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  • from: クマさんさん

    2012年03月04日 07時21分18秒

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    優しさのスイッチについて

    左膝のじん帯を痛めたようだ。
    あれだけ山に登り、どかどかと猛スピードで山から降りて来た膝なのに、
    先週の久しぶりのジョギングでやられてしまったようだ。
    無理をしたつもりはなくても、やっぱり体は正直なのだ。
    階段を登るたびに痛みが走る。
    山に登れなくなってしまったらどうしよう。
    情けないが、年を感ずる。
    せっかくの曇りの日曜日の朝なのに、LSDはお休みだ。
    走れなくなってしまうと、走れた日々がとてもありがたく感ずる。

    傍に居てやりたい。
    そんな想いになる時は、その人の心が弱っていたり、体が疲れていたりする時だ。
    傍に居てもその心の痛みや疲れが取れることはないかもしれない。
    でも、心配だから。何とかしてあげたいから。声をかけてあげたいから。
    そんな想いがあるから、傍に居てやろうと思うのだろう。

    そういう優しさは、全ての人にはあると思う。
    優しくない人など一人も存在しないのではないだろうか。
    ただし、その優しさを自分の中で発見するためには、
    どういうわけか人と出会い、
    優しさスイッチをONにするチャンスに恵まれなければならない気もする。

    父や母から優しく育てられた子は、きっと何かを自分で理解し始める頃に、
    優しさを当たり前のようにして実行しているだろう。
    優しさとはこの胸の中や丹田の中に生まれながらに存在し、
    自然と湧きあがり、感ずるものだからだ。
    生まれながらにして在るものなのに、
    自覚されず、認知されず、使われない場合も人には多い。
    そういう人は、人として悲しくなってしまう。

    私は、左膝の痛みで階段を一段一段登ることが苦痛になった。
    手摺のない階段を登る辛さもよく分かった。
    自由に歩けなくなったことの苛立ちと焦りとも感じている。
    このまま治らなかったらどうしようと、不安にもなっている。
    その時だ、私の中でのある優しさスイッチがONになったのは。
    母が長らく膝の痛みで難儀していたことがある。
    それでも山ノ下市場に買い物に出かけ、
    重い荷物を両手にぶら下げて帰って来た。
    その一歩一歩の母の痛みと難儀さとが、
    この左膝が教えてくれたからだ。

    優しさスイッチは、人としての悲しみや、苦しみや、痛みや、絶望や、
    孤独を感じた人にしか入らないものらしい。
    この年になってからそのことが分かるようになってきた。
    「苦労した人は違う。」その言葉は真実だ。
    その立場に立ち、その人の靴を履いて歩いたことがある人だけが、
    その人を分かることができるからだ。
    だからこそ、人は人の辛さや哀しさを想像し、心が切なくなり、
    傍に居てやりたくなってしまうのだ。

    私は小学校の高学年の頃だったろうか、一本のアメリカ映画を観た。
    ロバートマリガン監督・グレゴリーペック主演の「アラバマ物語」だった。
    私はこの映画の真実に心を打たれた。その瞬間、確かにこのスイッチがONになった。
    まさにそれは神様からの啓示でもあった気がする。
    もし、この映画と少年時代に出会っていなかったら、
    私は人生の最も大切な教訓の一つと出会わずに生きて来たかもしれないからだ。

    それは、良心と真実の人である弁護士の父が娘に語る言葉だった。
    「もし、その人のことを知りたかったら、その人の靴を履いて歩きなさい。」
    この映画は南部アラバマでの人種差別を描いた映画だが、
    そこに登場する精神的な障がいをもった若者の語り方が素晴らしく感動的なのだ。
    この若者をデビュー間もないロバートデュバルが熱演している。

    私はその時から心がけるようになった。
    「その人の靴を履き、その人の痛みや辛さを少しでも分かる人になろう」と。

    この左膝の痛みが、また一つ足の痛みを抱える人の靴となり、
    その履き心地の悪さを私に教えてくれている。

    滂沱という言葉に気づき、突然どっと涙が流れた。
    私の傍に居て、いつもいつも私のようなちっぽけな者を心配し、
    涙を流してくれているのは、仏様だった。
    傍に居たのは、私でもあり、仏様でもあったのだ。

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