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from: クマドンさん
2018/10/12 05:21:20
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子どもたちは、大人たちの鏡なんだ
子どもは、大人の鏡だなぁと、本当に想う。
子どもがそうなのは、大人がそうであるからだ。
子どもがそうであるのは、大人がそうであるからだ。
しかし、そのことに気付かない大人が多すぎる。
「言った」「教えた」「指示をした」「説教をした」
それでは、変わらないことは、大人自身も分かっているはず。
その大人自身がが嫌いなことは、
「言われること」「教えられること」「指示・命令されるここと」
そして、「説教されること」
なのに、自分自身がストレスと感ずることを子どもにする。
そして、「言うことをきかない」「教えた通りに動かない」
「指示・命令を無視する」
そして、「どんなに教えても自分勝手な行動をする」と嘆く。
それは、そのはずだ。
自分自身がやられたくはないことを、子どもだからとやっている。
もし、自分がそうされたらどうだろうか。
まず、怒りが顕れる。
そして、反発・反抗心だ。
それから、言われたことの反対を行う。
または、相手が傷つくような言葉で立ち向かう。
しかし、相手には権力があり、「正義」と「ルール」がある。
傍から見たら、どちらが悪いかは一目瞭然だ。
だから、立ち向かい、たてをついて暴れても、最後は力尽きる。
まだまだ見込みのある子どもは、
それでも、暴れる。言うことをきかない。反抗する。
そのうちに、双方とも諦める。ある意味、見捨てる。
見ないふりをする。
では、その荒れの本質とはなんだろうかと、いつも想う。
それは、「私のことをそのまんまに観てください」
それは、「私の気持ちをそのまま受け入れて、分かってください」
それは、「私の哀しみや苦しさや辛さを感じてください」
ではないだろうか。
その心の声は、その子どもの声だけではなく、
本当は、鏡に映っている大人自身の心の声ではないだろうか。
その「弱い」「間違いを犯すこともある」「ちっぽけな」私。
その私に立ち帰り、そのままを受け入れた時、
目の前に生きている本当のその子どもの心と向き合えるのだと私は想う。
その共感的なアプローチや、子どもたちの目線まで下がり、
この子どもたちが心の底から大人たちに訴えたいことは何かを、
感じて、感じて、考えて、考えて、「分かる」まで、
大人は、その子どもをじっと見つめて行くことが大事なのだと私は想う。
子どもたちは、みんな違った存在だ。
子どもたちは、みんな違った想いや考え、感じ方をしたいる存在だ。
子どもたちは、独り独りが独自な尊い存在だ。
その事に対する、敬意や尊重する想いがなかったら、
大人とは、相手のことを大切にできない存在なんだと、
子どもたちには誤解されるだろう。
「子どもは、一冊の本である」とは、シュタイナーの言葉だったかな。
その本には、子どもたち自身も読めない言葉がいっぱい書かれてある。
傷ついている子どももたくさんその本には言葉を書いている。
大人もこんなに傷ついているのだから、
そうした「弱さ」の立場から、その本を読めば、
きっとその子どもの真実が明らかになるのだと、私は想う。
愛するの反対は、実は傲慢なのかもしれない。
愛するの反対は、実は無理解なのかもしれない。
もし、子どもが日々出会っている大人が、
傲慢で、頑固で、無理解で、冷たい大人だったら、
きっと子どもたちの心は荒れて、暴れたくも、悪態をつきたくもなるだろう。
大人は、そんな状況に置かれたとしも忖度して、我慢して、愚痴を言って、酒を飲む。
子どもたちは、どうしたらよいのだろうか。
もし、子どもたちが荒れたいたら、それは自分自身なんだと感じたい。
その荒れた心は、私の荒れた心であった。
そんな気持ちで子どもたちに向かってやれる大人が、
独りでも増えることが、何よりもの子どもたちの救いだった。-
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