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  • from: クマさんさん

    2012年07月22日 08時05分43秒

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    実感と重さ

    今日が介護休暇の最終日となった。
    何と二か月の介護休暇だつたが、あっという間の出来事だった。
    四つの課題が私には与えられた。
    ・母の入院と母の死
    ・父の入院と父の介護施設入所
    ・妻の入院と心のケア
    ・次男の世話と日々の生活

    人生こんなこともありますね・・・。と、人に言うことがあった。
    こんなにもいろいろなことが重なって、一気に起きるものだろうか。
    せめて、母や父や妻の誰か一人でも我が家に居てくれて、
    共に私と一緒に家族の為に働くことはできなかったのだろうか。
    母が居てくれたら・・・。
    それは全て、私の未練であり、私の愚痴でしかすきないことだった。

    人生は、在ることしか在りえないのだ。
    その在りえ方とは、私が決めるものではなく、決まっているものなのかも知れない。
    そこには意志があるのか。それを決める誰かがいるのかどうかは分からない。
    しかし、こんなに苛酷な試練の最中に、私が腑に落ちたことは、
    「何でこんなに酷いことが我が家に起こるのですか?」と、嘆くことはまったく無駄だということだった。

    起こったことは悲惨な事実であろうとも、
    それを嘆き、悲しみ、恨み、悪態をつき、責めたとしても、
    その結果、何も変わらぬばかりが、時間が刻々と過ぎて行き、
    ただ課題を解決するためのタイミングとチャンスとを見失うだけなのだ。
    「嘆かない。」「誰のせいにもしない。」「自分を哀れに想わない。」
    それは、どうしたって「仕方のないこと」なのだ。
    そのことが、やっと腑に落ちた。
    与えられた試練は、喜んで?受ければよいのだ。

    弱音は、どんどん吐くことにした。
    涙はたくさん流すことにした。
    「できません。」「分かりません。」「どうしたらいいですか。」
    とにかく頼りつつ生き抜いて来た。
    しかし、焦らないことにした。
    心の中では「ベストではないが、ベターでよい。」と、開き直ったからだった。
    だから、そんなに弱虫な私であっても、決めることは全部私が決めた。
    いろいろと周りからも言われ、言われずとも陰で言われることも多かったと思う。
    しかし、私は、私以下でも私以上でもなく、ただのこの未熟な私なのだ。

    私は、その私の未熟さを受け入れ、背伸びせず、格好を付けず、見栄をはらず、
    できることをできるように。あるべきことをあるべきように。
    ある意味、あるようになるように任せながら、一つ一つを処理してきていたようだった。

    私には、こうしなければならないというこだわりが一切なかった。
    社会的な常識を知らな過ぎることが良かったのかも知れない。
    「無知の知」である。
    私は、「知らない」「出来ない」「分からない」から入って行った。
    だから、とてもとても楽なのだった。
    人は、一人では生きてはいけない。
    特に、私のような弱虫は、やっぱり多くの人の愛と支援の中で生かされていた。
    私は、それを信じていた。
    些細な目先の現象の良し悪しに囚われることなく、
    どうせそんなものは二三日立てば忘れられるものなのだと、私から先に忘れることにした。

    何だかここまで書いて来て、
    「ああ、私は池田晶子氏が言っていたように、生きることが哲学であると気付き始めているなぁ」と、
    今回の体験を通して、客観的に己のことを想えるようになった。
    不思議なことだ。
    今までは、それができなくてくよくよと悩み、めそめそと泣いてばかりいた弱虫だったのに。

    今、私の体験を通して学んだことを言葉に記している。
    しかし、その個なるものは、一なる全てなるものにつながる個であり、
    個なる弱虫の体験は、実は大いなる普遍の体験となりうるものなのだと、
    こうして言葉が次々と湧き出るに任せて、この文を書いている。
    個の体験を実感と重みをもった言葉に表現する。
    体験とは既に在るあるが、言葉に置き直さない限り、在るものとはならないものだ。
    その体験が、人生にとっての「試練の学校」となるためには、
    その体験が私にとって何であり、そりがどんな啓示であったのか、
    「腑に落ちる」ことが必要なのだ。

    人は、分かる時、やっぱり言葉によって分かるのである。
    確かに、それは音であり、光であることもある。
    しかし、私は言葉によって分かることが多い。
    しかし、その言葉とは、ここで記すことで改めて新たなる実感と重みとをもった言葉である。
    つまり、言葉が私にとっての意味と価値とを変えてしまうのだ。
    そんな体験こそ、人には学びとして必要なのだと私は思う。

    さて、四つの課題の内、下の二つの課題は今日からも見通しのない将来まで継続される課題である。

    しかし、人とは、誰でもどんな時でも「試練の学校」の真っただ中に生きているのではないだろうか。

    そこで絶望せずに、光に向かって少しでも歩んで行くためには、
    人には、言葉が必要なのではないだろうか。
    私は、最近この言葉こそ、「愛」なのではないだろうかと想い始めた。
    それは、私の中に最初から与えられているもので、
    それは、私が私になる前からいつでもあったもので、
    それは、私が私でなくなった後も、ずっとずっとあるものだ。

    その在るものが、在ると言って、腑に落ちるためには、
    その在るものの存在を体験する必要があり、
    体験したにその体験を実感と重みとをもった言葉に表現する。
    すると、その時私が使わんとする言葉とは、
    私がこれまでに何気なく使っていた言葉ではなく、
    魂をもった言葉そのものとしての言葉として、私は出会うのだった。

    そんな言葉だけで、これからは生きたいと、実はこの体験から腑に落ちたのだ。

    生きるとは、体験を通して、真の言葉と出会う旅ではないだろうか。
    これからも、私は私の物語りを生きるのだと、何だかとても安心したものだった。

    池田さん、哲学って、こういうことでしたか?

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    さけ 秋桜

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