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  • from: クマドンさん

    2016年12月31日 10時13分26秒

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    さてさて、今年も今日で終わります

    さてさて、今年も今日が最後の一日。大晦日。
    本当にいろいろなことがありながら、よくよく生き延びたことだと感謝している。
    昨年の今頃、退院して三日目だったはずだ。
    日常生活はできるが、身体が衰弱して、力なく、へろへろで生きていた。
    だから、年末の家事は一斉できなかった。
    いつもやる大掃除とキッチンとダイニングの床のワックスがけも、
    まったくできるどころではなかった。

    歩くのもやっとの状態で、30分で行ける教会に、
    元旦に歩いたら、何と40分以上もかかってしまった。
    衰え切った身体を何とか起こしての年末・年始だった。
    それでも我が家に生還できたことは、ありがたく感じた。

    考えたら一年間は、N大病院とのお付き合いだった。
    7月にはまた腹腔ヘルニアの手術だった。
    その術後がまだここに続いている。
    がちがちに縫っ跡は、まだまだ繋がらず、固いいまま無理ができない腹筋だ。
    もし、また無理をして余計な力をかけてしまうと、
    ばらばらに繋がっていた筋肉が離れて、元に戻ってしまう。
    回復まではまだまだ半年かかるとも言われている。

    私は、この経験から何を学んだのだろうか。
    それは。いかに人とは無力な存在であるかということだった。
    そして、だからこそ。人は生かされていることを日々感謝すべきなのだ。
    そんな当たり前のことを、私は59歳でやっと学ばせられたと言える。

    傲慢で、自己中心で、どうにもならない我儘な人であったと、
    振り返るとそう想う。
    きっとどれだけの人を傷つけ、どれだけの人の信頼を失い、
    どれだけの人から呆れられたことかとも想う。
    ただ、そう生きている私自身はそのことに気付かないだけだった。
    自分が何をしているのか分からないとは、パウロの言葉。
    人が最も分からないのは、やっぱり自分自身のことかもしれない。

    客観的にその私を見るためには、
    やっぱりどうしても私のことをどん底に叩き落す必要があった。
    どうにもならない自分と向き合い、ある意味自分に絶望するしか道はなかった。
    そうでなかったら、そのままの迷い道を訳も分からず突き進んだはずだ。
    確かに、今でもこの道でいいのかと、ふと想うこともあるが、
    この道は、私を生かしくださっている大いなるタオに繋がっている道だった。

    私は、ぶっ潰されない限り、その道に気付かなかったと想う。
    こんなどうにもならない男がと、哀しいほどにどん底に落ち込まない限り、
    私には、タオからの呼びかけが、聴こえなかったのだと想っている。
    どうにもならないと、懺悔し、後悔し、呻き、苦しむから、
    私には、その私の傍らに立ち、黙って私を慈愛の眼差しで見つめている、
    その存在に、はっと気づき、吾に還ることができたのだ。

    さっきFMでフルトベングラーの「第九」が演奏されていた。
    圧倒的な迫力と速さとそのパッションはただただ歓喜そのものだった。
    この感動は、ベートーベンが苦難の宿命の中から、
    晩年、とうとう出会うことのできた歓喜の歌声と交響曲でもあった。
    音楽家の命である聴力を失った彼が、絶望ではなく「喜び」を高らかに謳う。
    「苦悩を乗り越え、歓喜に到る」
    そのタオとの真実なる出会いの喜びがあるからこそ、
    この「第九」は「第九」として、演奏され続け、感動を与え続けている。

    1935年この演奏の指揮者であるフルトベングラーも、ベルリンフィルも、
    既にこの世の人たちではない人たちによる演奏だった。
    死者からの音楽。
    ベートーベンも200年前にウィーンで生き、死んだ人だった。
    私が聴く、モーッアルトもバッハもヘンデルも、
    みんな死者からのメッセージだった。

    しかし、哀しみや悲劇を歌いながらも、そこには歓喜と希望とが謳われている。
    きっと悲しみや苦悩の後には、深い深い歓喜と希望とが在ることを、
    死者たちは知っている。
    その死者たちが見つけた人生の真実を、
    音楽家たちは音楽と言うメッセージで、生者である私に伝えている。
    それは、タオからのメッセージでもある。

    つまり、この人生には、生きる意味があるということだ。
    ただここに生きていることだけで、人生の意味は、そのままで満ち足りている。
    そして、少しでも善く生きることを願い、そのように小さな善さを重ねることで、
    日々生かされている小さないのちとしての喜びを感ずる。
    そして、この孤独と哀しみの中にこそ、小さく幸せが輝いていると、
    私は、感ずることができた。

    だから、苦難を経なければ、歓喜には至れないのだ。
    きっとそれがタオの真実・真理だと、今は語れる。
    それは、私がこうして苦難を受け入れ、それでも生かされていることを感じて、
    今、ここを、生きられるようになったからだ。

    全てのことは一つから生まれ、一つであった。
    その一つしかないのだから、その一つで生かされていればそれでいい。
    その一つに戻るためには、その一つでなくなっていた私をとごか死なせねばならない。
    その大いなる円環運動とでもいうのだろうか、
    私は、ずいぶん遠回りをしながら、ここ初めに還って来たような気がする。

    来年は、還暦を迎える。
    どうにもならない私を捨てて、ただ生きる。善く生きる。
    そこには、生きる意味の本当の原点がある気がする。
    そのことに気付かさせられるための、これまでのどうにもならない人生であった。
    苦悩は経た。旅はきっとひと段落したはずだ。
    さてさて、今、ここから、どう生かされて行くかだ。

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