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  • from: クマドンさん

    2019年03月21日 06時20分29秒

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    人となる修業なんだな、生きるとは

    喉が傷む。
    それでも熱は出ないので、平常生活を続けている。
    どこかが傷むと、やっと日々の健康が理解される。
    忘れているということは、ちゃんと機能していたということだ。
    病に成ることで、平常の幸いを改めて気付かせられる。

    毎朝、4時から布団の中で腹這いになって本を読んでいる。
    今は、「道元禅の真髄 渓声山色の巻講話」 澤木興道著を読んでいる。
    全部で8講あり、1講をちょうど1時間余りで読み切れる。
    道元の書を澤木さんが独特の観点から解いて聴かせる面白い話ばかりだ。
    実は、この本を読んだのは、今回で3回目かな。
    いつも心に遺った言葉を、赤ポールペンで、欄外に書き留めている。
    同じ言葉にまた深く深く共感すると、またその言葉をそこに記す。
    だから、この本を開くと、赤いその言葉の数々がぱっと目に入る。

    しかし、こうした心に遺る言葉を、
    今、ここで生きている同時代の人たちの中で、
    どれだけ語れる人がいるのかと思うと、何だかとても寂しい気がする。
    それは、この「菩薩道」をちゃんと生きている人がどれだけいるのかという、
    何とも根源的な仏からの問いのような気がして、身が引き締まる思いもする。

    「お前は、どう生きているのだ」との「問い」だ。
    「はい、ここに、ちゃんと人として生きています」とは、私は言えない。
    どこか恥ずかしく、後ろめたく、嘘がある気がする。
    そうやって考えたら、自分自身を振り返るだけで、
    まだまだ不完全で、愚かで、分からんちんの木偶の坊だと自分を想う。
    だから、本を読む。言葉を探す。生き方の師を求める。
    本当は、そうやって「いかに生きるか」を問い続けて生きることが、
    人間として生まれて来た私の宿命なのではないかと、考えている。

    日々是好日であるためには、日々是精進であり、日々是道場だった。

    修業には、師が必須だ。
    私は、その師を求めて、半年自由気ままにあっちこっちを訪ね歩いた。
    その半年で、確かに忘れ得ぬ、人生の師匠に何人か出会えた。
    それは、その人たちがその道の極みを求め、
    長年探究している人であるからだった。
    その道の人は、何かが違った。
    ちゃんと背筋が伸びていた。
    深く深くの言葉があった。
    そして、立ち居振る舞い。そこでの在り方そのものが憧れでもあった。
    そういう人と出会えたことだけで、幸いだったと今も思う。

    すると、その人に成りたい。
    その人のようにして、日々を生きたい。
    そう想うようになる。
    すると、書道をしようと、ヨガをしようと、スイムをしようとも、
    心に遺ったその師の教えがいつもいつも私に語りかける。
    「言葉」が、私の目指す姿となって行く。
    師が私の今、ここの至らなさを観てずばっと言った言葉とは、
    この今のほんのちょっと、爪先の進歩のための強烈な示唆だった。

    その「言葉」を体現する。
    その「言葉」に成る。成りきる。
    最後には、その「言葉」を忘れる。
    自然にその「言葉」が示したように成る。行う。やっている。生きている。
    それは、言葉を身体で体得することだ。
    そして、その体得された姿は、「言葉」そのものの現れとなる。

    「言葉」を「身体」に仕上げなければならない。
    それが、きっと道を生きると言うことなのだろうと、
    澤木さんの話を聴きながら、ふむふむと納得納得腑に落ちた。

    そしたら、突然に閃いた。
    「人間」とは、人として生きている間のことだ。
    つまり、人として生きている間は、人としての道を修業すればいい。
    「人生」とは、人として生かされているということ。
    つまり、せっかく人としてこの世で生かされているのなら、
    少しでも「善き人」になることを目指そう。
    その人として生きる道を学ぶための娑婆が、私にとっての「道場」なんだな。

    「生きた見本を見て、仏祖を見習い、仏祖の起こした菩提心を学び、
     ずっとついていくのがわれわれの道である。」

    「彼岸に修行あるゆえに修行なる彼岸到なり」

    「先聖の道をふまんことを行履すべし」

    「師をたずねて、道をとむろうて参禅をなす」

    このことならば、その気持ちが在れば、発菩提心があれば、
    日々、どんな人でも、だれでもやれる人としての修業なんだと教えられた。

    それは、たとえ、年老いて動けなくなった人でも、
    病のために寝たきりになった人でも、
    どんな試練や過酷な状況に置かれた人でも、
    「発願」すれば、きっとその道を行履できる道だと私は思った。

    もし、周りに人が居なかったら、
    自分がその人となるように、日々是精進・日々是道場と、
    仏祖を見習い、仏祖の起こした菩提心を学び、
    ずっとついて行き、
    その言葉を、身に着けて、言葉そのものの人となり、
    その言葉である菩提心を日々生きる人になればいい。

    どんなにちっぽけで、無名で、人知れずあっても、
    その置かれた野で小さな花をただ咲かせればいい。
    一隅を照らす灯りになればいい。

    例え、身体は病になっても、
    心は病むことをせず、日々是好日で生きたいものだと、私は思う。
    喉の痛みと、私の魂は別物なんだ。

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