、やっぱり、独りで生きる道を選ぶんだろうなぁと、思う。
    そう想える私を、こうした立場に立たされると、改めて認知させられる。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

もっと見る icon