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  • from: クマドンさん

    2018年04月25日 09時19分28秒

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    身体のリアルな物語

    昨日、小千谷のSさんと新潟駅前の居酒屋で会った。
    緑百年の総会の帰りだった。
    午後4時。
    私が勤務している間は、この時刻の飲み会の設定はできなかった。
    無色人となったことの楽しみの一つが、これだった。

    まず、物語という話だった。
    物語は、どこから生まれて来るのかだ。
    先日、松崎さんの演技だった。
    白昼の亡霊を彼女が見事に、鬼気迫って演じた話だった。
    昼間に亡霊が顕れてもいい。
    何故なら、亡霊に出勤時刻は決まっていないからだ。

    だから、今、ここにも、いてもおかしくないし、
    きっと、ここにもちゃんとその霊なる存在は居てくれるはず。
    その存在や、その気配を感じられる人には、
    そのことは、リアルな事実として感じられる。
    松崎さんは、そのまんまに感じたままに動き、歩き、語り、呟き、涙を流した。
    昼間っから妖怪話ですか・・・ではなく、
    やっぱり、そうした霊的な存在をいつも肌で感じられる感性が大事なんだ。

    物語とは、その感じたままにある。
    つまり、人が考えて創ったものは、作り物でしかない。
    本当の物語とは、私が考える前から、
    私が生まれるずっとずっと前から、
    ここに存在しているものなんだ。
    物語は、そうしう意味では、向こうから訪れて来るもの。
    だから、今は、その訪れを待っている。

    次に、身体と向き合うと言うお話し。
    途中の会の同志Wさんから、何の返信も届かなくなった。
    あれだけ発信していた彼なのに、
    ある日を境に、パタッと音信が途絶えた。
    こちらからのメッセージは送り続けても、彼からの返信は皆無だった。
    「どうしたもんだろうなぁ」の話だった。

    80歳のSさんと、60歳の私とが、彼の気持ちを想像してみた。
    「分からない」これが、二人の結論だった。
    しかし、一つだけ想像できることは、
    彼がきっと毎日、毎時間、毎分、毎秒と、
    刻々と変わって行く身体と向き合い、
    その身体の発する言葉を聴きながら生活しているということだった。

    身体からは、私たちは決して逃げられないもの。
    身体がおかしくなったからと言って、取り換えることはできない。
    パーツを別の新品のパーツと交換することもできない。
    総体としてのこの身体が、病み、衰え、朽ちていくならば、
    そのことをあるがままに受け入れて生きねばならない。
    それが、やっぱり身体のリアルだった。

    あの激烈な坐骨神経痛の痛みに耐えかね、呻き、嘆いていた頃、
    私は、本当にそのことを悟った。
    身体が、私だった。
    だから、痛みで立つことすらできなくなってしまった時、
    本当にこれからどう生きて行ったらよいのかと、途方に暮れた。
    生活とは、食べること、動くこと、排泄すること、片づけること等等。
    そうしたいろいろな活動を、意識せずともこなせることが、
    自力で生活できることだと、改めてその時、私は理解した。

    身体が不自由であり、思い通りに動かず、出来ない時には、
    やっぱりその出来ないことがもどかしく、いらいらとし、怒りにも達する。
    そんな状況に陥り、医師からの診断を受け、
    薬を飲んでも、治療を受けても、一向に回復しない現実に、
    私は、やっぱり怒りを感じ、何かに当たりたい衝動を感じた。

    彼は、まさに、今、そんな状況ではないだろうか。

    人は、当たり前に当たり前のようにして生きている。
    そのことの在り難さや、希なことを想いもよらないまま、
    指が動き、腕が動き、足が動き、目が見えて、耳が聴こえ、声を出せる。
    しかし、そうした動きや機能を突然失ってしまった人は、
    どれだけ多い居ることか。
    身体的な不自由を感じている障害のある人たちとは、
    明日の、いや、今日の私なのかもしれないということ。

    指が動く。ありがたい。
    眼が見える。感謝だな。
    歩いて移動できる。ありがとう。
    とは、私もそうだったように、人は想わないものだった。

    今、きっと、彼は、そのリアルな変化と向き合っている。
    今、この時も、職場で勤務している。
    腕が重い。立っていると腿が痺れる。指先が震える。歩くと倒れそうになる。
    さて、そうした弱り、衰える自分の身体と向き合うことの切なさ、哀しさ。
    それは、私には、痛いほどよく分かる。
    3年間、私は腹筋が繋がらなかったために、
    走ることも、自転車に乗ることもできない生活を続けたからだ。

    80歳のSさんも、日々自身の身体と向き合っている。
    それは、老いであり、衰えであり、弱さでもあった。
    出来る、出来ないという比較ではないと思う。
    今、ここに、あるもので、何ができるかと言う、明らめであると思う。
    私は、大手術を経て、この身体となっている。
    Sさんは、老いによって、その身体となっている。
    今、二人して始めていることは、
    そうした身体との対話だった。

    そのことを、彼にもしてもらいたい。
    怒りであり、いらいらであり、失意であり、落ち込みでもあろう。
    でも、身体は、彼自身なんだし、
    身体は、身体として少しでも回復し、蘇生しようと休みなく努力している。
    身体は、生きようと強い意志で刻々とはたらき、止まない。
    そのことを信じて。
    そのはたらきを信頼して。
    身体と共に歩むこと。
    つまり、身体との御同行であること。
    仕方ない。明らめよう。そして、リアルをそのまま受け入れよう。

    Sさんも、私も、そうやって日々を生きている。生かされている。

    さてさて、とは言っても、この境地に至るまで数多の試練、数多の苦しみ。
    そのどん底からしか、この境地は理解できないこともよくよく分かっている。

    今、もし、そうならば、ずっと向き合い、静かに底に着くまで沈むことだ。
    それ以外に、助かる道はないようだ。

    だから、身体と真摯に向き合ったならば、
    その身体の物語を丹念に聴き、誠実に書き留める。
    今は、そんな身体の物語の語り部になる時ではないかと、
    私は、そう感じている。

    亡霊は、今、ここに、ちゃんと存在しているように、
    身体のリアルも、今、ここにあるのだから。

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