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  • from: クマドンさん

    2018年01月31日 06時26分40秒

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    独房の中での自由

    ミャンマーの軍事政権の下、
    反政府運動を行ったという罪で、
    20年間の刑を言い渡された若き女性。
    彼女は、貧しい家で育ち、
    敬虔な仏教徒の両親によって育てられた。
    医師を目指し、外科医になるための研修の最中だった。

    投獄されたのは、独房だった。
    たった独り、朝は、お粥。昼もパンとスープだけ。
    話す友もなく、読む本もなく、
    独房の壁に囲まれ、いつ果てるともない日々が続く。
    飢えと孤独と、そして、過酷なる独房の中で、
    彼女が見つけたものは、自分自身だった。

    彼女は、そこでできることは、瞑想なのだと悟った。
    そして、その瞑想によって、
    きっと自分自身への問いの中から、
    光明である深きからの応えがあることを信じた。

    一日20時間の瞑想だった。
    そして、仏陀は、真実であったと気付いた。
    その仏陀が、彼女に呼びかけているその魂の声を聴いた。
    彼女は、独りであることで、
    みんなといる時には絶対につながることのできなかった深さと繋がれた。

    そして、その深さとは、他者でもなく、書物でもなく、映画でもなく、
    彼女自身だったことに気付いた。
    どこへも往くことはなく、誰に遭うこともない。
    「今、ここ」に全ては満たされていた。
    この身体と言うあるがままの存在は、
    何と確かなものだったのか。
    独りであるということは、
    こんなにも豊かで、喜びに満ちたものであったのか。

    彼女は言う。
    「インディペンデントです。」
    独りととは、独立だった。
    独りで在ることの強さと逞しさと奥深さとは、
    その人が、きっと群衆の中で、独立した存在としてその人が生きているから、
    きっとみんなが感じられるものだった。

    「フリーダムです。」
    彼女は、その独房の闇の中で、自由であることの喜びを感じた。
    自由とは、何者にも冒されず、
    自分の真実を、自分の言葉で語り、表現できることだった。
    彼女は、自分のこの世に生まれた使命が分かった。
    そして、そのことを語ることのできる自由な存在であることを悟った。

    看守は言った。
    「あなたは、自由な人だ。私には、その自由が無い。」
    独房でいつ終わるとも知れない刑の中で、
    孤独に生きるその女性に向かって、
    彼女を閉じ込めている看守はそう言ったという。
    「私は公務員です。軍政権に対して何も言えません」だった。

    つまり、みんなと居ようとすることで、
    自分自身の真実を失うのだ。
    人や世の中やその体制に阿ることで、
    人は、自分の本当に言いたいことを言わなくなってしまう。
    独房の中の彼女は、自由である。
    独房の外で暮らす看守は、絶対の不自由を感ずる。

    それは、看守が依存して、独立をしていないからだった。
    独りで立てない限り、その人には、自由はない。

    それから、彼女は語った。
    「試練があるということは、あなたは人としてどう生きますか」
    「その問いが、与えられたことなんですね。」と。
    だから、彼女は、その問いに対して、
    「人としての責任。つまり、自分の人生に対する責任を果たす」ために、
    その瞑想を続け、6年6カ月の獄中生活を耐えて来たのだった。

    人として生まれて来たことへの責任を果たす。
    この言葉は、実に深くて、重い言葉だった。
    私は、どうなのかということだ。
    人として、善く生きているのか、ということだった。
    その問いは、生きているその瞬間瞬間の選択にいつも顕れる問いである。
    「どっちの道を選びますか」だ。

    その選択の自由こそ、全ての人に与えられた基本的な人権なんだ。
    人権とは、自由に選択し、自由に発言し、自由に行動できるということだ。
    そして、その自由であるためには、みんなのなかに紛れてはいけない。
    どんなにみんなの中で生きていようとも、
    そのみんなの中で、独立した存在として生きることが、
    人として生きることへの責任なんだ。

    「独立」「自由」「責任」は、みんな一体である。
    それは、きっとこの身体や魂は、生まれながら知っていることなんだ。
    身体を信ずる。
    魂に聴き随う。

    彼女は、独房から解放された後は、
    政府に背いた人として、社会的な差別と偏見の中を生かされた。
    医師としての職場も与えられなかったので、
    貧民救済のための慈善病院で、ボランティアの外科医を勤めた。

    ミャンマーでは、今だに軍事独裁政権が全権を掌握している。
    民主化運動は、徹底的に弾圧され、
    少数民族や宗教的な差別によって、
    人権すら奪われている人々が多数存在している。
    彼女は、そこで、「民衆の声」としての新聞を発行している。

    私たちも、きっといつでも身体と魂からの問いを感じているはずである。
    「この生き方でよいのか」
    「この生き方は過っていないのか」
    しかし、その過ちを知っていながら、見て見ぬふりをする。
    それはおかしいと感じながらも、黙って通り過ぎる。
    そんな生き方が、日々の私だったら、
    きっと身体と魂も哀しむことと想われる。

    つまり、真実の道は、ここにあり、
    その道標をちゃんと人は、生まれた時から与えられているのに、
    そこから逃げ、見えなく、聴こえなくしてきたのが私だ。

    この余生を、どう生きようか。
    その時は、やっぱり身体と魂に聴き随おうと想っている。
    きっとそれが、その時に選択できる人としての唯一道なのだから。

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