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  • from: クマさんさん

    2012年07月13日 11時05分01秒

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    愛とは何か

    毎朝、叔母が壇の花の水を代えに来てくれる。
    「来週の日曜日で一か月だね。」と言われて、はっとなった。
    「そうか、もう一か月たとうとしているのか・・・。」
    母は、居ない。
    でも、まだ居ないと言うことが現実として受け止められていない。
    不在ではあるが、ここに居てくれるようにも感ずる。
    母が居なくても、月日は流れ、私たちは日々生きているのだった。

    ここから私は、何を学んだのだろか。

    最近、よく「愛」とは何かと考えることがある。
    すると、やっぱり母のことが思いだされる。

    いつもいつもあなたのことを想っている。
    何かにつけてはあなたを想い、どうしているだろうかと考えている自分。
    その時は、やっぱり自分はそこにはいなくて、あなただけがそこに居る。
    人は、想いをもって相手のことを考え、祈りをもって相手の幸せを願うものだ。

    あなたは、すごいよ。
    あなたは、私の自慢だよ。
    あなとのことを、私は心から尊敬しているよ。
    あなたのことを、大好きだよ。

    そうしたメッセージを贈り続けているのも、母だった。
    あなたは、私には尊い存在です。
    あなたがいるから、私はこの世を生きていけるのです。
    あなたが居てくれることが、私にとっては生きる力です。
    そんなあなたの夢が実現できるように、
    いつまでもいつまでも見守り続けるよ。

    失敗したって、いいんだ。
    くよくよしたって、いいんだ。
    泣きたい時は、泣けばいいんだ。
    力が出なく、暗闇に沈んだら、しばらくそこで休めばいいんだ。
    あるがままで、あるがままが、あなたらしくて、私は好きだよ。
    母は、駄目な私を認めてまれた。
    駄目になった私を、信じて、そのままにしておいてくれました。
    そのままでいい。そんな愛がある。

    何をしてあげたら喜んでもらえるだろうか。
    どうしたらみんなで幸せになれるだろうか。
    幸せとは、目には見えないものだが、
    幸せであることは、家族の笑顔を見たらよく分かる。
    幸せとは、触ったり、手に持ったりは出来ないが、
    一人一人が心の灯のように、ほっと温かな気持ちになることでよく分かる。
    その幸せを作る人は、自分が居ない人だった。

    あなたが幸せになるのなら、私には何もいらない。
    あなたの幸せそうな笑顔を見れるなら、私はどんなことでもする。
    あなたが幸せに生きられるならば、私はそれで幸せなのだから。
    自分のことは数には入れない。
    自分の分があれば、それはあなたにあげるものだ。
    あなたがそれを美味しそうに食べてくれるだけで、私は幸せになる。
    あなたが先。私はずっとずっと後でいい。

    いつも傍にいるよ。
    いつもあなたのことを離れていても心配しているよ。
    いつもあなたのことを想い浮かべているよ。
    それは、あなたへの想いであり、意志であり、ごくごく自然な働きかけである。
    傍に居て、あなたのことを想う人。
    その人こそ、あなたのことを一番大事だと想っている人なのだ。
    大事だと想われることが、大事なのだ。
    その人が居てくれることこそ、幸せなのだ。

    想うという言葉が、やっと少し分かりかけて来た。
    相手の心と書いて、想うという漢字が成り立っている。
    あなたのことをいつも心に思い浮かべること。
    あなたのことをいつも心に居抱き続けること。
    あなたのことをいつも心に想い、心配すること。
    そうやって真剣にあなたのことを想う時、人は自分が居なくなり、
    あなただけが全てとなる。
    やっぱり、思うではなくて、想うなのだ。
    私は、母のように想っているだろうか。

    自分はいらない。そういうことなのだ。
    あなたのためなら、死ぬこともできる。やっぱりそういうことなのだ。

    自分の為になることしかやらない人は、母とは正反対の人だった。
    人の為になることとは、自分にとっては損になることだと思う人とは、私は会いたいとは思わない。
    母は、自分がいらない人だった。
    その生き方こそ、母が私に生涯をかけて教えてくれたことかもしれない。

    母は、自分を捨てて、たくさん世の中に施したおかげで、
    何も分からずに、ほんのちょっとも苦しまずに、眠るようにあの世に呼ばれた。
    それは、母が仏様に愛されていたからだと思った。

    母のしてきたことは、仏様のしていることと似ていたのだ。

    お地蔵様に毎朝・夕、お参りしてよく感ずることがある。
    それは、この世で最も小さく、最も貧しく、最も愚かだと思われる人こそ、
    最も自分を捨てて、人の為に生きている人ではないかということだ。

    野の草は、誰が見るわけでもなく、誰が褒めるわけでもなく、
    それでも時節が到来すると思う存分咲き切って、
    時が来たら、何のこだわりもなく消えて行く。

    しかし、そのたった一本の草であろうとも、
    そこに根を張り、そこで芽を出し、茎をのばして、花を咲かせる。
    そこに満ち足りたと感ずる何かが存在するのではないだろうか。
    生きて、死ぬこと。
    それも、小さく、貧しく、愚かに生きて、死んでいくことかもしれない。

    ああ、そのことこそ、子供たちに教えるべき生き方ではないのだろうか。
    その草が大事にされる世の中は、その子が大事にされる世の中なのだ。

    母は、こんな愚かな一本の頼りない野草のような男を、
    じっと目詰め、見守り、その意味を尊重し、大切にしてくれた。

    その愛だけが、人を救い、人を立たせ、人を生かすのだ。

    私が体験したことは、このことだった。
    では、次に私は・・・・・。





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