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  • from: クマさんさん

    2013年12月06日 00時34分32秒

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    心とは不思議なものだ。でもすべてのひとには心が与えられているのだ。

    「心に生ずるものは、何であれ手放すようにしてください」

    さて、執着である。
    それは、我執とよべるものであるかも知れない。
    これ以上の愛はないと想うことは、時には大いなる執着となる。
    愛別離苦と釈尊はそれを言っている。
    愛するものと離れなければならない苦しみ。
    愛すれば愛するほど、離れがたく忘れ難く、
    自分の身体の一部を切り刻まれるような苦悩を感ずるものだ。
    私は、その苦しみがよく分かる。
    それは、私をこんなに愛してくれた母を昨年喪ったからである。
    しかし、そのまま生きていてくれと願うことも、祈ることも煩悩であると、
    仏教では教えてくれる。
    ひとには、寿命があり、いつまでも生きることはできないのだと教える。
    いかにどれほど愛していようとも、離れるべき時には離れなくてはならないのだ。
    手放す時には、手放すことに躊躇しないことである。
    無常が真実な姿なのだ。
    心に生じたものは、無常なるものである。
    ならば、その無常を頼みとするのではなく、無常を無常とわきまえて、
    「さよならだけが人生だ」と、涙を流しながら手をふることなのだ。
    「手放す」とは、この無情な世の中に生きるためには大事な生き方なのだと教えられた。

    「ブッダとは、おまえさんの心の内に見出すものじゃ。ダルマ自身に話させることじゃ」

    さてさて、このコトバ通りならば、どうしてこんなに迷ってばかりの人生なんだろう。
    もはや、産まれる前からここにダルマがあるのならば、
    どうしてひとは、その存在に気づかずに、おろおろと修羅の道を歩いているのであろうか。
    ここにあるんだと、それは法華教の中にも確かに書かれている。
    救いとは、彼方に求めるのではなくて、ここにあるのだ。
    それは、釈尊のコトバでもあり、約束でもあった。
    しかし、何故にひとはかくも迷うものだろうか。
    しかし、やっぱりひとは愚かに迷うことによって、
    初めてそのダルマと出会うことも、法華教には確かに記されていた。
    私は、未だにわからないひととしてこの世の中に生きている。
    分かるひとは、ただ黙っていつかは必ず分かるだろうと、哀しみの瞳で私を見守っている。
    この心の中に在るブッタ。
    そのコトバは、すでに聴こえているはずなのだ。
    さて、どれだけ謙虚にそのコトバを聴くことができるか。
    それが、この世に生まれたひととしての修行なのかもしれないと、私は想っている。

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