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  • from: クマドンさん

    2017年08月27日 07時36分09秒

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    不思議だなぁの働きに委ねよう

    不思議だなあ。本当に、この不思議だなぁしかなかったな。
    そんな話を、昨夜、アルビを観た後にSさんとした。
    そのことは、またゆっくりと書きたいと思うが、
    そこで語り合ったことは、
    私たちは、言葉を遺すことが大事なんだということだった。
    私たちが、お互いに体験したことは、
    そのように自ずからなるべきようなことばかりだった。

    確かに、その時は、意図し、選択し、決定し、実行したのは私たちでも、
    本当は、そうなりたいと願っていた大いなるものが、
    その時、私たちに呼びかけ、
    私たちをその気にさせ、何が何だか分からない内に、
    いつの間にかそのことを実現させていたのではないだろうか。
    そのような説明が、私たちには、とてもとても腑に落ちて感じられた。

    誰が創ったのでしょうね。だった。
    そして、もう二度と、あの瞬間はやって来ないでしょうねでもあった。
    そして、Sさんは、80歳の現在、20年間の森とのことを思い出している。
    私は、今日が50歳代最後の一日だ。
    だから、本当に罪深き、愚かなるこれまでの人生を振り返っている。
    その振り返っている二人が、「そうだねぇ」と、気付いたことが、
    「不思議だなぁ」だった。

    そして、何だか、この在り方や生き方や、ものの観方、感じ方に気付いてみたら、
    後は、これだけで生きられるし、余計なことはどうでもいいような気持ちになった。

    こんなことがあった。
    旧豊栄市の高森には、樹齢1300年の大欅が生きている。
    そこに、300年前から伝わっている「高森いざや神楽」がある。
    その神楽は保存会の人たちにより伝承され、
    春と秋の祭礼で奉納されるし、
    お正月には「砂丘館」で、一般の人たちにもお披露目される。

    この高森の丘には、「高森薬師様」が祀られてある。
    ところが、昭和48年の10月に、漏電によりこのお堂が火事になり、全焼した。
    薬師様や日光・月光菩薩等の仏像も消失し、
    何よりも高森の歴史を記録した貴重な古文書や資料も、
    全て消失してしまったのだった。

    そのことを憂えたOさんは、個人的にその失われた資料を再編纂するために、
    独りで動き出し、各家々や博物館や寺院を回って、
    失われたものと同じ資料を収集し、「高森の丘」という冊子に編纂したのだった。
    この独りの高齢な人の熱意と真摯なる故郷への想いとが、
    きっと彼のことを突き動かせたのだと、私は信じている。
    つまり、きっと、彼もまた、呼ばれた人だったのだ。
    その「不思議な」働きのおかげで、
    この地域には、持統天皇からの古い歴史が、記録として遺された。

    そして、忘れられていたその資料が、
    運命とでも言うのだろうか、私の元に届けられたのだ。
    高森の歴史を知りたいと願っていたら、
    向こうから、「こんな本があるんですよね」と、やって来てくれたのだ。
    そして、私は、その資料を元にして、一本の細やかな脚本を書いた。
    子どもたちにその本を、リーデングで発表してもらった。

    Oさんの夢が、ここに実現したようなものだった。
    Oさんが受け継ぎたかった「高森の歴史」を、
    3年生の子どもたちが地域の人たちに発信しているのだ。

    そんなこんなの後に、私は、もっと分かりやすい歴史の資料にしようと、
    「高森の丘新聞」を書きだした。
    誰が読んでも、すーっと理解できる簡易な文章表現で、
    その古文書等を書き直す作業だった。
    そして、6号を書いていたら、ある個所に出会い、どっきとした。

    今手元にないので、確かなことは言えないが、
    昭和54年?高森に北海道深川市からKさんというおじいさんが訪ねて来た。
    彼は、今は無くなってしまった音江町で、
    「高森いざや神楽」を舞っていた人たちが居たことを知らせに来てくれたのだ。
    50年間保存していた「神楽」と「太鼓」が発見されたこと。
    その神楽は、水原の業者が制作したこと。
    そして、その値段は当時農耕馬を七頭も買える高価なものであったことを。

    その記述は、それで終わっている。
    私は、どきっとした。
    どうしてもその事実を知りたくなった。
    そして、その保存されていた神楽と太鼓に出会いたくなった。
    そこに渡った人たちとは、きっと明治時代、
    干拓のために屯田兵として渡った人たちに違いないと想った。
    酷寒で荒れ果てた大地を飢えと寒さとに耐え忍び、干拓した高森の先人たちが、
    故郷を懐かしんで、踊っていた「高森いざや神楽」だ。
    どんな想いで、その神楽を舞っていたことか・・・・。

    その人たちの魂が、今、ここに蘇って、私のことを呼んだ気がした。
    不思議に、そう感じた。
    それは、その記録を再編纂したOさんの願いでもある。
    何だかねぇ。人は、ねぇ。
    「死者の想いの物語を生きいる」んだとは、池田晶子さんだ。

    そこで、徹底的にインターネットを使って、言葉の検索を始めた。
    「深川「「音江」「沖里鉱泉」「屯田兵」「神楽」等々。
    とにかく探すものに行きつきたかった。
    その一念は、あの時のOさんが乗り移ったのかもしれないと感じた。

    そして、金曜日、「あった」だった。
    深川市の郷土資料館のホームページを開いたら、
    そこに掲載されていた写真の真ん中に、「神楽」と「太鼓」が展示されていたのだ。
    「えっ、おんなじだ」
    「神楽」の表情は写真が鮮明でないために、よくは分からなかったが、
    その横に置かれている「大太鼓」と「小太鼓」は、全く同じ太鼓だった。
    「あったぞ。見つけたぞ」と、独り深い深い感動だった。

    すぐに資料館に電話して、事情を話し、調査の協力を依頼した。
    そして、手紙と私が創った新聞と、「高森いざや神楽」の資料とを送付した。
    後は、向こうの返信を待つばかりだ。

    こんなことがある。
    不思議だなぁ。
    本当に、人生とは、不思議しかないのだ。

    そして、想った。
    言葉を遺すことの大切さ、大事さを。

    「Sさん、私たちは、言葉を遺して、次の人たに渡していかねばですね」と。

    Oさんの遺してくれた言葉が、この北海道の「神楽」の発見につながった。
    Oさんは、10年前に亡くなっている。
    しかし、この言葉によって、歴史が再び蘇った。

    それは、全て、不思議だなぁの働きに他ならないと、私は信じている。

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