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  • from: クマドンさん

    2016年12月11日 07時20分14秒

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    書いてみませんか。お願いします。

    「すっからからんを 生きている」

    「今、ここ、書く」

    またまた四時に起きて、紀野さんの「般若心経講義」を読んでいた。
    私は、読んだ本のことをすっかりと忘れていた。
    これは十数年前に読んだ本だ。
    そこには赤いボールペンで、波線が引かれてある。
    ページの片隅に、感じた言葉を忘れないために記してもいる。

    でも、こうして再び読みなおしてみて、再発見することばかりだった。
    私がどこか心の片隅に置いて覚えていたことばが、
    この本にはとてもとてもたくさん書かれてあった。
    「今、ここ」でやっと気付くに至ったと喜んでいたことが、
    実は、紀野さんを通して、十数年前に知らせていた境地でもあった。

    私には、まだまだわかることのできないそのところへ、
    何だかずっとずっと求めていたその場所へ、
    今は、少しは近づいだ気もするが、
    そう想った瞬間に、ずっとずっと遙か彷徨に去って行く。

    でも、私は、このことばを信じている。

    「人は、仏心に生まれ 仏心で 生き 仏心に息を引き取る」と。
    これは、ある高僧のことばだそうだ。
    そうすれば、どうやっても仏心なんだ。
    どんなことがあっても、どうあがいても、やっぱりここは仏心だ。
    その安心感・その安堵感。
    そのことに気付くことこそが、日々の修業なのだとふと想った。

    Sさんと、昨日も語り合えた。
    「語る」という字の如く、「吾が言う」が「語る」であった。
    だから、互いに「今、ここ」に感じている吾を語る。
    それは、我でもあることもあり、吾でもあることもある。
    なるたけ、語るのは、吾でありたいと願い、
    互いに素のまま、生成りのまま、まるで幼子のようにして想いを語る。

    不思議なもので、語っていながら、私が気付く。
    私が言っているのだけれど、Sさんが私になってしまうことも多々ある。
    私は、Sさんの語りを聴きながら、私が語っているような気持ちになってしまう。
    没入・没我。
    そこには、二つの隔たりが無く、何だか一つのものから二人がここに在り、
    一つの互いの私が、私同士にに語っているような気になってしまう。

    新潟市東区大山の私と、小千谷のSさんとは、
    ここに共に居て、「そぅじゃねぇ」と楽しく時間を過ごしている。
    その不思議さが、とてもとても尊く、懐かしい気がした。
    「今、ここ」に、何だかそこに落ち着いた。
    それまでは、かっては、修羅の道ばかりを追い求めていたようだ。
    昨日、朝風呂に入りながら目の前の樹木の葉っぱが揺れるのを見ていた。
    すると、「ここでいいんだな」と、妙に深く落ち着いた。

    ここに至るまでには、どれだけの修羅だったことか。
    いや、修羅があったからこそ、ここに到って、ここに居る。
    そして、ここに居ることの意味を、私は私なりに悟ったのではないかと、
    ぬるいぬるいお湯に肩まで浸かりながら、ふと感じた。
    「悟」という字も、「吾の心」と書く。
    吾はすでに吾であり、吾でなかった時はなかったはずの吾だった。
    ただし、修羅の道では吾が我になる。
    その我執が、こうして吾を忘れ、きっと修羅の旅をさせたのだろう。

    Sさんと語り合うことで、互いに我を忘れて吾に還る。
    その原点であるピュアな一つに還ることで、
    邂逅し、再会し、蘇生する。
    もはやそこには言葉ではなく、ただことばがあるだけ。
    でも、やはり、ことばがなかったら、新潟と小千谷との以心伝心は難しい。
    そうした意味で、私とSさんとには言葉が恵みとして与えられている。
    その発見が、なによりも嬉しい二人だった。

    私は、Sさんには、書いて欲しかった。
    私はどうしてここにこんな迷いの文を書き続けているのかと想うと、
    やっぱり私の中に在る「吾」と語り合うためでないのかとはたと感じた。
    Sさんの吾。私の吾。
    それは、まさに「万物同根 天地一体」の「吾」そのもの。
    だから、吾でないものはなく、吾しかここには存在しない。
    その吾で生きることを、我の中に在る吾は求める。

    「花を見て、花から見らていることに気付かない人は、花を見ていない人だ」
    そうだと想う。
    その花は、吾なんだから。
    その吾が、吾の自然なる姿を通して、吾を語っている。
    このことばは、天のことば。
    しかし、私は、そのことばを地の言葉に書き留める。
    その吾を通して、吾を悟る。

    この本に肇法師の「肇論」のことが書かれてある。
    それは、「碧眼録」第四十則にある話だった。
    この肇法師は、法華経を訳した鳩摩羅什の弟子だった。
    しかし、ある事に坐して死刑に処せられた。
    その時、刑の執行を七日間待ってくれと頼み、その間に書いたのがこれだった。

    この中に
    「天地と我と同根 万物と我と一体」という有名な一句があると、
    紀野さんが書いている。

    その同根である。一体であるとして、自然の中で吾を悟るかどうか。
    ここにあったのだと、この箇所を読んで、はっと気づいた。
    違ってはいない。別々ではない。みんな同じ。一つがみんな。みんなが一つ。

    そして、こうも書いてある。
    「たしかに出会いというものは大切だが、その出逢う相手と自分とが
     実はひとつだ、ということのほうがもっと大切だと思うのである。」

    「だから、出会いというものは、さらにその奥に入っていかねばならない。
     自分が師に出会うということだけでなく、実はそれは、
     自分が自分に出会うということだと気付いてゆく。」と。

    「自分が師に出会うということが、自分が自分に出会うことだとすると、
     師と自分とは同じものだということになる。」

    「仏法において師に出会うことは、師の背後にある仏に出会うことだといわれる。
     だとすると、自分が自分に出会うということは、自分が仏に出会うことだと
     いうことになる。出会いということは、そこまで行くことである。」

    腑に落ちた。ガッテンだった。意を得たり。

    Sさんと楽しく吾を語り合い、互いの師でもあるOさんのことを語った。
    その生き方は不思議であるが、その不思議のまんま私はただただ感化された。
    では、Oさんは、違う人なのかと言うとそうではない。
    とてもとても懐かしく、愛しい人だ。
    それは何なんだと、二人で語った。
    「きっと故郷を同じくしているからですね」とは、腑に落ちた。
    そうか、同じ故郷に生まれ、その故郷に還っただけ。

    どうやったって、仏心なんだ。

    そんなあるがままに驚き、感じ、不思議だなぁと想ったら、
    ふと、冒頭のことばがひらめいた。

    「すっからかんにを 生きている」

    「今、ここ、書く」

    Sさん、どうですか。書いてくださいませんか。
    その「さっさ」を、その「すっからかん」を、その「超老人」を、
    是非、今、ここに、そのことばを、言葉に記して欲しいです。

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