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  • from: クマドンさん

    2016年08月19日 10時26分29秒

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    何だかずいぶんと楽になった

    昨日、妻の実家からもらった柑橘系樹木の植わった鉢に、
    親指ほどの太さのアゲハチョウの幼虫を見つけた。
    樹は幹を切られて、20センチほどの高さで、
    葉っぱもやっと生えた若い葉がちょろちょろだった。
    その葉を旺盛な食欲でバリバリと食べていた。
    しばらくすると、もうその樹には食べる葉がなくなってしまった。
    可哀想に、このまま飢えてしまうのかと、何とかしたくなった。

    出かけた帰りにコメリに寄った。
    ポンカンの樹を一本千円で購入。
    これでしばらくは幼虫の飢えをしのげると想い帰ってみると驚いた。
    幼虫の姿がどこにもなかった。
    葉っぱを全部食べつくした後で、
    自身が鳥にやられてしまったということか。
    私は、仕方なくポンカンの樹を花壇の真ん中に植えた。

    ほんの短い出会いであった。
    かの幼虫は、去って行った。
    しかし、その去り方、消え方が実に自然で潔かった。

    お腹の穴をまじまじと見つめる。
    確かに深さが増していた。
    人差し指の第一関節がすっぽりと入る。
    広さは直径3センチの円形の穴だった。
    その穴がここにある。
    これもまたリアルな自然だと、何気なく想っている。

    だからどうしたのか。
    身体が身体として機能して、きっと働いてくれている。
    いつも腐ったような匂いを感じ、動くとちくちくと痛みも感ずる。
    すると、だんだん身体が私ではないもののように感じられてきた。
    不思議なものだが、そんな身体の変化を傍観している。
    それは、あの幼虫を見つめていた目である。

    リアルなものがどうなんだろう集まって?私を創っている。
    私は、リアルな一つだ。
    そのリアルさは、あの幼虫にも、あのポンカンの樹にも、萎れた花にもそれはある。

    同じだなぁと、ふと感じた。
    何も足さない、何も引かない。
    あるがままにあるがままを見る、感ずる。
    そのぼんやりした私という、私。

    かのものの死を、このものが生き。
    かのものの生を、このものが死する。

    何だか分からないが、頭を捨てて、のほほんとそのままに生きると、
    ああ、これでよかったんだと、想えるようにもなってきた。
    幼虫は、何も感ぜず、無心に喰われた。
    でも、幼虫はいなくなったわけではなかった。
    ああ、まだまだ存在しているではないか。

    きっとそうなんだ。
    リアルは、今、ここにだけ存在するものだ。
    そして、そこには全てがあり、全てはプロセスのまま存在し続ける。
    何も消えない。何もなくならない。ここにあるだけ。それはそのまま。

    これだ。あれだと、説明したら、それは見えない。分からない。
    それは、今、ここに、通過している、過ぎ去っていく、流れて行く、
    そうそのまま、そのまんま。それでいい。それがいい。

    私もきっとそうやって創られている自然の一つ。
    幼虫とポンカンと私。
    それは生かされているいのちとしては、同じもの。
    私は、幼虫であり、ポンカンであり、私であることもある。

    エゴを捨てると、その目が開ける。
    空ほど、全てが満ちてあらゆるものであるものはない。
    だから、すっかり自分のことを忘れると、すっきりするんだ。
    この穴の開いた身体は、自然なる身体だ。
    ここで動いている働きは、全ての働きと同じ働きだ。
    だから、任せて、死ぬ時には死ねばいい。

    死ぬということは、本当にあるのだろうか。
    死ぬこととは、終わることではないと、今はそう感ずる。
    死ぬことで繋がり、生誕する向こう側があるからだ。
    そのすっぽぬけた、向こう側とこちら側とのひと繋がり。
    ならば、あっちとこっちとで始まりも終わりもないのだ。

    そこから、私も、あなたも、生まれて来た。
    私であり、あなたである、そのキャラクターは確かに限定されたものだった。
    そこには、個性と言う個別なる違いは存在している。
    しかし、そこから生まれたのだから、同じ父と母とをもつ人と人なんだ。

    不死なるものが、死するものとなり。
    死するものが、不死なるものとなる。

    死するものと不死なるものとは、ひとつで同じ。
    万物斎同。
    あるものしかない。

    私が私にこだわる限り、私が私のエゴに聴き従う限り、
    「眼横鼻直」は、絶対に見えないものだ。
    もうすっかりどこにも存在しない過去にこだわり、
    何が起こるかどんなことになるのかも全く分からない未来を憂い、
    私は、いったい何をして、何を考え、何に迷って生きていたのだろう。
    過去の私も、未来の私も存在はしない。
    そんなもの全くリアルではないんだ。

    リアルとは、この大いなる広大無辺な魂に包まれ、魂に生かされ、魂のまま。
    きっとその言葉が聴こえてくるはずのその言葉。
    同じところから、私のために個別に聴こえる言葉。
    その言葉を通して、感動を通して、腑に落ちたままに、
    その生を生きる。
    人生は、死者の物語を生きる舞台なのかもしれないなぁ。

    溶ければ、満る。
    確かに、宇宙はここにある。
    ならば、そのままに生きるだけ。

    忘れよう。私のことを。
    私は、死んだ。
    そう、死んだようにして、今日、今、ここに生かされればそれでいい。
    そうならば、死んでいるのだから、いつ死んでもいいではないか。

    このことを知らない内には死ねなかったけれど、
    何だかもう少し、もう少し(実はここからが遙か彷徨なのだが)のところに来たら、
    「もう、いいよ」って言えるかもだ。

    池田晶子さんなんだなぁ。
    昨日がっちがっちの結び目がほどけたようで、
    頑丈な壁で遮られていたものががらがかと崩れ、
    どっと溜まっていた水があふれだすように、
    何かが内からほとばしり、溢れ、流れ出して止まらない。

    説明はできない。これだとは言わない。いや、絶対に言えやしない。
    だから、仏に会ったら、仏を殺す。
    きっと私は、物語でしか語れないのだろうと想った。

    いいんだ。そのままで。
    私だけでなく、妻も、長男も、次男も、叔母も、みんなも、誰も彼も。
    「それでいいのだ」byバカボンのパパ やっぱり名言だね。

    どうしてこんな当たり前のことが、分からなかったのかね。
    やっぱり年はとるものだ。
    やっぱり苦労はするものだ。
    そして、手術は受けるものだね。

    何をどう説明もできないし、そんな気も全くなかった。
    「どうでも、いい」は、楽な楽な生き方だった。

    このお腹の穴からは、臭い臭い匂いがする。
    これは、私がいただいた身体だった。
    その身体は生きようとしている。
    しかし、無理なんだと悟ったら、きっと撤退して、弱り、衰えるだろう。
    それは、それで、やっぱり、「どうでも、いい」ことなんだ。

    あの幼虫もそうだった。
    腹いっぱいに葉っぱを食べた後、突然鳥に食べられた。
    無心で食べられ、やっぱり、「どうでも、いい」だった。

    自然の命とは、「どうでも、いい」の働きなのだ。
    だから、感ずるままで、十分なのではないだろうか。

    何だかずいぶんと楽になった。

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