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  • from: クマドンさん

    2018年06月26日 11時22分10秒

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    人は、「言葉」を遺す

    何だか身体がだるいから、家事の後は何もしない。
    何もしない日があってもいいじゃないか。
    ぼけっと一日中過ごしていてもいいじゃないか。
    本当に疾風怒濤の日々の中、命を削って酒を飲んで生きている。

    退職したら何をしようかなぁ。
    ちょっとの間は、お休みさせてもらおうかなぁ。
    暇を持てあまして、退屈するかなぁ・・・は、全く無かった。
    こうしてビッシリと入れたスケジュールに少々疲弊気味だ。

    昨日Sさんと電話で話した。
    お互いに人生を語り合った。
    Sさん81歳。私60歳だ。
    そして、ふとふと気付いたことがあった。
    それは、言葉についてだった。

    Sさんは小千谷の東山で「木のこん」という親子の自然体験の場で活動している。
    面白くてしょうがないと、よくよく聞かされる。
    私は、そうしたSさんの感性で発見され、気付かれたことを、
    是非、言葉に表し、広くネットで発信してほしいとずっと前からお願いしていた。
    そんな話にまたなった時だ、
    ふと、気付いたことがある。

    「ああ、言葉って、種ではないか」ということだった。
    私たちは自然の中で、「あっ、そうか。そうだったんだ」と気付くことがある。
    私は、この小さな庭の草花や昆虫、鳥たちにいつも教えをいただいている。
    本当に大事なこととは、単純なことだ。
    当たり前のことなんだが、すっかり忘れていたことだった。
    でも、自然のいのちは、ずっとそのことで生かされている。
    どう生きようか。こう生きようか。
    そんなことは、考える必要もなく、考える必然もない。
    ただ、その「はたらき」のまま、生かされている。

    そのことを、ただ感ずるままに「味わって」生きている。
    その何も無い時間の流れに、流されるままに、そこで生きる。
    すると、そこに同じく生かされている自然のいのちと同事になる。
    彼は、我で。
    我は、彼に他ならない。
    違っていて、同じなんだ。

    そこでなんだな。
    私がこうしてここでその気付きを「言葉」で表す。
    その「言葉」は、そのいのちの意味の「種」となる。
    自然の全てのいのちは、次にいのちを繋げる為に懸命に生きている。
    本当は、花は自分自身のために咲いているのではないんだな。
    結実し、「種」を遺すために、花は咲く。
    そして、その「種」は、とにかくあっちこっちに散らばかれる。
    飛んで行く。運ばれる。
    その先にその「種」は落ちる。

    しかし、全ての種が育つわけではない。
    イエスの言う「畑の譬え」だ。
    良き畑に撒かれた種だけが、その地で根を伸ばし、発芽する。
    芽を出し、お日様を浴び、雨に濡れ、風を感じる。
    根毛は大地の隅々まで伸びて行き、水をずっと探し求める。
    そして、その大地の深いところには、「水源」がきっとある。
    根っこはそこにたどり着き、そこから湧き出る水を飲む。飲む。

    さてさて、人としての私ができることも、同じではないかという話。
    つまり、後の人たちのために、「言葉」の「種」を撒く。
    もう歳だし、花の盛りはとうに終わっている。
    今、じっと黙って、成熟を待っている日々だ。
    まだまだ、月日と時間とはかかるようだが、
    そろそろ、実感したことが「言葉」の種になろうとしている。

    私たちが、きっと次の人たちにつなげられるものとは、
    いのちではなく、この「言葉」の「種」なのではないかという話だった。
    だから、Sさん、種を撒いてくださいだった。
    Sさんの気付きや発見、感動をそのまま言葉にして、
    短い文で表現する。
    まず、ここから。

    花は、咲く。
    鳥は、飛ぶ。
    海は、轟く。
    人は、言葉で語る。

    次に、その言葉を「種」のように飛ばす。運んでもらう。繋げる。伝える。
    そのための手段は、インターネット・HP。
    きっとその深い意味ある言葉は、心ある人の想いと言う畑に落ちる。
    そして、そこで根を張り、発芽する。
    Sさんの発した「言葉の種」は、その人の心の想いとなって成長する。
    我が家の畑のかぼちゃの大きな緑色の葉っぱの数々も、
    たった一粒の小さな種から生まれ、育ったものだった。

    言葉は、種なんだ。
    私は、どれだけ「言葉の種」で育てられたことだろう。
    その言葉と出逢わなかったら、
    その言葉に感動しなかったら、
    こうした私としての生き方は、存在しなかったと、想うことがよくある。
    あの人と出会ったからの今なんだ。
    あの人から教えられたからの今なんだ。

    ということは、私もSさんも、
    その「言葉の種」を、次の人たちに受け継いでいく使命があるのだと、
    そんな気が、互いに語り合いながら、してきた。
    不思議だけれど、そう考えると、今、ここで生きている「意味」がある。
    深く感じ、深く気付いた人は、その「言葉」を託された人なんだ。
    だから、その人は、語るべき人であり、記すべき人となる。

    どうでもいいことではなく、大事なことなら、
    やっぱりそのことを「言葉」に表し、伝えることではないだろうか。
    私が感動する「言葉」は、今は、死者たちからのメッセージだ。
    でも、その「言葉」一つ一つが種として、私の心に移植された。
    そして、こうして私と言う人の生き方の羅針盤となっている。
    私は、やっぱり「言葉」で生かされた人の独りだ。

    Sさんは、「水源」と言った。
    深く深く在るそこに到れば、水はこんこんと自ずから湧き出してくる。
    そして、人にとってのそのいのちの皆元である「水源」とは、
    「言葉」なのではないだろうか。
    私は、「言葉」で生かされている。
    それは、不思議だが、確かなことだった。

    だから、Sさんには、その「言葉」を語ってもらいたい。
    その「言葉」を遺してもらいたい。
    その「言葉」を伝えて、広げてもらいたい。
    確かに、千人の中の1人かも知れない。
    999個の種は、育たないかもしれない。
    でも、1個が根を張り、発芽すれば、
    そのSさんの「言葉」は、そこで確実に受け継がれて、生きて、育つ。

    人は、「言葉」を遺すのではないだろうか。

    花は、咲く。
    鳥は、飛ぶ。
    海は、轟く。
    人は、言葉を遺す。

    何だな。
    そう考えると、賢治さんのように「物語」を遺す意味はとてもとても深いんだ。
    何だろうね。
    だから、私もこんな駄文をここに書き続けている。
    不思議たけど、歳をとりながら、だんだんSさんもを私も、
    その水源であるいのちの皆元=「言葉」に近づいて来たような気がしている。

    Sさん。
    書いてください。
    Sさんのその「言葉」を遺してください。

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