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  • from: クマドンさん

    2019年04月17日 05時41分14秒

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    マルクス・アウレリウス

    早朝、4時50分。
    気が付いたら、東の空が明るくなっていた。
    日々、刻々と、地球は自転し、公転し、
    こうして毎日少しずつ少しずつ、日の長さが変わっている。
    これは、誰の仕事なのか。
    こうして、こんなに、誰も気付かなくとも、
    この地球の宇宙での運航は、JRのダイヤよりも正確・緻密に行われている。
    不思議だなぁと、いつも思う。

    「20分間で世界の名著」だったけ。
    私は、録画して観ている。
    改めて、生きていた先人たちの言葉を味わい、
    日々の自分自身の生き方の指針としている。

    マルクス・アウレシス?
    ローマの皇帝であった哲学者の遺した言葉。「自省録」だ。
    私は、本の名前を知ってはいたが、読んだことはなかった。
    皇帝の哲学者。まぁ、私としては、手に取る本ではなかったことは事実だった。

    ところが、とてもとても深く、人間的だった。
    そして、何よりも、向こうからやって来る「運命」を肯定して生きようとしていた。
    その何というか、「これでいいんだ」の逞しさとでも言うのだろうか、
    悲しみ・辛さ・絶望・混沌と、まさにこれでもか、これでもかだった。
    それでも、「今、ここ」を生きて行かねばならない。

    ならば、どんな状況にあろうとも、
    幸せに生きて行くための道は、必ずあるはずだと、
    彼は皇帝の厳しい責務の中でも、
    「いかに生きるか」の問いは、ずっとずっと「問い」続けていた。
    その時、はっとして気付いたことを、言葉に書き残した。
    それが、現代の私たちにも届けられている。
    言葉とは、やはりすごいものだと、感動している。

    彼は14人の子どもの8人を亡くしていた。
    そして、最愛の妻にも先立たれている。
    その悲しみの現実に「運命」は、彼を立たせる。
    「何で、私なんだ」「何で、私ばかりにこんなことが・・・」だった。
    ローマでは、天候の不順から作物が育たず、飢饉となり、多くの餓死者だった。
    疫病が蔓延し、洪水によっても多くの死者を出した。
    隣国からはそんな現状を見透かされて、攻め込まれ、
    いつ終わるかも知れぬ戦いの日々だった。
    彼は、そんな現状を、皇帝として、やり抜かねばならなかった。

    恨み事を言っても、無駄だ。
    後悔しても、何も現状は変わりはしない。
    不平不満ばかり述べ立てても、それはもっと現状を悪化させるだけ。
    だから、考えた。だから、問うた。
    「どう生きたら、幸せになれるのか」を。

    それは、ものの見方、考えた方、気付き方の違いだった。
    同じ悲惨な状況に置かれてただ嘆き悲しんでいるだけの人も居る。
    しかし、その現象の真っただ中でも立ち上がり、歩き始める人も居る。
    その違いは、その人の人生の幸福感を大きく変える。
    前者は、ある意味では「運命」に翻弄されているだけ。
    後者は、「運命」には、「意味」があり、「必然」だっと「肯定」している。

    この人生の見方、考え方、気付き方の違いは、
    とてもとても大きいと、私も感じている。
    「ああ、また、今日も始まってしまったな・・・」
    「また、今日も始まったぞ」
    この朝日を見て、どちらの感じで、この朝を迎えるかということだ。

    だから、「運命」等、実は存在しているのではなく、
    その現状を、いかに考え、いかに見つめ、いかに意味を見出しているかの、
    その考え方の違いでしか過ぎないと言うことなんだ。

    親を喪う。その悲しみの深さ、辛さ、寂しさに、立ち直れないこともある。
    しかし、その亡くなった親は、そんな私のことを見守り、
    きっと悲しく、辛く、寂しく感ずるはずだ。
    喪った。しかし、傍らに生きている人となった。
    いつも語り合える。いつも心を交感できる。
    そう思えば、喪ったことは、孤独な私の生きる力となっている。

    病もそうだった。
    予想外の病の為に、今までできていた現状からリタイアさせられる。
    失ってしまったことを想うと、慙愧に耐えぬ痛ましさだ。
    しかし、ふと気付くと、自分だけでないことが見えて来た。
    いや、まだまだ私なんぞはよい方だ。
    もっともっと苦しみや悲惨な痛みの中で生かされている人たちが居る。
    ここで、私が絶望したら、その人たちに申し訳ないではないか。

    彼は、言っていた。
    「人間には、越えられない試練は存在しない」と。
    何故なら、「先人たちは、その試練に耐えて、生きて来たではないか」だった。
    つまり、他者ができたことは、私もできるのだ。
    この悲しみに打ちひしがれているばかりでは、
    絶対に人は、幸せにはなれないだろう。

    まず、どう生きたら幸せになれるのかを、問い続けることだ。
    そして、先人の生き方に学ぶことだ。
    そして、どんな哀しみにも耐え、それょ受け入れ、毅然と生きることだ。
    それが、人を生きることの尊厳でもあるからだ。

    この苦しみは、私を尊い人と成長させてくれる。
    この運命は、私が人として成長するための道である。
    それは、神が私に対して、愛をもって与えた試練なんだ。
    ならば、喜んで引き受けよう。

    これは、私の、勝手な解釈であるので、ご容赦いただきたい。

    でも、きっと、そうなんだ。
    「悲しみの中に喜びはある」
    「絶望の中に希望ははある」
    その本当の喜びや希望を自分自身の内に発見するためには、
    やっぱり、悲しみと絶望を経ねばならない。そういうことなんだ。

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