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  • from: クマドンさん

    2016年12月24日 07時29分42秒

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    魂は、ここに在る。在り続ける。奇跡は、魂の現れだ。

    何とも嬉しいニュースが飛び込んできた。
    新潟アルビレックスレディースが、皇后杯の決勝に進出した。
    鹿島のファイナルと言い、何とも嬉しいニュースだった。
    私は、レディースサポーター会員でもある。
    試合は、陸上競技場・五十公野競技場と出かけての応援だった。
    大好きな小原・斎藤・佐山選手が居る。
    アルビのユニホームは、サインを書く場所がないくらい、
    彼女たちのサインでいっぱいだ。

    昨年の皇后杯決勝では、澤の引退試合となり、
    澤の劇的なヘディングシュートで惜しくも涙を飲んだ。
    リーグでは前半戦の失速から振るわず、
    よい成績を残せなかったが、今年も彼女たちは決勝に残った。
    すごい人たちだと、感動しているし、尊敬している。

    昨年の決勝戦を病院で観ていたことを思い出した。
    私は、まだ入院していた。
    いつもいつも何だか、そこに還る気がしている。
    「今度、父が、癌になった。」
    今朝読んでいた池田晶子さんの言葉の中に、この言葉を発見した。
    今度・・・・。
    その前は、誰が、癌に、なっていたのだろうか。

    その父親の入院生活のことを書いていた。
    私事をなかなか書かない彼女だったが、
    この入院中の父のことを書いている箇所は、
    私には分かり過ぎるほどよく分かった。

    もし、これをまだ手術失敗で生き死にとなり、
    10時間以上に及ぶ大手術で一命をとりとめ、
    二カ月に及ぶ苦難の入院生活を経ていなかったら、
    どんな気持ちでこれを読んでいたのか、想像に難くない。
    きっと、それは、分かったつもり、そんなものだと、
    何だかその言葉が、私の身体で呼応することなく、
    通り過ぎて行ったものと想像できる。

    言葉とは、ここにあるもの。
    しかし、その言葉の存在は、体験を通し、経験して初めて、
    その言葉は、言葉として現れ、身になり肉になる。
    言葉が身体になるためには、身体で言葉を体験しなければならない。
    そうでない言葉とは、けっしてリアルにそこに存在できないものである。

    「在る」ということが大事なんだ。
    その「在る」になることが、生きるということだ。
    私は、私の生き死にの体験から、身体を通してそれを学んだ。

    「彼は、「死ぬ」ことより「切る」ことを怖がっている。」
    分かる、分かる。そうだった、そうだった。
    二回目のヘルニアの手術は、意識がはっきりしていて、
    生きる死ぬの手術でもなかった。
    私は、刻々と迫る手術の時刻に、恐れ慄いていた。
    風呂に入り身体を清め、忘れるために必死にヨハネの福音書を読み通した。

    妻と長男が来た。
    私は、まったく感情が不安定になり、抑えることができなくなり、
    「ごめんな。ごめんな」と、泣きながら謝っていた。
    自業自得なんだなぁと、やっぱり想った。
    ただし、こうして罰を与えられるだけ、
    私は、神様が私を見捨てずに、愛していてくださることを感じた。

    看護師さんが笑顔で迎えに来た。
    手術着を着ている私は、死刑を執行される人のようにベットから降り、立った。
    車椅子はそこにはなかった。
    「歩いて行くのですか」と、自分でも笑えるほど悲壮感はなかった。
    私は、家族に見送られながら後ろに向かって手を振った。
    そして、あのジュラルミンの手術室の扉が開いた。
    「もう、逃げられない」だな。

    私は、今、ここに、在ることを、願っている。
    いや、きっと、在るものはなくなりはしないのだから、
    在ることは、ただ、そのまま、在るだけだろう。
    「そのままでいいがな」とは、どこかの禅の坊さんの言葉だった。

    明日は、小千谷で「途中の会」だ。
    この皇后杯の決勝戦をどうやって観るか、
    サポーターの先輩のWさんは、今から「どうしたもんじゃろう」と悩んでいた。
    小千谷には、ある目的があっての旅となる。
    それは、9月?に亡くなったOさんを忍び、Oさんを語る会があるからだった。
    私がOさんに書いた拙文を、ぜひお仲間の前で読んでほしいと言う、
    Oさんのお嬢さんの依頼があり、参ずることとなった次第だ。

    「在る」と考えると、いつもOさんのことが思い出される。
    Sさんとも話した。
    「生き死にの境を生きていた人だから、向こうに行っても自然だね」っと。
    そんなOさんのたたずまい。静けさの笑顔。真摯な魂の不動なる力。
    何と表現したらよいのか分からないが、
    ここには、Oさんが「在った」としか言いようのない存在感だった。
    「存在感」こそ、大事な人の人としての在りようではないだろうか。

    私も、願わくばOさんのような存在になりたい。
    人は、居るだけでいい。
    ただ、どんな人としてそこに居るかが大事なことだった。
    迷いが多く、罪深く、どうにもならない私でも、
    今、ここに、在ることを神様は赦してくださっている。
    今夜は、クリスマスイブである。
    イエス様が、この世に誕生した夜でもあった。

    魂の人は、死なない。
    いや、死なんかきっとどこにも存在しないのだろうと、今は想う。
    魂は、故郷を同じにする御同胞だ。
    その故郷から忘却の河を渡って、私としてこの世に生まれた。
    人生は、旅である。
    それも釈迦が語るように苦難こそ、人生だと私も想った。
    ただ、魂は、魂として、何も変わらず、不動にして、在り続けている。

    それは、私が生まれるずっとずっと太古のころから、
    私がこの世から身体が消えても、ずっとずっと永遠にあり続けるように、
    境目がなく、一続きのまま、きっと在るのだろうと今は、感ずる。

    懐かしい人とは、それを感じさせてくれる人のことだった。
    深い人とは、その深い深い見えない底で、大いなるいのちと繋がっている人のことだ。
    そう在れば、きっとそう感じてくれる人も在るはず。
    私がOさんにその懐かしさを感じたように、
    私は、そうした懐かしさを人が感ずる人として生きたいものだと想っている。

    そう考えると、これまでの私の人生の旅とは、
    ある意味、目的と出会うべき人があった旅ではなかったかとも想えるようになった。

    「人は、生きてみないと分からないねぇ」と、Sさんと笑って話す。

    「自分であることの不思議」と、池田さんは言っている。

    不思議なのは、今、ここに、私が在る、そのことなんだ。
    こんな不思議はないではないか。

    いったい私は、どこから来たのか。
    私とは、いったい何者なのか。
    そして、私は、どこへ行くのか。
    その問いと、私への不思議と、いかにして在るになれるか、
    これが実は、池田さんの言う、「哲学」ではないのだろうか。

    「魂を想うと、全てが腑に落ちる」とも、彼女は語っていたような気がする。

    さてさて、明日は、そんな魂の語り合いができたら本望だと想っている。
    「奇跡は、人が起こすもの」
    またまた、魂の闘いを観られたら、
    きっと私が、今、ここに、語った魂の存在を目の当たりにすることができるはずだ。
    魂は、在る。
    しかし、魂は、目には見えない。
    奇跡は、在る。
    それは、魂が、在るからだ。

    魂のアルビレディースは、優勝する。
    その奇跡に、ぜひ魂の存在を感じて欲しい。

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