サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: クマさんさん
2012/07/06 10:09:42
icon
ここに居る
やっぱり最近は、死について考えることが多くなった。
死とは、全ての終わりなのか。
終わりなのだとしたら、その終わりとは何か。
しかし、観念的に死について考えていても、答えは出ない。
何故なら、死んだ人たちが語ることはないからだ。
しかし、私は、母を喪い、死についての身近な体験をすることはできた。
これまで、私が捉えていた死とは、やはり何か違っているのではないかと、気づいて来た。
死と死者とは違うのだ。と「魂にふれる」で若松氏が書いている。
私は、この一冊の本を読み終わるのに、何と二カ月もかかっていた。
死者の実存、魂の存在。
一つ一つの言葉に出会うたびに、先に進めなくなってしまうのだ。
それほど、この本は、この二カ月間の私の生活そのもののようだったのだ。
母は、居なくなってしまったのだろうか。
ああっ、もっと母の冷し中華食べておけばよかったなぁ。
ふと、今朝は、錦糸卵と細く切ったネギが山盛りの母の冷し中華が思い出され、
「食べてーーっ」と思ったものだ。
確かに、母の冷し中華は二度と再び食べることはできないだろう。
しかし、母は私や父に冷し中華を作れなくなったとしても、
母は、やっぱり私の身近で存在しているはすである。
チーン。は、やっぱり母に語りかけるための枕言葉なのだ。
母の祭壇の前に座り、遺影の母の笑顔を見る。
その裏には、母の骨箱が置いてある。
実は、私は未だに母の骨を見ていないのだ。
「お母ちゃん、あのね・・・。」と、まず日々の生活の報告をする。
「父ちゃん、弱っているから・・・」と、
一人一人の現状を話し、どうかその重荷を取り去るように力を貸して下さいと願う。
「頼りにしています。」「お願いします。」チーン。
こんな関係は、生前は考えられないことだった。
母は、母として我が家に存在していても、
在る意味、私たちを見守り、支え、励ましてくれる存在として、私の傍に居てくれるのだ。
私の身体をいつもいつも心配してくれる。
寝不足で身体ばかり酷使している私のことをいつもいつも「大丈夫らけ」と見守ってくれる。
私は、独りでこの母の通夜と葬儀と後始末、
父の入院から介護施設への受け入れまで毎日動きまわる日々だ。
妻は、3月までの診断書がついに出された。
退院の目途は、未だに立たない。
妻の病院にも行き、父の病院にも行く。
夕方は、スーパーでの買い物だ。
さて、私は、未だに倒れずにこうして生きている。
少々疲れが溜まり、ストレスが蓄積して、イライラすることもある。
そんな時は、地域の親父仲間がチョイ飲みに付き合ってくれる。
人は、独りでは決して生きてはいけないものなのだ。
この苛酷な状況の中で、私は多くの人たちの優しさに支えられて生きている。
私は、その支えを受け、甘えることを、感謝しつつ受け取っている。
お願いし、頭を下げ、力をもらって、今日だけを生き延びる。
しかし、それができるのは、母がここに居てくれるからなのだ。
絶対の無の中には、母は消えていないのだ。
私は、ここに居ながら、母に包まれていることを信じている。
私も、「魂にふれる」という実感を持ちたいとは願っているが、
その実感は、まだまだ感じられないようだ。
それならば、いったいどんな実感なのかと言うと、
それは、ただ「信ずる」ということなのだ。
母は、ここに居る。
私は、それを信じている。
だから、母には恥ずかしい生き方はできないのだ。
また、あれだけ私のことを認めて、褒めね自慢していた母の為に、
私は、これからも母の期待と希望とを担ってこの生を生きねばならないのである。
母は、いつでも私の魂と生き様とを「看る人」になったようだ。
私が、母には触れられないが、母は母から私の魂に触れ、語りかけてくれている。
母が亡くなってからのこの短い期間にも、いろいろと我が家には問題が起こっている。
それも人と人とのかかわりから起こるデリケートな問題だ。
どう選択し、どう決断するかで、深く傷つく人もいるかも知れない。
そんな局面に立たされると、やっぱり私は母と向き合う。
チーンで、母に語る。
私は、ある意味母に生かされる私となったのかも知れなかった。
生前は、こんなにも母には相談しなかった。
相談するとかえってやっかいになることもあったからだ。
しかし、今は、何でも母に話し、母の判断を聴き、共に考えることにしている。
こうして、私と母との関係が変わって来た。
私と母とはより信頼を深め、協同で歩めるよきパートナーとなったようなのだ。
「変わる」とは、「学ぶ」ことだ。
「学ぶ」とは、「体験」を通して、物の見方や感じ方が変わることだ。
私は、母の死を通して、母を体験した。
この私と母との新たな関係性は、母の実存をやっぱり証明してくれるのではないだろうか。
「母は、ここに居る。」
やっぱりそれは、目には見えないが、実感として存在しているのだ。
死んだら悲しいのではないのだ。
死んだ人の存在を忘れ去るから、死者である存在が悲しむのである。
魂の中で悲しみが感じられるときは、死者が魂に呼び掛けているときだそうだ。
昨日、区役所に行き、母の除籍を証明する戸籍謄本をもらいに行った。
家族全員の住民票からも、父の戸籍からも、
母は、除籍されていた。
しかし、それはこの世の籍のことだけの話だ。
母の籍は、鬼籍として初めから終わりなきいつまでも、その世界では実存するのだ。
人は、死なない。
死んだように見えるだけだ。
「ここに居る。」
それは、母が私に教えてくれたことだった。
私は、何だか怖くなくなってきた。
死とは、生きることのほんの一瞬の通過点に過ぎないのだ。
その先の魂の自由と実在の歓びと、溢れ来る愛を想えば、
ゃっぱり一日一日を生き抜くことには、意味があると私は思った。
世の中を見ず、母からの呼びかけを信じよう。
それが、本当の自由であると、今は思っている。
コメント: 全0件