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親父たちよ

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  • from: クマさんさん

    2013年12月24日 14時57分04秒

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    いよいよ今年もあとわずか

    本当に何もかもが中半端に終わった一年になりそうだった。
    今年一年を漢字で表すと、私の場合は「病」であると思う。
    自然と同じで、人には春夏秋冬がその人生には準備されている。
    いつまでも春ではなく、いつまでも夏でもない。
    そして、秋になったら時は移ろい、変化していくのである。
    「変わらないもの」はこの世の中ではひつともないのだ。
    全てのものは、日々、こっく刻々と変わっている。
    だから、執着してもそれはそれで無駄なのだ。

    欲がなくなったと、自分でも思う。
    いろいろな事情でやりたいことから離れざるを得なかった。
    しかし、少しこうやって距離を置いてみると、
    今は本気でその対象に向かう情熱は自分の中には感じないのだ。
    あれだけ熱中して没頭していたものだが、
    なんだかその頃のことが遠い昔に感じられるようになった。

    その当時の仲間たちにも会ってはいなかった。
    あえて、こちらから声をかけて会おうという気持ちも薄らいできたようなのだ。
    悔しい思いや、裏切られたような哀しい想いも幾度かした。
    今は、そんなことにはこだわらずに、淡々と日々を生きている。

    「生きるっとことは、難しいよね」とは、誰かの言葉。
    まさに、同感至極だった。
    ただし、自分から生きようとすればの話かもしれない。
    「生かされているんだ」そう思うことの自由さが大切なような気がする。
    肩の力を抜く。どんなことが来ても受け流す。こだわらない。悩まない。
    しかし、それができない私は、やっぱりある意味「病」になりやすい体質なのだろう。

    独りでどう生きるか、心の体質を直しながら病を克服して行きたいものだ。

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  • from: クマさんさん

    2013年12月10日 15時09分12秒

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    コトバがだんだん軽くなる

    「自分を観察することと、自分自身と対話することを学ぶことが必要じゃ」

    さて、このコトバについて書き始めたら、どうも不評であるらしい。
    「わかりづらい」「想いが伝わらない」「難しすぎる」等等。
    そうではあるが、何だか私にとってはこの空白の七ヶ月を何かに残したく、
    こんな形であがいているのだ。
    投げ出さないで、諦めないで自分のことを観察する。
    そのためには、観察する目が自分にならなければいけない。
    それは、自分を見つめる大きな自分であるかもしれない。
    そして、対話する相手もまた、その大いなる自分である。
    自分は自分でありながらも、その自分にいかに生きるか問いかける自分。
    小さな自分にとらわれず、大きな自分で生きたいものだ。
    想いと実際とは乖離しているが、
    そんな中でも、大きな自分に自分を任せて、「あるがままに」生きたいと願っている。
    それが、これからの私の修行なのだ。

    「ただお前が執着していることを手放すことだ」

    さて、今は生きているのか、そうではないのか、そんな中途半端な状態だ。
    執着しているものは確かにあるが、
    その執着しているものを必ず手放さねばならない状況でもある。
    それは、いつまでも私の手の中には居ない。
    それは、移り変わるものである。
    それは、こちらがどんなに願っても叶えられないものでもあった。
    されでも手放さなかったら、私は煩悩という苦しみに陥ってしまう。
    しかし、手放したら何があるのか。
    この空っぽの手のひらで、いったい次には何を掴むと言うのか。
    だが、手放すことによって、苦しみは希望にへと変わるのかもしれない。

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  • from: クマさんさん

    2013年12月07日 14時45分03秒

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    自分を忘れたら、故郷に還ればいい。

    「他者を愛する。賢明になる。慈悲で満たされる。=苦しみからの解放」ダルマ

    愛するって、愛されることで分かることらしい。
    私は、やっぱり迷いの中で生きているから、時には心が大きく揺れてしまう。
    何だか人の中に入ることで、自分を見失い、自信を失う。
    みんなが追われるようにしている仕事ができずに、焦ってしまったり、
    自分にはそんなことは無理なのだと思ってしまったりする。
    しかし、そんな私も、さりげない笑顔の挨拶で救われることがある。
    何かの仕事を頼まれて「ありがとう」と言われるだけでもほっとする。
    私が居たことに対して、気配りをしてくれるひとがいるとありがたいと感ずる。
    ああ、もし反対の立場だったら、私もそうしてやろうと、そんな時には思う。

    海を見てきた。冬の風に大きなうねりだった。
    テトラポットにぶつかっては高くて白い波しぶきだった。
    空は曇天で、灰色の雲が浮かび、時折激しく冷たい雨をふらせていた。
    じっとそんな海を見ていたら、だんだんと心が穏やかに落ち着いてきた。
    「それでいいんだよ。」「ここに帰ってこいよ。」そう呼びかけられている気がした。
    松林は実に爽やかだった。その気持ちを私は忘れていたのかもしれなかった。
    自然に還る。すると、心がこんなにも和らいでいく。

    何でそんなに悩んでいたのだろう。
    どうしてそんなにひとの中に居ると疲れてしまうのだろう。
    忘れていたのは、自然であり、私というひとの生き方なのだと、ふと思った。
    まず、自分が自分であることだ。
    そして、俺がではなく、生かされている自分を信じて生きることなのだ。
    それは、ひとのための生き方でもある。
    釈尊は、ダルマについてこう表現しているのだ。

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  • from: クマさんさん

    2013年12月06日 17時20分02秒

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    手放したから深いに行ける。そこに本当の生きるが溢れる。

    「お前が自と他の双方を手放すとき、ダルマは私たちの心の中にのみ存在する。
                         すべてのひとが共通して持つ、経験という言語じゃ


    これは私の書いた文章ではない。でも、長文だけれどもここに転記させてもらう。
    許してもらえるかな・・・・。

    人も自然もこの世のありとあらゆるものが一つに繋がっています。
    だから、自分が自然に溢れるものの中で出来ることを精一杯、
    でも無理をせず、でも最高の想いを込めてやらせてもらう。
    溢れるものでなければ生きてはいない。だから、サークルの中の誰かを傷つけたと思うかもしれないけれど、本当は、その分だけ、誠実にその悲しみを自分が担ぐことなのです。
    その分もその分もこの一つで繋がった誰かの為に思いやりを返す、与える。
    人はそうして傷つけたり、傷つけられたりして学び、深くなり、優しくなり、変わることができる。
    その分、今よりもっと背負って、もっともっとこの世に想いを広げること。
    思いやりをお返しすること。
    自分の生きる道を生きること。
    全てに誠実であること。
    祈ること。

    レントの意味が今なら分かる。
    この地球、この自然は誰のものでもない。
    この地球にこの自然にこの魂につつまれて生きること。
    それに、私たちは想いやりというその大事な想いだけを、地代としてお返しする。
    この大地の一欠片たりとも、一瞬たりとも、貸主などで支配できる者など居てはならない。
    従ってはならない。
    愛だけだる溢れる愛だけで生きる。
    だから、レントなのかなぁと思う。

    本当の幸せは、このこの一つの全て誰かの幸せこそが、相手の幸せこそが、
    本当に湧き上がる自分の幸せです。

    優しいを知り、深い想いを知り、この世に生まれたほんとうに生きるに出会う。

    その生きるが身体に染み込むと、自由にとべる。
    だから、何も怖くない。
    私は。

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  • from: クマさんさん

    2013年12月06日 16時17分18秒

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    ここがロドスだ。ここで跳べ。

    「この世界に本質的な価値をもったものなど何もないという認識に達する」

    それは目には見えていることなのだ。
    全てのものが移り変わり、無常な存在だ。
    その変化し、消えていく存在に価値を置くことで、迷いが生ずる。
    しかし、やっぱり色即是空でもねその色に頼らざるを得ないのも現実だ。
    ただ、そこに執着をせずに、その対象と距離をおいて生きること。
    生きるとは何かは、この現世ではなく、魂の奥深くが語る言葉であること。
    その瞬間、瞬間を、自分らしく生きることで、生きるがやっと分かること。
    しかし、その為には、執着を捨てて、飛び込まねばならないこと。
    そして、もし信じて飛び込まなかったら、
    本質的な価値のない世界で、籠の鳥のようにして生きねばならないこと。
    しかし、その生き方は、自由とはかけ離れた、悲しい生き方であること。
    その認識に達しながらも、深くに手を繋いで飛び込まないということは、
    それはひととして生まれてきた魂の死でもあること。
    その魂の死を、哀しむということ。
    あの大空を滑空するカモメには、けっしてなれないと言うこと。

    「世の中の現象とは、お前さんにとってたいした価値のない
     バナナの皮のようなものだと理解した時、お前さんは何が起きても悩んだり傷ついたり
                         することがなく、世界を自由に闊歩できるようになる」

    これと同じことを、さっき言われたばかりだった。
    クマさんには、分からないんだよと。
    そこへ飛び込むことはもっともっとどん底に落ちることだよ。
    でも、その深くに至るならば、きっとひととしての自由な生き方ができるんだよ。
    でも、どう言っても、クマさんは分からないのだと思うよ。
    そんな生き方を選んでいるということが、とても悲しいんだ。
    私が、私なりの人生を全うするためには、そのリスクを担わねばならないのだ。
    今は、迷いの中で決めかねず、前に進めないままでいる。
    でも、やっぱりここで飛ばなければならないことも分かっているのだ。
    かけがえのないものを失ってしまっては、一生の後悔だろう。
    バナナの皮か、世界を自由に闊歩することか。
    今、魂が死んでいる訳は、ここにあるのだ。
    私が、私を生かす場所とひととはすでに分かっているのだが・・・・。

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  • from: クマさんさん

    2013年12月06日 15時13分45秒

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    家族はしがらみであるが、手放せば一人ひとりが友となる

    「心の中にある家族への執着を捨てる」

    執着を捨てると言うが、すでに私のほうが家族から捨てられているのかもしれない。
    私は、家族であるうとも、一人一人は個個の独立した人格だと感じている。
    だから、子供たちには余計なことは言わない。いや、言えないやわな父親でもあるのだ。
    私は、本当に好きなことをやられてもらった。
    それはいつも危なげないね綱渡りのようないい加減な選択であったと思うが、
    やっぱり、それでも何でもやられてもらえた。
    しかし、逆にそうやって何でもやらせてもせえたために、
    親に迷惑をかけてはいけない。世間にも迷惑をかけてはいけない。
    そんな風には思ってきた。
    高校生から、酒とタバコとはやっていたが、それでも余計なことは言われなかった。
    放任ではなく、信頼がベースにあるのだ。
    だから、私も子供たちには「こうなってほしい」という願いがあっても、押し付けることはない。
    やりといことがあったら、自分で決めて、行動すればいいのだ。
    そして、長男は大学3年、次男は高校3年でね大学の進学先も自分で決めてきた。
    父さんへの相談は、結果だけの報告だった。
    親はあっても、子供は育つのだ。
    しかし、妻とはどのようにして関係付けたらよいのだろうか。
    彼女への絆とは、努力をして築かねばならないもののようだ。
    今は、この家に置いてもらえるだけでありがたいのだ。
    執着とは、自分のものにしたいという切なる欲望であるのだろう。
    だが、それぞれが独立独歩な家族もまた、それはそれでもいいのだと私は想っている。

    しかし、本当にこの執着を捨てて、全てを手放して、林住期に入りたいと切に願ってもいる。
    「手放す」ことなのだ。

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  • from: クマさんさん

    2013年12月06日 14時50分46秒

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    私の先生たちは、私のことを本当に愛してくれた。それでは私は・・・

    「たいていの場合は、お前さんの存在そのものが、他人への助けとなるのだ」

    これは私のことではない。私なんぞはそんな助けになるひとではないからだ。
    しかし、私にとって、本当に助けになる存在のひとは知っている。
    私のようなひとをとことん愛して、理解し、励ましてくれたひとだった。
    そのひとたちとの出会いのおかげで、今を生きているようなものだ。
    そのひとたちは、私の先生である。
    Sさんとは、最近よく電話でのやりとりをする。
    いつも新鮮な感覚で発見をし、柔軟な心が、何でも気として受け入れて、自分のものにする。
    75歳?だろうか。こんなにしなやかに、そして謙虚に自然やひとから学ぶひとはいない。
    私はSさんと語り合うことが、喜びだった。魂が目覚めるのだ。
    出会いとは、そういうものなのかも知れない。
    Sさんは生き、Sさんの本気に生かされている私を感ずる。
    もう一人の先生は、Kさんだった。
    書家であるKさんは、脳梗塞のために身体が不自由になり、書を書けない身体となった。
    老人福祉施設に入院し、車椅子での生活だった。
    しかし、Kさんを尋ねると、何だかこうしてはいられなないぞと元気をもらう。
    それは、Kさんが30年以上前から、私のことを慈悲の眼差しで見つめ、
    とにかくこんな男の人を一生懸命に可愛がってくれたからだ。
    今でも、私が行くと涙を流してくれる。
    私も情けない自分の姿に申し訳なく、涙が流れる。
    もうひとりは、Yさんだ。私をここまで生かしてくれたのはYさんの存在だった。
    いつも親身になって心配してくれた。コトバをかけるって、とても大事なことなのだ。
    私は、Yさんと出会い、深く深くを信じられるようになった。
    「大事、大事」が本心で分かった。
    私は、そのひとたちのおかげさまでこうして生かされている。
    どこに恩返しをしたらよいのだろうか。
    そして、私もこの3人のひとたちのように、
    慈悲と優しさに生きるひとになつてみたいものだと思う。

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  • from: クマさんさん

    2013年12月06日 00時34分32秒

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    心とは不思議なものだ。でもすべてのひとには心が与えられているのだ。

    「心に生ずるものは、何であれ手放すようにしてください」

    さて、執着である。
    それは、我執とよべるものであるかも知れない。
    これ以上の愛はないと想うことは、時には大いなる執着となる。
    愛別離苦と釈尊はそれを言っている。
    愛するものと離れなければならない苦しみ。
    愛すれば愛するほど、離れがたく忘れ難く、
    自分の身体の一部を切り刻まれるような苦悩を感ずるものだ。
    私は、その苦しみがよく分かる。
    それは、私をこんなに愛してくれた母を昨年喪ったからである。
    しかし、そのまま生きていてくれと願うことも、祈ることも煩悩であると、
    仏教では教えてくれる。
    ひとには、寿命があり、いつまでも生きることはできないのだと教える。
    いかにどれほど愛していようとも、離れるべき時には離れなくてはならないのだ。
    手放す時には、手放すことに躊躇しないことである。
    無常が真実な姿なのだ。
    心に生じたものは、無常なるものである。
    ならば、その無常を頼みとするのではなく、無常を無常とわきまえて、
    「さよならだけが人生だ」と、涙を流しながら手をふることなのだ。
    「手放す」とは、この無情な世の中に生きるためには大事な生き方なのだと教えられた。

    「ブッダとは、おまえさんの心の内に見出すものじゃ。ダルマ自身に話させることじゃ」

    さてさて、このコトバ通りならば、どうしてこんなに迷ってばかりの人生なんだろう。
    もはや、産まれる前からここにダルマがあるのならば、
    どうしてひとは、その存在に気づかずに、おろおろと修羅の道を歩いているのであろうか。
    ここにあるんだと、それは法華教の中にも確かに書かれている。
    救いとは、彼方に求めるのではなくて、ここにあるのだ。
    それは、釈尊のコトバでもあり、約束でもあった。
    しかし、何故にひとはかくも迷うものだろうか。
    しかし、やっぱりひとは愚かに迷うことによって、
    初めてそのダルマと出会うことも、法華教には確かに記されていた。
    私は、未だにわからないひととしてこの世の中に生きている。
    分かるひとは、ただ黙っていつかは必ず分かるだろうと、哀しみの瞳で私を見守っている。
    この心の中に在るブッタ。
    そのコトバは、すでに聴こえているはずなのだ。
    さて、どれだけ謙虚にそのコトバを聴くことができるか。
    それが、この世に生まれたひととしての修行なのかもしれないと、私は想っている。

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  • from: クマさんさん

    2013年12月06日 00時13分07秒

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    独りであるからこそ、愛するのがひとなのだ。ただ愛そう。

    「真の愛とは、智慧のことです」

    どう言っても分からないと思うけれど、
    私がずっとずっと考えてきたことは、「愛」とは何かと言うことだった。
    これがこれでとにかく難しく、答えはそんじょそこらにあるものでは無かった。
    ただ、「愛する」とう想いは、私にも分かる気がするのだ。
    想いは、残る。想いは、伝わる。想いは、存在する。
    だだし、想いというものは、目には見えないものなのだ。
    ここに私の愛がありますと、相手に向かって差し出すことはできないのだ。
    それでも、やっぱり「愛」というものはここに、このまま存在しているのだ。
    その力のおかげで、自分のいのちすらも捨てられるそれほどのものである。
    言葉とは、存在しないものには、名付けられないものである。
    だから、ある意味「ダルマ」としての「愛」とは、真実なのだ。
    真実であるから、智慧と呼ぶ。
    私は、その智慧である愛で、ひとを愛したい。
    そして、こりがこれでまた難しいんだなぁ。
    そのひとの幸せを願うこと。
    それが愛であるのだと、少しずつ考えられるようになってきた。

    「自分自身を知ることと同様に、あなたは孤独とは本当に何かを知るでしょう」

    ひとは、しょせん独りなのだ。
    それもまた、真実なのだと私は想う。だから、ひとを愛するのだとも。
    どれだけ自分自身を探したとしても、これが私だという私には出会えはしない。
    私は、愚かで、弱くて、木偶の坊な私が、私なのだと想っている。
    そこから先は、どうやって生きていったらよいのかは、
    お地蔵様が決めてくれることかもしれない。
    突然、「独」という漢字が気になった。
    そうなのだ、ケモノ偏に虫と書いている。
    群れない。他のことは想わない。天地にたった一匹で生き延びている。
    泣き言も言わない。生きる意味なんぞは問わない。
    とにかく、今日を、今を生きるために必死にうごめいている。
    だから、独りでいいではないか。独りだから、気楽に生きられるのではないか。
    すべての自然のいのちとは、独りで始まり、独りで終わるのではないだろうか。
    しかし、独りであることで、独りには絶対になりきれないのがひとなのだ。
    この胸に訪ねてみよう。
    そこには、愛するひとや、死者となったひとや、家族や友や、かけがえのないひとがいる。
    ひとは、独りになることで、やっと魂として愛するひとと向き合えるのである。

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  • from: クマさんさん

    2013年12月05日 23時50分18秒

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    自分を信じて生きよう。どんな愚かな自分であっても。

    「この世界には間違っていることなどはなく、ただダルマがあるだけなのです」

    殺生・盗・嘘・淫・酒 これを称して仏教では五戒と言う。
    しかし、全部やっているのが私としいうひとなのだ。
    清廉潔白とは、この現世では生きては行けない。
    というよりか、自分が自分らしく想いに従って生きていったなら、
    やっぱり誰もがこの五戒のいくつかにひっかかるはずである。
    ブッダは、悟りを開くための修行僧にこの五戒を戒めに与えた。
    しかし、世俗に生きる凡夫の私は、戒を破るだけなのだ。
    そんな意味では、親鸞が実に実に人間らしい生き方をされたひとだと私は想う。
    私は、愛する。仏教では、それを愛欲と呼ぶらしい。
    愛するひとが、幸せに生きられることだけを願う愛は、
    やっぱりぁっていいのだと私も想っている。
    自分のために愛するのか、そのひとのために愛するのか。
    ただ、そんな私のことすらも間違ってはいないのだと、許されている。
    ただ、その愛にダルマがあるかどうかを問われているのだ。
    そのひとが幸せに生きられたら、それでいいと想われるかどうかなのだろう。
    ダルマに、私自身の生き方は、問われているのだ。

    「私たちは全て、自分自身に拠ることを学ばなくてはならないのです」

    こんなに愚かで、迷いばかりで、おろおろと生きている私。
    その私に拠ることを学びなさいと、このお坊さんは言ってくれる。
    それは、やっぱり自分の中にこそ、ダルマは存在し、
    そのダルマからの問いかけや、呼び声にこそ応えて生きなさいという、
    それが「生きる」ということへの私の責任なのだと言われているような気がする。
    どうでもいいようなこんなちっぽけな私が、このコトバを書き続けている。
    無為自然で七ヶ月だ。
    心配してくれているひとも居てくれた。
    あいつはもうだめだと、見捨てていくひとが多かった。
    そんな中でも、今、ここで私は生きている。
    Cさんが、半年ぶりに「飲もう」と言ってくれた。
    嬉しかったなぁ。忘れられていなかった。こうして飲みにまで誘ってくれた。
    この修羅の道で生きていると、確かにダルマと共に生きているはずなのに、
    さまざまなひとの想いの中で翻弄されてしまうのだ。
    迷惑ばかりかけてきた、私だった。
    それでも、仏様は言うのだ。「自分自身に拠りなさい」と。
    ここに在る。でも、まだまだ私には分からないのだ。

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