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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2016年06月10日 06時00分26秒

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    アグリーコントロールについて考える

    日報の座標軸に「アグリーコントロール」のことが書いてあった。
    児童虐待をする親たちのイライラ感をどう解消するかの方法だった。

    子どもは言うことを聞かないものだ。
    言っても言ってもしてはいけないことをする。
    親の気持ちに反して、親が怒るような行動をわざわざとることもある。
    その度に、親は沸点に達して怒りだし、止められなくなってしまう。
    その結果、暴力や虐待が続く。

    それは、親が勝手に「こうあらねばならない」という、
    基準を一方的に子どもに押し付けているからでもあるとのことだった。
    心当たりは私にもある。
    「どうして片づけができないんだ。」
    「どうして脱いだものを自分でしまえないんだ。」
    「どうして食べた茶碗を片付けられないんだ。」
    子どものそんな行動一つ一つにイライラが溜まったことがある。
    それを教える時期であり、ある意味教えられなかったことであるのに、
    そうすべきだろうで、独り勝手にイライラとしてしまう。

    また、親に対する態度に腹を立てることもあった。
    「何で返事しないんだ。」
    「挨拶ぐらい、しっかりできる人になれ。」
    「どうしてそんな反抗的な態度をとるんだ。」
    親の沽券にかかわることに対しては、すぐカッとなることが多かった。
    しかし、そこから学んだ。
    そうやって育てて来たのは、誰なのかと。
    私と子どもたちとの関係は、私の父と私との関係でもあったはずだ。

    私は、いつの間にか、そんな私勝手の価値観で子どものことを裁いていた。
    それは、出来ないことに対する否定的な見方となった。
    私の父は、私のことをどのようにして見ていたのだろうか。
    その内に、私が代わりに掃除をして、私が代わりに片づけた。
    そしたらもっと事態が悪くなってきた気もしたものだが・・・・。

    いつもここには私の恥ずかしい話も書いている。
    それは、私にとっては懺悔でもあるからだ。
    今は、そう想わない。
    「彼は彼。私は私。ただし、言うべきことは言い続けよう」と想えるようになった。

    親は子を自分と一体のものと勘違いしやすい。
    「どうして私の言うことがきけないのだ」は、当たり前のことだった。
    それは、子どもは親と別の人格で、それなりに判断し考えて生きているからだ。
    それでは、親の本気の出番とは何かと言えば、
    子どもが大きな罪を犯してしまった時と、精神的な苦悩にある時だろう。
    その時こそ、本気で向かう時なのだ。

    ただし、ここで親の生き方そのものが問われている。
    「あなたは本当に親らしいことを私にしてきたのか」と。
    「親らしいことを・・・・」と言われて、ぐっと言葉が詰まる想いをする。
    私は、ちゃんと父親をしてきたのだろうかと。
    子どもはそうしたサインで、親の私の親らしさを問うている。
    そして、どれだけ自分に対する愛情があるのかを期待して待っている。
    その時、父親である私がすることが、
    親としてのリアルな私であり、
    子どもから認知される父親としての私の生き方だった。

    つまり、問われているのは子どもではなく、
    そうしている子どもの父親としての生き方そのものなんだと言うことだった。
    ただし、そうであっても叱るべき時は叱り、
    共感すべき時は、深く深く共感すべきなことには変わりない。
    つまり、短気で速攻で怒りモードに突入する感情丸出しの親自身が、
    感情的になりやすい自分をコントロールして、
    愛情と理性によって子どもと日々向かうことが大事だと、
    それは私である教えている気がした。

    怒りとは、そんな子どもの信頼を失い、親らしいことができなかった私に、
    こんな私自身に怒るべきであって、
    そんな未熟な親に育てられてしまった子どもに対して抱く感情ではないのだ。
    「ごめんなさいの親」であることを、私は深く深く自覚した。
    子どもたちはそんな親であることで、深く深く傷ついただろう。
    本当に「ごめんなさい」だ。

    でも、子どもは親にそんな親であることは期待していない。
    やっぱり、「父さんはすげぇなぁ」「父さんは父さんだよなぁ」と、
    そう心から想える親になって欲しいと願っているはずだ。
    それは、私がそうだったからよく分かる。
    どんなに反発し、反抗しても、酔っぱらいの親父のことは好きだったからだ。

    だから、アグリーコントロールとは、弱く愚かなる自分を認知することだ。
    そんなちっぽけなことで日々イライラしている自分を、
    ちょっと大人として情けないと感ずることだ。
    それは、子どもからのメッセージであり、
    問われているのは親として、人としてどう生きているかと言うことなんだ。
    怒る自分を変えて行く。
    怒る自分を捨てて行く。

    そして、まっさらなありのままの自分に還ってから、
    やるべき時にはやる親となるための修業を自分自身に嫁する。
    それは、数えきれない失敗から私が学んだことでもあった。

    昨日も帰って来た途端、妻が私を怒り出した。
    それは、私がいらない服と想って捨てた息子の中学校の体育着を、
    「どうして私がぼろきれとして使おうとしていた服を捨てるのよ」だった。
    「ただいま」でもなく、「遅くなりました」でもなく、
    開口一番がこれである。
    それも庭に佇む私に怒鳴るということは、町内中に聴こえるということ。
    彼女にこそ、アグリーコントロールをしてもらいたいものだと感じた。

    もう一つのルールを私は適用した。
    「怒りの6秒ルール」だ。
    ます深呼吸して、6秒間じっと耐えて待っている。
    反応はすぐにはしない。
    すると、いつの間にか自然とその怒りは消えていくと言うのだ。
    試してみたら、「ガッテン」が行った。
    私は、怒りを堪えて、二階に上がり、ニュースを黙って観ていた。

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