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  • from: クマドンさん

    2017年11月30日 06時33分18秒

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    行きなさい。

    昨日、帰ってきてポストを見たら、届いていた。
    何と、介護職員初任者研修の修了証だった。
    合格だった。
    何だかジーンと深くで喜びを味わった。

    7月の末から始めての15回の教室だった。
    今、ふと、あの教室で学んだ日々が思い出された。
    いつも隣に座って眠っていたSさんだったな。
    実習ではエプロンを着けて、楽しかったな。
    ある人生の限られた時間を、若い彼等・彼女らと学べたことは、
    とてもとても貴重な体験になった。

    どうしてこの初任者研修を受けようとしたのか。
    それは、いろいろな理由があり、
    いろいろな体験と出会いの結果だとしか、
    私には、言いようがなかった。
    私が、介護職員の資格を取得する。
    それは、全くの想定外であり、予想外の出来事だった。

    自分のこの人生に起こることすら、分からないのが人生だった。
    だから、私は、いつからか、勝手に決めることをやめにした。
    その人生に起こることを、ジャッジするのもやめにした。
    それは、私の想いを超えて、起こるべきして起こったことなんだと、
    そう想えるようになったからだ。
    その自分に起こった出来事が、
    例え、人から見たら不幸で悲惨な出来事であろうとも、
    それは、起こるべきして起こったことなのだと、今は、理解している。

    資格を取ろうという選択をし、決定したのは確かに私だ。
    しかし、その資格を取りたいという願いや、想いが起きたのは、
    私の深いところからのきっと促しだったと思う。

    そして、そのことを決定できたのは、
    ちょうど私にとってチャンスの次節に、
    この講座の期間が設定されていたからだった。
    これよりも、早すぎても、遅すぎても、きっと私は諦めたと思う。

    また、初めて座った席の周りの仲間に救われた。
    毎週土曜日に会うこと、話すことがとても楽しみになった。
    これもまた不思議な出会いだった。
    もし、この人たちでなかったら、
    こんなにも楽しみにして新潟駅行きのバスに乗ったかどうか、
    今では、分からない。
    やっぱり人生は、出会いだった。

    そして、何よりも、この講座で学びながら感じたことは、
    私が腹膜炎で生死を彷徨い、緊急手術で一命をとりとめたあの経験と、
    この3月、椎間板ヘルニアで、坐骨神経痛のために、
    一か月以上激痛に苦しみ、寝たきりだったあの経験と、
    回復してからの杖をついての不自由な生活が、
    私の介護への想いを深めていたということが、よくよく実感された。

    実習では、いつも私は「リアル利用者」だった。
    ベッドに寝たとき、それは、想定ではなく、ある日の私の日常・現実だった。
    人は、明日、いや今日、身体に突然障害をもつことがある。
    それは、教会の席に座ったまま、発症した私には、よくよく分かる実感だ。
    だから、私は、実体験を通して、語れる。
    そして、身体の不自由に耐えて、しのいで生活している人たちの気持ちは、
    私のこととしてよく分かり、感じられる。

    そんな病と不自由と痛みとに一体になれる私。
    そのことがあったから、きっとこの介護への道を進もうと決意したのだろう。

    それから、やっぱり亡くなった父や母や、施設に入所している叔母のことだ。
    私は、その数年間で、
    介護の現場とそこに働く人たちの献身的な姿を見ることができた。
    そこで大事にされていることは、痛みのケアでもあるが、
    心の痛みのケアだった。
    つまり、看取りなんだな。

    若い人たちは、介護を不自由な生活をしている人たちが、
    どうしたら自立した生活ができるようになるか、具体的な支援を考え、行動する。
    そのための実習であり、介護者としてのそれが大事なスキルとなる。
    しかし、私には、まず、その人の寂しさと孤独と辛さとに共感し、
    その人の心に寄り添い、傍にいて、話を聴き、分かち合うことが、
    なんだかその人の人生にとって大事な日々の支援であるのだと考えている。

    そこが、このどん底を経験し生き残った還暦の私と、
    人生まったく、これからこれからの若者たちとの違いだった。
    その痛みや苦しみが分かるためには、
    そうした痛みや苦しみを実感として味わっていなくては、
    その味の深さは絶対に分からないものだった。
    それは、事実だ。
    何と言っても、どうにもならない。

    だから、謙虚に自分ではなく、その人を尊重し、
    その人の気持ちになるための努力を日々の多忙な仕事の中でもすることだった。
    人は、身体の痛みもあるが、
    本当は心の痛みこそが、痛みの本質なのだとは分かっていない。
    看護師さんの優しい言葉かけや、微笑みで、どれだけ救われたことだろう。
    家族の優しさで、どれだけ痛みを忘れることができただろう。
    そんな私の実感から、
    介護とは、共感的な支援であると、この講座を通して学ぶことができた。

    共感には、自分はいらない。
    自分が空になることで、自分の空っぽの中に、相手の人が入ってくる。
    そしたら、その人にだけなればいい。
    ジッャジは要らない。
    ただ、「そうですね」「そうだったんですね」と、観ずればいい。
    そうだよな。感ずることは、観ずることでもあるな。
    見ることは、看ることでもある。
    その違いに私は、どん底の経験を経て、初めて至ることができた。

    そして、「慈悲」だ。
    この想いが、全ての介護の根底に存在していなくては、
    その介護には、魂が入らない。
    その相手に対する尊敬の念。
    尊厳を守る。
    そんな自分を捨てる覚悟の他に、介護の覚悟はないと思う。

    それは、私が人としてこの人生を生きながら行う、
    日々の修行そのものだった。
    「善く生きる」「善い人になる」
    そのために、私は、老人に、身体の不自由な人に、障害のある人に、子供たちに、
    学ばせてもらわねばならないんだな。
    なぜなら、その人たちこそ、私の人生の先生だからだ。

    退職してすぐの4月から就職するつもりはない。
    しばらく、地域の施設でのボランティアを続けたい。
    そして、地域包括には何が求められているのか、
    現場の人たちの実生活や生の声を通して、実感的に学びを深めたい。
    それからだろう。
    きっと、内からの不思議な促しが生まれてくるのは。
    その日は、きっと来る。

    ぐるりと一回大きく歪な円を描いて、今日に至った。
    これからの円は、私が自分で決めたい。
    そして、「慈悲」の生き方を貫く生き方で、
    この円の軌跡を一歩一歩喜びをもって歩きたい。
    そのためのパスポート、許可書が、昨日、私に届けられた。
    その「修了証」には、きっとこう書いてあるに違いない。

    「行きなさい。汝の想うように生きなさい」と。

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