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  • from: クマドンさん

    2018年12月18日 21時18分39秒

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    時熟という言葉が在る

    時熟という言葉がある。
    言葉が在るということは、
    その生き方がここに在ることだ。

    言葉が在るもので、
    この世に存在していないものは無い。
    無いものに言葉は与えられないからだ。
    在るから、言葉は在る。
    だから、言葉で在るものは、確かに在ると言える。

    それでは、時熟という言葉が顕わにする生き方とはどんな生き方か。
    それは、あのドキュメンタリー映画「人生フルーツ」の二人の生き方。
    そんな自然と共に時間が流れるままに任せた生き方。
    時間の流れをまるで川の流れのように感じながら、
    そのままでのほほんとして生きている。

    彼女は、畑の土を豊かにするために、
    せっせと落ち葉を撒いて堆肥を作った。
    彼は、工房に入って何かを創り、
    毎日、彼女の作る食事を「美味しいね」と言って食べている。

    季節によって実りが訪れ。
    それをありがたくいただき、おすそ分けをする。
    何があるわけでもなく、
    何もないわけでもなく、
    ほんの細やかな発見や気付きを語り。感動を分かち合う。

    時間は、誰にでも平等に過ぎて行く。
    その時間の中を私たちは独り独りの旅をする。
    この時間を止めることも、遡ることもできない。
    だから、抗うことは無理なんだ。
    歳をとるとは、そういうことだ。
    そして、いつかは、この身体ともさよならをしなくてはならない。

    この身体で居る間は、
    この世で生かされているのだから、
    五感を通して、この世の味わいを味わうことができる。
    そのことを楽しむこともできる。
    感謝して生かされていくこともできる。
    そうした自然な生き方を通してなら、
    きっと、その与えられた限られた時間は、
    きっとその人として熟すのだと私は思う。

    その時、私はどんな生き方をしたいのだろうか。

    まず、感謝だろうなぁ。
    今朝も、今日一日の命を与えてもらえたことを感謝して祈った。
    ここに居られる。こうして私としてここに生きている。生かされている。
    そのことは、ただ感謝しかないと私は想う。

    次に、委ねるかな。
    全てのことは変化する。全てのものは消え去って行く。
    ただし、次々とその新たな命は生まれて行く。胎動している。
    その数多の1つ。ちっぽけな一粒が私だと言うこと。
    それなのに、ああでもない、こうでもない。
    ああなりたいし、こうならないと腹が立つでは、おかしいと思う。
    為されたことは、ここに生かされていることに「意味」を感ずる。
    その「意味」を想うから、委ねられる。

    そして、自分を捨てるということ。
    時々、自分が顕れる。いらいらしてり、腹を立てたり、怒っていたり。
    感情にふりまわされると、その後で、情けないなぁと哀しくなる。
    自分はいらないと思ったら、
    そんな波立つような感情は起こらないのに、
    昨日も、叱った。本当に嫌な惨めな気持ちになってしまった。
    だから、自分が何とかしようとは想わない。
    きっと何とかなると、期待する。お任せするだな。

    それから、休むということだ。
    今までは、あれもこれも、とにかくしたかった。
    そのために空いている時間がとてももったいなく感じた。
    だから、これをしたら、次にこれをして、それから・・・・。
    とにかくマグロのように全力で泳ぎ、回遊し、休むことを知らずに生きてきた。
    そして、その都度、ぶっ倒れた。瀕死の重病となった。身体が応えた。
    そして、61歳になってやっと少しだけ知恵をつけた。賢くなった。
    休む時間を、意識して作ることにした。
    そしたら、ゆったとした。のんびりとした。穏やかになり、豊かになった。
    豊かになるためには、何もしないことが大切なことだった。

    小千谷のSさんは、81歳だ。
    すこぶる健康で、意欲的に研鑽し、努力し、
    地域の幼子たちや若い親たちとも交わり、家庭での奥さんとの生活を楽しんでいる。
    「やっと分かったて」と、本当に嬉しそうな声だった。
    Sさんは、分かったから、よかったと私は想う。
    この楽しさを分からずに、不平不満で生きているお年寄りが何と多いことか。
    「俺が、俺が」の人は、やっぱり哀しい人だと私は想う。
    いつまでたっても「俺の言うことをきけ」ではね・・・・。

    どれだけ捨てられるかで、その後の時間の豊かさは決まるようだ。
    「捨ててこそ」とは、一遍上人の言葉だったかな。
    私は、だから、日々、時熟を目指し、
    自然のままに、のほほんと生きたいと願っている。合掌。

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