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  • from: クマドンさん

    2017年08月21日 06時30分54秒

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    「心」は「魂」。声は無き声。

    さてさて、雨がしとしとと降りだした。
    残暑とはいえ、夏真っ盛りのこの時節に、雨は続く、続く。
    東京では、毎日雨が降り続いていると言う。
    作物の成長が心配だが、どうにでもなるものでもなく、
    ただ、人は、それを、受け入れるのみ。

    Sさんと、電話で語った。
    「心」と「魂」の違いについてだった。
    紀野さんの本を読んで、はたと気付いたことがあった。
    「心」とは、生まれてから本日までの私の経験から創られるものだそうだ。
    「魂」とは、私の父母が生まれる前から、太古の昔から手渡されているものだそうだ。
    それは、無意識の世界の話であり、私がどうあろうとも「ここに」在るものだ。
    私は、いろいろな人生の経験を通して、私なりの「心」を生きている。
    それは、個別な私らしい心できっとあるだろう。

    しかし、私が、いかなる私であろうとも、
    私が、どんなに罪を犯したり、哀しみのどん底にあったり、絶望したり、
    死にたいと想ったり、どんなに世間から酷いやつだと言われても、
    何にも変わらず。
    その深い深いその「魂」においては、
    その表面に現れた私ではなく、本来の「私」とての私は、
    全く変わらず、不動で、確かで、迷わず、ぶれずに、
    もし生まれた始まりがあるとしたら、
    その瞬間から、今、ここまで、
    全くそのままで、私は、それを父や母からいただいて生きている。

    そのことを、私は、信じられる「私」になったようなのだ。

    かって沼垂四つ角に在った焼き鳥屋「山小屋」には、
    カウンター脇の柱に、
    墨字で色紙に書かれた、次の言葉が飾られてあった。
    「無声呼人」「むせいこじん」と、それを読む。
    「声なき声が、人を呼ぶ」
    私は、20年間以上この店に通い、店に入ると必ずこの書を見るのだった。
    「確かに、本日も、私は、呼ばれて来たなぁ」と。
    森田さんと言う哲学者のような店主の魅力に、
    このカウンターに毎夕集っている常連さんたちは、
    呼ばれて、ここに座って、今世司を飲んでいるんだなぁとばかり思っていた。

    しかし、実は、そうではなかったのではないかと、やっと気付くことができたのだ。
    何が言いたいかと言うと、呼んだのは森田さんではない、ということだ。
    人は、みんな、魂からの声無き声に呼ばれているということだ。
    その深い深い普遍的無意識からの声を聴いたら、
    その声に従い、その声の命ずるままに生きろとのことだった。

    「心」には「我執」がべとべとに張り付いている。
    「俺が、俺が」だ。
    自分さえ良ければいい。人のことなんぞどうでもいい。欲しいものは、手に入れる。
    これもまたまた人間らしい、人間臭い生き方そのものだ。
    でも、その「心」には、揺るがなく永遠から受け継がれている「魂」がある。

    ここが、この世に生きることの救いでもあるんだなぁ。
    「明」があれば「暗」がある。
    「真」があれば「偽」がある。
    「美」があれば「醜」がある。
    「聖」があれば「穢」がある。
    そうして相対的に一見対立するような価値であるが、
    よくよく見れば、それは、対立した存在ではなく、一つの存在なんだ。
    それは、私の「心」の瞬時、瞬時の姿でしか過ぎないからだ。

    この時もあれば、あの時もある。
    こうしている時もあれば、ああしている時もある。
    その相対をふらふらと漂っている、あっちこっち歩きまわっている。
    それって、「心」そのものの在り方なのではないだろうか。

    だから、それを認めればいい。
    本当にどうしょうもない、どうにもならない自分がここに生きている。
    それで、いいと、私は、想った。

    ただし、そんなどうにもならない私には、
    ちゃんと「魂」が存在している。
    その「魂」は、実は、とてもとてもリアルに、ここにあり、
    その深い深いところにずっとずっと眠っていたりする。
    しかし、「心」に惑わされ、「心」が乱れ、どうにもならなくなると、
    すーと現れ、「声なき声」で、私の「心」=「煩悩」に呼びかける。

    その声は、父の声であるかもしれない。
    母の声であるかも知れない。
    私を可愛がってくれた祖母の声かもしれない。
    それは、きっと「仏の声」である。
    でも、その声からは、絶対に、どうしても、どうあろうと、
    「私」は、離れられない。
    何故なら、その声こそ、「自分自身」だからだ。

    その「声」とは、「言葉」である。
    それを「真言」と呼んでいる。
    この「真言」は消えることなく、滅することなく、
    生まれてもいないし、死んでもいない。
    そこに、思い至る。
    その「声無き声」を聴きとる。
    いや、その声は、私に対してだけの「声」であると信ずる。
    ここから先は、「信ずる」しかないのだが、
    「無声呼人だ」と、感じたら、従容として、それに従う、黙って歩く。

    その声に対する、絶対的に受動する。
    だから、人は、信頼できると、私は信ずる。

    ふわふわとした「心」に頼り、「心」に翻弄されているうちは、
    闇の中を、煩悩の苦悩の炎の中を、歩くだけの人生となるだろう。
    だから、「おい、クマさん、声無き声が、呼んでるよ」だった。
    この「魂」は、絶対に裏切らない。
    この声が「行け」という道は、たとえどんな困難な道であり、試練の道であろうとも、
    やっぱり、従容として、その声の赴くままに、生きることなんだな。

    雨が、すっとやんでいる。
    屋根の瓦も、乾き始めた。
    小鳥が遠くで鳴き始めた。

    龍山は煙雨  浙江は潮

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