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  • from: クマドンさん

    2018年08月30日 10時37分56秒

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    ソウイウヒトニ ワタシモナリタイ

    またまた、腰を痛めてしまった。
    これは、きっと、一昨日のお仕事のおかげさまでと感じている。
    左足の付け上の臀部の痛み。
    その上の腰の筋肉の痛み。
    そして、腰の周り全体の痛みだ。
    あの坐骨神経痛のラインだから、少々恐れすら感じている。

    あの二週間以上前の左足への無理な姿勢による激痛からだった。
    あんな馬鹿なことを・・・といくら後悔しても、
    全く意味の無いことはよくよく分かっている。
    完治するまで、ゆっくり休めばいいのだが、
    日々の生活では、そうはいかない。

    また、私の性格として、じっとしていられないために、
    ちょっと良くなると、再び元の生活・活動を始める。
    痛みのために横になっていたのは、二~三日だろうか。
    その他は、痛みが和らぎ、薄くなると自転車にまたがった。
    しかし、先週一週間は、精神的にもナーバスになっていたようで、
    その日の予定をすっぽかすことが、幾つもあった。

    公民館のヨガ・バレーの公演・書道の稽古。
    何と全部頭の中から飛んでしまっていたらしい。
    東区の合唱もそうだった。
    心ここに在らず状態とはこのことだ。
    カレンダーに書き込んでおきながら、すっかりと忘れていた。
    それは、きっと身体が思うように効かないからのせいもある。

    身体と心とは、一体だ。
    心身一如は、まさにあるがままの真実だ。
    もし、身体に何の異常も無かったら、
    きっと私の心や想いは、活動の方に向かったことと思う。
    「あれがある。これがある」だな。

    ところが、そのことが出来ない身体となってしまったら、
    そのやりたいという意欲すら、乏しくなったようだ。
    やりたくないのではないが、やることを諦めてしまっているのだろう。
    私は、あんなに夢中だった登山をこうして数年間ぱたりと止めた。
    あれだけ走っていた日々のジョグもここ数年全くやっていない。
    以前は、トレーニングのためにスポーツセンターに行ったが、
    今は、それもやめている。
    本当に、運動からは遠ざかっている。
    暑さの中でウォーキングも無理だと戒め、全く歩いてもいなかった。

    本当に、私は、どうなってしまったのだろうか。
    あの大手術からこの4年間。私は、休眠状態が続いている。
    そして、こうした度重なる腰痛だった。
    昔、トレーニングに勤しんでいた頃は、腰痛なんぞ一度もなかったと記憶する。
    腰を痛めたというのは、他人ごとだった。
    そう考えてみると、全てのことがこの身体に起きている事実に繋がる気がする。

    生活の仕方が変わったから、身体が変わったんだな。
    鍛えていたからそれまではもっていたものが、
    そのトレーニングを怠った途端に、こうして不具合が起きている。
    そして、身体の不具合は、精神の不具合と密接に関連する。
    どこか痛むと、活動を休止する。活動を諦める。
    その結果、また身体に弱る部分が顕れる。
    その繰り返しだな。

    とにかく、今は、この痛みと向き合っている。
    この痛みが云っている「意味」を知りたいと願っている。
    だから、この痛みとは、対話する。
    しっかりと向き合い、どうしたらよいのかの答えを求める。
    痛みがあることで、身体を想う。
    そして、痛みがあることで、身体と真摯に向き合う。
    痛みが在ることで、身体の云いたいことを理解する。
    痛みは、身体からの言葉だからだ。

    昨日、大友真人?さんの話を聴いた。
    Tーポランというロックバンドのボーカルであり、リーダーだった人。
    80年代に絶頂期を迎えたその時、
    突然声が出なくなった。歌を歌えなくなった。
    いろいろな医者にかかった。病名がなかなかつかなかった。
    そして、ついに心因性の発声傷害との病名がついた。
    その頃は、声帯もストレスのために精神的も死ぬ寸前だったと言う。
    これは、まさに、身体からの天の声だった。

    彼は、東京に居ると孤独で、復帰を焦ることになるので、
    富士山の森の中のスタジオに転居した。
    そして、自然の中でどっぷりと浸かる生活が始まった。
    鹿や栗鼠もやって来る。森の匂い、森の風。空を見上げてぼーっとする。
    ここで、彼の中で身体と精神との蘇りが始まった。
    「自然は、いいですね。本当に、心が癒され、落ち着きました」
    蘇りは、彼にとってはまさに、黄泉がえりだった。
    どん底に堕ちる。
    そこから、真摯に身体と精神とに向き合う時、
    癒してくれるのは、人ではなかった。
    やっぱり、自然だった。森の力。生きとし生きる衆生の力だった。

    主治医からは、10年以上かかるかもしれませんとの宣告だった。
    「何を、馬鹿な、そんなことがあるはずはない・・・」
    しかし、実際に歌えるまで14年間かかってしまった。
    14年間の彼の苦悩とは・・・。私には、言葉なく、ただ涙だった。

    彼は、あるボイストレーナーのベテランの女性に出会った。
    彼女は、絶対に彼に歌を歌わせなかった。
    それほど、彼が瀕死な状態であることを察知したからだ。
    まず、その身体と精神と心との回復を待つ。
    とにかく、蘇るまで地道にじっくりと治療を続ける。
    「遊ぶことを仕事にしなさい」それが彼女の唯一の指示だった。

    彼は、釣りに夢中だった子ども時代を思い出した。
    それから数年、釣りに没頭した。
    とにかく釣り、釣り、釣り、の生活を続けた。
    歌を歌わない。自然の中で生きる。好きなことに夢中になる。無心で遊ぶ。

    ああ、これが答えだなと、私は想った。
    身体に聴くとは、この答えを生きると同事なんだと、またまた涙が溢れた。
    彼の14年間の辛さと哀しさと絶望とを想うと、
    泣けた。泣けた。泣けた。
    どうしてこんなに涙が溢れるのか、今、その答えが分かった。
    私も、同じだったからだ。
    私も辛く、哀しく、絶望したからだ。
    そして、涙とは、汝弥陀ではないのかと、さっき気付いた。

    彼は、苦しみによって、何かを悟った。
    彼の言葉は、とてもとても深くて、心に沁みる言葉ばかりだった。
    そのことを、素直に、静かに語る。
    彼は、深くて偉大な人となっていた。
    それは、この14年間の苦難の人生だからこそ、為しとげられたことだった。
    苦難は、人を育てる。いや、きっと本来の人に、ならせてくれる。
    そんな力を苦しみはもっている。

    若かった絶頂だった頃、彼は、自分が絶対の自信だった。
    その彼が、絶望のどん底に叩き落される。
    そして、蘇った彼は、今、ここにこうして静かに佇んでいる。
    彼は、どんな人とも分かち合える人となっている。
    私は、彼を見ていて気付いたことがある。
    「分かる」ではないんだな。「分かち合う」ことなんだなと。
    彼は、どんな苦しみや痛みや孤独や絶望の人とも、
    きっと分かち合える人となった。

    「苦労」という言葉は、どうしてあるのかと、ふと考えた。
    そしたらだ。答えはこの二つの漢字の中に在った。
    苦しみを、労わると書いて、くろうと読ませる。
    労わるとは、大切にする、大事にする、守り、慈しむということではないか。
    きっと人は、苦しみからしか教われないことがある。
    本当の人の深さや偉さとは、その苦しみを労わって生きて来た人にだけ、
    分ち合えるものなんだな。

    苦しみに感謝している人は、本当に深い深い人なんだ。
    苦しみは、苦しみを知る人と出会う。
    そして、苦しみを互いに労り、分かつ合うことで、
    その苦しみは、生きる喜びとなって自分自身を生かす源動力となる。
    私は、彼の語りを聴きながら、涙が止まらなくなったのは、
    きっと、私は、彼の苦しみを分かつ人とであるからだろう。

    私にも、やっぱり仏さんが居てくんなさる。
    それは、この涙でよくよく分かる。
    私は、人の苦しみや哀しみ、怒り、孤独、絶望に涙する。
    滂沱の涙だ。
    それは、私が間違いなく、汝弥陀であるからだ。

    身体の痛みと向き合うとは、こういうことなんだ。
    そして、長い月日をかけて、真摯に向き合っていると、
    きっとその苦しには、光明が見えるはず。
    諦めないとは、そこまでとりあえずは歩き続けてみるということ。
    そういう人に、私もなりたい。

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