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  • from: クマドンさん

    2016年08月23日 06時20分00秒

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    在るの物語

    腹の穴に指を突っ込むと、ごつごつと固い筋肉とぶつかる。
    今、この部分で私の皮下部分は創られている。
    その技と力とをただ信ずるだけだ。
    身体のことは、身体に聴く。
    身体のことは、身体にお願いする。
    任せて生きる。
    すると、こんな身体でも少しは楽になるものだった。

    昨日、小千谷のSさんからの電話だった。
    「生きる」についてこんなに楽しく話せる人は、Sさんしか私は知らない。
    いよいよ「新潟県の森」についてのネットワークができそうだった。
    それぞれの地域で、それぞれの活動をしている人たちを訪ねたら、
    どうもみんな大きな一つの想いによって活動しているのではないかと分かった。

    津南や湯沢の森を訪ねた時、
    私たちは何だかとてもとても懐かしい故郷に帰ったような気持ちになった。
    それは、山古志や小千谷の東山でも同じだった。
    そこで感じられたものこそ、私たちが森に求めるものであった。
    しかし、それがいったい何であるのか。
    こんなにも自分の生き方そのものとかかわって、
    ここに生きているその時味わった感覚とは、いったい何なのか。
    その答えを、これからも探したいと二人で語った。

    新潟には山間地に里山があり、棚田があり、そこで昔から農を営む人たちがいる。
    そこに行って、その風景を観て、その風土に触れ、その人たちの話を聴く。
    すると、どういうわけか忘れかけていた原点に戻れる気がした。
    この棚田のど真ん中で感じられたあの懐かしい原点とは何か。
    その何かを言葉に表したいと二人で語った。

    私たちは、「がっこうの森」というコンセプトで、三年間その森を訪ね歩いた。
    その旅は、その森を訪ねる旅でありながら、
    これからいかに生きるかを訪ねる旅でもあったような気がする。
    三年前、この旅を始める前と、今とでは全く違っている私がここに居る。
    それは、私がこの三度の手術から生還して、今もここにあるからだけでなく、
    その「生き死に」から感じたことが、
    私たちが訪ねた里山や棚田やそこに生きている人たちに在るからだと感じている。

    私たちが知らずに求めていたものが、ここにはリアルに存在していた。
    いや、私もそのリアルな存在の部分集合であり、現象の1つだった。
    私は、里山に入ることで、里山を感ずることで、私を再発見した。
    きっとそうなのかも知れないと今は思っている。

    私の生きるのモデルは、ここにリアルに存在している。
    どうしてこんなにはっきりと「在る」のに、分からなかったのだろう。
    ずっとずっと生まれてからこれまで、
    「在る」から離れたことも、「在る」を失ったこともなく、
    常に、いつも、ここに「在る」によって生かされてきたのに、
    今も、この瞬間も、この「在る」が生かしてくれているのに、
    それに気づかずに、迷いばかりで、あっちこっち探し回って生きていたのか。

    私たちは、きっとこの里山で「在る」に出会ってしまったのだろう。
    しかし、その「在る」とは何か。
    それをどのようにして表現したらよいのか、
    その「在る」の実存をどのようにして分かち合えたらよいのか。
    そのことが、今の私たちには分からなかった。

    そこで、この新潟県各地の里山と森と棚田とで、
    営々として生きて来た人たちのお話しを聴いてみたいとなったのだった。
    そう生きている人たちこそ、その「言葉」を語れる人たちだからだ。
    私も、その人たちの話を笑顔でゆっくりと聴いてみたいと願っている。
    あの高柳の紙作り職人のKさんの語りには、滂沱の涙だった。
    私の中にある「在る」がどっと感じて動き出す。
    その瞬間、私は涙でそのリアルを確認する。感動する。

    涙を流すことばかりになってしまった私は、
    そんな「在る」に少しずつ近づいているのかも知れない。
    最近は、池田晶子さんの言葉一つ一つが身体に沁みるようなのだ。

    さて、そこでSさんに言われた。
    「クマさん、何とかそれを表現できないでしようかね」と。
    あっそうか。私のできることはそれだったなぁ。と、その時感じた。
    「森の物語ですよ」と、Sさんに言われているような気がした。
    そうか。森の物語だな。それも里山の、棚田の、そこに生きて来た人たちの。

    「在る」は、「在る」
    しかし、それは流転し、流れ行く「在る」だった。
    だから、これですと手の上に乗せて差し出すことはできないし、
    ましてや、こうですよと、言葉では表すこともできない何かだ。
    だから、「物語」があるんだと、池田さんは教えてくれた。
    イエスも、たとえで語った。彼の言葉は、在るの物語だ。

    在るの物語。
    それは、既にここにきっと存在しているはずだ。
    しかし、誰かがそのことに気付いて、読み解かない限り、
    その物語は幻のままである。
    あっちとこっちとの間にこの物語は存在している。

    さて、「なぜ、善は存在しているのか」は、池田さんの本の帯の言葉だ。
    さて、「なぜ、物語は存在しているのか」は、
    私がずっとずっととらわれている問いである。

    誰かこの物語を語ってくれる人は居ないのだろうか。

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