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  • from: クマドンさん

    2018年01月23日 20時57分25秒

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    独りだなぁの続きだ

    独りだなぁの続きだ。
    独りは、二人でも、一つになれるかだな。
    やっぱりどうやっても、独りは、独りだ。
    独りは、何人集まっても、独りには変わりない。
    そのことで、悩んだり、迷ったり、寂しい想いをしたりしていても、
    その事実は、きっと変わらないだろう。

    私は、独りなんだ。
    そして、いくら好きでも、どんなか一緒に居たいと想ったとしても、
    その他者の独りと私の独りとは、
    けっして同化できない独りずつなんだな。
    私とは、そうした独りぼっちの存在なんだ。

    それでは、相手のことをすっかりとわかることはできるのだろうか。
    私は、いつも私のことが分からないから、
    ここにこれを書き続けている。
    「自分」とは、「自ずから分かるようになる」存在なんだと、
    つい最近、わかってきた。
    それなのに、自分のことすらおぼつかないのに、
    他者のことを分かることなんて、できるわけがないんだな。

    分かり合えない。
    これも、絶対的な事実だと想う。
    なのに、「あなたはこうだ」と、相手のことを言いきる人や、
    「あなたは人の気持ちが分からない人だ」と、断定する人や、
    その人たちも、実は、自分のことすら全く分からない、
    私のような人の、独りにすぎない人だということを、忘れている。

    人は、分かり合うことは、不可能なんだな。

    では、どうして一緒にいたいと想うのか。
    どうして、そうやって心許せる人や、
    同じ想いで、同じ言葉を語り合える人と居ると、
    何だか時がすぎるのを忘れて、ずっと語り合っているのであるか。
    そうした、「一期一会」の人は、確かに私には居る。
    その人とは、分かり合っていないのだろうか。

    それは、私にはよくは説明できないが、
    私は、その人と居るだけで、喜びを感ずるとは言える人と出会っている。
    その人と語り合っていると、何かに気付き、共感的に何かが腑に落ちる。
    「ああ、そうだったんだ」と、その人とは、分ち合える。
    それは、相手を分かるという事実ではなく、
    私とその人との共通なる、普遍なる無意識・精神とでも言おうか、

    私にもそれは在り。
    彼にもそれは在る。
    そして、その在ることすらお互いに気付かずに長年生きて来た。
    しかし、お互いにさまざまな紆余曲折を経ながら、
    痛い痛みと、哀しみと、辛さとを体験しながら、
    ここまで生き延びた時、
    ある言葉をきっかけに、はっと「我に還る」実感を感ずる。

    不思議何だが、相手のことは分からなくても、
    お互いに共通・普遍なサムシンググレートには、気付けるんだな。
    独りを生かされている、その大いなる働きとでもいうのだろうか。
    お互いに自然なるものとしての存在に気付くと、
    「あなたもそうでしたか」「わたしもそうでした」と、
    喜びと感動とを、分ち合えるんだな。

    分かり合えないが、分ち合える。

    独りで生きるしかない私には、
    きっとその喜びと感動とを分かち合える人は、居てくれるはずだ。
    そして、現に、その喜びと感動とを気付きとして分かち合える人と、
    私は、語り合えることの幸せを感じている。

    独りだから、独りを尽くすから、独りで少しずつ目覚めつつあるから、
    「ああ、そうだっんだ」が、ここに在るから。
    そのことが、少しずつ固い結び目を解くようにして、
    ほどけ始めているから、
    何だか、独りぼっちが、寂しくなくなってきている。

    数年前までは、独りには耐えられない寂しさと焦りとがあった。
    独りであることで、独りになりたくないと、人にむやみに依存した。
    でも、独りから逃れようとすがる時、
    人は、その独りで居られない人が、どうも疎ましく感じられるようだ。
    何かにすがるのではなく、独りで立てるようになる。

    しかし、それまでには、ずっと独りの闇の苦しさを経なくてはならない。
    その真っ暗闇の桎梏の中だけに、微かなる光は、感じられるものだ。

    きっと、独りだと感じたら、
    独りであることを寂しいこととか、みっともないこととか、焦らないことだ。
    独りであることに、徹する。
    そんな機会だと想い、独りである自分を客観視する。
    「ああ、人は、独りになるって、こんな気持ちになるんだな」
    「私とは、独りで居ることもできないほど、脆弱な人だったんだ」と。
    私ごとではなく、人ごととして、
    独りで居続ける。
    独りになりきる。
    独りに向かい、逃げ出さない。
    じっとそこで、止まって、自分自身を観察し続ける。

    そのうちに、自分の深いで出会うものが、きっとある。
    それは、きっと「言葉」だと、私は想う。私はそうだった。
    その「言葉」こそ、独りの人との精神での魂での共通言語となる言葉だ。

    すると、お互いには、決して分かり合うことはできないが、
    お互いを生かしている大いなる働きとしてのね
    自然そのものが、分ち合える喜びと感動とを教えてくれると私は信ずる。

    私が、そうだったから。
    しかし、独りに徹しない限り、
    その独りを誤魔化さずに、ずっとずっと逃げ出さずに見つめない限り、
    ここには至れないことも、真実だった。

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