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  • from: クマドンさん

    2019年01月21日 05時40分30秒

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    見えないものは、あるんだな

    昨日の、不思議の実感だった。

    教会で司会をした。
    聖書の言葉を原稿に書いた。
    それは、教会の兄弟姉妹たちに、伝えたい御言葉だった。
    下川先生が、その御言葉を教えてくれた。
    私は、その原稿を、ただ読んで祈ればいいと思っていた。

    ところが、その御言葉を読み始めたら、
    込み上げて来るものを押さえられず、涙だった。
    涙の私が、その涙を堪えて祈りを続けた。
    私は、涙を流し深く哀しみ、泣いているのは誰なのかと感じた。
    泣こうとはしていない。
    壇上で司会をしながら、泣くつもりがあるわけはない。
    なのに、どうしても、涙がとめどない。

    御言葉は、聖霊だ。
    私は、壇上で涙しながら、声を詰まらせながら、
    私を見ていた。
    ああ、泣いているのは、魂なんだなと。
    涙の私。
    魂の私。

    不思議なのだが、そのことを、私の涙で実感できた。
    顔を上げて、みんなを見た。
    すると、教会の中の空気感が一変していた。
    何かすっきりと、浄化されたものを感じた。
    「私が、私が」という、強い我が、すーっと消えた。

    礼拝の後、長机を動かして、食事の会場づくりを私は自主的に行う。
    男性が少ない時は、ひと苦労な仕事だった。
    黙々と独りでやっていることもある。
    ところが、昨日は、日ごろはお手伝いしない姉妹たちが、手伝ってくれた。
    奉仕を当たり前のようにしていた。
    彼女たちの魂にもきっと御言葉と涙を通して、何かが届いたようだった。

    不思議だなぁと、そんな姿を見ながら、魂の働きを実感した。

    午後は、松浜のこらぼやで、「賢治の会」だった。
    昨日は久しぶりの参加だった。
    11名の60代から70代の人たちが卓を囲んだ。
    卓の上には、ミカンと大福がのっていた。

    「さいかち淵」が、本日のテーマだった。
    みんなでこの物語を輪読する。
    初めて出会う物語に、私はいつも賢治さんはどこに居るのかと考える。
    実は、表だった物語の陰に、裏に、見えないところに、
    賢治さんの姿は見え隠れしている。
    その面白さが、賢治さんの童話の面白さだ。

    もう一つは、寓話になっていることだ。
    それは、物語を通して、伝えたいメッセージがいつも隠されているということ。
    それも、法華経を基本とした、仏の道であり、死生観でもあった。
    見える世界は、現実であり、我執であり、欲望であり、殺生与奪であったりする。
    しかし、その哀れな人間としての姿を、
    賢治さんは、どこかで、聖霊のようにして俯瞰して、見ている。
    まさにそれは、この娑婆を見守る、仏様の視点でもある。
    その視点で、この物語は描かれる。

    みんなは、読んだ資料や評論家の話で、この物語を読み解こうとする。
    それは、理屈だ。それは、人が頭で勝手に考えたことだ。
    そして、議論したり、言い合ったりする。
    私の言ったことが正しいに決まっている。
    でも、そうした言葉のやりとりを、賢治さんはにこにこと見ている。
    ここにも、いつも賢治さんは、いてくんなさる。

    私は、そんなああだこうだとは関係なく、
    この8月13日のお盆の日に、さいかち淵で行われる殺生を追う。
    子供たちは石を淵に投げて魚を捕ろうとしている。
    大人たちは発破をかけて魚を捕ろうとしている。
    翌日は、子供たちが毒もみをもって来て、魚を捕ろうとしている。
    そんな中に、「ぼく」は居た。

    あれっと、感じた。
    ぼくには、名前が無く、どうも実体もないようだと。
    ぼくは、きっと聖霊ではないかと感じたら、
    この物語に見え隠れした賢治さんが仕掛けた一切の謎がこの時、解けた。
    ああ、ぼくは、子供たちの中で遊び、子供たちを遠くから見ているぼくだと。
    木の上から、子供たちの鬼ごっこを眺め、
    「魚を捕ることは、悪いことだよ」と、独りの男の子に呼びかけるぼく。

    でも、理屈の中で、現実的に、評論家の本を読み、
    知識が在り、この本の由来を知っている思っている人たちには、
    このぼくに対する実感が伴わない。
    見える物が、物語だからだ。

    私は、こうしてぼくとなって物語の中で生きている賢治さんが、
    何だかおかしく感じた。
    いつもいつもいたずら小僧のように物語の中で生きている。
    物語の中に賢治さんは生きている。
    それを感じられるかは、きっとその人の生き方次第だ。

    これが、昨日の二つの不思議だなぁの実感だ。
    不思議だなぁに、充ちている。
    不思議だなぁしか、本当は存在しない。
    そのことを感じて日々是好日と生きられること。
    今日を、今を、ここを生きるの幸せなんだと、感じた。

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