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親父たちよ

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  • from: クマさんさん

    2012年06月30日 10時29分10秒

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    チーン。

    さて、一週間たった。
    何とも何ともどう行ったら良いのか・・・・。
    あらゆることは、元には戻らないのだ。
    ただ、流れ去るのみ。

    母のお骨が座敷の祭壇に安置されている。
    朝、起きるとすぐに母に挨拶に行く。
    声に出して話しかける。
    まずは、チーンである。
    「お母ちゃん、今日もお願いますね。」
    「お父ちゃんがよくなるように守っていてね。」
    「まだ退院の目途が立たないFのこと見守っていてください。」
    そこには、笑顔の母がいた。

    このチーンは、いろいろな場面で鳴らされるようになった。
    山の仲間のKさんがお参り来てくれた。
    チーン。
    「お母ちゃん、Kさんが来てくれたよ。」
    その日にあったことは、こうしてチーンで報告される。
    チーン。
    「今日、Nちゃんのテストがあります。勉強していません。見守って下さい。」
    とにかく可愛がった次男のことは、母にはいろいろと話している。

    さて、病院にはまだ妻と父とが入院中だ。
    昼からは二つの病院周りである。
    チーン。
    「しばらく留守にするっけ、留守番お願いしますね。」
    帰りには、宝町のお地蔵様にお参りをする。
    「母の魂の平安をお願いします。父の心の安らぐことを・・・・。」
    お地蔵様の顔をじっと見つめながら手を合わせる。
    すると、ごくごく自然に「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」と口にできる。
    通りがかりの人や車から見られていたって、何にも気にはならなかった。
    しかし、私は、こういう人では絶対なかったのだ。

    ある朝、お地蔵様に手を合わせ、頭を下げたら、
    何だかお地蔵様のお顔が、母に見えて驚いたことがあった。
    お地蔵様の心の声を聴こうとして、黙ったままじっと祈っていることもあった。
    すると、何だか自分がお地蔵様になり、お地蔵様に向かって祈っているような気になった。
    しかし、私は、絶対にこうして祈れる人ではなかったのだ。

    お任せする安心感とでもいうのだろうか。
    守られている安堵感とでもいうのだろうか。
    私は、このお地蔵様との出会いを通して、
    母と父と妻との入院生活を乗り越えていることができているようなのだ。
    それは、「お任せ」して、ちっぽけな私が何も「抱えていない」からだった。

    以前の私ならば、自力を頼み、何とか自分の力だけで解決しようと悪戦苦闘したと想う。
    想ったように何も行かず、次々と信じられないような状況に陥らされれば、
    そのたびに、「何で私だけが・・・」と、嘆き悲しんだことだと想う。
    辛さや哀しさをじっと内に秘めて、酒に逃げていたかもしれない。
    孤独の中でのこの状況では、きっと耐えられずに過度のストレスから、
    身体を壊して、私自身が倒れていたかもしれなかった。

    しかし、全てを任せ、委ねたのだから、
    よいことも、よくないことも、お地蔵さんのお陰様なのだ。
    私の我欲で物事を考えたところで、思い通りには何もいかないものだった。
    だから、私は私の我欲を離れ、自分を忘れて、お地蔵様に祈るだけにした。
    私の願いは、私がここでお地蔵様と出会う前から、ご存知なのだ。
    そして、人生にはこんな苛酷なことがあるのかというこの一連の試練こそ、
    私をこんなにもお地蔵様に近づけ、
    私の魂に眠っていた「信」を思い出させるきっかけとなってくれたのである。

    自分の身に起こった全てのことは、
    自分の責任や業のようにして考えて、抱えてしまうと人は絶望の闇に陥るものだ。
    あらゆることは、在るべきように在ることなのだ。
    それは全て、天の計らいによって為されることだから、
    人は、その渦中に居て、迷い騒がず、妄想や懐疑を抱かず、
    ただ、為すがままに任せておけばいいのだった。

    この40日余りの介護の日々で、私がこうして生き残り、
    淡々と日々の生活を送っていられるのは、
    全てのことを任せて、為すがままになり、
    疑念を抱いたり、拒んだりしなかったからだと想っている。
    しかし、私は、こういう人ではなかったのだ。

    こんな状況でありながら、「まあ、いいっか」とあっけらかんとしている自分がここに居る。
    しかし、この「まぁ、いいっか」とは、とても自由ですがすがしい生き方なのだともよく分かった。
    何よりも、こんな愚かな男を多くの人たちの愛が支え、心配してくれていることが実感として腑に落ちたことが無上の喜びだった。

    後は、怖がることはないのだ。
    お地蔵様は、私に、無畏という想いを施してくださった。

    「莫作妄想 修善奉行」
    「施無畏」

    そんな禅の言葉が、魂に落ちた気がする。

    チーン。
    「お母ちゃん、頼んだよ。俺の生き方をこれからも見守ってってくださいね。」
    「お母ちゃん、これからも俺のナンバーワンのファンでいてください。」
    チーン。

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    さけ 秋桜

  • from: クマさんさん

    2012年06月29日 11時01分46秒

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    弔問のお客様

    昨日が本当の初七日だった。
    もう一週間たってしまったのだ。
    先週の今頃は、母は座敷に白い布を被って横たわり、
    私は、3時〜5時過ぎまでのセレモニーの段取りと打ち合わせから解放され、
    未だ何が起こっているのか認知できないまま、
    現実逃避のようにぼんやりていた時刻かもしれなかった。

    本当に今回は、近くの親戚の叔母さんたちがありがたかった。
    とにかく、何から何まで初めてのことなので、
    叔母ちゃんたちに一つ一つ相談をして決めごとは、決めることにした。
    誰を呼び、お斎では、どのテーブルに誰がつくか。
    引き出物は何にするか。
    東京の人たちへの連絡とお迎えとはどうするか。
    父をどんな段取りで病院へ迎えに行くか。
    とにかく、細々としたことまで決めねばならないのだった。
    何事も相談なのだと改めて想った。

    昨日、家に居たら、いつもの移動販売の八百屋さんが訪ねて来た。
    私と同じ年くらいの男性が立っていたので、
    弔問に来た人かと思っていたら、木曜日にトラックで来る八百屋さんだった。
    母のことを告げたら、とても驚いていた。
    その動揺ぶりは尋常ではなかった。
    「お参りさせてもらえますか?」彼は、座敷に上がってお参りをしてくれた。
    「実は、私もこの五月に父を亡くしまして・・・・。」
    彼がこうしてお参りするには、そんなわけもあったのだ。
    親を喪った人の悲しみは、その悲しみを知る人しか分からないものだった。

    それから、昨日は一昨日のお悔み欄に母の名前が出ていたので、
    驚いて駆けつけて来てくれた人が何人かいた。
    昔、家族でお世話になった町医者のO先生の奥様が訪ねてくてくれた。
    O先生のお斎には、どういうわけか患者代表で父と母と私と妹が呼ばれた。
    それだけ、可愛がってもらったものだった。
    山本周五郎の「赤ひげ先生」その者の、頑固で一徹で真摯に病と戦った仁の人だった。
    そんな思い出話を何年振りかで奥様とした。
    O先生、喜んでくれたかなぁ。

    夕方、もう70歳を越えただろうか、ご近所の床屋さんが来てくれた。
    父にとっては、唯一の出かける場所で、
    髭を剃りに、毎週のように通った床屋さんだ。
    父の入院と母の死を知り、仕事の帰りに来てくれたのだ。
    父が脳梗塞でリハビリをしていることを聞きねとても寂しそうな顔で帰られた。

    その後に、ご近所の75歳の元中学校教師だったMさんが訪ねて来てくれた。
    杖をつき、靴を脱ぐのも大変そうなMさんは、
    2年前に奥様を突然癌で失くされてから、不自由な独り暮らしだった。
    改めて、こうしてお話したことが無かったが、
    北海道の息子さんの話や生前の奥様の話をしばらくして行かれた。
    寂しそうな横顔に、ついつい私は時間を忘れてお話を聞いていた。

    夕食を食べた後、次男の同級生でサッカー部の仲間だったTさんが、
    お母さんと一緒にお参りに来てくれた。
    小学生の頃、よく我が家に遊びに来て、母がとても可愛がったのだ。
    そのことを忘れられずに、お線香をあげに来てくれたのだ。
    実は、彼のお婆ちゃんも数年前に亡くなっているのだった。
    逞しくなった彼は、今度ガソリンスタンドでバイトするそうだった。

    さて、我が家に弔問に来てくれた人達の共通点が分かるだろうか。

    実は、みんな大切な肉親を亡くされたことのある人たちなのだ。
    床屋さんには、長年難病を患って逝った妹の同級生のお嬢さんがいたのだ。
    つまり、この悲しみを知る人たちなのである。

    君看ずや 双眼の色 語らざれば 憂いなしに似たり 良寛

    私の魂の憂いは、肉親を喪ったことのある人には、よく分かるのだ。
    だからこそ、こうして我が家を訪ねて、お参りしてくれるのだと感じた。

    私も肉親を喪った憂いの人の仲間入りをしたようである。
    これからは、憂いの人として、生きようとも想っている。

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    さけ 秋桜

  • from: クマさんさん

    2012年06月28日 11時11分54秒

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    24日(日)葬儀の朝はさわやかな風が吹いていた

    今日はもう木曜日だ。

    葬儀の日は、母らしく梅雨の中休み、爽やかな青空だった。
    前夜は通夜ということで、私は会場の前で、従兄弟たちと酒を呑んだ。
    母は、こうした騒ぎごとが大好きな人だった。
    きっと私たちのことを微笑みながら見守っていてくれたと想う。
    この午前0時の時点まで、私は一睡もしていないのだった。
    つまり、24時間ノンストップだった。

    母を語る。それぞれがそれぞれの母の思い出を語り合った。
    その物語の中に母はいた。
    本当に世話好きだった人だから、母への感謝しか言葉にはならない。
    私はいつの間にか椅子をくっつけて、その上に眠ってしまったらしい。
    目が覚めたら、祭壇の前だった。母の写真は、微笑んでいた。
    ふと朝になって気づいた。
    ひうか、今日で本当に母とはお別れになるのだなぁと。

    私は、かっていつか訪れるはずの母の通夜と葬儀の日のことを想像したことが在る。
    私には、きっと耐えられないだろうと、その時は想っていた。
    しかし、現実は、私が全てを進めて行かねば何もできないのである。
    気を確かに持つ。
    母は、そんな二日酔いの私を励まし、応援してくれているようだった。
    通夜の時から感じられていたことだが、
    何だか母の通夜でありながら、母が傍に居てくれているような気がしてならないのだった。
    遺影は祭壇に花に囲まれて飾られてあり、棺桶には母の身体が横たわっている。
    なのに、何だか母は、向こうにいないでこっちに居てくれるように感ずるだった。

    その感覚が私には予想外だったのだ。
    悲しみとは、死者からの呼び掛けに生者が応えることだそうだ。
    私は悲しみの中にはいなかった。
    いや時にはこみ上げて来て、どうにもならないこともあるが、
    いつもは悲しみの中には居ないのだ。
    喪失感と言うものでもなかった。
    こうした親戚を挙げての騒ぎごとでは、いつもいつも母が率先して動いていたものだ。
    何だか、いつものように、ああだ、こうだと言って動きまわっている母が、そこに居るようなのだ。

    母は、不在ではない。
    事前の打ち合わせが行われた。
    私は気が張っていたので、疲れも眠気も感じなかった。
    とどこうりなく全てのことが行われることを願っていた。
    11時に受け付けが始まり、参列の人たちが来てくれた。
    日曜日のお昼に申し訳なく感じた。
    母は、きっと参列してくれたお一人お一人に感謝の言葉をかけたはずだ。

    いよいよ読経が始まった。
    とうとう父は、病院からこの葬儀に参列することを拒否をした。
    妹夫婦が病室まで迎えに行ったが、「行かない」の一点張りだったそうだ。
    頑なにつれあいの葬儀への参列を拒む父。
    私は何とも腹立たしく、許せない者を感じた。
    父がこの横に喪主として座ってくれているだけでも、
    私の肩の重荷は少しは軽くなったはずである。
    こんな状況は、全く想定外のことだった。
    ぼんやりとぼんやりと読経が遠くで聴こえているような感じだった。

    いよいよ私の挨拶だった。
    命を削って家族の為に尽くした母の生き様を語った。
    母について人様に語るたびに、私は泣いてしまい、言葉に詰まってしまう。
    言葉にするということは、悲しみを新たにするということなのか。
    母の為に私は語り、母の為に私は泣いた。
    そんな私を、やっぱり母はすぐ傍で見守っていてくれているようなのだ。
    そうだ。私が語って泣いたのは。私が母に語りかけていたからではないだろうか。
    母に一番聴いてもらいたかった私の気持ちを、
    母に向かって語りかけたから、涙が溢れたのではないだろうか。

    いよいよ最期のお別れの時が来た。
    まず家族である私と妻と長男と次男が、花を母の周りに置いた。
    母は、死に化粧が美しかった。
    額に手をやると、とても冷たかった。
    「お母ちゃん・・・・。」
    私はその冷たい額に唇を付けた。
    こみ上げて来るものは、止めなかった。
    この母とは、ここでいったんお別れなのだ。
    親戚の人たちによって次々と母の周りに花が飾られた。
    いつまでもいつまでも名残が尽きない別れの儀式だ。

    この母に向かって「ありがとう」と言って、多くの熱い涙が流された。
    人は、泣来たい時は、泣けばいいんだ。
    母は逆に、一人一人に感謝の言葉をかけていたのではないだろうか。
    それほど気配りをし、気づかいをする母なのだ。
    母からの別れの言葉もきっとあったはずだと、今は想う。
    それから、棺桶の蓋は閉ざされ、
    私が先頭に立ち、家族が位牌と遺影と骨箱を持ち、棺桶は会場から運び出された。

    暑くも無く、寒くも無く。
    ちょうどいい案配の天気だった。
    父が不在の中で、私は母の棺桶を見送らねばならなかった。
    焼き場には、私はついて行かないことにしていた。
    34日のお経が上がるからだった。

    私は、絶対に耐えられないであろう現実から、逃げたのかもしれなかった。
    私は、見届ける自信がなかったのだ。
    焼き場での最期のお別れをして、あの扉が冷たい音を立てて閉まり、
    ゴーっと言う焔の音が聴こえることに・・・・・。
    私は、その瞬間発狂してしまうのではないかと、想っていた。
    取り乱して何をしでかすか分からない自分を知っていた。
    その瞬間には、私は自分でなくなり、
    閉ざされた扉にすがりつくのではないかと想っていた。

    泣き叫んでも、戻らないのだ。
    棺桶の蓋であり、焼き場の鉄の扉だった。
    その瞬間、「ありがとう」の数知れぬ声が響き渡り、
    祈りと共にすすり泣き、声を挙げて泣く、その切なさに充たされたと聴く。
    妹はどうなってしまうのかと周りの人たちが心配するほど、取り乱し、
    崩れ落ち、肩を震わせ、「お婆ちゃん」と叫び、嗚咽したそうだ。
    そんな中で、次男はじっと下を向き、こみ上げて来る涙を堪え、
    ぐっと唇を噛みしめていたと、従兄弟から後で聴いた。

    これほど深く、激烈な悲しみはないことだろう。
    私は、その壮絶な悲しみの瞬間に立ち会わされることから逃げたのである。
    しかし、私はこのことを決して後悔はしていないのだ。
    どうしてなのかは、私にも分からないが・・・・・。

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  • from: クマさんさん

    2012年06月27日 09時29分53秒

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    共に囲まれた通夜ぶるまい

    つくづくこの度、友とはありがたいものだと感じた。
    友とは、共なのだ。
    私の悲しみや辛さ、苦しみをやっぱり共に感じ、
    少しでも分かち合い、共に歩もうとしてくれる人たちなのだった。

    通夜に訪れてくれる弔問の人たちに、その友の顔を見て、心がとても楽になった。
    何年振りかに再会する友も居た。
    前の職場や地域なのに、忘れずに来てくれた友もいた。
    突然の訃報に慌てて駆けつけ、喪服ではない友もいた。
    その一人一人の想いに、私は頭が下がった。
    そして、私は自分が恥ずかしくなってしまった。
    私は、その人たちの友として心から共に歩んで来たのだろうかと・・・・。

    やろう会のメンバーは、原点の人たちだった。
    やろう会が生まれて8年目であろうか。
    私たちは確かに深くて固い絆で結ばれたよき仲間となった。
    地域で酒を呑める親父仲間を作ろう。
    「俺たちは、何も言わなくても仲間らてば。」
    その当たり前の関係が、実に実にありがたかった。

    東区市民劇団「座・未来」の仲間たちにも涙だった。
    有志による献花もあり、こうして通夜にまで参列してくれた仲間たち。
    共に劇を創造して来た仲間たちには、これまた深い深い想いがいっぱい詰まっている。
    なんたって、劇の稽古が始まれば、どれだけ一緒居る時間が長いことか分からない。
    お互いに心を開き、裸になって、信頼し合わなければいい劇はできないものだ。
    そんな創造の友が居ることが、ありがたかった。

    そして、昔からの友たちには、懐かしさと共にここまで支え助けてくれたことへの感謝でいっぱいだった。
    共に確かに生きて来た。
    馬鹿なことばかりの私の人生をまっとうにしてくれたのは、母とこの友たちだった。
    一緒に山に登り、山小屋で大酒を呑んだ。
    友と共に共有した時間は、私にとってはかけがえのない時間だった。

    町内会の人たちもたくさん来て下さった。
    隣りの町内からの参加もあった。
    これも全て母の人徳の為せる業である。
    母にお世話になり、優しく言葉をかけてもらった人たちが、ここに集っていた。

    通夜ぶるまいは、お陰様で盛大だった。
    85歳の母の通夜だが、80名以上の人たちが集い、飲み、語り、
    和気あいあいと通夜をしてくれていた。
    ありがたかったなぁ。本当にありがたかったなぁ。
    やっぱり人は、生きている間なのだ。

    賑やかなことが大好きな母が、この会場の様子を見て、
    ニコニコと楽しそうに笑っている顔が見えるようだった。
    共に生きる生き方こそ、死んでも残る生き方なのだと、
    私は、母からしっかりと教えられた気がした。

    この場を借りて、深く深く御礼申し上げます。

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  • from: クマさんさん

    2012年06月27日 08時49分55秒

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    母は何処に居るのか?

    母は、その間にどこに居たのだろうか?
    母は納棺され、座敷に横になっていたが、
    どうしても私には、そこに母が居るという実感がなかった。
    まだ現実で行われている出来事との認識も確かではなかった。
    確かにこの真っ白な布で包まれた棺桶に横たわっているのは、母である。
    しかし、母ではない母なのだ。

    母は、きっと私を見つめているはずである。
    いや、父の病室に居て、父のベットの脇に佇んでいるのかもしれなかった。
    母は、この身体を離れることで、この身体に限定されない人となった。
    想いを持つ人の魂に、母は現われ、微笑み、語りかけ、交信する。
    母を想起することで、母は母として現われる。
    実に、ほんの身近に母を感ずることがあるのだった。
    私は、母に語りかけていた。
    それは、「ばあちゃん・・・。」であったり、「お母ちゃん・・・。」であったりする。

    あれっと想った。
    こんなにも生前、母と向き合って話しかけていただろうかと。
    「お母ちゃん、居てくれよ。」
    「お母ちゃん、これからも守ってくださいね。」
    そんな語り掛けは、ごくごく自然なのだった。
    対話すらしていることもあった。
    それは、私が勝手に想像する幻影だとは私は想ってはいない。
    母からの呼びかけがあるから、私は語りかけているのだ。

    とにかく、超特急で通夜と葬儀との段取りが決められた。
    東京から従兄弟たちが来てくれた。
    会いたい会いたいと母も願っていた従兄弟たちは、
    この日に新潟を来訪した。
    しかし、母はとてもその訪れを喜んでいるように感じた。
    90歳の母親を独り残して、単身名古屋に居る従兄弟も来た。
    彼のことを、母は我が子のようにいつもいつも心配しているのだった。
    母の想いが、彼や彼女の魂には確実に伝わっていた。
    ここからは、つながる対象とは、目には見えない魂と魂となのだ。
    それも、生者の魂と死者の魂との交信・交流なのだ。

    みなは、それぞれの母を胸に描いていた。
    そこには、心があるだけの数の母の愛が存在していた。
    母は、独りではなく、同時に幾つもの心の中で想起され、存在していた。
    その母の愛が、この従兄弟たちを遠方から呼びよせたのである。
    母は、このそれぞれの心に今でも存在し、呼びかけ、力になっている。
    今でも、母は励まし続け、母はその無償の愛により感謝され続けている。

    「ありがとう。」その言葉を捧げられる人が、母だった。
    その「ありがとう」には、人それぞれが恩と感じた母の行いが存在していた。
    母は、どれだけの種を捲いて来たのだろうか。
    その種は既にしっかりとそれぞれの魂に根付き、芽を出し、成長を遂げている。
    母から受けた施しや言葉は、けっして喪われたり、消えたりしないものなのだ。
    これですと、差し出すことはできないが、
    目には見えない母の施しや言葉は、確実にそこに生きて、光輝いていた。

    私は、それが母の誇りだと感じた。

    祭壇が美しい花でいっぱいに飾られた。
    花が大好きだった母にふさわしい祭壇となった。
    また、生花のは15も両脇に並べられていた。
    圧巻のこの光景に、やはり母の生涯の誇りを感じた。
    母に対する感謝は、花と言う美しさとなり、ここいっぱい輝いていた。

    私は、何度も式場に足を運んだ。
    中央に飾られている母の写真を見つめた。
    待てよ。やっぱり母は、ここにはいないよなぁ。
    もちろん棺の中にも母の身体はあっても、母は居ないのだった。
    私は、母を探しながらも、母は探さなくともすぐ傍に居てくれるように感じていた。

    病院の父には、通夜のことは知らせなかった。
    病院からストップがかけられたのだ。
    急激な環境の変化と、母の死という苛酷な現実。
    長時間の緊張には、父の精神も体力も耐えられなくなっているのだった。
    誰が予想しただろうか。
    母の通夜に父が居ないということを。

    私は、喪主になりかわって一切を仕切らねばならなかった。

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  • from: クマさんさん

    2012年06月26日 22時15分30秒

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    夜中から夜まで、ノンストップだ

    さてさて、怒涛と激動の三日間だった。
    全てのことは全力疾走で、そして、やり遂げるための全力投球で。
    しかし、思い出すこともできないほど、
    これでもかこれでもかといろいろなことが次々と押し寄せて来た。
    しかし、乗り切るためには、力を抜いて対応する必要があった。

    母が、我が家に帰って来た。
    そりが夜中の3時くらいだったろうか。
    そこから、セレモニーを実に親切なお兄さんとの段取りが始まった。
    とにかく、何が何だか全く見当のつかない男なのだ。
    セレモニーの人だけが、これけから先の道案内だった。
    会場を決め、今後の決めごとの手順を教えられ、
    それを、その日の朝までに仕上げねばならなかった。

    夏至の近くである。
    4時前には白々と夜が明けて来た。
    それでも、この話は終わることはないのだった。
    棺桶の値段。お斎の料理の値段。引き出物は何にするか。それを書く用紙はどのように記入するか。
    とにかく、落ち度のないように細かな仕事の指示が入る。
    その一つ一つを決定して、渡さねばならないのだ。
    いつしか、6時近くになっていた。
    本日は、徹夜である。
    母は、座敷で眠っていた。

    騒ぎことでは、親戚の人たちのいろいろな想いも絡んで来る。
    まず、ゴットマザーの意向に沿ったものにしなければならないのだ。
    だから、何でも相談、相談、相談である。
    母は、この親戚のおばちゃんたちのリーダーであり、コーディネーターであった。
    叔母ちゃんたちの喪失感と不安感は、近くに居る私にはひしひしと伝わって来た。
    何事も、K叔母ちゃんに相談して決めた。
    従兄弟たちの全面的な支援を得ることもできた。
    まず、いつ・どこで・だれが・何をなのである。

    その日のうちに、納棺の儀式が決まっていた。
    私は、眠らないでいることで妙に興奮状態のまま、
    昼食のドライカレーを自分で作っていたら、
    「おくりびと」が美しい女性を連れてやって来た。
    親戚の叔母たちも午後一時を目途に集まって来てくれた。
    これから、我が家の座敷で納棺の儀式が行われるのだ。

    死者を死者として、死出の旅に出る支度を整えるのが納棺師の役目だった。
    お兄さんが一つ一つの技を何故するのかと説明があった。
    「なるほど」と、合点がいくのは、私も日本人の一人だからだろう。
    真っ白い着物に着替え、母に孫たちが足袋をはかせていた。
    脚絆を手の甲に捲き、五円玉の描いた紙を入れたズタブクロの紐は、
    決して落ちないように玉結びにするのだった。
    全ての所作が日本人的なのだ。
    ここに日本人としての文化があったことを、改めて知らされた。

    生前の美しさを取り戻すために、死に化粧をした。
    白粉を塗り、眉を描いたり、唇に紅を差したり、髪をとかしたりした。
    母は、極端に痩せてしまったので、頬には綿をつめてもらっていた。
    元の病気前の母の顔に戻ってきた。
    私は、その変身ぶりに目が点になっていた。
    それはそれは、見事なものだった。
    映画「おくりびと」にも登場したあれだった。

    「いかがでしょうか。」
    そう問われて、私には言葉がなにかった。
    「お母ちゃん・・・・。」まさに、ちょっと前の若き母なのだ。
    しかし、どこか違和感があったので、
    「唇の紅をもう少しお願いします。」
    妻は、
    「眉毛をもう少し、お婆ちゃんは、眉毛を描いていたと思います。」
    そのアドバイスを受けて、美しいお姉さんが、筆で紅を付け、眉毛を描いた。

    まいったなぁ。そこには、母がいるのだった。
    その母の美しさに、感動だった。
    そして、母はみんなの手により、棺に納められた。

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    さけ 秋桜

  • from: クマさんさん

    2012年06月22日 07時31分38秒

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    6月22日(金) 午前1時40分

    母が、逝った。
    午前1時40分だった。
    安らかに、眠るようにしてすーっと息を引き取った。
    実に見事な最期だった。

    担当医のS先生が駈けつけてくれた。
    二人で願っていた眠るような最期の瞬間だった。
    S先生がベッドの脇に立つと、しばらくしてから血圧計がすーっと下がり0を示した。
    0のまま、私たちは息をしなくなった母を見つめていた。
    私は、あんまりにも母の見事な最期の姿に、心からの感謝を込めて拍手を送った。
    その拍手を母は聴いてくれただろうか。
    「ブラボー」と声に出し、母の人生を賛美した。

    見事な人だった。
    まさに、かく死になさいとでもいうように、私に最期の教えを伝えて行った。
    母は、身体だけの母となってしまった。
    私は、病室のどこかに居るはずの母を探した。
    そして、母は、私の心の中に居るのではなく、私が母の心の中に生かされているのだと感じた。

    私は、たった独りの母の死を体験した。
    昔、私は母との別れの場面を思い浮かべたことがあった。
    その時は、絶対に取り乱し、大声で泣き叫ぶのだと想っていた。
    しかし、現実は、じっと母だけを見つめた。
    そして、母が死者となり、ここからどのようにして存在するのか見届けようとしていた。
    これが親との別れなのか・・・・。

    看護師さんたちが体を拭いて、支度をする間、ロビーのソファーに座っていた。
    未だに、何が起こったのか分からないまま、時が過ぎて行った。
    現実味のない感覚とでも言うのか、何だか映画のワンシーンのようだった。

    12時15分頃だったか、枕もとの携帯が音を出して震えていた。
    「はい・・・、Sです。」と言うと、相手はK病院の看護師さんだった。
    「血圧が下がり、様態が急変したので、すぐにご家族の人に・・・。」
    私は、その時が来たことが、信じられなかった。
    しかし、現実とはかくも苛酷な事実が突然やって来るものだ。
    妹に電話し、タクシーを回してもらうことにして、次男を起こした。
    長男に電話して、五十嵐からタクシーで来いと言うと、
    「どうやってタクシーを呼べばいいの」と来た。

    病室に入ると、やはり人が死んでしまう直前の異様な空気感に満ちていた。
    「ああっ、今夜、逝くな。」
    モニター画面には、血圧が表示されていた。
    92位からからだった。まだ大丈夫ではないかとは思ったが、
    心臓の波は激しく乱れ、測定不能の表示が出ていた。
    叔母たちが次々に駆けつけてくれた。
    長男もタクシーに乗って登場した。
    病室には総勢12名の団体が、みんなで母の名を呼んだり、感謝の言葉をかけたりしていた。

    私は、5階に向かい、夜中なのだが、看護師さんに頼んで父を車椅子に乗せて連れて来た。
    4階に来たとたん「ションべん」と言われて、慌ててしまった。
    父は、すでに立つのがやっとの人になっていた。
    父は、現実が理解できないようで、母の手を握りながら戸惑っていた。
    「ばあちゃん。ばあちゃん。」その言い方が、切実だった。
    母は、今あれだけ好きだった父をこの世に置いて旅立たなければならないのだ。

    酸素マスクの下で、口を開けて荒く息を吸ったり、吐いたりする母だった。
    しかし、父にはきっと母の声は聴こえたはずだろう。
    父は情けなくもしゅんとなり、頭を垂れてじっとしていた。
    父は、父で、母に心で誓うものがあり、この瞬間から生き方を変えるはずだ。

    母は、逝ってしまった。
    父も、いずれは逝ってしまう。
    それは、私も同じである。

    母の遺体がセレモニーの職員にエレベーターで運ばれて1階に降りた。
    そこに、S先生が立っていてくれた。
    私とS先生は、車から後ろの座席に母の体が入れられるのをじっと並んで見つめていた。
    長い長い闘いだった。
    二人は、本当に母が大好きで、母を何とか生かしてあげたい二人だった。
    しかし、延命治療はしない。眠るように最期を迎えることを願っている二人でもあった。

    以心伝心。
    本当に最期まで見事に命を燃やして全うした母の人生に、
    実は二人は敬意と感動とをもって母を見つめて立っていたのだ。
    母を支え、母を励まし、母を生かそうと努力した、私たちは同士だった。
    しかし、反対に母に支えられ、励まされ、生かされていた二人だったかもしれない。

    後部座席に座り、後ろを見ると、S先生が小雨の中で立っていた。
    私は深々とお辞儀した。
    車がゆっくりと走り出すと、S先生が深々とお辞儀していた。
    私は、その姿を見て、母は深く深く愛されていたのだと感じて、
    涙が止まらなくなってしまった。

    この母の尊厳に満ちた最期の姿に、私たちは感動してやまないのだった。
    人間は、やっぱり凄いものだと、私は改めて知った。

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  • from: クマさんさん

    2012年06月21日 21時46分17秒

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    厳しい介護問題

    現実の話をしよう。
    母が入院してから、今日で三週間たった。
    激変して、脳梗塞で言葉を失くし、血圧が100代で安定しながらここまで来た。
    末期の肝臓癌であることを叔母たちにあかし、
    全面的な協力を得てから二週間だろうか。
    毎日3時過ぎになると、体がだるくなり、後頭部に頭痛があり、
    椅子に座っていることも難儀になった。
    これまでの疲れが蓄積されて、ピークに達したようなのだ。

    病院に居ると、一日はあっという間に過ぎてしまう。
    本日は、母の病室に5名の叔母たちが集結した。
    90歳のアイさんは、何と小新からバスを三本乗り継いでここへ来てくれる。
    昨日の母の様態が思わしくなかったので、緊急招集だった。
    実に、実に、頼りになる叔母たちなのだ。
    個室は、叔母たちが占拠した。
    母は、叔母たちと私の会話に笑顔だった。
    こうしてみんなが集まると、楽しいものだ。

    1時から父の担当の医師からの説明があった。
    父は脳梗塞のための点滴が昨日からなくなった。
    後は、服薬による治療と予防だった。
    脳の血管がもろくなっているので、注意する必要があるそうだ。
    父は、重病人の階から回復を目指す人たちの居る5階に部屋を移動するそうだ。
    「いよいよ、その時は来たのだ。」

    1時半から病院のケアマネージャーの女性と1時間近く話し合った。
    それは、父の退院後の受け入れ先についてだった。
    ここからは、現実的なシビアーな話をする。
    父が自宅に帰ってきたならば、自分で歩いてトイレも行けず、着替えもできない状況だから、
    必ず誰かが介護をしなければならないのだ。
    父は、とても我儘なために、自分の思い通りにならないと、誰彼となく怒鳴り散らした。
    看護師さんにも、酷い言葉を浴びせている。
    自宅で父の介護をしながら、怒鳴られていては、さすがに私も身がもたない。

    公的な特養や介護施設は、重度の人たち専門で、何百人もその空きを待っている状態だと言う。
    また、父のように歩けたり、独りで食べられたりする人は、対象にはならないのだそうだ。
    父は、軽い認知症でもあるらしい。
    ちにかくイライラとして、相手の気持なんぞお構いなしに、怒鳴っている。
    つまり、公的な施設は父を受け入れる場所はないのだ。

    次に、民間の居住型の介護施設がある。
    要介護2の父でも、ある施設は一か月に20万円かかるそうである。
    父の年金が15万円だから、そこへ入ったら家族は月々5万円を負担しなければならないのだった。
    そんな余裕は、我が家にあるはずがなかった。
    しかし、現在父がディで通っていた施設ならば、
    この年金の金額で収まるようである。

    ただし、ただし、である。
    契約に際しては、施設の担当者と事前の審査があるらしい。
    その時、「こんげな所、俺は行かない。」
    「何でお前が居るんだ。俺はお前の所なんぞいかねぇぞ。」
    「絶対に家から出ないからな。帰れ、帰れ。」
    父が興奮状態でその担当者を怒鳴りつけることは、目に見える。
    まず、この施設、本人が希望していなければ入れないことは、当たり前だよね。
    「俺は、そんげなとこへは行かない。家に居る。」

    そうだよね。父の気持ちはよく分かるよ。確かにそうしてあげたいよね。
    私は、ケアマネージャーさんの前でどこにも預ける選択肢がないということに気づき、涙が出てしまった。
    私は、現在精神的にも体力的にもMaxで、これ以上抱えたらぽきんと折れる状態なのだ。
    父が、ちっとばか大人らったら、
    「兄ちゃんに迷惑はかけないて。俺は、俺のことらっけ自分で決めるて。」
    「そんげに苦しむな。大丈夫。俺は自分からどこでも行くれ。」
    私は、そんな父親ではない我儘放題の父を見て、
    情けなく、涙が流れる。

    私が突然心筋梗塞や突発性の病気で倒れても、自分は家に居たいのだろう。
    例え私がどうなろうとも、自分の我儘は通したいのだ。
    母が居ればそれでいいのだ。
    父は母に甘えて母に全部やってもらい、ことごとく文句を言っていればすんでいたのだ。
    それて、同じことを私にしようとし父はしている。
    私が昼間居ない時には、家中を探して日本酒を発見することだろう。
    後は、独りで好きなだけ飲み、また倒れて脳梗塞なのである。

    政治とは、本当に冷たいものだと想う。
    団塊の世代なのだ。
    なのに分かり切っているのに、特養や介護老人施設は満杯で入れないのだとむ言う。
    電気よりも介護を求めても行くあても無く、待ち続けられる老人問題をどうして解決しようとしないのだろうか?
    シビアーな現実とは、介護を求めている本人や家族が、介護を求められない現状なのだ。

    叔母たちは、私が倒れてはいけないと、父の説得に全面的に協力してくれる。
    妹は、父が可哀そうだと、まで想っている。
    しかし、この介護の問題は一時的な「かわいそう」では、絶対に乗りきられない問題なのだ。
    切実に介護を求めている人に、施設は門を固く閉ざしている。
    これは、貧困な政治と愚かなる行政の為せる技なのだ。
    施設があっても、入れずに何百人も待っている状態を異常だと感ずる感性が、
    政治家にも、役人たちにもなくなってしまったているのだろう。

    現状は、こんなに冷たいものなのだ。
    退院して、行き先のない父は、我が家に帰ってくるだろう。
    母は、すでに父の傍にはいないのだ。
    日々、日々、日々、我が家は修羅場と化すだろう。
    父は、好き勝手に生き、私を怒鳴り、酒を飲み、暴れ、毎夜闘いの日々であろう。
    デイには行かないと言い、出勤時刻になっても私は頑固な父を説得していることだろう。
    行かなかったら、日中82歳の父を我が家に独りで置くわけにもいかない。
    私は、仕事を休まねばならないのだろうか。

    いかに、この日本が老人問題について貧困な手立てしか為し得ていなかったかよく分かった。
    私は、どうしょうもなく困っているのだ。
    なのに、在宅と言う選択肢しかないというこの苛酷な現実。

    ほとほと日本の将来の暗さを目の当たりにしたような気がした。
    しかし、どんなことがぁっても家族は何とかしなければならないのである。

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    さけ 秋桜

  • from: クマさんさん

    2012年06月21日 09時24分28秒

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    父のこと

    朝食の片付けけをして、洗濯機を回し、ここに向かう。
    今朝は、オムレツを次男のために作った。
    料理の段取りと腕とは少しずつ上がって来ている?
    次男が私の料理の判定員だ。

    そんな生活だったが、だいぶ疲れが溜まって来ている。
    昨日は午後から疲れ切っていたので、
    母のベッドの脇に断熱マットを敷いて、
    そこに横になって休んでいた。
    私の方も限界に来ている部分があるらしい。

    父が、昨日は2回母の病室に来た。
    11時に栄養士さんからの指導を私と父とで受けている間も、
    イライラと怒ってばかりいた。
    早く母に会いたいと言う気持ちからのようだ。
    私は、何度も説明してくれる栄養士さんに謝った。
    昼食前の短い時間だったが、
    それでも父は母のベットの脇に車椅子で来て、母の手を握っていた。

    母は、目を少し開けるだけになった。
    さすがに、父の呼び掛けには反応するが、すぐにまた目を閉じる。
    聴こえて、その想いは確かに届いているはずだが、
    母からの反応は、だんだん薄れて来た。
    父は、母に苦労ばかりかけてきた。
    母は、そんな父を優しい人だと赦してきた。
    父は、こんなはずではなかったと、嘆き悲しんでいる。
    母も、そんな父を置いて行くわけにはいかないと想っている。

    母の身体がまた少し小さくなり、呼吸も少し浅くなった。
    それでも、ここに母が息をしていてくれる。
    母の手を握ると、まだ温もりを感ずる。
    ここに居るのは、母である。

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    さけ waka 秋桜

  • from: クマさんさん

    2012年06月20日 09時24分47秒

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    11(火) 魂の対話を

    次の日の朝、父は「行く」と、言ってくれた。
    妹が自宅に居る私に電話を寄こした。
    気が変わらない内に連れて行くように言って、
    私は、すぐに病院に駆けつけた。

    父は、現実を受け入れるまでにとてもとても時間がかかった。
    「どうしてこんなことになってしまったのか。」
    動かなくなってしまった身体の障がいを認めたくはなかったのだ。
    私が行くと、とにかく私を睨んで、怒鳴ったものだった。
    「何でこんげなとこに入れたんだ。」と。
    看護師さんにも怒鳴ることがあった。
    私は、父が興奮し、拒絶する気持ちも分からんではない。
    しかし、この状態では母に会わすことは、
    父の精神状態の危険を増すような気がして躊躇していたのだ。

    母の病室に、車椅子で父が入った。
    変わり果ててベッドに横たわっている母を見てね
    父は少なからぬショックを受けたはずだ。
    「どうしてこんなことになってしまったんだ。」と、
    この厳しい現実に直面して、言葉を喪っている。
    どうこれわ理解したらよいのか、分からないのだろう。

    しかし、母の手をとり、父は語りかけていた。
    「ばあちゃん、どうしてしもたんだ。」
    すると動かなかった母の手の指が動き、
    母が父を見て何かを語ろうと唇を小刻みに動かすのだった。
    ぱっと見開かれた瞳には、聖性とした輝きとともに、はっきりと母の意志がかんじられた。
    やはり、母は、父のことばかりを待っていたのだ。

    ここから、私たちには聴こえない、魂の対話が二人で交わされた。
    「お父ちゃん、大丈夫らけ。」
    「お父ちゃん、ちゃんと先生の言うこときくんだよ。」
    「お父ちゃん、歩かねと、歩かんねなってしまうんだよ。」
    母は、死に逝く自分のことより、父のことばかり心配していた。

    父は、母にそれこそ甘えっぱなしの人生だったる
    母は、父を甘やかしてきた人生でもあった。
    「お父ちゃんを置いて、私は死なない。」
    「俺を絶対に置いて行くなや。」
    それが夫婦なのだろう。
    父は、何も言えなくなった母の掌を撫でながら何を想っていただろうか。

    言葉では伝わらない。
    想いだけが相手に伝わる。
    父は、母に謝っていたかもしれないし、母は笑って赦していたかもしれない。
    二人はどんな光景を想像し、
    どんな想いを交わしているのかは二人しか分からないことだった。

    しかし、あの日に帰りたいねぇと、きっと想っているはずだった。
    父の朝食を作り、一緒に食べて、お茶を飲む。
    炬燵に入って父と会話し、父の薬の世話をする。
    動かない父を連れて、二人で医者に行く。
    そんな本当に何気ない日常が、どれだけ貴重な時間であったか、
    そのことに、人は喪ってから気づく。
    出来るならば、戻してあげたい。

    想いと想いとがつながる出会いだった。
    語る言葉は父にはなく、母は言葉を語ることができない状態だった。
    それなのに、二人には深く深く語り合うことができるのだ。
    その語り合えるつながりこそ、本当に意味での「言葉」のつながりなのだと教えてもらった。
    人と人とは、言葉が無くともつながれるのだ。
    いや、言葉が無いからこそ、人と人とは、魂の「言葉」でつながることができるのではないだろうか。

    沈黙の二人の温かな対話を見て、
    私は、きっと母が安心して、父をいっそう愛おしく想っている声が聴こえるような気がした。
    「おとうちゃん・・・・。」
    ここに万感の想いがこもっているのだ。

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