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  • from: クマドンさん

    2016年12月27日 09時05分07秒

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    バイクしか運転できないのに・・・・

    さてさて、アクティブラーニングだそうだ。
    Wさんから、その資料が送られて来た。
    三つの視点で授業を創る。
    「主体的な学び」「対話的な学び」「深い学び」とのこと。
    何だこれは、15年ほど前になるかな、
    総合的な学習の時間に求められていた、「学ぶ力」「生きる力」と同じだな。
    やっぱり時代が変わると元に戻る。
    あっちに行ったり、こっちに来たり、
    本当にすぐにちよこちよこと変わっていいものなのかねぇと、教育を想う。

    「学力向上」「教科主義」「詰め込み教育」はどうなったのだろうね。
    日本の将来を決める教育の原点が、
    いつもいつも時代と共にぶれて、揺れ動き、変わってしまう。
    教育百年の大計という言葉があるが、
    今では5年でその原点も方向も変わってしまう。
    何とも情けないものだといつも想う。

    戦争を鼓舞していた頃もそうだった。
    教育が戦争へ子どもたちを駆り立てた。
    時代の変化に対応するからと仕方ないと想わせようとするが、
    本当は、人間の生き方の根幹のこと。
    時代や政治にかかわらず、しっかりとした普遍の哲学をもつべきではないだろうか。
    「人間教育」これに教育は尽きるのではないだろうか。
    そのためには、教える大人たちがしっかりと自分の生き方を見つめねばならない。
    教えることは、変わることだ。
    そんな信念が無かったら、この看板も画餅に帰することだろう。

    この三つの視点は、我が「途中の会」の大事な大事な原点でもあった。

    「主体的な学び」
    本来、学びとは主体的なもので、主体的でない学びなど存在しない。
    自ら学ぼうとすることで、初めてその学びはその人となる。
    何の為に学ぶのかとは、善く生きるために学ぶことに決まっている。
    全ての教科・領域は、その善く生きる道を学び、指し示すためにある。
    Sさんの師匠、黒田先生は「主体変容」と言われた。
    私たち「途中の会」では、その互いの生き方を語り、その生き方を問うている。
    何故なら、「今、ここ」をどう生きたら善いのか、
    79歳であろうとも、59歳であろうとも、54歳であろうとも、
    日々の課題だからだ。

    「対話的な学び」
    元々学ぶということは、語るということである。
    人は学んだことを言葉に表すことで、初めて学んだことの自覚が生まれるからだ。
    もやもやとむにゃむにゃと何かを学ぶことはできない。
    その学びを言葉で表現することで、その学びは普遍となる。
    互いに自らの学びを語り合う中で、Sさんとはいつもいつも気付きの連続だった。
    人は、視点を変えることで、新たな気付きが生まれるものだ。
    ただし、視点は、なかなかどうしてそのままの生活からは変えられないものだ。
    時には、災害に遭い、病気になり、夢破れ、絶望し、挫折し、苦難に見舞われる。
    その時、やっと人は、自分と言う存在を見つめなおせる。
    それまでの生き方を問い直す。
    「問い」がそこに生まれる。

    対話とは、その新たな視点・気付きを自分のものとすることだ。
    それから、ソクラテスがしたように、
    対話を通して「そうに決まっている」と思っていたことが、
    何だか確かではなくなり、「あれ、どうすればいいんだ」と、
    どこかで不安になり、「ああ、俺は何も知らなかったんだなぁ」と、
    無知を知る。
    ソクラテスは、何も相手には教えていない。
    ただ、自分の疑問や問いを相手に向けることで、
    相手が自分自身の語りによってその真実に気付くだけ。
    対話とは、対話が始まる前の自分と対話の後の自分とが変わっていなければ、
    それはけっして対話とは言わないものだ。

    「深い学び」
    つまり、深く生きようとしている人や、深く生きている人にしか、
    この深い学びとは存在しないのだ。
    ここでずっとずっと池田晶子さんの言葉をお借りして語っていることは、
    そのことだ。

    「長く生きることが善いことではなく、善く生きることだけが善いことだ」
    そんなソクラテスの言葉のように生きたいと願って生きることこそ、
    きっと深く生きることであり、深く学ぶことである。
    もし、そんな生き方をしていないのならば、私を含めての話だが、
    自分ができないことをどうやって教師は子どもたちに教えようというのだろうか。

    ある意味、教育の維新であった「総合的な学習の時間」が、
    いつの間にか立ち消えたのは、
    それは、教師がそう生きていなかったからだと私は想う。
    「生きる力」とは、まさにこの「アクティブラーニング」のことだったのに、
    15年ほど前にこれが新しい教育の原点だと叫ばれ、広められたのに、
    「学力低下」「ゆとり教育の弊害」と、世の中はまったく逆の方向へ向かった。
    それが、今、ここに来て、また「生きる力」だと言う。
    10年後は、きっと学力向上、「アクティブラーニング」批判が起こっているだろう。

    大事なことは、その改革を教師自ら主体的に受け止めているかということなんだ。
    総合的な学習の時間の失敗は、
    教師自らが、「主体的に学ばず」「地域や同僚と対話的に学ばず」
    自分の生き方そのものを「深く、深く問い続け、考え続けていなかった」
    からではないだろうか。
    革袋が古ければ、いくら新しい酒を入れても駄目なんだ。

    「主体的な学び「「対話的な学び」「深い学び」
    それができていると言える教師がどれだけ学校には存在しているのだろうか。
    私には、自戒を込めてそれはとも難しいことと感ぜられる。

    学校とは、ひとりひとりの人が「生き方」を学ぶ場だ。
    そして、教師とは、その「生き方」の先生であらねばならない。
    いかに生きるかの問いを持たずに、教育はできるものだろうか。
    そこには、やはり池田さんが言う、「哲学」が必須なのだと私は想う。
    時代の流れではなく、政治的な求めではなく、経済的な必要感ではなく、
    個人の尊厳を尊重し、人権を守り、自由に生きる。
    そこから教育を問い直し、立て直さなければ、
    この三つの目標は、やっぱり第二の総合的な学習の時間・生きる力となることだろう。

    バイクしか運転できない私に、大型トラックの運転を教えよと言う。
    何と無体なことだろうか。
    10年後も「アクティブラーニング」が評価され、生き残っていることを願っている。

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