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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2018/05/10 10:17:16

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    人と人との「間」とは。

    どうして人間なんだろう。
    そんなことがふと、頭に浮かんだ。
    人でいいのに、どうして人間なんだろう。
    「間」というこの言葉に、きっと何か意味があるから、
    人ではなくて、人間となったのかもなぁと、感じた。

    人と人との「間」に在るもの。
    それは、個人ではなく、独りで限定されたものでなく、
    いつも他者や他とのかかわり、つながりの「間」にあるもの。
    それがリアルなんだと、最近、私にも分かりかけている。

    私の中だけでけっして分からないはしない。
    問いをもつのは私でも、その答えは、
    私と何かとの繋がりの間にあることがよく分かった。

    この冷たい雨の中、
    餌をもらえると分かった雀が、今朝も我が庭にやって来た。
    せっせと両足でぴょこぴょこと跳びながら、
    プランタの間や、雑草の中を動きながら餌を探していた。
    きっとひと晩を空腹で生きていたのだろう、
    朝から、お腹を減らしているらしい。

    私は、そんな二羽の雀を観て、可愛そうになった。
    私は、じっと雀を観ている。
    私は、独りの時は感じられなかった、同情や労りの想いが、
    その雀を観ていたら感じられた。
    雀が居たから、優しさが目を覚ました。

    私は、餌の袋からカップ二分の一の雑穀をとり、
    それを持って庭に出て、雀の餌場にそれを入れた。
    そして、台所からじっとその様子を眺めていた。
    すると、びょんと餌場に上がった雀が、警戒しつつも。無心についばむ。
    そのきょときょととした姿が、また可愛かった。

    雀とかかわり、雀と共感する。
    でも、日常生活では、そうでない人の方が大半だと想う。
    まさか、庭で雀に餌をあげている人なんか、
    そんなには居ないだろうと私は想う。
    しかし、その雀のおかげで、私には、空腹感、辛さ、寒さを感ずることで、
    私には、共感が生まれ、優しさが生まれ、可愛いと想う気持ちが生まれた。
    きっとこうした感情や想いとは、
    その他との関係の中で生まれるものではないだろうか。

    その雨の中、自転車で職場に向かう長男だった。
    この冷たい雨は、暫くはちょっと強く降るだろう。
    風も吹き、職場に着くまでにはすっかりと濡れているだろう。
    雨で滑るので、ブレーキは効かないはずだ。
    「気をつけて行くんだよ」だった。
    この時も、大変だなぁ。大丈夫かなぁ。心配だなぁは、
    私が長男にかかわったから、きっと生まれた感情であり想いだった。

    人は、自分のことばっかりかでいると、
    本当にろくなことは感じず、想わないものだった。
    退屈だなぁ。面白くないなぁ。独りだなぁ。やろことないなぁ。だった。
    または、どうしてこんなに駄目な男なのか。
    暗いなぁ。重いなぁ。どうにもならないなぁ。懺悔だなぁかな。

    でも、そのかかわりや、関係性に立たされると、
    その「間」に生まれる感情や想いは、
    自分のことではなく、他者であり、他を優先にすることが多い。
    いや、かかわりの中にある時は、
    自分のことをすっかりと忘れていることが多いはず。
    特に、弱いもの、小さなもの、老いたもの、助けのひとようなものには、
    まず、優先するのが、その人たちへの感情や、想いだった。

    そこには、実に人間らしい味わいのある感情や想いが存在しいる。
    「可哀想だな」「大変だろうな」「辛そうだな」「苦しそうだな」
    その共感・同事が生まれるのは、
    やっぱり人と人との「間」であり、
    人と生きているものとの「間」である。

    その感情や想いが生まれ、そのことに気付き、
    何とかしないとなぁと想いが生まれる。
    私は、雀に餌をやった。
    長男には、「気をつけてな」と言葉をかけた。
    その気付いた私は、やっぱり人としての「善さ」を生きている。
    そう言えるのではないだろうか。

    ある日、万代からバスに乗った。私の目の前に白白杖の中年女性。
    さてさて、彼女はいったいどのバス停で降りるのだろうかと考えていたら、
    紡績角でピンポンを鳴らした。
    さてさて、この瞬間が、私が私に試される瞬間でもあった。
    間髪を入れない。即、行動する。
    そうしないと、余計な我欲や邪念か入り、行動を辞めることがあるからだ。

    「降りますか。お手伝いします」と、私は、彼女に声をかけた。
    「はい、ありがとうございます」と、彼女は笑顔で応えた。
    私は、二つ先のバス停で降りるつもりだったが、ここで降りることを決めた。
    隣に立っていた女子高生が、少し怪訝な顔で、サングラスの私を見つめた。
    まだ私の他にも、彼女のことを手助けしたい人もいたと想う。
    彼女がそこに座っているということは、
    同じバスに乗って、彼女の傍に居た人たちは、気付いているだろう。
    でも、声はかけない。いや、かけたくても、かけ方が分からない。
    そして、声をかけることが恥ずかしい。

    不思議なことだが、白杖の彼女が座っているだけで、
    その周りに居た人たちの心には、何かの感情が生まれ、想いが働いた。
    そして、きっとその時、気付いたものこそ、「慈悲」なんだ。
    ただ、「慈」の想いが生まれても、なかなか「悲」までには至らない。
    人目があるから。恥ずかしいから。誰かがやってくれるから。
    でも、彼女がそこに居てくれたおかげで、
    周りの人たちの心に「慈」の感情や想いは湧いたはず。
    それまで、いらいらしたり、辛かったり、ばんやりしたり、眠かったり、
    そんな我がふっとんで消えた。
    「どうしたら、いい」と、感じて、想った。

    彼女と私との「間」に生まれた感情と想いとは、
    人を人としてくれている、大事な感情であり、想いだった。
    でも、その感情と想いとは、彼女がいてくれたから、感じられたもの。
    知らんぷり。気付かない。寝たふり。見て見ぬふり。
    そういう人には、また別の「慈」が生まれているはず。
    白杖の彼女とは、そうした存在感で、そこに座っている人だった。

    「つかまってくださいね」と、彼女を私リュクの紐につかまってもらった。
    「ゆっくり行きますね」と、降りる時、バスの運転手にお礼を言われた。
    彼もまた、彼女のことを心配していた人なんだな。
    「どちらへ行きますか」と、バスを降りてから、彼女に訊いた。
    「市営団地です。ここまで来れば大丈夫ですよ」と、彼女。
    「どうせ帰るだけだから、お送りしますよ」
    「いいんですか。そうですか。助かります」
    「つかまってくださいね」と、左ひじを出して彼女の右手につかませた。
    「あの、私、反対が歩きやすいんです」
    「そうですか。それでは、私の右ひじにつかまってください」
    「はい、脳梗塞をしたもんで、右手と右足がね・・・」

    そんな話を聴いて、ぐっと込み上げるものを感じた。
    何だかね。人はね・・・。悲しいねぇ・・・。
    「ここでいいですよ。この信号から独りで行けますよ」
    「いいですて。団地の前の信号まで、行きますよ」
    「悪いですね」
    「どういたしまして、歩く速さは、これぐらいでいいですか」
    「はい、ちょうどいいですて」
    私は、彼女が団地前の信号を渡るまで見届けた。

    何だろうね。その「間」、ちっぽけでどうにもならない私は居なかったな。
    私の頭の中には、彼女を無事に家に送り届けることだけでいっぱいだったな。
    その「慈悲」の感情と想いとは、彼女が私に教えてくれたものだった。
    彼女に逢ったおかげで、私は、私にその存在を気づかせ、分からせた。
    人は、人と人との「間」だけにに、人として存在している。
    「真」も、「善」も、「美」も、きっとそうなんだ。
    人と人とが感じ合い、想い合うその「間」に、
    そのことはリアルに存在するに違いなかった。

    そうした出会いとかかわりの中からしか、
    在るものは感じられないし、想われない。
    かかわるからこそ、気付くのだ。腑に落ちるのだ。ということ。

    その「間」にあるはずのリアルな感情や想いに気付くためには、
    やっぱり進んで人とかかわり、他の命とかかわり、自然とかかわることなんだな。
    そうしない限り、人は、人としてもって生まれている「慈悲」そのものに気付かずに、
    残念ながらこの世とのお別れの日が来るのかもしれない。

    「慈悲」を感ずる。「慈悲」を想う。「慈悲」を行う。
    それこそが本来人として生きて歩む道なのだと、私は、そう感じ、想っている。

    この話には後日談がある。
    月曜日に自転車で雨の中夕方だったな、帰って来たら、
    何とまた紡績角の信号に彼女が立っていた。
    傘をさせないので、カッパを着て白状をついていた。
    「また、会いましたね。送りますよ」
    「えっ、そうですか」と、彼女は私のことを覚えていてくれていた。
    「自転車だと危ないので、ここに置いて行きますね」
    「いいですよ。この信号で」と、いつも彼女は申し訳なさと、遠慮ばかりだ。
    何だろうねぇ。
    私は、彼女に出会い、教えられた。

    「慈」は感ずるものだ。
    だが、どれだけの人が「悲」を行えるものだろう。
    それが、きっと私に対する生涯の問いであり、課題である。

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