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  • from: クマドンさん

    2019年03月23日 06時13分05秒

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    人は、変わるもの

    人は、変わる。
    いや、人は、変わるものだ。
    しかし、頑固に自分に固執する時、
    人は、変わることを頑なに拒む。
    それは、変わることへの不安があるから。

    みんながそうしていることをしていればいい。
    みんなが正しいと言うことを聞いていればいい。
    世間はそうしているのだから。
    その世間の目や評判を忖度していればそれでいい。

    みんな我慢している。
    みんなやりたいことを諦めて生きている。
    そんなことをしたらこの世の中で生きてはいけない。
    みんながそうしているように、私もそうしなくてはならない。
    目立たぬように。人から何か言われないように。
    人には、良い人だと思われるように。

    変われない人は、そうした固定された生き方に自分自身を当てはめた人だ。
    そこには、自分で考え、体験から理解し、創り上げた生き方は存在しない。
    本当に自分自身が腑に落ちて、「ああそうだ」という生き方も在り得ない。
    ただ、「そういうもんなんだよ、世の中は」で生きる。
    そうではないと言う生き方を、想像すらできない。

    頑固に一途に変わらないということが、その人の信念であり、正義でもあった。
    「自分は、これでいい」と、ただそう信ずる。

    でも、本当にそうした生き方が、その人の幸せなのだろうか。
    その我見に捕らわれ、縛られている生き方の人に、
    本来人として生かされている私たちの自由を、
    感ずることができるのだろうか。との「問い」だった。

    私は、「生きるとは、何ですか」の「問い」だった。
    その人は、「何を言ってんだ。こうに決まっているだろう」の断定だ。
    しかし、そこから先には、話は進まない。
    「こうだ」と思い込んで、その考え方で何十年も生き、
    70歳・80歳の今に至って、自分の信念を変えることは、絶対に難しい。
    本人にその気が無く、後悔が無く、懺悔が無い限り、
    きっとその頑固な想いのまま、生き続けることだろう。

    まぁいいかと、思う。
    それは、最近よく感ずる。ただの「生き方・考え方」の違いだからだ。
    そして、どちらも是であり、たまたま私は、こっちを選んだだけなのだ。
    だから、議論することもいらない。
    年寄になってしまったら、そこから柔軟心を得ることは至難の業だ。
    「いい加減」が大っ嫌いな真面目な人たちには、
    変わると言うことは、負けるということと感じるらしい。

    しかし、子どもたちは、違う。
    子どもの内に、そうした我見だけを身に着けてしまい、
    みんながこうだから、こうしなければならないと思い込まされてしまっては、
    何だか可哀想な気がするからだ。
    みんななんてどこにも存在しないのに、その幻のみんなに縛られている。
    本当は自分自身の中にしか「答え」は存在しないのに、
    周りの目や批判を気にしすぎて、おどおどと小さくなって行く。

    それは、周りに生活している大人たちが、そうであるから、
    そうでなければならないと、感ずる。
    それは、それで、尊いことだとも、私は思う。

    ただし、そうではない生き方も、この世には存在しているのだよというモデル。
    その自由で創造的に人として生きている大人のモデル。
    そのモデルが、今、子どもたちの生きている身近に、
    存在していないのではないかと思う。

    人は、変わるんだ。
    変わるとしいことが、学ぶと言うことだ。

    学ぶとは、真似をするということだ。
    善きモデルの真似をする。
    善きモデルを見習う。
    そして、その生き方を自らの生き方として体得する。

    人の尊厳とは、自由と創造だと私は思う。

    だから、変わることへの勇気と喜びだ。
    その変わることへの喜びとは、
    自分自身への本来の気付きに他ならない。
    変わった先に、本来の自分は立っている。
    その素のままの、ありのままの自分自身と再会する。

    そうやってこの世に生を受けたはずなのに、
    自我に目覚め、知恵をつけ、世の中に巻き込まれ、頑固になるに従い、
    その本来の自分を忘れ、記憶の彼方に置き去りにされてしまう。

    この人生の旅とは、その本来の私を探し、再発見する旅でもあるのだ。
    私と出会うために、私を生き続ける。
    私とは何かの「問い」を持ち続ける。
    精神という私は、やっぱり不思議な存在なんだと、私は思う。

    それを、する。
    それを、しない。

    生き方の違いとは、ただこれだけの違いではないだろうか。

    だから、頑固な大人と出会う度に、
    「ああ、この人は、本当の自分といつ出会うのだろうか」と思う。
    向こうの人は、こんないい加減な、口ばっかりの無責任な男を、
    「あいつは、駄目なやつだ」と、ただ思っている。

    でも、こうして61年と8カ月生きて来て想ったことは、
    この二つの生き方のどちらがいいと悪いは存在しないということと、
    この二つの生き方の平行線は、その文字通り、絶対には交わらないとしうことだ。

    私には、そのことが深い深い自覚だった。
    私は、こちら側を歩き続けて幸せだった。
    その人は、そちら側を歩き続けて幸せだ。

    その自覚は、私をすーっと楽にしてくれた。
    仕方ないことなんだ。
    それは、きっと分かり合えないことなんだ。

    またまた、彼の話になって恐縮だ。
    しかし、あるもの。目に見えるもの。みんながそうだと信じているもの。
    それを信じて生きてきた人たちは、
    それが本当に信ずるに値するのかを、それが本当に生きるの幸せに繋がるのか、
    人生の途中で、時々、振り返り、見つめ直し、点検してねいいのではないかと、
    老婆心ながら、そう想う。

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