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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2016年01月31日 09時03分41秒

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    お任せする

    世の中思い通りに行かないことばかりだ。
    それはそれで分かっているつもりだが、諦めが悪い男だとつくづく思う。
    平常心で一日静かに過ごしたいところだが、
    やっぱり自分自身の宿命や、家族とのかかわりの中で、
    いろいろと感情が波立つことが多い。
    まだまだ修行が足りないなぁと、そんな時は自分が情けない。

    でも、その情けない自分も自分なのだから、
    その弱さと脆さとを素直に見つめ、こうして暗いメッセージを書くことも、
    そんな自分に対しては赦そうと思っている。

    拉麺の大盛を食べたせいか、〇〇えびせんのせいか、3キロ余り太ってしまった。

    考え方の違いから一方的に攻められて、腹が立ってしまった。

    言い訳や説得はもっと感情を激する原因となるから黙っていることにした。

    お腹のヘルニアは、食事の後にぐっと膨らむ。

    腹筋が20センチくらい繋がっていないので、指をお腹の中に押し込むことができる。

    これは、縫った糸が切れたのか、縫うことを忘れていたのか。

    足の筋力が低下したため、30分も歩くと、立ち止まって休まねばならない。

    親の心子知らずだ。子どもは子どもの想いのままで生きている。

    願ったようにはならず。想ったようにもならない。

    本を読んで感動しても、すぐにその言葉を忘れる。

    私はこうしてもらいたい。人は、そうしてはくれず、へぇそうなのかばかりだった。

    人からはよく想われていない。人からの信頼は失われている。

    人の私に対する記憶や批判は、どうすることもできないものの1つだ。

    何も役に立たず、何も仕事をしないまま、もう2カ月余りもたってしまった。

    臨港病院の手術の失敗から、ヘルニアまで、こんな身体にどうしてなった。

    声をかけても返事はするが、話そうとしない子ども。

    そんなことがガーっと一気に私を襲った。
    考えても、今更悩んでも仕方ないことばかりだった。
    「ああすれば、こうなる」「あれがあるから、これがある」
    みんな何か大きな「縁」から生まれたもので、
    「因果応報」と言えば、確かにそれまでのものだった。

    それなのに、そんなことをうじうじと思い悩んでいるから、
    平常心を失い、心穏やかに生活できなくなっていた。
    忘れればいい。
    そんな過去にこだわらなくていい。
    原因を追究したり、どうして私がと嘆くから、
    こんなにざわついたまま、後悔したりして生きている。

    そんなどうにもならない自分を見つめる目としての私。
    その見つめている私とは、いったいどの私なんだろう。
    煩悩のどつぼにいて苦しみの業火に焼かれながらも、
    そうして焼かれている私をじっと見つめている目としての私は、
    いったい誰なのだろう。

    池田晶子さんの本を読んで、ふとその目としての私に気付いた。

    どんなにどん底に落ち込んでも、その落ち込んだ私を客観的に見つめる目。
    おいおいそろそろやめにしようよと、語りかける私という存在。
    私と言う愚かなるキャラクターとしての生存に対して、
    しっかりとリアルに教え諭す大人の私。

    私とは、あっちとこっちの揺れ動き、振り子のようなもののようだ。
    だから、つまらないことにくよくよと落ち込んでしまうこともある。
    なのに、それでいいんだよ。とか、あるがままだよ。とか、
    そんなちっぽけな私を慰めるようにして語りかけてくれる私もここに居る。

    そして、この混沌としたどちらともあり、どちらでもないような私は、
    私が生きているのではなくて、生かされているのだと実感している。

    それならば、そのまんまで浮かんでいたらいい。
    駄目でどうにもならない私もそのままにして、
    そうすればきっといつかはどこかの岸に流れつくだろう。

    どんなに辛く、苦しくても、「お任せ」することだけは、忘れないでいよう。
    悩んだ翌日の朝の結論がこれだった。

    サッカーアジアチャンピオンだ。
    前半韓国に0対2での折り返しに実は落胆してテレビを消そうかとしていた私。
    後半の逆転劇を諦めていた私。
    しかし、浅野がやってくれた。
    気付けば3対2での大逆転勝利。
    それも宿敵韓国だった。

    これがサッカーだ。これが人生だ。その真実を信じたい。
    今朝は、とてもとても寝不足な朝でもあった。
    サッカーの歴史に残る熱戦だった。やったぜ、ニッポン。

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  • from: クマドンさん

    2016年01月30日 21時26分54秒

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    だから、歩く

    今日は、少し暗いかも。
    朝からちよっとどこかでちぐはぐになったまま、
    1日中そんな気分を引っ張ってしまったようだ。

    人は、人、私は、私。
    なのにその人のことで、私がどうにもならない人のことで、
    何だかどうにもらないということで落ち込んでしまった。

    さざ波どころか、大波どんぶらこっこだったので、
    しばし自分を静かに戻すために散歩に出ることにした。
    こんな時は、ここにと止まっていてはいつまでも気持ちは静まらないものだ。
    静かに、落ち着いて、何かを考えるためには、
    その心の揺らぎを沈めるために、歩くことだと思っている。

    感情が揺らいでいる時は、語らないことだ。
    語ることで時には怒りが増幅したり、
    もっともっと語ってしまい、自虐的に落ち込んでしまったりもするものだからだ。

    どうにもならない哀れな自分を感じたら、
    まずその場から自ら離れよう。
    今はこうであろうとも、きっとよき道、新たな気付きと出会えるはずだ。
    そう信じて、まずはこのまずい空気感を変えてみる。

    こんな時は、私は黙ろう。
    深呼吸をして、感情が激することをよしとしないで。
    感情に任せない。感情に支配されない。感情に乱されない。
    そのためには、沸騰しそうな自分を、どこかで冷まそう。
    一番いいのは、その場を離れることだ。
    まず、その場で5秒間、何も語らず、沈黙の中で、呼吸の数を数える。
    その後、静かに、何も語らずに、その場から消えて行く。

    私は、晴れ間をみて、旅に出た。
    久しぶりに雪のじゅんさい池まで行こうと思って、首にマフラーを巻いた。
    本当に思い通りに行かないことばかりだった。
    そんなことは自明なことなのに、どうしてそんなちっぽけなことに腹を立てるのか。
    そして、腹を立てている自分が赦せず、情けなく、
    これ以上ちっぽけな自分の墓穴を掘らないために、その場からの逃避だった。
    それが、私の傷心の旅。

    今日、初めての道に踏み入ったら、龍神の神社と出会えた。
    ここから見下ろす、西池が雪の中で美しかった。
    裸の樹々に、水面では、降った雪が淡い白い氷になって池いっぱいに浮かんでいた。
    冷たい気がここには満ち、その気を胸いっぱいに吸い込むたびに、
    この水面のように、あれだけ波立っていた心も、いつの間にか静かになってきた。

    どうにもならないのですて。

    そう思いながら、まだまだちっぽけだねぇと、自分に語りかけていた。
    本当にどうしてこうちっぽけなのかと、自分のことを愛おしくも感じた。
    11時半に家を出て、13時には家に帰ろうと、コースを決めた。
    歩くことは、気付くことであり、考えることであり、分かることだ。
    本を読んでもどうにもならないものである。
    だから、今は、歩きながら、体験を経験へと昇華させるつもりで歩く。

    経験とは、分かることであり、了解することだと、池田晶子さん。
    私は、不条理で理不尽なことを体験しながらも、
    その一つ一つに感情を波立たせながらも、
    その意味を思索しつつ、経験として私の中で了解しようと歩いている。

    今日は、そうして黙々と歩いていた。
    どうにもならないことがありすぎる。
    だから、私の歩く距離と時間とは、どんどん延びて行くのだった。

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  • from: クマドンさん

    2016年01月29日 09時33分58秒

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    いくつになっても自分らしく生きるために

    さて、今朝体重を図ったら、退院してから3キロ太っていた。
    がーん、ショックだった。

    今回の手術と入院とは医療ミスによるアクシデントだった。
    私にとっては、どうしてこんなことに・・・という悲しむべき事態だ。
    その上、こうしてヘルニアにもなっている。
    ただし、そのおかげで10キロの減量となった。
    血圧も血糖値も体重も平常値に近づいた。
    なのに、これで太ってしまっては、あの痛みと辛さとの意味がなくなる。
    ああ、昨日のラーメンの大盛がいけなかったと、反省、反省だ。

    ずっと家に閉じこもったままの生活だったので、
    少しずつ自分でできることはトライするようにしている。
    朝のごみ捨ても再開した。
    朝食前にゴミの袋を持って、ゴミの収集所までてくてくと歩く。
    今までは重い物を持ってはいけないと医師に言われていたのでできなかった。

    散歩の距離を延ばすことにした。
    大山台一周から始まったリハビリだった。
    宝町の原信を回って、飛行場道路を歩いて帰る4キロコースや、
    港タワーから山ノ下市場を歩く4キロコースを設定した。
    40分間以上は歩く。
    昨日は、火力発電所の裏道から港トンネルまでの6キロコースだった。
    さすがに1時間以上の歩きに最後はふらふらとなっていた。

    東区ボーイズの合唱にも三カ月参加していなかった。
    病室のベッドで痛みで唸っていた頃、退院したら歌を歌おうと決めていた。
    声なら出せるのだから、これからは歌で生きようとまで思っていた。
    「よき声を、よき歌声を与えてください。」
    そんな祈りまでしたものだった。
    一昨日は、職場まで車で出かけられた。
    そこで、昨夜は合唱の稽古をしている公民館まで出かけてみることにした。

    私の変わり果てた姿を久しぶりに見たみんなは、深く同情をしてくれた。
    集まっているのは60代から80代までのシルバー世代の男性たちだ。
    指導のKさんから、寒くなってからはみんなもそれぞれ具合が悪くて、
    なかなか集まらないので心配していたとの話があった。
    この年まで生きると、何よりも大事なことは健康であることがよく分かった。

    手術をしたおかげで、この年代の人たちの気持ちが少し分かる気がした。
    若いと言っている間に、こうして人は衰え、老いて行くのだ。
    それは仕方のないことと諦めつつも、自分らしい人生を生きたいと、
    高齢になってから合唱を始めた人たちばかりだった。
    それぞれの人に、それぞれの物語がある。
    この年代の人たちのそうした物語は、その人の立ち姿や歌う姿にしっかりと現れる。
    元気だからこうして歌える。
    そんな当たり前の喜びも、みんなからは感じられた。

    私も、先輩たちのようにして、自分らしく老いて生きたいと願っている。
    そのためには、やっぱり自分のことは自分でできる健康が大切だった。
    自由でゆったりとした時間の流れの中で日常生活をいかに生きていくか。
    それが本当の生きる抜くための円熟した智恵であろう。
    「時熟」と、池田晶子さんは、その知恵をそう表現していた。

    たとえ、人には語れないいろいろな苦労や哀しみがあったとしても、
    そうしたことを表に出さずに、声を合わせ、真剣に歌っている大先輩たち。
    私にとっては、そんな立ち姿や歌う姿、生きる姿が、お手本だった。

    「アンコール」という映画を、そんな大先輩たちに捧げたい。

    さて、今日から3キロを減量する旅に出る。
    飢えに対する欲求をどう抑えるか、新たなるトライとなった。

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  • from: クマドンさん

    2016年01月28日 09時32分53秒

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    いつかきっと「幕が上がる」

    さて、退院してちょうど一カ月になった。
    本当に身体の回復だけを願って、何もしない一カ月だった。
    その間に、本はたくさん読んだし、DVDで映画もたくさん観た。
    それは全て「いかに生きるか」の学びだった。

    本は読んでしまうとすぐに忘れる。
    映画もあれだけ感動したストーリーも、あっと言う間に忘れる始末だ。
    それでも、やっぱり乾いた砂のようにして、言葉を求める。
    言葉と出会う度に「これだ」と想いメモをする。
    映画ではその人の生き方そのものに共感し、触発される。
    「そうだ。そうなんだ」と、涙を流すが、それもいつの間にか過ぎ去って行く。
    でも、こうして孤独なる私には、本と映画の友が居てくれるからありがたい。

    何もない生活は、実はここ何年か続いている。
    あれだけ夢中になって突っ走って来たあれやこれやから、
    一切手を引いて、宙ぶらりんな状況だから。

    今朝の新潟日報に「沼垂テラス」の特集が一面で掲載されていた。
    この古き良き市場長屋を個人的に購入し、
    若手たちに小さなお店として貸し出したTさんは、
    15年前からの知り合いだった。
    その頃、沼垂ガイドブックを、子どもたちと一緒に創ってくれた人。

    お年寄りの町になり、買い物難民の多い町となり、シャッターの町となった。
    このままでは衰退するだけだから、何とかしなければと、彼は想った。
    沼垂そのものの人口が減り、大きなスーパーや個人のお店も激減だった。
    どこの町でも抱えているそうした問題を、自分の課題としてとらえ直し、
    その課題を解決するために、自己資金を投入しての市場の再生を行った。
    すごいなぁと、尊敬の眼差しだ。

    同じくその市場の二階に事務所を持っている「なじらね」の人たちが居る。
    彼等、彼女等も、故郷沼垂の将来に向けて、
    いつもいつも新たな提案と実践を行っている。
    「栗ノ木川さくら祭り」「なじらねフェス」「映写会」「沼垂寄席」等、
    今では沼垂の新名物「沼垂ビール」の宣伝に東奔西走だった。
    どうして゜こんなに沼垂のために働くのか。
    それは、みんな沼垂が好きだから。
    何だかじっとしていられねてば。何とかしよてばと想っているから。
    きっとそうなのだと、私は思っている。

    さて、私もかってはその人たちのようにして無我夢中で生きた時もあった。
    それが私の使命なのだと勝手に解釈して、
    傍の人たちの迷惑と困惑とには目もくれずに、猪突猛進していたものだった。
    本と映画の主人公だけが、生きるのお手本の人生ではない。
    私は、そこで知り合い、縁ある人たちにどれだけ学んだことか。
    お手本は、町中に在り。
    大好きな人たちは、その町中にたくさんいたものだった。

    さて、今はどうか。
    欲がなくなったとでもいうのだろうか。
    自分がどこかで燃え尽きて、灰になったとでも言うのか。
    ずいぶん大人しく、当たり前の中年親父になり果てている。
    「よし、次はあれをやろう。」「こんなこともできるかもしれない。」
    そうだった私は、もうそんな無我夢中からリタイアした。
    そんな覇気がないことでどうすると、嘆くこともなくなった。

    ただし、今は麹菌をふりまかれ、室で寝かせられている温かな酒米のようなものだ。
    一見じっと動かないようだが、ここで寝かせられているだけでも、
    ミクロの世界でもぞもぞとうごめいている。
    この言葉と映像と生き方のお手本も、それは麹菌となり、
    ただじっとここに置かれている私の触媒として、発酵する助けをしている。
    そんな気がするから、じっと何もせずに日々を生きられる。
    私は回復を待つだけのただの身体でも、
    そこには私を発酵させるための麹菌が旺盛に生存している。

    私は、それを信じている。
    だから、ヘルニアのお腹を抱えながら、その日が来るのをじっと待っていられる。
    映画「幕が上がる」の主人公のように。
    きっといつかまた、私にとっての何場目かの人生の幕が上がる日のために。

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  • from: クマドンさん

    2016年01月27日 09時06分45秒

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    叔母にとって一番よい解決とは何か

    大雪の余波で、長岡は二日間大渋滞だった。
    昨日、原信に買い物に行った叔母は、刺身がなかったと話していた。
    物流が止まると、コンビニのお弁当もパンも店舗から消えてしまう。
    あれがあるから、これがある。
    みんなそれぞれどこかで繋がって影響し合っている。

    昨日の午後に病院に介護の担当者と病院職員が集まった。
    退院してからの自宅での介護のための情報交換会だった。
    叔母一人のために、本当にありがたいものだった。

    リハビリ担当の若い女性のSさんからは、
    叔母がベッドから降り、立ち上がり、少し歩くまで、
    全て介助が必要だと知らされた。
    自分の足で立つこともできなくなっている。
    叔母が生活するためには、全ての動作についての介助が求められるとのことだった。

    自宅には医療用ベッドをレンタルし、簡易トイレを購入して準備する。
    要介護の認定には1カ月かかるが、見込みで点数を設定してもらっている。
    それでも1割負担なので、現金は必要だった。

    ショートスティについては、近くのM園さんにお願いをした。
    自宅に帰り、前のような生活を望んでいる叔母には少し酷な話だが、
    老々介護のことを考えると、ショートスティの日数がどうしても多くなる。
    叔母がT叔母と同居して介護を受ける間は、
    姉や妹たちが交代で泊りに来てくれる予定だ。
    しかし、それも体力的には長く続かない。

    退院するということは、次のステップに入るということだった。
    人が自立した生活ができなくなり、認知症が進んだらどう生活するか。
    そうなった場合、人は終の棲家をどうするか。
    家族が居たとしても、同居しているとは限らない。
    県外にいる家族の世話にはなれないとしたら、どうしたらよいのか。

    80代の叔母たち一人一人が抱えているそれが現実だった。
    人はみな老いて行く。
    その老いとは、死につながる道でもあった。
    病も当たり前のようにして考えられる。
    体力も筋力も衰え、歩くこともままならない状態になるかもしれない。
    その上認知症が進んだらどうしたらよいのだろうか。

    そんな厳しく過酷な現代の老人問題に対して、
    木下恵介監督は「楢山節考」という名映画でその想いを表現している。
    ここに登場する主人公のお婆さんと、その孝行息子の生き方に、
    私は何か今回の叔母のことへの答えがあるような気がしている。

    「姥捨て」という風習は残酷なものだった。
    しかし、どこか現代の老人問題は、
    それ以上に残酷で過酷なものになっているのではないかと、
    この叔母のことをいろいろと東奔西走しながら、私は想った。

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  • from: クマドンさん

    2016年01月26日 09時51分56秒

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    毎日が木偶の坊だ

    本当に何もできない、何もしていない、木偶の坊な毎日だ。
    お腹の傷のことがあり、重いものを持つことが禁止されている。
    日常生活においても、いろいろと制約がある。
    一番良いことは、達磨のように何もしないで座っていることだ。
    しかし、そうはいかないから、食器を洗ったり、簡単な片付けをしたりする。
    それだけだ。本当に何の役にも立たない木偶の坊となっている。

    昨日、Sさんと電話で話した。
    話せば話すほど嬉しくなり、楽しくなるのはどうしてだろう。
    Sさんのお話しを聴いていると、ふっといろいろなことが思い浮かんでくる。
    そのことを私が話すと、今度はまたSさんの番だった。
    そうしたセッションに終わりはなかった。

    私は、今回の経験から、どこかで自分というものを捨てられた気がしている。
    捨てるとは大げさな言い方だが、軽くなったとでも言ったほうがよいのか、
    こだわりがなくなり、まぁどうでもいいかぁと、想えるようになったからだ。

    こだわりが少なくなると、感情を乱すことも少なくなった。
    水面にさざ波が現れるのは、腹を立てたり、反発したりするからだ。
    何を言われようとも、何をされようとも、
    「はい、分かりました」「ありがとう」とでも想い、
    それを素直にすーっと受け入れて、どこかに流してしまえば、
    それはそれは楽な生き方となる。

    そうした普段の生活の中で、夫婦や子どもたちとの間に、
    このこだわりがなく、はい、と笑顔で動ける関係性があれば、
    とても穏やかに、静かに生活できるという話となった。
    まさに「明鏡止水」だった。

    そのためには、体と心とで落ち着くべきところへ、
    降りて行く必要があるとのことだった。

    体が気持ちよくなる。
    体に聴きながら、体を想い、体を大事にして生活する。
    すると、まず体の方から心地よい感じが生まれて来る。
    それは、雪道を冷たい風に吹かれながら、
    とことこと散歩している時に感ずるものだ。
    昨日はお日様が眩しく、青空に向かって両腕を挙げたら、
    すーっと体が気持ちよく、その青空に溶けていくようだった。

    それでは、心の気持ちよさとはどんなことだろう。
    それは、木偶の坊なら、木偶の坊でいいと今を楽しんで生きることだ。
    何をやったとか、どんなことを残してきたとか、そんなものはどうでもいいこと。
    私が、私がと、自分自身にいつまでもこだわっていると、
    どんどんその人そのものが固く頑なになっていく。
    そんなものどうでもいいよ。みんな忘れたよ。
    そう想う心の柔らかさこそ、私たちの心の平安だった。
    やっぱり求めないことであり、欲張らないことであり、我儘を言わないことだ。

    Sさんは、その体と心との自由を笑顔で日々生活している人だった。
    私には、その自由さと気楽さが羨ましく、
    そうありたいと願いつつ、ここでの修業を日々精進している最中だった。

    ただ、体(欲望)・心(煩悩)と余りにも人間らしいこの二つから解放されたら、
    きっとその時は、ただ人として生まれながらに与えられた仏心だけが、
    きっとここに現れるのだと、今の私は考えられるようになった。
    それがきっと「身心脱落」なのだろう。

    Sさんのそうしたこだわりのない爽やかな笑顔の一日一日の生活は、
    まさにその仏心の表れなんだと、私は思っている。

    目には見えないものこそ、大事なものだ。
    見えるものは、見えないものに触れている。
    聴こえるものは、聴こえないものに触れている。
    感じられるものは、感じられないものに触れている。

    そして、それを見えるように、聴こえるように、感じられるようにしてくれる人が、
    Sさんのようにして、こだわりなくその道を楽しみながら日々を歩く人だった。

    私は、本当に木偶の坊のようにして毎日生きている。
    しかし、だからと言って焦ったり、慌てたり、探したりはしない。
    こうして、今、ここ、私に、与えらてあるもの、それで十分満足だからだ。
    いや、平常な生活そのものがどれだけありがいことか、よくよく分かったからだ。

    Sさんとの話が尽きないのは、
    Sさんはそこで生き、私はそこで生きようとしているからだと、
    改めて想ったものだった。

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  • from: クマドンさん

    2016年01月25日 09時46分25秒

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    言葉で生きる

    今朝は、雪がやみ、時折日がさしていた。
    昨日のあの大雪が嘘のように、静かなで真っ白な朝を迎えた。
    それでも玄関から門までのアプローチと、
    ガレージ前の除雪車が残して行った雪の塊をせっせとのけた。
    私は、「雪のけ」と言うが、「雪かき」とか、「雪ほり」とか言う人もいる。
    不思議なことに雪のけの朝は、町内の人たちが表に出てせっせと働く。
    たった今、風の音と共に細かな雪が降りしきり始めた。
    これだから、冬の天気は分からない。

    さて、昨日の礼拝でよき言葉を教えてもらったので紹介する。

    「面倒だから、しょう」 渡辺 和子さん

    「置かれたままに花を咲かせる」という本を出した修道院の院長さんだ。
    「面倒だから、やめよう」ではなくて、
    「面倒だから、しょう」とは、まさに私に対する言葉であった。

    一日の生活とは、小さな小さな選択の繰り返しだ。
    その瞬間、瞬間に何を選ぶかで、その先はまったく違う道になるはずだ。
    その時の基準を、「面倒なことは、する」としたらどうなるだろうか。
    きっと初めは迷うかもしれないが、
    やってみたらすっきりするはずだった。

    私は、昔から面倒くさがりの無精者だった。
    今やらなくてもいいや。後にしよう。
    そう思ってやらないままにほったらかしにして、困ったことは山ほどあった。
    長男と次男がそんな私によく似ている。
    親の後ろ姿を見て、忠実に真似をしている。
    だから、私も彼らを注意するときは、そっと気兼ねして言っている。

    でも、きっといつかは私のように分かってくれる日が来ることも信じている。

    「人間の自由とは諸条件からの自由ではない。
     それら諸条件に対して自分の在り方を決める自由である」  フランクル

    この生き方はどうだろうか。
    これも瞬間、瞬間の選択が生きることだと教えている言葉だ。
    つまり、そこでどうするかを、いつも人は問われているということだ。
    そうやって考えて一日の時間を意識的に生きて行く。
    そこに、本来の人としての自由が存在している。
    私がどう生きるか。どんな人になるのかは、私が決めることなんだ。
    しかし、そこには自由と共に責任が存在していることも明らかだった。
    「寒いなぁ。眠いなぁ。でも、やっぱり起きよう。」
    ここに日々を生活する意味がある。

    「人にはその人しか果たせない使命がある。
     その人にしか与えることのできない愛がある。」 マルチン・ブーバー

    そうだなぁと、お話を聴きながらそう想った。
    心に感じ、覚えておきたい言葉は、すぐメモを取りようにしている。
    そして、そのメモを失くしても大丈夫なように、
    ここにこうして記録しておくようにしている。
    すると、またこうして振り返ることで、
    その言葉が私自身の力となって蘇る。

    やはり言葉とは、言霊である。
    この気付きはブーバーが「そうだ」と分かった気付きであるが、
    それは普遍的にずっとずっと存在している在り方であるもので、
    ブーバーがその存在に気付き、言葉で表現した生き方だった。

    つまり、人生とは、その与えられ恵まれたいのちの使命を果たすことであり、
    私たち一人一人が愛されたように、愛することに尽きると言うのだ。

    本当にそうだなぁと思うが、
    余りにその真実の道から離れて生きている私を想うと恥ずかしくもなる。

    昨日の礼拝で、牧師の先生からこの三つの生き方について教えてもらった。
    人としてその道を生きるためには、やっぱり生きる言葉が必要だった。
    「人はパンのみに生きるにあらず、」だ。
    言葉を聴くことで、また改めて原点に戻れるような気がする。

    そんなことを書いていたら、ぴっかぴっかのお日様だ。
    眩しくて空を仰げないくらいの輝きだ。

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  • from: クマドンさん

    2016年01月24日 09時33分03秒

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    苦しみと痛みからしか分からない

    最近食事の後で腹が痛くなる。
    お腹が冷えた時のような痛みがしばらく続く。
    今もそうだ。朝食の後、やっぱり痛みがある。

    それはそうだと思う。
    お腹のヘルニアのために、
    内臓か何かが腹筋の外に飛び出しているのだから。
    痛まない方が、おかしいというものだ。

    私は、好きでこうなったのではない。
    手術して回復を待っていたら、こうなっていたのだ。
    「ヘルニアですね。治すためには再手術ですね。」
    医師からの言葉はそれだけだった。
    その手術のためにまた休職であり、入院であり、あの激痛に耐えねばならない。

    一回目も手術の失敗だった。
    二回目もそうなら、三回目もそうなる可能性がないとは言えない。
    R病院からは、何も言ってはこなかった。
    手術費と入院費用はちゃんとそれなのに徴収された。

    そう想うと腹も立つが、腹を立てないことにしている。
    私は、この二回の手術の失敗で、どうにもならないものはどうにもならないと、
    自分なりに学ぶことができたからだ。

    あの激痛はけっして忘れられないが、今はこうして平常に生活している。
    殺してくれと叫んだのは、まるで遠い昔となった。
    緊急手術で目を覚ましたらICUで人工呼吸器の管が喉に差し込んであった。
    話すことも、体を動かすことも、タンを切ることもできなかった。
    なのに今は、こうして朝食を自分で作って食べている。

    その苦しみと痛みとの最中にある時は、
    ずっとこれが続くのだと絶望に似た感じを受けて打ちのめされる。
    「何で」「どうして」「何のために」と、神に向かっての切ない問いかけだった。
    その悲惨で、辛く、苦しみの現実はそこにあって動じない。

    でも、今はどうだろうか・・・・・。

    寂聴さんが言っていた。
    「無常とは、そんなどん底の苦しみも、長く続かず、
          いつかは立ち直る力をきっと得る日が来るということです」と。

    無常を儚さと虚しさとしてとらえるのではなく、希望としてとらえていくことだ。

    今朝は暴風雪波浪警報の新潟市だ。
    真っ白な屋並みに、吹雪が容赦なく吹き付けている。
    しかし、この吹雪も何日も続かないものだった。
    いつか晴れるし、もっと月日がたてば春になる。
    これも「無常」の1つだった。

    人生を盲目で生きた70歳のA先生の「命の授業」をテレビで観た。
    「私は、生きてきてよかったと思います。それは、目が見えないからこそ、
                    見えるものがあると分かったからです。」
    「どんなに苦しくても、辛くても、死にたくなっても死なないでください。」
    「あなたは決して独りではありません。そして、その苦しみや辛さは、
        必ずいつかは終わる日が来ます。私は、そのことが分かりました。」

    この吹雪は、いつまでも続かない。
    きっと吹雪がやんで、晴れる時が来る。

    今朝のラジオで、伊集院さんが、こんな言葉を語っていた。
    空海の言葉で「虚しさを生き、満ちて還る」と。
    その虚しさや哀しさや痛みや苦しみは、人生当たり前のことなんだから、
    そのままそれから逃げないで生きることで、
    人はやっと何かが分かるのではないかと。

    それは、苦しみや挫折を経てここまで生きた人だけが語れる真実の言葉だった。

    「人生は、苦なり」
    「人生は、孤独なり」
    そこをそのまま諦めて生き抜くことで、きっと初めて分かる真実があるのだろう。

    だから、苦しんだことのない人や、孤独を感じたことのない人は、
    その真実の深い言葉を決して分かることのないままに生涯を終えるのだと思った。

    私が二回の手術失敗から学んだことはこれだった。

    そして、三回目の手術を受けて結果はどうであろうとも、
    その時に分かったことこそ、
    その苦しみと痛みを通してしか教えられない真実の言葉なのだろうと期待している。



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  • from: クマドンさん

    2016年01月23日 12時06分02秒

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    介護の話は難しい

    さて、昨日は天下分け目の関ヶ原だった。
    入院中の叔母の介護について、親戚の叔母や叔父、ケアマネージャーの人と、
    今後のことを決定する話し合いがあったからだ。

    叔母は87歳。
    手足の麻痺で自立した生活ができないので、急な入院だった。
    ところが、入院にはリスクがあり、叔母の認知症が少しずつ進んで行った。
    医療的なケアはこれ以上は受ける必要がなくなった叔母は、
    やはり早期に退院の対象となった。
    しかし、独り暮らしの叔母は自宅での自立ができないために、
    妹のT叔母と同居することが求められた。
    つまり、突然叔母に対する介護支援の必要ができたのだった。

    親子なら、私がそうだったように私の判断でことは進められる。
    ところが、92歳を筆頭に80代4人の姉妹家老たちにとっては、
    妹の今後のことなので、
    それぞれがそれぞれの意見を入れて介護をしたいと願い出た。
    「可哀想だ」「家で面倒はみるべきだ」「あんたが世話するのは当たり前だ」
    こうなってくると、お互いの事情を考えると、
    やっぱり姉妹で一番年下のT叔母に白羽の矢が立つのだった。
    「私たちは、何でも手助けするよ」しかし、それが難しいのだ。

    叔母は、手足については回復したが、
    介助なしにはベッドから起き上がったり、
    トイレまで歩いたりすることは難しかった。
    自分で力が入らない人の介助は、なかなか力を必要とするものだった。
    それを80歳の叔母ができるはずはないのだった。
    しかし、自宅での介護を中心にすると、まさに典型的な老老介護となってしまう。

    そのリスクをどうしても避けたかったので、
    私は、ケアマネージャーの人と相談して、
    負担のかからないような方法を模索した。
    そして、退院後にすぐにショートスティに連泊することを決めて提案した。
    一昨日までは、「そうだね。それがいいね」と言って一度は決まった。
    ところが、昨日の朝、「やっぱりそれは駄目だ。家に帰らないと可哀想だ」と、
    全てのことが逆転して、白紙に戻った。

    本当に今回のことでいろいろと学んだ。
    それは、介護する人と介護される人との感情的な問題と体力的な問題だった。
    「可哀想だからなんとかならないのか」
    「私は、家に居たい」
    それは、やっぱりそうなんだろうけれど、
    心情的な想いと現実とは、なかなか寄り添った方向には行かないものだった。
    病院のスタッフも、ケアマネージャーも、誰が見てもその希望は無理だった。

    しかし、人である。
    その心情や家族に対する想いと同情をないがしろにしては、介護の話は進まない。
    もちろん一番大事にしなければならないのは、介護される当事者の想いと願いだ。
    ハード面のシステムは、本当によく整備され、人には優しいものとなっていた。
    80歳代の叔母たちの老老介護の現実と、
    精神的にも体力的にも明らかに無理である現状とで、
    どうお互いが納得して、折り合いをつけるかが大事なことだった。

    そこが、コーディネートするケアマネージャーの人柄と手腕となっている。
    天下分け目の戦いにどう決着をつけ、
    介護する人も介護される人も、お互いにこれでよかったと満足する落としどころへ、
    どのように導いていくか。
    昨日の二時間近くに及ぶ話し合いの醍醐味はそこにあった。

    さて、その発熱した話し合いの決着は、その場で着くことができた。
    本当にケアマネージャーのKさんに感謝している。
    話し合いが終わったら、叔母たちはみんな笑顔で、すっきりとした顔だった。
    腑に落ちた結論だったのだろう。
    「よかったねぇ。ありがとうございます」と、頭を下げた。

    しかし、その叔母たちもいずれ行く道だった。
    私の問題なんだと思って考えてくれたら、こんなにも二転三転しなかったのに。
    この独り暮らしの叔母たちの介護についても、
    どうも私の役割となりそうだなぁと思いながら、円満に話し合いは終わった。

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  • from: クマドンさん

    2016年01月22日 09時13分31秒

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    父の命日

    今日は、父の命日だ。

    1年前の1月22日の夜中に父は息を引き取った。
    そして、この時刻には、父は御遺体として座敷に眠っていた。
    3年前K病院に緊急入院し、退院と同時に介護施設に入所した。
    入院中に同じ病院の4階の病室で母が危篤の時にも頑なに来なかった父。
    通夜にも葬儀にも参列することを拒んだ父。
    それは父なりの母に対する想いだったのだと、その時私は想って諦めた。

    父は、そんな理由から、施設に入っていも自宅に帰ることを頑なに拒んだ。
    何度も誘い、施設の職員の人の協力を得て、車いすでも移動できたのに、
    父は、絶対に生きている間は自宅には帰らなかった。
    それも父なりの想いだったのだと、私は諦めた。

    母の命日は6月22日だった。
    22日は父と母は同じ命日だ。
    それから、二人とも金曜日の夜中に息を引き取っている。
    会葬する人たちのことを想い、通夜と葬儀とは土日だった。
    そんなところにも父と母との想いが忍ばれた。

    仏壇が座敷に置かれた。
    母の写真だけだったが、昨年からは父の写真もそこに並んだ。
    生前喧嘩ばっかりだったが、とにかく父も母もお互いを好きだった。
    もたれあい、支え合い、わがままを言い、わがままをして、
    それでも私と妻と孫2人に囲まれた老後の生活を送った。

    私たちは、2人の臨終に立ち会った。
    母は、肝臓に転移した癌が末期となり、入院して2週間の死だった。
    父は、腎臓の数値が悪くなり、施設から病院に入院だった。
    そのうちに、認知が進み、最期は寝たままで衰弱して息を引き取った。
    父は、病院では半年だった。
    父は認知であり、母は脳梗塞だった。
    2人とも、死への恐怖を感ずることなく、
    眠ったまま、そのまんま、自然に息を深く引き取って、私たちと別れて逝った。

    穏やかで、静かで、まるですうっと消えるように、この世から旅立った。

    私は、その二人の臨終に立ち会って、父と母の魂の存在を確かに感じた。
    「居なくなってはいない。」
    「ここに、確かにここに居る。」
    亡骸はここにあるが、もうそれは父でも母でもなくなっていた。
    生まれてきてからずっとずっとお付き合いした抜け殻とでも言うのだろうか。
    御遺体には、リアルな存在感は感じられなかった。

    それよりも、「お父ちゃん」「おかぁちゃん」「おじいちゃん」「おばあちゃん」と
    そう祈って呼びかける時、ほっと私の中の何かが感ずるようにして、
    ここに「ある」「居る」父と母とにリアルな存在を感じられた。

    離れることで、傍に来てくれた。
    「8日」というフランス映画を観たら、私と同じ感覚だった。
    ダウン症の青年ジョルジュは、4年前に亡くなった愛する母に、
    想いをもって目を閉じると、その優しい母が現れるのだった。
    母は、慈しみの眼差しで彼を見つめ、彼をその胸に抱きしめてくれた。

    想いと祈りと信ずる心さえあれば、父と母とはひとつながりの世界だった。

    だから、私は孤独であろうとも、生き抜くことができるのだろうと思っている。
    それは、彼ジョルジュと同じだった。

    どういうわけか、私は二人の旅立ちを見て、死ぬことを畏れなくなった。
    怖くないとは嘘になるが、死んでもいいかなぁとも自然に想える。
    それは、生かされている間はけっして死ねないのだけれど、
    この世での働きを止めることを赦されたら、
    きっとその旅立ちは、まさにその言葉のように新たな未知なる世界への、
    希望への旅立ちとなるのでは、と想えるようになったからだ。

    そこには、ジョルジュが見たように父も母もいてくれる。
    今は、私はこっち側に居るけれど、
    その日が来れば、父と母のようにして、すっとあっち側に行けるのだ。

    父と母とは、そんなことを私に教えて旅立った。


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