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  • from: クマドンさん

    2018年08月28日 11時01分01秒

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    61歳の誕生日の朝

    雨だった。静かに、爽やかに、気持ちよく、しっとりと降っていた。
    塀の外の雑草が気にかかっていたので、
    晴れ間をみて、涼しいうちにと、せっせと刈ることにした。
    草刈は、私の好きな仕事の1つだ。
    一気にやる。
    鎌でがんがんと刈る。
    その後、手でむんずりと掴んでビニル袋に入れる。

    FMで「展覧会の絵」を聴きながら、
    どんどん左へ進む。進む。
    刈り取った跡は、すっかり濡れた砂がむき出しになり、
    でこぼことしているが、雑草はきれいになっていた。
    仕事の頑張りが、この作業では一目瞭然だった。
    残った時間を考えて、道路まで一気に刈り取った。
    「気持ちいい」だな。

    そして、へとへとになり、
    汗をかき、心地よい疲労感に包まれた。
    本当に小さな、ささやかなことだが、
    仕事をすると気分がすっきりとするのはどうしてだろうか。
    ここまでは、ない。
    ここからあそこまで全部、すっかりと刈り取ることだ。
    途中はないし、中途半端に「、」を打って残すことはしない。
    ここからむこうまで、全部を一気にだ。

    昨日、Sさんと「、」の話だった。
    私たちは、きっと自分で「、」を打って来たようだと、
    二人で気付いた。
    「、」を打つと、こっちとそっちになってしまう。
    こっちは、私。
    そっちは、あなた。
    「、」は、そうした関係においての境界となる。

    次に、こっちの私の正しさを、説明し始める。
    正しいのは私、間違っているのはあなただ。
    その主張は、どちからも言える正義だ。
    「俺が、正しい」「お前は、間違っている。」
    その「、」をはさんだ主張は、きっといつまでも平行線をたどるはず。

    「、」を打つことで、お互いの立ち位置を明確にすることもある。
    夫と妻。
    親と子。
    上司と部下。
    先輩と後輩。
    そこで、その立場には立場に見合った考え方や、やり方があるだろうと、
    そうした一方的な決めつけも始まる。
    お互いに理解し合えないまま、
    「こうすべきだ」論だけは、どんどん主張される。
    だから、対立が生まれ、反発が生まれる。

    同じものも、その見方を変えると、違って見える。
    「、」のこちら側と、向こう側とでは、
    やっぱりものの見え方が違うものだ。
    一つの出来事を裏・表から見ているのだから、
    違っていることは当たり前。
    しかし、自分の見方だけが確かであると主張する。
    視点を変えて、立場を変えて、「、」の向こうからこっちを見ようとはしない。

    「、」とは、主客の分裂・分断だ。
    全体は一つで、その心身一如で生きているのに、
    何だか人は、その一つの命を分析し、細分化し、細やかな部分だけに過ぎないのに、
    その部分だけをもって、「これは、これです」と、全体を言い切ったりする。
    しかし、細分化され、分解されたものは、既に全部ではないのだから、
    それは、一つのものとしてそこにあるだけで、
    再び、取り出されてしまったそれは、全部の1つにはならないのだと、私は想う。
    だから、「これだ」と言うためには、
    全部をもって納得する。
    あるものをもって、「これでいい」と、腑に落ちる。

    絶対矛盾の自己同一だ。

    半分から、全部に到る。
    全部であることで、生きるを信じられるようになる。
    半分は、決して全部ではない。
    だから、問いをもって、全部を求め続ける。
    その探究することが、人としてこの世で生かされていることの喜びになる。

    Sさんは、毎日、生きていることが楽しくて、楽しくて仕方ないと言っている。
    何だかその問いに対する、自分なりの気付きを発見するとが、
    日々の生活の喜びになっている。
    「いゃー、歳をとらないと分からないね」と、80歳の明るい声だ。
    「この気持ちで、もっともっと生きてみたいて」と、張り切っている。
    それが、きっと「全部」なんだなと、
    私は、いつもいつも教えられる。

    そして、はっと気付いた。
    そうか、私ができることは、「、」を無くすことであるが、
    まだまだ修行が足りないから、心身脱落・脱落心身とはいかない、いかない。
    でも、出来ることはある。
    それは、きっとこの「、」を薄くすることだった。
    どうしても「、」を打ってしまう私。
    でも、今は、歳をとったおかげさまで、
    その「、」をごしごしと消しゴムでこすって、薄くしている。
    確かに、その「、」が薄く、微かになってきていることを、
    私は、Sさんとの電話の話から気付いた。

    草を一気に刈るようにして、この「、」を消すことはできないが、
    その「、」をせっせと消しゴムで消しながら、
    薄くすることはできるのではないかと、考えている。
    だから、長男と朝食をとりながら、余計なことは言わなくなった。
    これは、言うのを止めようと、考え直せるようになった。
    Sさんが、言った。
    「loveとリスペクトは、同事だね」と。
    ここのどこにも、確かに「、」は存在していない。

    ああ、そう生きることが、全部なんだな。
    そう生きることが、私の自由であり創造にもつながるんだな。
    とてもシンプルなことだが、とても難しいことでもあった。
    自分の中で「、」を付けない。「、」を消し去る。
    その生き方こそ、賢治さんが「手紙」を通して私に語ってくれたことだった。

    「まことの道」
    「まことの力の働き」
    「見えないものを信ずる心」
    「その道を歩き、問い続ける勇気」
    そう何だと、やっと想うことができるようになった。

    本日、私は、61歳となった。
    誰も居ない。
    祝ってくれる人は居ない。
    妻は入院中だ。長男は遅番だ。次男は東京で勤務中。
    雨にしっとりとした庭の草花を見ながら、
    でも、こうして「、」についての気付きができ、
    賢治さんからの「手紙」をいただき、読ませてもらい。
    何だか、Sさんの気持ちに少し近づきつつ、61歳となれたことを感謝する。

    生まれてこれて、本当によかった。よかった。
    父と母とに、感謝。感謝だ。

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