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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2017年08月31日 06時11分06秒

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    やっと第一歩への道が開けた

    「人は人 我は我なり とにかくに
       我がゆく道を 我はゆくなり」  西田幾太郎

    腹筋がやっと少しずつ元に戻りつつあるようだ。
    まだまだかちこちに固まっている。
    繋がっているというよりか、繋げていると言った方がいいだろう。
    一年と一カ月前、N大に入院する朝だった。
    私は、いつもの日課のジョキングをした。
    毎朝、走れる時には4~5キロを走った。
    今、考えると、この朝のどの時間に走っていたのかと、思い出せない。

    そんなにも身体を日々鍛えていた私だった。
    休日にはLSDで、10キロの走りで、日和山の展望台だった。
    いつもいつもそこから朝の海と街並みを眺めていた。
    そんな日々が、あの日から一変した。
    激変だった。
    腹筋が戻るまでには少なくとも一年間はかかります。
    重い物は持ってはいけません。
    自転車に乗ることも無理です。

    さてさて、ジョキングと山とスキーに生きていた私が、
    その楽しみの全てを失った。
    どんなにか辛く、哀しく、欲求不満の日々であったかと思うと、
    全くそうではなかったことが不思議なんだ。

    できない。やれない。諦める。
    そこに、不満やどうして私がという想いが入ると、
    こうして静かにはこの状況を受け入れられなかったと今は、想う。

    まず、身体の現実とじっと向き合う。
    そしたら、その身体のままでできることだけを考え、実行する。
    身体は、身体でしっかりと蘇生に向かって日々を生きていた。
    心もその身体に寄り添いながら、生きることだ。
    「心身」という「身心」とも言う。
    実は、この二つは一体であり、同じものなのだと、私は行きついた。

    身心脱落と、道元が言う。
    身体だけではなく、心だけでなく、同時に、瞬時に、この二つなんだ。
    病になって身体が不自由になって、やっとそのことが少し分かった。
    もし、心が勝手に、「俺が、俺が」と分離して、
    身体と対立したらどうなってしまうだろうか。
    身体の日々の蘇生への努力を認めず、
    この突然に置かれた不自由なる状況に対して文句ばかり、不満ばかり言っていたら、
    今のような私の心境には至らなかっただろうなぁと、察する。

    不思議なんだが、やっぱり身体と心とは一体なんだ。
    決してそれを分けて、別々のものとしては考えられないし、
    そうやって分けて考えては、迷いが生まれ、分裂ができる。
    身心一如だ。

    そうすると、心は、走れなくなり、動けなくなった身体のことを、
    ちゃんと労わって生きられる。
    身体もまた、そのままに日々、刻々と、生きてくれる。回復してくれる。
    それは、そうしなさいと言われてからそうしているのではない。
    そういうものだから、自ずからそうしいるだけだ。
    心というものも、きっと身体と同じはたらきをするものだと、感じた。

    ならば、どんなことがあっても、信頼して、任せればいい。
    身心一如ならば、心は身体と同じはたらきをするはずだ。
    だから、余計な心配をせずに、時に委ねる。
    その心が本来もっている蘇生力を信じて、じっと待つ。
    これってとても大事な生き方だったと、私の身心から教えられた。

    「心身」でもあるが、私はやっぱり「身心」のような気がする。
    ある日、突然気が付いた。
    ああ、眠っていても、私は、生きているんだと。
    この心臓は、動き、胃が消化し、腸が便を造り出す。
    血はいつもいつも血管を流れ、細胞は分解され、あたらに創造される。
    何一つはたらきをやめていないから、
    今、ここに、私は、「親父たちよ」を書いていられる。
    どの一つとして、その役割を放棄して、無責任に仕事をやめない。

    心もそれと同じだ。
    きっと何もせずにほっておけば、その自ずからの役割を果たすはず。
    なのに、私が余計なことを考え、欲望にとらわれ、他を羨み、自己否定する。
    すると、その自ずからのはたらきが止められ、ゆがめられる。
    その時なんだな、ストップがかかり、痛みを覚え、よどんでしまうのは。

    ただし、心も身体と同じように蘇生力をもっていることは、信じられる。
    そんな意味では、「身心」は、何も余計なことをしなければ、
    何とか、そこそこ、あるがままで生きられるんだな。

    そうやって任せました。お願いします。何とかなりますねと、委ねると、
    「そうだよ。そのままでええんがな」と、笑顔で応えてくれることが、
    「身心脱落」なのではないだろうか。

    絶対的な受容の態度こそ、信心であると、大拙さんが言っている。
    なされるがままに、なされて、生きる。かな。

    そろそろ、走り出そうと想っている。
    そろそろ、低山ハイクから山にも復活しようと想っている。
    そろそろ、トレーニングジムに行こうかなぁと想っている。
    ここまで来るのに、1年と1カ月だ。

    でも、身体と心とは、今は、静かにそちらの方に向かい始めた。
    そのはたらきに、任せてみる、委ねてみる。
    そう想えるようにやっとなったなら、そうしてみようと、今は想う。
    やっと復活の第一歩が来たようだ。

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