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  • from: クマドンさん

    2018年06月18日 07時39分33秒

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    二匹の先生

    昨日、庭に出て驚いた。
    「いない。どこにもいない」
    ずっとスダチの葉っぱを食べて育っていた二匹のアゲハの幼虫。
    4センチ位まで成長して、むしゃむしゃと葉っぱをかじっていた。
    毎朝、確認。
    その無事に安堵していた。

    そろそろ助けてやるかなぁとは、想っていた。
    いつものようにイチゴのパックに葉っぱごと入れて育てる。
    すると、本当に大きくなり、蛹になり、アゲハになった。
    実に感動的な光景だった。
    しかし、今回は、少し待つことにした。
    何だか、この庭で生きているアゲハに対して、
    そうした特別な救済は、不自然な気がしたからだ。

    ここまで、鳥たちの眼から逃れられたのだから、
    もう少しここで、大きくなるのを見守ろう。
    そう想った翌日のことだった。

    不在。
    本当に、ぽつねんとして消えた。
    ぱくりと食べられた。
    そして、一体そのアゲハの幼虫はどこへ行ってしまったのか。
    「分からない」
    それは、カニのお父さんの言葉。カニの子どもの言葉。
    「分からない」
    でも、きっとそこには行かねばならない日がやって来るはず。

    幼虫の突然の不在は、その潔さを私に教えた。
    何だか、昨日からずっとずっとやるせない気持ちで居る。
    ある意味、後悔だ。
    しかし、突然、二匹の幼虫が消えてしまったことで、
    私の中での何かがはじけた。
    それはとても大きな気付きだったような気がする。

    その日がもし、私にも来たなら、
    その時は、この二匹の幼虫を想うことだ。
    つまり、じたばたしない。
    その現実をしっかりと受け止める。
    それは、やられるのではなく、「覚悟する」だった。

    鳥が来た。
    目の前にとまった。
    そして、私を見ている。
    くちばしが開いて、ただぱくり。
    これって、あの賢治さんの「やまなし」のカワセミと魚だな。
    さてさて、それって誰にでもある自然な姿。

    人は、死ぬことから、自分の「生きる」を考えることだ。
    その時、周りの人を見てはいけない。
    みんな凡夫だ。みんな煩悩ならではだし、みんな迷っているからだ。
    人を見ると、だから、もっと空しく、迷うことになる。
    だから、「やめた。やめた」だ。

    人からどう想われようとも、人から何を言われようとも何の関係なく生きる。
    「天上天下唯我独尊」だな。
    私は、庭で自然のままを見ていると、
    いつもそのことに想いが到る。
    「ああ、みんな、独りで生きているなぁ」
    「ああ、みんな、終いが来たら、ちゃんと終いにするなぁ」
    「ああ、何だか未練もなく、潔いなぁ」と。

    それなのに、人と言うものはどうだろうか。
    威張っていたり、俺が俺がと自慢したり、あいつは駄目だと馬鹿にしたり、
    そうなんだな。
    自然のままから人を見ると、
    人とは、何と愚かで救いがたい存在なのかと、ふと想う。
    賢治さんの童話に登場する人間の何と傲慢で、愚かで、
    自分勝手で、威張っていることか。
    人間は、どうやっても善くは書かれない。

    ただ、木偶の坊と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされない、
    そんな居ても居なくてもいい人が、物語の主人公となっている。
    その人たちは、自然そのものにもっともっと近い人だった。
    時には、森の声や、動物の語りや、風の音楽に深く深く感ずる人だ。

    考えると人は、おかしくなるようだ。
    とにかく、感ずることだ。
    原理・原則で凝り固まった頑固者がよくよく登場するが、
    みんなから笑いものになっていることを本人は知らないで居る。
    「山猫博士」「警察署長」「市長」「サーカスの団長」等等、
    みんな偉いと自分が思っている人たちばかりだ。
    そこに、自然なるままの子どもが登場する。
    自然なるままの動物たちが姿を顕す。
    とたんに、この頑固者たちが、滑稽な人となり果てる。

    その頑固者の周りを、おべっちゃらを使って、へぇこらへぇこらする者も居る。
    それがこの世の中なんだと、ちゃんとそのことを賢治さんは書いている。
    その通りに、国会もN大もどこやらの国の元首たちもなっている。
    その通りなんだな。
    実に滑稽で、茶番な劇なんだが、
    そんなものは、ただの造りものの、はりぼてでしかないのに、
    何だか、それだけが、正義で、全うで、世間みんなのように想わせる。
    大衆をすっかりと騙した来になってしまうんだな、これが。

    ということは、一切、金輪際、この庭には存在しないことだ。
    二匹のアゲハの幼虫は、ただその運命に静かに従い、覚悟して赴いた。
    何処へ。
    「分からない」だな。

    威張っている人。正義だと言っている人。みんなこうしていると言い切る人。
    その人の傍には、行かないことだ。
    その人とは、かかわらないことだ。
    いつか巻き込まれ、その内に、自分の意見を言おうものなら、
    「何で貴様は俺の言う通りにはしないんだ」と、怒鳴られるのが落ちだからだ。
    本当は、正義や原理や決まりや世間の常識が一番怖いんだな。

    私は、山に登って来た。
    そして、山のてっぺんからあの雄大な景色を見てきた。
    庭で、毎日、こうして何一つこだわらずに静かに行われる生き死にを観ている。
    そうすると、心は、とても穏やかになる。心が鎮まる。
    ところが、こうした人たちにかかわると、途端に腹が立つ。
    威張った人。自分だけが正しい人。世間の常識の人。人の話を聴かない人。
    難しいなぁと、ふとふと感ずる。

    宮沢賢治さんが、あの物語で描いていたことは、
    これだったんだなぁと、またまた、二匹の幼虫に教えられた。

    不思議なんだなぁ。
    人に学ぶことは、「そうありたくないな」で学ぶことが多い。
    しかし、自然から学ぶことは「かくありたいな」と感ずることが多い。

    自然のままを、これからも、私の先生としたい。
    あの二匹のアゲハの幼虫に合掌だ。

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