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  • from: クマドンさん

    2017年08月15日 09時26分22秒

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    仏心の中で

    言葉の人になる。
    いや、言葉が、人になるすなぁ。
    長岡まで、津端修一さん、英子さんご夫妻に会いに行った。
    何だかとてもとても会いたくて、懐かしくて、
    不思議なものだと、いつも感じる。
    彼は、映画のドキュメンタリーの登場人物。
    今は亡きその人に、私は何だか教えをこいにいくような気持ちだった。

    ドキュメンタリーのその人に、会いに行く。
    それって、ありだなぁと、吾ながらの納得だった。

    行きの電車から、沿線の家並みや田んぼを飽かずに眺めていた。
    「何だ、始まったものなんか、一つもないなぁ」
    これもまた不思議な気付きだった。
    連続の中の、繋がりの中の、過去があっての、今ここの一本の野草だ。
    この野草が、突然ここに出現したわけではない。
    種から芽を出したのだから、その種の母がいるはずだ。
    さてさて、どんどん辿ってみよう。
    始まりはとごにあるのか。

    それでは、終わりってあるのか考えてみた。
    きっと始まりがないように、
    この次には土に還ってダンゴムシが分解したとしても、
    それって、無くなってしまうと言う、終わりではないはずだ。
    そこから、また、もぞもぞと違った形での命として存在し続ける。
    つまり、終わらない。終わりはないというとだった。

    ちょうど読んでいた「無心について」でそのことが書いてあった。
    「時間的な存在として、いのちをとらえる」
    過去があり、今があり、未来が在る。
    そこに、どうやって断絶・分断・不連続を設定できるのかという話だ。
    「何も始まっていないし、何も終わってはいない」
    「ただ、今、私は、電車の乗って、風景が後ろに流れるように」
    「確かに、全ては過ぎ去って行くが、次の風景が確実に流れ、やって来る」
    「それは、確かに、去って行くが、その風景に終わりはない」
    「では、私の風景との出会いの始まりとは、いつのことなんだ」

    帰りの電車で、左手に弥彦山と角田山。右手奥に粟が岳がそびえ立っている。
    その間の新潟平野の田んぼの中を、真っ直ぐに電車は新潟に向かって走っている。
    「ああ、海の上なんだ」と、ふと気付いた。
    太古の昔、海だったこの平野を、私は今、電車で突っ走っている。
    そこには、とんな飛躍や跳躍があるというのか、
    永久なるその時間の中で、どこにも断絶も不連続もなく、
    こうやって、電車の乗客になれば、
    私は、やっぱり海の上を電車で走っていたって、おかしくはないんだと、想った。

    今は、今に至った今なんだ。
    その今は、これからに至る今でもある。
    その「今、ここ」をつかまえることはできないが、
    その「今、ここ」の「途中」をいのちとして生きることはできるなぁ。
    私も、何もここから始まった私ではない。
    そして、ここだけで終わる私でもないはずだ。

    「えい、やっ」と、そう想う。
    風景は次々にやって来た。途切れない。無くなることは絶対にあり得ない。
    私は、電車に乗っている。
    新潟駅に着いても、そこからまた駅の人々、駅のホーム、駅の改札口。
    どこにも、その終わりはない。
    その終わらない、途切れない、その今を、私は歩いていた。
    だから、考えなくてもいい。悩まなくてもいい。そこを、そのまま、歩くだけで。

    津端修一さんが、そこに笑顔で生活している。
    こつこつと庭に立てる看板を作り、
    英子さんがつくる、手作りの料理に幸せを感ずる。
    手紙だけのおつきあいだと言いながら、一日10通のはがきを書く。
    雑木林に居ては、来年の土のための枯れ葉を集める。

    彼は、建築家だ。
    高蔵寺という団地の開発を手掛けた人だった。
    しかし、彼の自然の立地を生かした構想は公団の意向に合わず取り消された。
    あの無機質なアパートが、乱立する、ただの集合住宅になってしまった。
    彼は、その土地を300坪買い、そこに30畳平屋の家を建てた。
    その周りには、開発のために失ってしまった雑木林を復活するために樹を植えた。
    そして、作物を育てるために畑を造った。
    その肥沃な土を作るために、彼は、枯れ葉をせっせと集めた。

    彼は、この取材中に突然、亡くなる。
    夏の日に草取りをして、疲れたから休むねと言って、ベッドに横になった。
    そのまま、目を覚ますことはなかった。
    その彼の最期の寝顔をカメラは、ずっとずっと見続ける。
    伏原さんという監督が来て、話をしてくれた。
    彼は、その時、自分の父親を亡くして間がない頃だったそうだ。
    修一さんのそのお顔を観た時「うつくしい」という言葉しか出てこなかったと言う。

    「うつくしい」という言葉と、その死んだ顔が一致する。
    いや、「うつくしい」という言葉は、この人のためにあったのかもしれない。
    死に顔を見て、「うつくしい」とつぶやける。
    私は、母と父の死を見て、何だかねぇ、「あんど」だね。
    「やっと楽になったね」とか、「ここに居てね」と、そう感じた。
    英子さんは、修一さんの頬を撫でながら、
    「元気でいてくださいね。私は、寂しいけど、いつか逝きますからね」と語った。

    亡くなった人に、「元気でていくださいね」なんだ。
    これ、私にも分かる。
    父も母も、ここに居るから、少なくとも私の想いの中では生きている。
    身体と言う何か重荷をよっこらしょと脱ぎ去って、
    せいせい、さっぱり、身軽に、自由自在に生きている。

    何もこだわりがなく、俺が、私がでもなく、いいよいいよで、
    いつもいつも私や家族のことを見守って、心配していてくれる。
    滂沱だよね。本当に、目には見えないけど、傍に居てくれる。
    声は聴こえないけれど、語ってくれる。言葉である。

    人は、言葉になるんだなぁと、今、気付いた。

    言葉には、始めなく、終わりない。
    魂も同じだ。始めなく、終わり無し。
    不思議だなぁで、ボーダレスなんだな。

    その津端修一さんと、英子さんと、私は出会わせていただいた。
    言葉の人だ。
    言葉が、姿を現した人だ。
    その人の生き方に学び、その人の在り方をそのままに生きると、
    言葉が、言いたいことがよくよく分かる。

    大いなるひとつに、始まりはなし、終わりもなし。
    魂の中の修一さんであり、英子さんであり、父であり、母であり、私なんだ。

    人は仏心の中に生まれ
    仏心の中に生き
    仏心の中に息を引き取る
           朝比奈宗源

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