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  • from: クマドンさん

    2018年08月26日 09時17分02秒

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    役者さんは、いいなぁ。

    役者さんは、いいなぁと、感ずる。
    役を演ずる。
    でも、本当は演ずるというのではないのかもしれない。
    役にやり切る、とも違うようだ。
    その人である。
    その人としてここに生きる。
    その瞬間が、輝きの瞬間なのかも。

    自分とは、どこまでが自分なのか。
    自分とは、存在するのか。
    環境の中で、創られているこの自分なのではないだろうか。
    身体1つ想うようにはできない自分。
    まだ左足の痺れが在り、腰の痛みが続いている。
    どうも身体のあちらこちらに、加齢によるしみも増えたようだ。
    体力は、年相応にがたっと落ちた。
    私は、この身体をいただいているが、
    この身体の自然なままに生かされているだけ。

    目が覚めたら、私だった。
    この身体としての私は、目が覚めてもここに居てくれた。
    これは、自分の身体なのだから、
    自由にできる身体なのかとと言うと、
    本当に不自由なままの身体だ。
    交感神経と副交感神経によって司られ、
    自然に心臓は鼓動し、肺は呼吸し、胃は朝食のご飯を消化する。
    腸では、健康な細菌たちがせっせと働き、栄養を吸収する。
    何と、私が気付かない内に日々、刻々と行われている働きよ。
    身体は、一つの宇宙と言ってもいいものだった。

    意志はどうか。意識はどうか。
    それもやっぱり環境によっての変化・変幻・不自由なものだ。
    朝、長男と少しの意見の相違だった。
    それだけで、心と言うか、感情というか、揺れ始めている。
    この感情の揺れが起こると、
    しばらくは、その揺れを感じたまま、手を出せない。
    昨日は、午後から、ずっとずっと布団の中で休んでいた。

    それは、身体と心とが、
    私に対して休息を求めていたからだった。
    自然なるままに、私は、生きている。
    生かされるままにして、ここに私として存在しているはず。
    私とは、たったそれだけのことではないだろうか。

    これが私だと言い切れるものがどれだけあるのか。
    今、こうしていても心の波が、さざ波が湧いては消える。また、湧いてくる。
    どうにもならないではないか。
    私は、私自身すらコントロールできない。制御できない。
    つまり、私は、私自身に対して、不自由な私なんだな。

    そして、おかげさまで。
    私は、きっとこのおかげさまの人たちと共に生きている。
    いや、おかげさまの人たちに絶えず守られ、励まされて生きている。
    おかげさまを、そのまま信ずれば、
    私も、いつかはそのおかげさまとなる。
    実は、私の周り、私の傍には、そのおかげ様の実態で充ちているのだ。

    そして、私のこの想いや、心や、意志や、決断は、
    そのおかげさまの働きに拠るところが大である。
    私が、本当に私だけで創ったものは、この私の中にどれだけ存在するのだろうか。
    私は、おかげさまに生かされ、いずれ、おかげさまの1人になる私だ。

    役者はいいなぁと、いつも想う。
    それも、上手い役者さんには、ほれぼれとしてしまう。
    その役は、彼なのか、その役のおかげさまの人なのか。
    そこの違いが、よく分からなくなる。
    役者さんが居なくなり、すけすけになると、
    そこでおかげさまが姿を顕す。
    その顕われが、やっぱり感動だった。

    おかげさまが、自由自在に遊んでいる。
    おかげさまが、言葉を語っている。
    おかげさまが、ちゃんとここに生きている。
    そんな実感を、舞台は観客としての私に感じさせる。

    では、どうだろうか。
    この私の日々の日常も、これは一つの舞台ではないのだろうかと。
    私は、だんだんその境目が分からなくなってきているようだ。
    「不思議だなぁ」で、生きられている。
    おかげさまが、とても親しい友である。
    父も母も、祖母も叔母ちゃんも、山の仲間も、おかげさまだ。

    役を演ずるとは、おかげさまでおかげさまを生きること。
    もはや生きているのは私ではない。
    私は、もうどこにもいない。存在しない。
    そんな空気のような私だから、
    おかげさまが降りてくんなさる。

    自分が自分でなくなる時に、自分が自分になる時だ。
    では、その本来の真面目の自分とは、
    一体どんな自分のことなんだろうかと、想ったら、負けだ。
    いいんだ。まず、ただ、そのまま、想いのままに全てを委ねる。
    「大丈夫」なんだな。
    その自分でなくなることの、自分らしさを信ずることかな。

    私は、日々、ここを舞台として、役者であればいい。
    その役は、向こうからやって来る。降りてくる。はっと気付く。そこに居る。
    その人になるのではない。
    その人であるだけでいい。
    何も考えないと、庭のミニトマトにも私はなれる。
    役者とは、そうしたそのものに成り切れること。

    そのものは、おかげさまにある。
    そのものは、自然に充ちている。
    だから、自他の区別を想わず、そのものに成り切る。同化する。同一になる。
    成り切るとは、そういう意味だ。

    人は、おかげさまと自然のままに成り切れば、幸せなんだ。
    そこにしか、本当の意味での自由と創造はないのだと、分かった。

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