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  • from: クマドンさん

    2017年02月26日 07時10分41秒

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    左足の痛みからのメッセージ

    左足の痺れが、痛みに変わった。
    こうして座っている間も、痛みが足首から上がって来る。
    痛みが絶えず続くことで、集中ができず、心がイライラとしてしまう。
    ほんの少しの間座っているだけでも、耐えられない。
    何が私の足に起きているのか、わからないが。
    その痛みで、その不具合を訴えて来る。
    痛みとは、その痛みによって、その存在を知らせる役目なのかもしれない。

    腰の神経か、筋の異常から来るのだろうと考え、
    昨日は、歩きながら腰をもんだ。
    左脇の腰骨の上のツボを絶えず指圧した。
    昨日の夕方には、そうやって歩くことができた。
    歩くことも効果があるのではと考えて、山ノ下埠頭まで歩いた。

    かがむことができず、ズボンを立ってはけなかった。
    片足になることも、腰を曲げることも痛くてできなかったからだ。
    ズボンをいったん脱いだ状態にして、そこに片足を入れ、
    片手で支えて、ズボンを上げた。
    この動作が切なかった。

    今は、これを書きながら数分も変わっていられない。
    腰から。左太もも、そして、何よりも足首が痺れるように痛いのだ。
    一行書いては、歩き。
    また、こうして痛みの波が押し寄せて来たら、また歩く。
    歩けるからまだいいが、この痛み尋常ではない。
    どうにもならない。

    こうなってみると想うことは、何でもなかった四日前のことだった。
    私は、こんなに左足の付け根と足首を意識することもなく、
    ただぼーっと生きていられた。生活できた。
    ところが、こうなってみると、何をしていても痛む、痛む、痛む。
    これでも四日前よりは、よくはなっている。
    ただし、この足首の痛みは、今朝からのことだった。

    痛みの位置が変わるということは、何かの変化があったということだ。
    そして、痛みが絶えず続くということは、
    この痛みにもいつか必ず何かの変化が来ることも予想される。
    これは私の身体の左足の出来事なのに、
    私にはどうすることもできず、
    それを私は、何か私とは別物にある痛みとしてだけ感じ、体験している。

    この自分でもどうにもならないことが、
    何だか私の人生なんだと、この痛みが私に教えてくれているようだ。
    そのどうにもならないものが、四日間をかけて、
    それなりに修復し、修繕しながら、変化している。
    その変化は、私の意志では全くなく、私の想定をずっとずっと超えている。
    まるでその痛みが、痛み自身として思考して、意識して、そうしているように、
    きっとそれは、自然に、なるようにしてなっていくのだろう。

    私は、こうして歩きながら痛みと対話する。
    いや、一歩的な語りかけでしかすぎないようだが。
    今は、その痛みと痺れとがピークのようだ。
    少しでも弱り、去ってくれることを願っているが、
    どうなっていくのかは、痛みに聴いてくれただった。

    自分の左足であるのに、何もできないでただ痛んでいる私とは、
    いったいどこにいる私なんだろうか。
    痛みは、私ではないような気がする。
    それは、身体のことだからだ。
    私はここにいて、身体は痛んでいるだけ。

    身体は、きっと私ではないのだろう。
    こうしていても足が痺れ、痛みがずんずんと続くので、じっと座っていられない。
    だから、これの行を書いたら、また部屋の中を歩きまわる。
    私は、絶えず歩きまわらねばならない、左足をもっている。
    いや、もっているとう表現は、誤りだろう。
    この左足は、私の意志や想いとは関係なく、独自に存在し、痛んでいるからだ。

    彼は今、その不具合を調整し、修正するために、
    微調整をずっとずっと絶えずきっと続けてくれているのだと想っている。
    痛みとは、その彼の働きの自己主張だ。
    私が意識しなくても、深く深く眠っていても、彼は働き続けてくれている。
    そして、私がこうしてうろうろと歩きまわるのも、
    それはやっぱり彼からの指示でもあった。
    「こうしてください。少し楽になりますよ」だな。

    つまり、この痛みを通して私は左足と対話しながら、
    その指示・命令に従いつつ、共同作業でこの不具合を微調整しているのだ。
    痛みとは、確かに身体からの自己主張だった。
    全ての原因は、酔っぱらって、ツァラトゥストラを聴きながら、
    この椅子で変な格好のまま眠ってしまった私にあるのだ。
    その時、身体はきっと警告し、悲鳴をあげていたことだろう。
    なのに、私は・・・・。

    だから、身体は、修復・修繕するための大工事を、今、ここで、行ってくれている。
    それはまさに突貫工事だった。
    痛みとは、修復へのプロセスである。
    歪んだり、塞がったり、切れたり、壊れたりしたものは、
    何とかして元のように戻さなければ生きてはいけないものだった。
    例え、元には戻らなくても、それに近い状態までに戻していく力は、
    この身体そのものに備わっている力であった。
    身体は、不具合を察知して、その働きのスイッチを自動的にオンにする。
    その働きが、今、ここで、私の左足でフルスロットルで働いている。
    何が、どうしてではなく、全てのあらゆるものが連携し、繋がって、働いている。

    私は、ここにいる。
    私が、働いているわけではない。

    身体は、痛みをもって蘇生する働きをもっている。
    それが、身体の身体としての摂理なのだと、この痛みを通して私は感ずる。
    つまり、痛みとは、蘇生の働きが働いているということのサインでもある。
    もし、痛みが感じられなくなったとしたら、
    それは、この身体の終わりであり、この蘇生の働きの休止でもある。
    それをきっと人は、死と言うだろう。
    でも、私は、その身体をきっと、今のように見て、感じているだろう。

    そういうことなんだ。
    「コギト・エルゴ・スム」なんだ。
    想う吾は、ここにある吾だ。

    身体は、身体で、摂理の何でしっかりと生きている。
    働いている。
    蘇生している。

    私は、私で、この痛みを感じながら、どうにもならなさを嘆きながら、
    今、ここに、吾として在る。

    こうしている間に、さっきよりも痛みの感触が変わって来た。
    痺れるような痛みから、鈍痛のような感じに変わった。
    座っていられる時間も心なしか長くなった。

    変化を信ずる。変化を期待する。
    それは、善さや悪さということではない。
    ただ、自然なる、自然そのものの摂理の中での変化にしか過ぎない。
    ここには、感情は入れないことだ。
    その変化そのものの意志とでも言うのだろうか、
    そのままに現れては消えることに、こだわらず、ただなんとなくだ。

    現れては消えて行くものを、また、消えてはまた現れるものを、
    ただ、見ている。感じている。

    言葉はいつも語られていたのに、現れなかっただけなんだ。
    そして、言葉は、この痛みのようにして唐突に。不意に現れる。

    冬は、去りつつここにあり。
    春は、いつしかここに現れる日が来る。
    それは、そのものの働きであり、あるがままの摂理でしか過ぎない。
    それをとどめることも、拒むこともできない。
    ただ、きっとそこにも全てが繋がり、全てが働き、
    元に戻ろうとする大いなる働きが働いているに違いない。

    私の左足は、雲だ。
    私の左足は、風かもしれない。

    あらゆるものは、元に戻ろうとする働きに生かされているのではないだろうか。
    どこに戻ろうとしているかは、わからないけれど、
    きっと元に戻ろうとしているのだと、吾は想う。

    吾もまた、元に戻ろうとしている。
    吾もまた、その働きの吾である。

    どこから来たのか。
    誰なのか。
    どこへ行くのか。
    この風さんに聴いてくれ。

    ただ信じよう。
    痛みとは、蘇生なんだと。
    それは、全ての働きによって元に戻ろうとする働きなんだと。
    そして、身体と言う自然がそうであるように、
    吾もまた、元に戻ろうとする働きの最中にあるということ。
    そして、時に起きる挫折や絶望や苦悩とは、その心の痛みとは、
    蘇生なんだと。
    元に戻ろうとする働きなんだと。
    それを、信じよう。

    痛みでしか、蘇生する働きを感じられないように、
    苦悩でしか、蘇生する存在である吾の意味を理解できない。

    痛みは、左足の存在とその働きと意味とを感じさせ、わからせる。
    苦悩は、吾が在り、元に戻そうとする大いなる働きに生かされていることを、
    その時だけ、わかるのだ。
    痛みを通して、吾は吾に戻り、元に還る。

    身体が、この摂理によって絶えず働き続けるように、
    吾も摂理によって生かされ、絶えず働きかけられている。
    ただ、感じられないだけなのだ。
    しかし、吾の不具合、どうにもならず吾を失った時、
    その働きのスイッチは自動的にオンとなり、
    必ず修復・修繕。蘇生へのプロセスをたどるはずである。

    身体と吾は、別々にして一つの摂理で統合されている。
    身体と吾との協働関係。

    こうしている間に、あの執拗な痛みが和らいでいる。
    座っている時間も少し長くなった気がする。
    身体で起こったことの意味は、吾が気付いてあげる。
    そうすれば、この痛みにも意味が在る。

    ソクラテスは、言っていた。
    「魂の世話をしなさい」と。
    身体のことは痛みによって知り、その身体を労わろうと努力する。
    では、この身体とは別な吾を、どうやって労り、世話をすればいいのか。
    そのためには、吾と言う存在と出会わねばならないし、
    吾は、吾そのものとして生きねばならない。

    吾が、吾の摂理に全てを委ね、任すこと。
    それこそ、「ダイモンに聴け」という、ソクラテスの生き方そのものだ。

    痛みの中で、歩きまわり、
    痛みを忘れるために、これを書いた。
    やっぱり、意味が在るのだと、改めて感じた。

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